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レバノン内戦

 ⭕️ 中東戦争終結の理由。



 第四次中東戦争以後、イスラエルとアラブ国家との本格的な武力衝突は起きていない。


 いくつかの理由が挙げられるが。



 第一に、ナセルの後を引き継いだ、サダト・エジプト大統領は、反イスラエル路線を転換した。


 1978年3月に単独で、キャンプ・デービッド合意に調印したためである。


 エジプト・イスラエル和平合意とも。



 かつて、アラブの盟主を自認し、中東戦争を先頭で進めた、エジプト離脱だが。


 これは、アラブの連携を崩した。



 エジプトは、アラブ連盟の盟主であったが。



 1979年には、この和平を理由として連盟から追放されてしまう。


 また、1990年まで復帰を許されなかった。


 サダトはイスラエル首相のメナヘム・ベギンとともに1978年度のノーベル平和賞を受賞したが。


 1981年10月、イスラム復興主義者により暗殺された。



 第二に、1979年にイランで起きた、イスラム革命である。



 イスラム原理主義による国政を目指す勢力が、国王を国外追放して政権を握ってしまった。


 このことは、社会の近代化を進めようとするサウジアラビアなど。


 アラブの王国にとって脅威であった。



 アラブ諸国は、革命が自国に飛び火することを恐れ、イランに対する締め付けを図った。



 それは、イスラム革命の世界的広がりを恐れる国々。


 ソビエト連邦・中華人民共和国・アメリカ合衆国なども同じであった。



 19801年。


 アラブを代表して、国境を接するイラクがイランとの全面戦争が始まった。


 これは、イラン・イラク戦争とに突入し、アラブ各国をはじめ、米ソもイラクを支援した。



 こうして、イスラエルの敵対勢力だが。


 これらは、アラブ国家から非政府運動組織であるパレスチナ解放機構=PLOなどへと移行した。



 こうして、正規軍同士の戦いから対ゲリラ・テロ戦争へと変化していった。


 中東戦争は終結した訳ではなく戦争の形態が変化しただけとも言える。


 PLOは、ファタハが加わって、ヤセル・アラファトが議長になると。


 彼による指導下で、国際連合総会オブザーバーの地位を得るなど。


 事実上、パレスチナ自治政府としての地位を確立した。



 イスラエルが、1982年に行ったレバノン侵攻と。


 それに続く諸勢力の内戦は、アラブ側では、第五次中東戦争~~と認識されている。


 この戦いでは、レバノンで覇権をめぐって、シリアとイスラエルが介入した。


 そして、当時レバノンを拠点としていた、PLOは双方から排除を受けて、チュニスに移転した。



 この戦いでは、イスラエルは軍事的優勢を保ち、レバノン首都ベイルートにまで侵攻した。


 だが、目的である親イスラエル政権の樹立に失敗した。



 さらに、それまでのイスラエルによる戦争は自衛。


 もしくは、それに類すると少なくともイスラエルでは考えられていた。


 それ故、戦争に対しては一致団結していたものが。


 このレバノン侵攻に関しては差し迫った国家の危機があるわけではなかった。


 それ故、イスラエル世論は戦争の継続に否定的だった。



 こうした中、イスラエル軍は消耗戦へと追い込まれ、泥沼化する情勢の中で撤退に追い込まれた。


 ただし、レバノン南部駐留は続行し、同地域からの撤退は、2000年になるまで持ち越された。



 1987年12月9日。



 ガザにおいて、イスラエル軍に対する大規模な抗議行動が起きた。


 以後イスラエル占領地域や難民キャンプのパレスチナ人たちが。


 PLOに対する期待の薄れから自ら抵抗運動を行い、イスラエル軍と軍事衝突が頻発した。


 これを指して、第1次インティファーダと呼ぶ。



 イラン・イラク戦争後の1990年。



 イラクはクウェートに侵攻、翌1991年にはアメリカとの湾岸戦争に突入した。



 アラブ諸国は、アメリカ主導の多国籍軍に参加し、アラブ同士が対立する結果となった。


 また、PLOは成り行きからイラクを支持した。


 それ故に、アラブ諸国からの支援を打ち切られ、苦境に立たされた。




 ⭕️ レバノン内戦。



 レバノン内戦は、レバノンで1975年から1990年にかけて、断続的に発生した内戦。


 その規模などから第五次中東戦争とも呼ばれる。


 またら1982年から1985年にかけてのイスラエル軍と多国籍軍の出兵期間だが。


 これは、レバノン戦争、もしくは第一次レバノン戦争と呼ばれる。



 歴史的背景。



 歴史的にキリスト教徒の多いレバノンは、第一次世界大戦から第二次世界大戦を経ると。


 周辺のアラブ国が独立すると、中東では数少ないキリスト教徒、中心・国家となった。



 元来のレバノンの領域は「小レバノン」と呼ばれ、これはオスマン帝国時代にこの地を支配したイスラム教の一派ドゥルーズ派の領主アミールファハル・アッディーンの支配地を根拠とする。



 長らく、この地域こそが真のレバノンとされたが。


 第一次世界大戦後、事実上の宗主国となった、フランスだが。



 元来のレバノン領域=小レバノンを大幅に越えてであるが。


 =大レバノンと呼ばれる元来シリア領域とされるベッカー高原。


 レバノン北部及びトリポリ市、レバノン南部をも含めて国境線を作成した。



 これは、マロン派を含めたレバノン独立運動を阻止したいフランスによる分断政策の一つであった。


 この事が、レバノン内戦を誘引する根本的な理由となった。



 こうした理由から、レバノンという国家その物が人工的な国であった。


 また、宗派別で国民・国家の意識は濃淡が激しかった。



 具体的に言えば、独立運動を牽引したのはマロン派とドゥルーズ派である。


 この両派は、レバノンに対する帰属意識が高いといわれる。



 一方、イスラム教スンナ派やシーア派、ギリシャ正教徒など。


 彼等は、もともと小レバノンには少なく、大レバノンに多く住んでいた。



 彼らの生活圏は元来シリアであり、ベイルートよりもダマスカスに帰属意識が強かったとされる。



 これらに対して、比較的最近になって移住してきたアルメニア人だが。


 彼等は、内戦に積極的には関わらず、中立の姿勢を貫いていた。



 しかも、こうした宗派はレバノン国内では圧倒的な多数派を形成しなかった。


 いずれも、ほぼ同じ配分で存在する宗派社会であった。



 政治的影響を懸念して、レバノンでは過去に2回しか国勢調査が行われなかった。


 フランス統治時代・第二次世界大戦中に食糧配給のために調査した物は非公開。


 公開がなされたのは、1932年に行われた調査だけであった。


 これは、キリスト教とイスラム教6・5という比率であった。



 この時、国勢を根拠として、独立時に国民協約と呼ばれる紳士協定が結ばれた。



 これは大統領は、キリスト教徒、首相はスンナ派、国会議長は同シーア派というようになど。


 宗派ごとに、閣僚・議席のポストを配分した物であった。


 これは不文協定であり、暫定的であって国勢調査に基づいて変動が行われるという条件であったが。


 国勢調査は行われず、ムスリム人口の増加を無視する形でだが。


 この国民協約に則った国家運営が続けられた。



 このことが、不利な立場を強いられるムスリムによる反発を買った。



 また、レバノンに存在する宗派は、ベイルートを除けば、それぞれ棲み分けを行っていた。


 集落・学校・社会風習はもとより、軍隊の各部隊までも、宗派別に区分されるという有様であった。



 この事が統一された、国民国家・発達を阻害していた。


 また、国家よりも自分が所属する宗派や組織に従うという部族社会的な状態が続いた。


 こうした、国民意識の希薄さは、内戦におけるシリアやイラン介入を誘き寄せる事にもなった。



 ◆ 推移。



 ⭕️ バランスの崩壊。



 1958年には、アラブ民族主義の台頭を背景に、ムスリムによるレバノン紛争が発生する。


 この時は、アメリカ海兵隊が派遣されてすぐに鎮圧された。



 しかし、度重なる中東戦争。


 さらに、1970年に発生した、PFLP旅客機同時ハイジャック事件。


 これをきっかけに起きた、ヨルダンによるパレスチナ解放機構追放。


 ヨルダン内戦、黒い九月事件。



 ~~等々が次々と、発生すると。



 多数のパレスチナ難民がレバノン国内に流入。



 イスラム教徒数の自然増加と相まって、政治バランスが崩れ始めた。


 国内に、レバノン国軍以上の軍事力を持つパレスチナ難民の存在にだが。


 マロン派からは懸念が示され、武力によって難民を追放しようという動きも出てきた。



 PLOの流入による結果。


 流血の事態を恐れたレバノン政府は、彼らに対して、自治政府並みの特権を与えた。


 また、イスラエルへの攻撃も黙認する事となった。



 ⭐️ カイロ協定。



   1994年に、イスラエル・パレスチナ間で締結された同名の協定とは別。



 これは当初、極秘に取り交わされたが。


 マスコミに暴露された結果、レバノン社会、特にマロン派に衝撃を与えた。



 この協定による結果、レバノン南部に、ファタハ・ランドと呼ばれるPLOの支配地域が確立。


 国軍に、彼らを押さえ込む力が無かった結果の措置だったが。


 イスラエルには明確な敵対行動としか映らなかった。



 イスラエル軍は、空軍及び特殊部隊を動員してレバノン南部やベイルートを攻撃。


 当時の国軍は、一定の空軍力こそ保有していたが。



 ミラージュ3EL戦闘機。

 ホーカー、ハンター戦闘攻撃機。


 ~~等々を装備。


 政治力学上の理由で、報復する事はできなかった。



 この姿勢が、ムスリムから怒りを買う事となった。



 結果だが。



 優位保守を主張するマロン派。


 政治力強化を求めるムスリムおよびパレスチナ難民。


 ~~と両者の間で対立が激化する。



 ファランヘ党をはじめとするマロン派の武装勢力だが。


 彼等は、アメリカやソビエト連邦から様々な重火器を調達し、自派の民兵組織を強化した。



 ムスリムも、PLOやシリアから軍事支援を受け入れた。


 そしえ、アマル=シーア派、タウヒード=スンナ派といった民兵組織を構築していった。



 1970年代前半だが。



 高級リゾートホテルが立ち並ぶベイルート港に、次々に新品の軍用車両や火砲が荷上げされる。


 ~~と言う不穏な光景が数多く見られるようになった。



 ⭕️ 内戦勃発とベイルート分裂。



 1975年4月13日。


 ベイルート郊外南部のアイン・ルンマーネ地区にあった、キリスト教会でだが。


 ファランヘ党の集会が行われていた。



 その際、同じく集会を終えて帰宅しようとしていたPLO支持者達を乗せたバスが教会を通った。


 そして、興奮した支持者らが教会に発砲。


 ファランヘ党側も、これに応戦して銃撃戦に発展し、27名が死亡した。



 この事件は、地名を取って、アイン・ルンマーネ事件=またはバス虐殺事件と呼ばれる。


 衝突は14〜~15日も続き、トリポリ等の主要都市にも拡大。


 100名以上が死亡するなど、不毛の内戦が始まる契機となった。



 また、同じ時期に南部の港町サイダにおいてもだが。


 スンナ派・漁民と、マロン派系・水産会社の間で設定した漁業権を巡って、騒乱が発生した。



 国軍が、これの鎮圧に乗り出したが。


 武装した漁民によって、ヘリコプターを撃墜される事件が起こった。


 この騒乱も、イスラム教左派を煽動する事になった。



 この間、アラブ連盟事務総長とシリア外相の調停工作で、4月16日に一旦停戦した。


 しかし、5月19日深夜にベイルート東部のデクタワー地区でだが。


 パレスチナ・ゲリラとファランヘ党武装グループとの戦闘が発生し、停戦は破られた。



 5月24日。


 この衝突による責任を取って、ラシード・アッ=スルフ首相が辞任。


 ヌールッディーン・アッ=リファーイーによる軍人政権が成立したが。


 ムスリムと左派政党が、激烈な反対運動を全土に渡って展開し、僅か3日で退陣に追い込まれた。



 パレスチナ・ゲリラと、ファランヘ党との対立・抗争だが。



 これは、次第に、ファランヘ党を中心とする右派勢力と。


 ムスリムを中心とする左派勢力との政治的衝突という形になっていった。



 戦闘そのものはライフル・機関銃・ロケット弾等による散発的なものであったが。


 マロン派とイスラム教・PLO双方の民兵組織だが。


 彼等は、対立する宗派の市民を次々に誘拐・拷問・処刑すると言う残虐行為を繰り広げた。



 特に週末は、ブラック・マンデーと呼ばれ、虐殺が頻発した。


 車爆弾も次々にベイルート市内に置かれ、要人を含め多数の市民が殺傷された。


 誘拐は外国人観光客や外交員もターゲットとなった。


 当初は、中立姿勢を保っていたドゥルーズ派だが。


 彼等も信徒が殺害された事により、マロン派と対立していく事になった。



 こうした事態に警察は対応できず、警官の職務放棄が相次いだ。


 また、政治や宗教と直接関係のない犯罪集団も跋扈し、ベイルートは無法地帯となった。


 PLOや各民兵組織は、それらの犯罪集団を配下に置いた。


 そして、彼らが強盗や誘拐の身代金などで得た金品を軍資金にしたという指摘もある。



 持ち主が逃げ出して、無人となった海岸沿いのホテルや観光施設は、民兵組織によって占拠された。



 1975年10月以降だが。


 各宗派・民兵達は、ホテルを要塞化し、互いの陣地と化したホテル目掛けて、銃砲撃を繰り返した。



 ⭐️ ホテルの戦い。



 戦闘で廃墟となった、これら高層ホテルは内戦後も放置された。


 そうして、ベイルートの風景として長く残り続けた。



 こうした結果により、ベイルートだが。



 ムスリム・パレスチナ難民の多い西ベイルートと、マロン派の居住する東ベイルートに分裂した。



 東西の境界線には、グリーン・ラインとよばれる分離帯が築かれた。



 これは、キプロス島に設置された同名の地域とは異なり中立地帯では無かった。


 時には双方で戦闘が起こり、平常時でも周辺の廃墟に狙撃兵が潜む危険地帯であった。



 内戦当初は、必ずしも各宗派の住み分けが明確化していたワケでなかった。



 政治と距離を置いていた住民たちだが。


 彼等は、仕事などでグリーン・ラインを跨いで東西のベイルートを行き来する事も多々あった。


 結果多くの一般市民が巻き込まれて死傷したといわれる。



 また、セルビスといわれるタクシーの運転手達だが。


 彼等は、グリーン・ラインを通る時は標的にならぬよう全速力で突っ切る事を強いられた。



 こうして、大戦後に中東随一の貿易港、および観光地として発展した。


 そして、中東のパリと謳われたベイルートは見る影もなく荒れ果てた。



 ⭕️ シリア軍侵攻。



 寄合所帯であるレバノン政府は内戦を収めるには全くの無力であり、国軍も脱走兵が相次いで機能を喪失してしまった。


 特に、ムスリム兵士は、所属宗派の民兵組織に逃げ込んだ。


 また、一部はレバノン・アラブ軍と言う反乱軍を結成した。



 1976年3月以降だが。


 ファランヘ党を始めとする、マロン派民兵組織だが。


 軍事力の豊富なPLOやアマルに次第に追い詰められていく。


 そして、東ベイルートやジュニエといった自派の町に閉じ込められてしまった。



 こうした、レバノンの事態に、隣国シリアは当初は中立的な立場から静観した。



 1976年2月。


 シリアは、ダマスカス合意と呼ばれる政治改革案だが。


 これを、当時のスライマーン・フランジーヤ大統領に宛てて発表した。



 この合意は穏健的な政治・社会改革を目指す物であった。


 しかし、これは基本的に、内戦以前のレバノンの現状を維持する物であった。


 それ故、ムスリム左派には強い不満を残すものであった。



 特にドゥルーズ派やPLOからは強い反発が生まれた。


 ドゥルーズ派の名家出身であり、熱心なソ連支持者でもあった。


 社会主義進歩党指導者のカマール・ジュンブラートだが。


 彼も、PLOとの連携に積極的であり、レバノンにおけるアラブ民族主義政権樹立を目指していた。



 彼は、内戦勃発前の1968年に、レバノン国民運動と呼ばれる左派連合体を成立させた。


 その目的は、マロン派に偏重している政治権力を取り戻し、汎アラブ主義国家を樹立させる事。


 これを目標とした。



 ジュンブラートにとって、内戦は、その夢が実現する好機であった。



 1976年5月、シリアがレバノン政府の要請に基づいて侵攻してきた。


 シリアにとってはドゥルーズ派とPLOの推し進める革命だが。


 これは、イスラエルのレバノン・シリア攻撃を誘発すると考えていた。



 それ故、軍事力によって、急進派のPLOやドゥルーズ派を制圧した訳である。


 PLOや左派、そして、アラブ社会からはシリアの行動に対して非難が出された。



 1977年3月。


 シリアを裏切り者として、特に非難した、ジュンブラートは何者かによって暗殺された。



 シリアの軍事介入により、内戦は一時的に沈静化する。


 しかし、和平に失敗した上に、マロン派とシリア軍、さらにPLOとの対立で再燃化してしまう。



 特に、シリア軍の行動はPLOに不信感を与えたが。


 マロン派内でも分派した。


 そして、1976年9月に反シリア・パレスチナを旗印にしたレバノン軍団=LFが結成された。



 シリア軍とLFは散発的に衝突し、PLOやドゥルーズ派とも戦闘を繰り広げた。


 劣勢であったLFは、イスラエルの支援と介入が不可欠と目論んだ。


 こうして、内戦に同国参入の機会を模索した。



 ⭕️ レッド・ライン協定。



 1976年、軍事介入の際だが。


 シリアは、イスラエルとの間で=実際にはアメリカの仲介を持ってだが。


 レッド・ライン協定と呼ばれる取り決めを行っていた。



 これは、ベイルート以南に旅団規模を上回るシリア軍主力部隊を駐留させない。


 レバノンにおいてイスラエルを射程圏内に収める長距離砲・ミサイル・ロケット弾を配備しない。


 また、一切の戦闘機・爆撃機をレバノン国内に駐留させないという不文律であった。



 また、こうした兵器を用いて、必要以上にキリスト教徒に危害を加えない。


 ~~と言う条件も加えられていた。



 軍事介入は、あくまで内戦終結を目指すものである。


 そして、イスラエルに対する敵対行動でない、という事を証明するものだった。



 ⭕️ イスラエル侵攻。



 LFはレッド・ライン協定に着目し、1978年に検問で自派部隊をシリア軍とわざと衝突させた。


 これに怒ったシリアは、協定を無視してマロン派の拠点である東ベイルートに砲撃を加えた。


 イスラエルは協定違反としてシリアを非難した。


 さらに特殊部隊と空軍機を出動させ、リタニ川以南のレバノン南部を占領した=リタニ作戦。


 しかし、イスラエル軍による占領は国際的批判を免れなかった。


 イスラエルは、レバノン国軍の元将校である、サアド・ハッダード少佐にだが。


 占領地を譲り渡して、代理で支配させた。



 ハッダード少佐は占領地で「自由レバノン軍」という民兵組織を結成した。


 また、イスラエルの傀儡部隊として協力した。


 その後、ハッダード少佐は病死して、南レバノン軍と改称された。



 1980年には、レバノン各地でシリア軍とLFが衝突した。


 LFは、東ベイルートとベッカー高原を結ぶ軍事道路を構築していた。


 シリア軍は、LFの陣地に攻撃を仕掛けると。



 LFはイスラエル軍に対して救難を要請した。


 そして、イスラエル空軍・戦闘機がシリア空軍のヘリコプターを撃墜した。



 シリアはこの報復としてレッド・ライン協定に反して地対空ミサイルをベッカー高原に配備した。


 協定は、有名無実になりつつあり、一触即発の事態に陥っていたが。


 1981年、アメリカによる仲介によって、シリアとイスラエルの衝突は避ける事ができた。



 ⭕️ レバノン戦争と多国籍軍の進出。



 1982年6月6日、PLOによる駐英大使へのテロの報復と、PLO撤退のためとしてだが。


 隣国のイスラエルが越境して侵攻する=レバノン戦争、ガリラヤの平和作戦。


 イスラエル軍はLFやアマルと組み、レバノンに駐留するシリア軍を壊滅させた。


 この際、国産戦車メルカバを初めて実戦投入し、た。


 こうして、ソ連製・最新鋭戦車であった、シリア軍のTー72を多数撃破する戦果を挙げている。



 6月13日に西ベイルートへ突入、国際的非難を受けながらもベイルートの包囲を続けるが。


 西ベイルートが占領された事で徹底抗戦していたPLOも8月21日に停戦に応じた。



 8月30日。


 ヤーセル・アラファート率いるPLO指導部および主力部隊はチュニジアへ追放された。


 ここで、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなど。


 PLO部隊撤退後のパレスチナ難民に対する安全保障名目で、レバノンに多国籍軍を派遣した。



 イスラエルとしては、レバノンを親イスラエル国家として転換させる。


 そして、シリアひいてはアラブの影響力をレバノンから排除したかった。


 これには、イスラエル側だが。


 アメリカのジミー・カーター大統領の仲介で成立したエジプトとの単独和平を意識していた。


 ~~とする指摘もあるため、ファランヘ党創設者ピエール・ジェマイエルの息子。


 親イスラエル・反シリアの急先鋒であり、LFの若いカリスマ的指導者。


 バシール・ジェマイエルを大統領に就任させるつもりであった。



 バシールは、1982年8月の大統領選挙においてだが。


 ムスリム左派のボイコットを受けながらも当選したが。


 翌9月にファランへ党本部で演説中、爆弾テロによって就任前に暗殺されてしまった。



 後に、テロの実行犯として逮捕された者はシリア社会民族党・党員であったが。


 親イスラエル政権樹立に失敗したイスラエルは、この事件をPLO残党による犯行とみなした。



 当時、LFの情報担当者といわれていたエリー・ホベイカ率いる部隊だが。


 イスラエル軍の監視の下、パレスチナ難民キャンプを襲撃した。


 これにより、多数の難民を虐殺した=サブラー・シャティーラ事件。



 この事件によって、虐殺を黙認したイスラエルには特に国際的非難が高まった。


 イスラエルはキャンプ内において、パレスチナ人の捜査をLFに指示したと主張した。


 当時のアリエル・シャロン国防相が辞任する事となるが。



 ホベイカは後述するように、親シリアともいわれており、真相は必ずしも明白ではない。



 バシール亡き後、穏健派と目された兄アミーン・ジェマイエルが大統領に就任した。


 イスラエルは、彼とエジプトに続く中東和平条約、イスラエル・レバノン平和条約を結ぶが。


 アミーンに弟ほどの人気や政治力は無く、また世論の激しい反発を招いた。


 これらの事から、最終的に1984年2月に破棄された。



 パレスチナ難民の安全保障を目的としたはずである、アメリカ・イギリス・フランスなど。


 多国籍軍は、内戦終結を望まない各派民兵組織や政治指導者に翻弄される事になる。



 既に、形骸化していた国軍だが。


 アメリカ海兵隊の訓練と支援により再生され、西ベイルートを中心に若者が召集された。



 だが、アミーンはやがて、イスラム教やシリアに対して、強硬な態度で臨む様になっていった。


 そして、1987年5月21日にカイロ協定を破棄している。



 この態度は、両者から怒りを生み出し、シリアはアマルやドゥルーズ派ほか。


 新興勢力であった、ヒズボラに対して、テロリズムも含めた、あらゆる支援を与える事となった。



 ⭕️ 山岳戦争。



 再建された国軍は、LFと共にだが。



 イスラエル撤退後のレバノン中部シューフ山地。


 =ドゥルーズ派の本拠地に生じた空白地帯の奪取に乗り出した。



 ドゥルーズ派やアマルもまた奪還に乗り出し、国軍・LFと激突する事となった。


 この山岳戦争において、国軍は多国籍軍に空爆や艦砲射撃による援護を要請。


 イスラム教民兵組織が内戦終結の阻害と考えていた多国籍軍だが。


 彼等は、艦載機や戦艦を繰り出して、イスラム民兵に攻撃を加えた。


 しかし、この多国籍軍による軍事介入は功を奏せず、海軍機に損失が出る一方でだが。



 多国籍軍の意味合いを変質させる事となった。



 山岳戦争は、捕虜の存在しない戦争とも言われた。


 LFとムスリム左派=特にドゥルーズ派は、敵意を剥き出しにして戦った。


 いずれの勢力も、戦闘で捕らえた兵士・非戦闘員を競うように殺害した。


 また、戦闘と関係の無いシューフ山地にある対立する宗派の村落も多くが破壊された。


 こうして、住民は虐殺されるか追放の憂き目に遭った。



 さらに戦争で、シューフ山地に住んでいた、多くのマロン派住民だが。


 彼等は、東ベイルートやジュニエといった同派の都市に難民として逃れた。


 こうして、内戦以来の住み分けが完成する状態にまで至った。



 ⭕️ 多国籍軍撤退。



 さらに、1983年4月18日には、アメリカ大使館に対する自爆攻撃が発生。



 =アメリカ大使館爆破事件、1983し、10月23日には海兵隊駐屯地が襲撃された。


 また、シリア軍との戦闘にまで発展した=ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件。


 続いて、フランス軍、イタリア軍の駐屯地、イスラエル軍・指揮所にも自爆攻撃が仕掛けられた。


 これらの実行犯は当時、急成長しつつあった、ヒズボラ下部組織であった。



 ヒズボラだが。


 元々イスラーミーヤ・アマルと言う、アマルにおけるイスラム主義を主張する非主流派であったが。


 同胞の支援を掲げて来訪した、イスラム革命防衛隊の将兵達によって編成・訓練された。


 まあ、その上で分派した民兵組織であった。



 シーア派は、レバノン南部に多く住み、常にイスラエルの攻撃に曝されていたが。


 パレスチナ問題には、比較的冷淡であった。



 このため、傲慢さのあるPLOによる支配に反感を覚えてだが。


 イスラエルによる解放に、歓迎の姿勢を見せる者さえいた。



 しかし、イスラエルは彼らの考えや立場を理解しなかった。


 しかも、同派の重要な宗教行事を妨害し中止命令を出した事によって、一気に反発が高まった。



 シューフ山地における戦闘も、国軍・LFの敗北が決定的となった。


 また、ヒズボラの大規模自爆テロの衝撃から、1984年2月。


 アメリカ海兵隊の撤退を皮切りに、多国籍軍は撤退を余儀なくされる。



 サブラ・シャティーラ事件による国際的な非難のなか。


 イスラエルもまたレバノンから撤退するが、南部国境地帯を半占領下に置いたままであった。



 逆に、アマルやドゥルーズ派だが。


 シューフ山地の奪還に成功し、ついには西ベイルートからも国軍を放逐。


 再建された国軍は再び瓦解して、東ベイルートに閉じ込められる事となった。


 ⭐️ これら、元国軍で、ムスリムが中心・部隊はアマル等の指揮下に入った



 ⭕️ 内戦の泥沼化。





 これ以降、国際社会による内戦介入失敗を経て、内戦の対立は宗派を超えて細分化していく。


 ヒズボラは、政治的な理由に基づく外国人誘拐を繰り返し、内戦終結まで続ける事となった。


 これら連続誘拐は、アメリカを始め各国の怒りを買った。


 そして、一時は再び多国籍軍によるレバノン攻撃が計画されたほどであった。



 1980年代後半に政府が実質的な支配においていたのは電話のみであった。


 また、唯一機能していた政府機関は中央銀行であったという逸話まである。



 多国籍軍による再建が失敗した国軍は宗派・地域ごとに再び分化された。



 キリスト教徒の将兵で占められている東ベイルート周辺にある陸軍部隊や海空軍を除くと。


 ムスリム主体・部隊は、アマルなど民兵組織の指揮下にある有様であった。



 それでも、国軍は形式的には存続し、予算配分と装備供与のみは律儀に続けられた。



 しかし、その多くは民兵組織に横流しされた。



 だが、国軍は後述する解放戦争が勃発するまでは、再び内戦への介入に消極的となった。



 イスラエル、アメリカなどが後退した状況下で、シリアは自国を軸とする内戦終結を目論んだ。



 1984年3月には、ローザンヌにおいて民兵組織指導者を集めた、国民和解会議を主催。


 9月にはレバノン憲法起草委員会を召集して改憲案を提出させるが。


 いずれも、レバノン政府の存在を無視した事、現実的な利権を無視した事などから成功しなかった。



 産業は内戦によって壊滅状態となったが。


 各民兵組織は群雄割拠の無政府状態を利用して、ベッカー高原を中心に麻薬産業を発達させていく。


 キリスト教徒と、ムスリムはあらゆる場面で対立したが。


 麻薬産業のみ生産はムスリム、密売はキリスト教徒という奇妙な、役割分担が成されていたと言う。



 さらに、各派民兵組織は支配地域で、税金と称して、様々な金銭を住民から徴収していた。


 例えば、国内あらゆる場所に設置された民兵組織の検問は、交通税を徴収する貴重な資金源だった。


 また、石油にしても政府が設定した石油税とは別にだが。


 民兵組織が、独自に石油税を設定して上乗せしていた。


 さらにら実際には政府の石油税も民兵組織が資金源としていた。



「どのような宗派の国民であれ、その社会で出世したいのであれば民兵組織に入らなくてはならない」


 ~~と言うことが、暗黙のルールになっていた。



 1980年中盤以降は、こうした現実的な利権を巡って、各民兵組織が泥沼の紛争に突入していく。


 時には、同じ宗派内においてさえ対立が発生した。


 内戦の長期化は、主義主張による争いから利権・争いに変質させた。



 マロン派においてもだが。


 ファランヘ党のような伝統的親シリア派とは別にだが。


 自分達の身分を保証するのであれば、親シリアでもかまわないという現実路線が生まれてきた。



 反シリア派であるLFでも、ホベイカの様に、シリア支持に乗り出す幹部が現われてきた。


 パレスチナ難民虐殺事件の中心的人物ともいわれる彼だが。


 シリアは、特に、マロン派の切り崩しに利用しようとしたが。


 反シリア派の若手指導者であるサミール・ジャアジャアとの権力闘争に、ホベイカ敗れた。


 こうして、彼はシリアの庇護を求めて、ベッカー高原に逃亡した。



 イスラエル侵攻後。


 半ば撤退していた、シリア軍は治安維持を名目に再進出した。


 そして、PLOも多くがレバノンに舞い戻ってきた。



 しかし、シリアにとって、PLOは邪魔な存在であった。


 1986年には再進出した、シリア軍とアマルによるパレスチナ難民キャンプへの攻撃が行われた。



 中でも、PLO支持の難民キャンプを包囲してだが。


 アマルは、キャンプに対する飢餓作戦と執拗な銃砲撃を加えた。


 それ故、多数のパレスチナ難民が死傷する事となった。



 ⭐️ キャンプ戦争。



 また、世俗主義であるアマルと原理主義のヒズボラ、ドゥルーズ派とアマルなど。


 ムスリム左派において、内紛が頻発し、その都度シリア軍が沈静化に乗り出した。



 このような中、国軍内部からシリア排除を要求するミシェル・アウン陸軍大将が台頭してきた。


 彼の考えは、統一されたレバノン国家を誕生させる事にあった。


 具体的にはだが。



 レバノン社会からの宗派主義の排除。

 民兵組織解体による中央集権政府・軍の樹立。

 シリア・PLO排除。


 ~~等々によって外国から主権を取り戻すというものであった。



 =イスラエルに対する姿勢ははっきりとさせていなかったが。


 後述の解放戦争においては、イスラエルによる軍事介入を拒否している。



 なお、2006年時点でだが。


 アウンは有力な野党指導者として、アマル・ヒズボラと協力関係を結んでいる。



 2016年10月にレバノン共和国大統領に就任。



 ホベイカ逃亡後、LFの指導者となった、ジャアジャアだが。


 彼は、アウン率いる国軍に急接近していき、再び反シリアを強めていった。



 アウン・LF連合軍には、シリアと対立するイラクが支援に乗り出した。


 こうして、イラン・イラク戦争の終結で余剰となった武器弾薬や車両をイラクが提供した。



 ⭕️ ターイフ合意。



 この一方で、和平を求める動きも見られた。


 サウジアラビアの仲介で内戦を終結して、国家再建を目指すターイフ合意。


 名称はサウジアラビアの都市名に因む~~が国会議員団によって、1989年に採択される


 当初、この合意に対する調印に、各派民兵組織指導者とシリアは消極的であったが。


 サウジアラビアの説得により、シリアは賛成に周った。


 民兵組織も、ヒズボラ、親イスラエルの南レバノン軍、アウン派などを除いてだが。


 多くの組織が承諾。



 その後、ヒズボラは消極的賛成にまわり、南レバノン軍は合意自体を黙殺。


 そして、アウン派はこの合意に対する同意を頑なに拒否した。



 1988年、アミーン・ジェマイエル大統領が任期満了となったが。


 元来イスラム教のポストである首相にマロン派であるアウンを任命していた。



 この直後に、アミーンはレバノンから亡命同然にアメリカへ移住。


 一時的に、大統領が空位となる異例の事態となった。



 シリアは、反シリア派であるアウンの首相就任を拒絶した。


 また、伝統的に首相を輩出している、スンナ派からサリーム・フッスを首相に就任させた。



 そして、シリア支配地域であるベッカー高原のラヤク。


 ここにある、事実上の休眠状態に陥っていた空軍基地に国会議員を召集させた。


 そして、名家出身の政治家であるルネ・ムアワドを大統領に就任させた。



 この結果だが。



 反シリア派であるアウン首相と、ターイフ合意を旗印としたムアワド大統領。


 ~~と言ったように、二重権力が存在する事態となった。



 だが、後者は影響力が少なく、ベイルート東南のバーブダにある大統領府はアウン派が占有してた。


 また、ムアワド側はベッカー高原を出る事すらままならなかった。


 そして、遂には1989年11月22日に車爆弾によるテロで暗殺された。



 後継には、海軍のエリアス・ハラウィが就任した。


 この後は、シリアによるバックアップ下で、アウン派と対峙していくことになっていく。



 アウン派は、キリスト教徒に徹底抗戦を呼びかけた。


 しかし、イラクはクウェート占領を経て、湾岸戦争に突入して、支援が途絶。


 またイラクから支援を受けていた事から、アメリカなど。


 各国は、ムアワド及びハラウィ政権に正当性を認め、外国からのアウン派に対する支援は絶たれた。



 さらに、LFを含めた民兵組織の解体と中央集権体制・樹立を目論むアウン。


 LF主導のマロン派国家樹立を目指す、ジャアジャア。


 この両者は対立して、連合軍は決裂した。



 この結果、元来戦闘が少なかった東ベイルートやジュニエにおいてもだが。


 マロン派同士の戦闘が発生した。



 また、イラクがアウン派に対して、マロン派支配地域からだが。


 シリアの首都ダマスカスを射程圏内に入れるソ連製短距離地対地ロケット。


 FROGを供与したという噂も流れ、緊張状態が加速した。



 ⭐️ 現実には供与されなかった。



 アメリカは、湾岸戦争に対するシリア出兵の見返りとしてだが。


 シリアに内戦終結を一任する事となった。



 アメリカの後ろ盾を得た、シリアだが。


 イラクの影響力排除も目論んで、最も大規模な軍事作戦を行う事となった。



 ⭕️ 解放戦争。



 追い詰められた、アウン派はシリア軍と対決した。



 この戦闘は、解放戦争と呼ばれ、82年に起きた、イスラエル軍による侵攻を除けばだが。


 戦車や長距離砲、ロケット砲を用いた、内戦でもっとも規模の大きな戦闘となった。



 アウンは一時、占領者からレバノンを守る英雄としてだが。


 マロン派ばかりでなく、ムスリムにさえ支持者があらわれた。



 しかし、支援は途絶え、シリア軍による猛攻の前に敗北した。


 立てこもっていた、大統領府へのシリア空軍による爆撃が始まると。


 アウンはフランス大使館に逃亡し、亡命を申請した。


 この総攻撃は、レッド・ライン協定違反だったが。


 イスラエルは、アメリカによる懐柔で、シリアへの非難を控えた。



 1990年10月13日に、シリア軍が出動し、アウン派を制圧した。


 この際、多数、アウン派将兵が逮捕・処刑されるか、シリアに連行されたといわれる。


 親シリア派で、アウンと対立的であったハラウィを中心にだが。


 キリスト教徒・ムスリム両派の民兵組織指導者が閣僚に就任した挙国一致内閣が樹立。


 内戦は、一応の収束がなされた。



 1991年3月に国会は特赦法を可決させ、全ての政治的な意図に基づく判決を免除した。


 5月からは、東ベイルート、ジュニエと言った、マロン派の本拠地に進駐したシリアが。


 段階的に、民兵組織を武装解除および解散させていったが。


 シリアやイランと深い関係を持つ、ヒズボラは除外された。


 国軍も派閥性を排除した、レバノン唯一の武装組織として、地位を維持するために再編がなされた。



 1991年7月6日。



 サイダで発生した、PLOと国軍の戦闘を最後に組織的戦闘は終結したが。


 その後も、散発的な爆破テロは発生した



 ◆ 内戦後。



 ⭕️ シリア支配。



 内戦終結後レバノンは、シリアの実質支配下に置かれた。


 そして、およそ3万人とされるシリア軍がベッカー高原を中心に駐屯した。



 シリアは、単に軍駐留のみならず、情報機関・関係者を積極的にレバノン政府機関に送り込むなど。


 明に暗に、レバノン政府を支配できるシステムを構築しているとされている。



 また、国会議員選挙にも、ハーフィズ・アル=アサド大統領の忠言があったとされた。



「レバノンの国会議員選挙の結果を知りたければ、シリアの大統領に聞けば良い」


 ~~という風刺があるほどであった。



 さらに、ヒズボラに対する指揮・訓練・支援のためだが。


 多数のイスラム革命防衛隊将兵が、レバノン国内に駐在したといわれる。



 とは言え、シリア軍による武力での強制停戦は、レバノンに一応の平和をもたらした。


 これは、パクス・シリアーナ=シリアによる平和と呼ばれる状態となった。



 シリアの軍事的支援を受けた、レバノン国軍によってだが。


 多くの民兵組織が解体された。


 しかし、シリアやイランが支援するヒズボラや反PLO系パレスチナ難民組織など。


 これ等は、未だ武装解除されなかった。



 これは、対イスラエル戦略カードとして、ヒズボラを利用したい、シリアの思惑があった。



 ⭕️ イスラエルの撤退。



 イスラエル軍も、南部に駐留を続け、ヒズボラに対する作戦を続けた。


 1996年には、イスラエル国内で連続爆弾テロが発生した。


 ヒズボラの犯行とした、イスラエル軍はレバノン南部を空襲した=怒りの葡萄作戦。


 この時、レバノンで難民救援活動を行っていた、国際連合レバノン暫定駐留軍フィジー軍部隊だが。


 同部隊のキャンプが集中砲撃され、イスラエルは非難された。



 イスラエルは、2000年に南部から無条件撤退したが。


 撤退後にできた空白地帯には、ヒズボラが素早く入り込んで実質支配地域となった。



 現在、この地域に対するイスラエルによる越境砲撃や空爆が続行されている。



 また、シリアとレバノンの一種・不確定地域となっている南東部シェバア農場だが。


 同地には、現在もイスラエル軍が存在している。



 占領しているシリア領ゴラン高原の一部と主張するイスラエル。


 レバノン領土と主張するヒズボラ。


 ~~と、現在も両者で交戦状態にある。



 レバノン国軍は徴兵制を施行し、年々増強傾向にあるが、内実は治安維持程度の物と考えられる。


 ヒズボラ支配地域やシリア軍駐留地域、パレスチナ難民キャンプだが。


 ここでは、レバノン政府の支配力は未だ限定的なものである。



 シリア、イラン、そして、敵対するイスラエルなど。


 これらは、レバノン政府を無視して、ヒズボラと直接交渉する事がほとんどである。



 内戦終結後は、アメリカが積極的に訓練支援や装備の引渡しを行なっていたが。


 ヒズボラ問題などもあって近年は停滞している。



 内憂対策は国軍、外患=イスラエル対策はヒズボラが行なうと言う図式が事実上定着している。


 パレスチナ難民内戦の主役ともいえた、パレスチナ難民だが。


 彼等は、シリアの思惑によって、内戦以降は、むしろ追い詰められる事となった。



 内戦原因の一つとなった、カイロ協定は一方的に破棄された。


 また、既成化されていた市民権は、レバノン政府によって剥奪された。



 レバノン国軍は、シリアの軍事的支援を受けてだが。


 PLO系・軍事組織のほとんどを強引に武装解除した。


 さらに、シリアの思惑によって、反PLO系組織以外のパレスチナ組織と難民だが。


 これらは、少なくともレバノン国内では武器と権利が取り上げられた。



 社会的な保障も無くなり、パレスチナ難民キャンプはスラム化した貧困地帯となっている。


 レバノン軍団シリアと反目した、LFは一時こそ武装解除され政党化したが。


 1990年代前半に発生した爆弾テロ事件の首謀者として、ジャアジャアが逮捕されると。


 レバノン政府によって、非合法化されてしまった。



 これによって、マロン派の有力な政治指導者は親シリアの一部政治家を除いてだが。


 ほぼ、消滅したと言われる。



 フランスに亡命した、アウンは同国を中心にシリア軍撤退と親シリア体制の解体を目指す。


 また、欧米のマロン派移民を結集して運動を行っていたが。


 アウンの帰国が事実上不可能だった当時、国内に影響力は殆ど無かったと言う。



 シリアに寝返った、ホベイカは2002年に何者かによってだが。


 自家用車に仕掛けられた、爆弾によって殺害された。


 ホベイカは、サブラ・シャティーラ事件を解明しようとした国際司法裁判所だが。


 この裁判における法廷に証人として出席する直前であった。



 それ故、同事件の真相は闇に葬られる結果となったという。


 国土が荒廃戦火した傷は深く、現在も内戦中に行方不明となった多くの国民が存在する。



 その一部には、PLO系パレスチナ難民や解放戦争時に捕まった、キリスト教政府軍兵士も居る。


 彼らは、シリアの刑務所に幽閉されていると信じられている。



 15年に及ぶ断続的な戦争は、基幹産業の観光・金融を衰退させ、国土は荒廃した。


 1990年代は、サウジアラビアに巨大な建設企業を保有するハリーリー元首相によってだが。


 経済復興が最優先され、ベイルートを中心に一時は復興の光が見えたが。



 2001年のアメリカ同時多発テロ後。


 その後は、国内に駐留するシリア・イラン、ヒズボラなど。


 これら国家や組織が、軒並みテロリスト・テロ国家の烙印を押された。


 こうして、、アメリカから軍事援助を中心とする支援が凍結された。



 ⭕️ シリアの撤退。



 イスラエル撤退後、シリア軍も撤退すると思われたが。


 ベイルートやマロン派地域等からベッカー高原への兵員移動など、名目的な撤退のみにとどまった。


 そのため、一時的にマロン派やドルーズ派によって反シリア運動が展開されたが。


 レバノン当局によって鎮圧された。



 ベッカー高原は、ヒズボラ拠点であると同時に、シリアの対イスラエル戦略・要衝とされている。



 長距離レーダー基地など。


 軍事施設がひしめく地域と言われ、シリアの駐留は永続化すると考えられていた。



 2004年9月、国際連合安全保障理事会はレバノン情勢に関する決議を採択した。



 これは、駐留を続けるシリアへの撤退勧告、及びヒズボラ等。


 武装を続ける民兵組織・解体を促す内容の物であった。


 ただし、シリア及びレバノン政府はこの決議を、不適切としている。


 特に、レバノン政府はヒズボラを、不当に占領を続けるイスラエルへの正当な抵抗集団だと。


 そう言った、姿勢を崩さなかった。



 2005年2月に起きたハリーリー元首相暗殺爆弾テロだが。


 これは、国際社会の反発を呼び込み、アメリカなどの圧力もかかった。


 そして、シリア軍は遂に段階的撤退を開始した。


 同年4月までに情報機関を含めて、シリア軍は完全撤退した。



 次いで、フランスに亡命していた、アウンが帰国。


 同年6月に行なわれた、レバノン総選挙では、ハリリ派の政党連合が。


 ワリード・ジュンブラートや反シリア派キリスト教徒勢力と手を組み、勝利を収めた。



 アウンは自らの党派を旗揚げしたが。


 ハリーリー派には加わらず、反シリア・反ハリーリー派キリスト教徒の支持を集めた。



 LF指導者で刑務所に収監されていたジャアジャアもだが。


 シリア撤退と政権交代によって収監の必要がなくななった。


 それにより、同年8月に釈放され、レバノン軍団の党首に復帰した。



 90年に成立した、レバノンのパックス・シリアナは15年で終わりを迎えた。



 ⭕️ イスラエル再侵攻。



 2006年7月、ヒズボラはイスラエル領に侵入して兵士を拉致した。


 それ故、イスラエル軍はレバノンへの空爆、地上軍侵攻を伴う大規模な軍事行動を起こした。


 長期化も心配されたが、8月に国連の停戦決議が採択されて両者は停戦。



 国連レバノン暫定軍が、イタリア主体で2000人規模に増員・再編成されて展開した。


 イスラエル軍は10月に撤収した。


 今後は国連によって、レバノン軍の強化が行われるが。


 ヒズボラの武装解除など、解決は見通しが立たない課題が山積みである。

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