しょうこ
キノエと水緒が沼にいる頃、しょうこは家で一人、裁縫をしていた。
母娘で人里離れた場所で暮らして十数年。外との繋がりは持っていないので、当然、身の回りのものはすべて自分たちで修繕してきた。幸いにも、しょうこの婚家は《シカロ》の沼の管理を務めており裕福だったため、家は頑丈であり、今までに目立った破損をしたことはない。生活に必要な家財道具一式も、打ち捨てられた集落の家々に残されていたもので、どうにか賄えている。しかし、服ばかりはそうはいかず、どうしても自分の手で直すしかなかった。
布は貴重だ。《シカロ》が捨てられるとき、みんな持ちだされている。織機すらない状態で、布を一から作るような知識も技術も、しょうこは持っていない。そもそも、なにか織れるほどの糸が手元にない。日々、手紡ぎで少しずつ蓄えた糸巻が、一、二本あるぐらいだ。なので、たまに娘が狩ってくる獣の皮を鞣し、服にするようになった。心許ないのは、針の数が少なくなってきたことだ。もし、一本もなくなってしまったら、獣の骨を細く削れば代用できるだろうか。果たして、骨の針が獣皮に通るのかは疑問だが。
それよりも、今できた縁を大切にすべきではないだろうか、と針仕事をしながらぼんやり思う。
事情を承知で手を差し伸べてくれた、〈怪もの祓い〉を名乗る不思議な人。キノエを頼れば、こんな僻地で暮らし続けるより、もっとマシな生活を娘にさせられるだろう。自分がいなくなったあとでも、一人でも人間らしく生きていけるような環境は娘に残してあげたい。自分では他の集落に移り住むこともできず、交流を持つにしてもなにも対価を提示できない。なにより、《シカロ》の跡地以外に行く場所がないのに、この場所を明かしてしまえば、多くの人がこの水の豊かな土地に興味を持つだろう。
そうなれば、また。
怖い。もう二度と、あのときのような思いはしたくない。愛があると思っていた人間でも、その関係から温もりを捨てられる。心が凍えて死にそうな仕打ちをできる。そう考えると、外に行くことは恐ろしくて、どうしても一歩を踏みだすことができず今日までいる。
思えば、日々の生活に追われるばかりで、水緒に母親らしいことをしてあげられていない。
料理や裁縫、色んなことを自分は祖母に教えてもらったというのに、その一切を伝えられていない。これから、娘は成長することを覚えるだろうか。ずっと無邪気な少女のまま止まってしまうのではないだろうか。そんな不安が、胸の奥から落としたくても消えずに、黒ずんだ汚れのようにへばりついている。
物心ついてから水緒が会ったことがあるのは、自分とキノエだけだ。自分が幼いころは、集落には大人も子供も、男も女もいた。そのおかげで普通に育つことができた。しかし、水緒はそうではない。成長すると、男の子は足腕が太くなり、女の子は胸が膨らみはじめることも知らない。誰かに好意を向けることも向けられたこともない。当たり前にあるはずの、春の青さを知る時期がない。
どうやって、祖母は自分に人間らしさを教えてくれただろう。人との繋がり、自分の内面や外面、悩みや不安……そんなものは頼んで教わることではない。なのに、教えてもらった気がする。それがきっと『親』の正しい姿だ。自分の『親』はどんなだったろうと、もういない祖母を思いだす。しかし、変わったところはない。
祖母は自分を通して過去を懐かしんでいた。その視線を気にしたことはない。その優しさが、自分に向けられたものでなかったとしても、もらった愛情は事実だったろうから。それに、父と違って、失ったものを無理に取り戻そうとすることもなかった。
なにより、祖母は自分を理解してくれようとしていた。
物心ついた頃から感じていた沼の〝声〟。〝声〟というよりは気配だ。草木の囁きや、水流のざわつき、風の鳴き声――そんなものの集まりのような、沼が、ずっと『外に行きたがっている』気配。
大人になった今でも聴こえる〝声〟は、幼さからくる感受性が生んだ想像上の友達ではないだろう。身体に紐でも結ばれているかのように感じ取れて、その方向にはいつも沼がある。集落から沼への距離は無関係に、とても近くにあるようで、それこそ家族のような心の距離感だ。〝声〟は晴れると小さくなり、雨が降ると大きくなる。
そんな変なものを感じることを家族に打ち明けたことがある。父はいつものように穢れたものを見るようにして、なにも答えずに働きに出た。祖母は驚きこそすれ、怒りだすようなことはなかった。
ただ一言、寂しそうに言った顔を覚えている。
――あぁ、やっぱり
そのあと、なんと言っていただろうか。とても奇妙で、祖母らしくない言い回しだった気がする。
ちくりとした痛みを感じ、我に帰った。無意識に手癖で進めていた針で、自分の指の腹を突いてしまっていた。指先から、ぷくりと血が膨らみはじめ、服に垂れそうになる。それを慌てて指を咥えて舐めとった。
そう言えば、としょうこは思いだす。家で怪我をして血を流してから、外で遊ばずに家事を学ぶよう、祖母に言われたのだっけ。幼いころは、自分も水緒のように野山で友達と遊んだものだ。今思えば、お転婆がすぎて、祖母に将来を心配されたのかもしれない。
舌の上に血の味が広がる。口の中にある優しい味で、不意に祖母の言葉の続きを思いだした。
――お前は名前通りの子だね
血は、甘い味がした。