登山家の彼
「山はいいぞ。山頂から周りを見渡すとな、世界が自分から生えてきているような、創造神にでもなったような気分になるんだ」
そんなことを言う彼と出会ったのは夕方の駅のホームだった。私がスマホを見ながらホームを歩いていたら、彼の背負う大きなリュックにぶつかってしまい、「ごめんなさい」とすぐ謝ったら「危ないぞ、ながらスマホ」と笑顔で言っていたのがとても印象的だった。
乗る電車も同じだったのでしばらくその彼と無言のまま椅子に座り、私の方から「熊とか撃ったりするんですか?」と聞いた。
彼は一度驚いた顔をして、それから笑いだした。
「僕は猟師じゃないよ。登山家というのかな。全然プロとかではないけど」
彼は照れくさそうに鼻を触りながら答えた。
「今日も体力づくりに小さな山に登ってきたんだ。ここらへんは練習にいい山が多くてうらやましいよ。君は山には登る?」
突然の質問に少し戸惑って、それから私は「小学生の頃に、遠足で」と答えた。
「それから行ってないの?」
「あまり楽しくなくて。あ、ごめんなさい山好きな人の前でこんな」
「ハッハッハ。大丈夫大丈夫。僕も山登っててツラいこともあるから」
私は何も言えなかった。
「家はここから近いの?興味あったら今度ここらへんの山登ってみない?もう小学生じゃないから体力も増えてて楽チンだよ」
ナンパではなさそうだ。彼は本当に山に登りたいだけの目をしていたのを、私は今でもよく覚えている。
それから五年。会社に連休を頂き、満を持して彼と挑むは北アルプス三千百八十メートルの名峰<槍ヶ岳>。コースは長いが割と安全な上高地から始まる槍沢ルート。彼が「まずはここからがいい」と言っていたので間違いないのだろう。これまで多くの山を彼と登ってきた。彼は彼で一人でどっかの大きな山に登りに行くこともあったが、私たちの関係を思えば別に不思議なことではない。それでも私の登山レベルを上げるために、少しずつ少しずつ難易度の高い山に笑顔で来てくれた。
「無理に来なくても大丈夫ですよ。もっと難しい山の方が楽しいでしょう」なんて彼に言ったこともあったが「体力づくり体力づくり」と彼は笑って言っていた。
「もうすぐだよ!頑張れ!」
そうだ。今は昔のことを考えている場合ではない。私は今槍ヶ岳最後の難所。まさにこの山がなぜ槍の名を冠されているのか、誰もがはっきりと理解できる槍の穂先のように突き出た百メートルほどの巨大な岩
初めは狭く急な岩の階段を登っていくような感じだが、次第にその傾斜は山というよりは崖となり、いつ誰が掛けたのだかわからない梯子を登ることとなる。この梯子も岩の壁に取り付けてある状態なので、岩がせり出して上手に足がかからない場所なんかもあり、緊張が続く。なにせ今いる場所はまさしく天空なのだ。この梯子から落ちたらきっと百メートルどころではなく、そのまま下山できてしまうのではないかと思うほどの急な斜面、そして高さに命綱も無しに取りついているのだ。
「下見たら怖いぞー!」
私の前を進んでいた彼が頭上からふざけたことを言っている。
「わかってる!」
私も大きな声で返し、あらためて自分に気合いを入れる。
一歩一歩、確実にバランスを崩さない所を探りながら一歩一歩。そうしているうちに、目の前の視界が晴れた。
「え?」
「おめでとう。山頂だ」
私は慎重に梯子を登りきり、再びゴツゴツとした荒々しい岩を踏みしめた。
登っている途中はガスって視界ゼロなんてこともあったが、山頂は見事な晴れ。快晴といっていい。どこまでもどこまでも世界が広がっている。それもこの狭い槍ヶ岳の山頂から、いや、槍ヶ岳の山頂に立つ私から世界が広がっている。三百六十度の大パノラマ。全て私から広がっている。
「やったー!!!」
私は無意識に叫んだ。
「やったーーー!!!」
彼も私の真似をして叫んだ。
街で見るよりずっと深い青の空。冷たく純粋な柔らかい風。黒とも緑とも青とも言える複雑な色で構成された無限に広がる山々。
これが登山の美しさか。確かにツラかった。ついさっきまでツラかった。けどもう遠い記憶のように感じる。この五年間でいろんな山に登って、それぞれのいろんな美しさを見てきた。山頂の景色、それに至るまでの山道、森の動物たち、高山植物。ただ、一つとして同じ感想を抱く山はなかった。それはこの槍ヶ岳も同じ。どれも違って最高の山なのだ。
「ありがとう」
私は彼に言った。
「こちらこそ。ありがとう」
彼はいつもの笑顔で言った。