第一章 前章 1
「…んが」
重たい瞼を開くと、外は夜だった。
そんな馬鹿なともう一度外を見たが、夜で間違いなかった。
「…っ!」
焦って時計を見ると、19時を指しており放課後からすでに3時間経っていることを示していた。
「…や、やばい」
血の気が引くのを感じながら目を落とすと、教卓の前で彼女は本を読んでいた。
長い黒髪に、前髪鋭い目つき。制服の上からでも隠しきれない刃のような研ぎ澄まされた雰囲気。
まるで待つことなど当然だとでも言うように、本を読んでいた。
「お、おはよう…修多羅」
「おそよう、言葉」
本から目をうつすことなく、修多羅は答える。
相変わらずぶっきらぼうな返したが、中学の頃から変わっていないことを感じ、安心した。
(…待つぐらいなら起こしてくれてもよかったじゃないか)
そう思ったが、アラームを設定していれば関係はないし、そもそも起きていれば不要な議論だ。
「よく寝るわね。また仕事?」
「そうそう、ちょっと大変でな」
修多羅本から目を離し、俺の目を見る。
「月に一度しか登校出来ない仕事を"ちょっと"で済ますとはね。流石、空前絶後の不良ね」
修多羅は肩をすくめながら、皮肉混じりに言う。
「そう聞くと、超弩級の問題児みたいだな」
「…合ってるじゃない」
俺--歴木言葉の学校の評価は不良である。碌に登校もしない上に、登校したところで一日寝るという馬鹿げた授業態度をしている。だが、テストの順位は常に真ん中というもの。点数を出している以上一定の評価を下さねばならないため、教師からは目の上のたんこぶとして扱われている。そのため、教師陣は少しばかりの嫌がらせとして、「歴木言葉は不良である」と言う御触れを学校中に出している。
それを聞いた時、なんと時代錯誤な事をするんだと思ったものだ。
「あなたみたいな人を厄介だと言うのよ」
「厄介ねぇ、つまり先生方がしているのは厄介払いってわけだ」
「いや、あれは怨敵退散ってところじゃない?」
(…俺、どんだけ嫌われてんだよ)
「そういや、また本を読んでいるんだな」
「まぁね、暇だし」
彼女--修多羅砕破は読書家だ。それは言わずともわかるだろうが、中学の頃は屈指の運動家だった。空手の世界大会二連覇という輝かしい実績を持っていたが、中学三年の頃に歴史的敗北とやらを経験したようで、空手をやめてしまったらしい。その傷をもあってか、彼女は高校で読書家に転向をしたわけだ。
「今日は何のを読んでいるんだ?」
「英雄の証明って本よ」
「エーユーノ、ショーメイ?」
「外国人じゃないわよ。ったく、あなた本を読まないだけなの?それとも本屋に行ってないの?これ、本屋大賞に選ばれるほどの有名作なんだけど」
「え?そうなの?」
スマホで試しに調べてみると、どうやら本屋大賞を受賞していることは間違いないようだ。しかし、そんなことよりもこの本の売り文句が目に入った。
『第三十回本屋大賞受賞!賛否激論を巻き起こした空前絶後の問題作!さぁ、あなたも論者になりたまえ!』
出版社の広報担当はイカれているんだろうか。論者になる前に、広報に異議申し立てしたい。
「…賛否激論って書いてあるけど、修多羅はどっちなんだ?」
「どっちって失礼ね。否に決まっているでしょ」
「は?ひ?」
「ふへほ」
典型的なボケをかましてきた!?
そんなキャラじゃないのに。
「…何で否定派なのに、その本を読んでいるんだ?」
「肯定したいからよ」
即答だった。
「自論だけど、人は創作物を見たり聞いたりする時一定の面白さを求めている。けど、私はそれらをみる時、面白くないと感じるのは自分の"感性の乏しさ"だと思うわけよ」
本を読みながら、彼女は淡々と話す。
「だから面白くないと思うのは、私自身の感性が貧弱である事を認める事なのよ」
「…だから読んでいると」
「そう、かれこれ86週目になるかしら」
言い方的に二、三週はあるかと思ったが、そんなものは通り過ぎていたらしい。
「そこまで読んでいるってことは、ただつまらないってだけじゃなさそうだな。どんな内容な本なんだ?」
「普通よ。神話や御伽噺のように、主人公が化け物を倒す話よ」
「ありきたりだな」
「そうね」
ありきたりというか酷くチープだ。
これであれば、俺も否定側に回らざるお得ない。
「でも、この作品はそれで終わらないのよ。こういう作品はテンプレとして、ラスボスを倒したから英雄と決定づけられることが多い。けど、この物語は徹頭徹尾主人公は英雄と見られることがないのよ」
英雄と見られないから、英雄と決定づけられない。力と名声の両方たり得なければ英雄ではないと言いたいわけか。なるほど、痛烈な批判だ。
「作者は英雄的思想や英雄的行動を愚かだと言いたいのよ。国とか世界とか他人とかを救うために命を賭けられるなんて、ただの自殺志願者であり、愚者と断言できるとね」
「随分と捻くれた発想だな。まぁ、わからなくもないけど…で、修多羅はそこまで理解しておいて何で否定側なんだよ」
修多羅は静かに本を閉じて、作者名を指さす。
「作者が英雄に憧れていると思うからよ」
「は?英雄批判の話じゃないのかよ」
「嫉妬をしているのよ。強い憧れを抱いているのに、自分では決して成れないという諦観をしているのよ」
「…成程」
捻くれた人物によって書かれた、捻くれた話ってわけか。
「なんか小説らしくないな。哲学書みたいだ」
「何言ってるのよ、小説なんてそんなものよ」
夜風が吹き抜け、彼女の長い髪を靡かせる。改めてみると、彼女は美人だと思う。身内の贔屓目と言って終えばそれまでだが、本を読んで俯いてなければ彼女はクラスのマドンナとして祭り上げられていたかもしれない。
そんなくだらない事を考えると、教室の扉が勢いよく開け放たれる。
「へーい!二人とも何をしてるの?」
バーンという効果音が聞こえそうな決めポーズを決める彼女は勾金凛。修多羅の友人らしく、最近仲良くなった友達だ。
「陸部はいいのか?」
「何時だと思ってるの?さっき終わったんだよ」
凛は時計を指差しながら言う。
「そうね、どっかの誰かさんがこんな時間まで爆睡してたからね」
「…ぐっ」
「言ちゃん、またそんなに寝てたの?」
「ああ、仕事の反動でな」
「体壊すよ?」
「…気をつけます」
悪意のない正論パンチは心にくるなぁ。
「さて、私は凛と帰るけど、言葉はどうするの?」
「俺?俺は少し予定があるからな。二人で仲良く帰るんだな」
「予定って」
フッと笑って、俺は意味ありげに言う。
「ミステリアスな男は…モテるんだぜ」
あまりにも寒いセリフに場の空気は凍った。
「キッショ…さて、凛帰るよ」
「帰ろう帰ろう」
ピシャン。
教室に一人取り残された。
「…帰るか」
俺は先ほどの記憶を消去して、教室を後にした。