表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

137/206

第四次中東戦争

 ⭕️ 第四次中東戦争



 1973年10月。



 イスラエルとエジプト・シリアを始めとするアラブ諸国との間で勃発した戦争である


 中東戦争の一つに数えられ、ヨム・キプール戦争、十月戦争などとも呼ばれる。



 ⭕️ 第四次中東戦争




 中東戦争、年月日、1973年10月6日ーー同年10月23日。


 場所、スエズ運河やシナイ半島、ゴラン高原など。



 結果、停戦。


 シリア方面の戦線では、イスラエル軍が勝利し、第三次中東戦争以来・占領地を更に拡大。


 一方エジプト方面の戦線では、エジプト軍がイスラエルに占領されていたシナイ半島の一部を奪還。


 またら当時アラブ側に立脚した石油輸出国機構だが。


 この組織が、石油価格を引き上げた事で、オイルショックが発生した。



 ⭕️ 概要。



 1973年10月6日。



 イスラエルにおけるユダヤ暦で最も神聖な日。


 ヨム・キプール以降贖罪の日に当たった、この日。


 6年前の第三次中東戦争で、イスラエルに占領された領土の奪回を目的としてだが。


 エジプト・シリア両軍が、それぞれスエズ運河、ゴラン高原正面に展開するイスラエル国防軍。


 以下、イスラエル軍に対して攻撃を開始した。



 ヨム・キプールの日に攻撃を受けた上、第三次中東戦争以来だが。


 アラブ側の戦争能力を軽視していた、イスラエルであるが。


 彼等は、アラブ側から奇襲を受け、かなりの苦戦を強いられたが。



 イスラエル軍の主力である予備役部隊が展開を完了すると。


 アメリカの支援等もあって、戦局は次第にイスラエル優位に傾いていった。



 10月24日。


 国際連合による停戦決議をうけて停戦が成立した際だが。


 イスラエル軍は、逆に、エジプト・シリア領に侵入していた。



 純軍事的にみれば、イスラエル軍が逆転勝利をおさめたのだが。


 戦争初期にとはいえ第一次、第二次、第三次中東戦争でだが。


 イスラエルに対して、負け続けたアラブ側がイスラエルを圧倒したという事実であるが。



 これは、イスラエル不敗の神話、イスラエルはアラブ側に対して決して負けないを崩壊させた。


 そして、逆にイスラエルに対して対等な立場に着くことができたエジプトであるが。


 1979年、エジプト・イスラエル平和条約を締結した。


 また、1982年に、シナイ半島はエジプトに返還された。


 同年、ゴラン高原はイスラエルが一方的に併合を宣言した。



 この戦争は、冷戦期における地域紛争キユーピーきよる中でも新しい兵器が大規模投入された。


 特にミサイル兵器、9M14マリュートカ、ATー3サガー対戦車ミサイル。


 双方が史上初めて、対艦ミサイルを使用した、ラタキア沖海戦など。


 これらはめざましく、第三世代主力戦車の開発など、各国・兵器開発に少なからぬ影響を与えた。



 また、戦争中に、アラブ石油輸出国機構=OAPECの親イスラエル国に対する石油禁輸措置と。


 それに伴う石油輸出国機構=OPECの石油価格引き上げだが。


 これらは、第1次オイルショック=第1次石油危機を引き起こした。


 これにより、日本をはじめとする諸外国に多大な経済混乱をもたらした。



 ⭕️ 名称。



 イスラエル・欧米での名称、ヨム・キプール戦争。



 ヨム・キプールの日に戦争が勃発したことに由来。


 ヘブライ語:"מלחמת יום הכיפורים"。


 ミルヘメット・ヨム・ハ=キプリム。


 または、"מלחמת יום כיפור"。


 ミルヘメット・ヨム・キプール。



 英語:"Yom Kippur War"。


 ヨム・キプール・ウォー。



 アラブ側・欧米の名称、十月戦争。



 10月に戦争が勃発したことに由来。


 アラビア語:"حرب أكتوبر"。


 ハルブ・オクトーバル。


 または"حرب تشرين"。


 ハルブ・ティシュリーン。


 英語:"October War"。


 オクトーバー・ウォー)


 または、ラマダン月10日戦争。



 単に「ラマダン戦争」とも。


 イスラム暦の断食月ラマダーン10日に戦争が勃発したことに由来。


 アラビア語:"حرب العاشر من رمضان"。


 ハルブ・アーシル・ミン・ラマダーン。


 英語:"Tenth of Ramadan War"。


 テンス・オブ・ラマダン・ウォー。



 欧米の名称=1973年アラブ・イスラエル紛争。


 単に、1973年の戦争という表記も見られる。


 英語:"1973 Arab-Israeli Conflict"。


 ナインティーセヴンティースリー・アラブ・イスラエリ・コンフリクト。



 日本の名称、第四次中東戦争。



 第4次中東戦争と言う表記も存在。



 消耗戦争を、第四次中東戦争とし、本戦争を、第五次中東戦争とする文献もある。



 以下、戦争名は全て、第四次中東戦争で統一する。



 ⭕️ 第三次中東戦争=1967。



 イスラエルは、第三次中東戦争の勝利により、各地を占領した。


 アラブ側は、この戦争による復讐を誓い、第四次中東戦争要因である一つとなった。



 1967年6月5日。


 イスラエル空軍は、エジプト、ヨルダン、シリア、イラクの各空軍基地を攻撃。


 第三次中東戦争が勃発した。



 以前から、チラン海峡封鎖や部隊展開により、イスラエルの破壊を声高に唱えていた、アラブ側。


 エジプト・ヨルダン、シリアなどにとってだが。


 これら、先の先を狙った、イスラエル軍による攻撃はまさに、奇襲であった。


 開戦一日で、アラブ側の航空戦力は壊滅。



 続く地上戦でも、イスラエル軍の前に、アラブ軍は敗走を重ねた。


 イスラエルは、6日間でエジプトからガザ地区とシナイ半島全域。


 ヨルダンからヨルダン川西岸。


 そして、シリアからゴラン高原を奪取して戦争は終結した。



 エジプトは、スエズ運河閉鎖により、年間2億ドルの通関料収入を喪失した。


 ヨルダンは、人口の45パーセントと東エルサレムの観光収入を失った。



 イスラエルは、これら地域を占領したことでだが。



 エジプト正面では、200キロメートル以上の縦深を得ることができた。


 これにより、イスラエル領内に、エジプト軍の砲爆撃が及ぶ恐れがほぼなくなった。



 一方で、イスラエル国内では第三次中東戦争の結果を受けてだが。


 アラブ諸国との和平交渉が、すぐにでも始まるような期待感が広がった。


 そして、終結後の1967年6月19日、イスラエルのレヴィ・エシュコル内閣だが。


 講和と非武装化を条件に、シナイ半島=シャルム・エル・シェイクを除くと。


 ゴラン高原の占領地返還を全員一致で閣議決定した。


 ヨルダン川西岸地区については、ヨルダンのフセイン国王と交渉に入る動きがあった。



 しかし、誇り高きアラブの名誉を傷つけられたアラブ諸国だが。


 イスラエルとの和平交渉を受け入れることは到底でき無かった。



 エジプトとシリアは戦争終結後ほどなくして、ソビエト連邦による援助下で、軍の再建に着手した。


 ほか、8月29日から9月1日に、スーダンのハルツームで開催された、アラブ首脳会議でだが。



 イスラエルと交渉せず、イスラエルと講和せず、イスラエルを承認せず。


 ~~と言う、いわゆる、3つのノーを決議した。



 11月22日に開催された国際連合安全保障理事会においてだが。


 ここでは、イスラエル軍の占領地からの撤退や中東諸国すべての主権を認めることなど。


 これらを求めた安保理決議242を全会一致で可決したが。



 アラブ側は、イスラエルが占領地から撤退しても戦争前の状態に戻るだけだった。


 そして、第三次中東戦争敗北・事実は消えず、得られる物が何もないため決議の履行は困難だった。



 また、第三次中東戦争以降イスラエル軍とアラブ軍の戦力差だが。


 イスラエル優位で隔絶しており、アラブ側にとって、これまで中東戦争で見られたようにであるが。


 イスラエルの破壊を狙って、全面戦争を仕掛けるよりも、限定的なものではあるとはいえだが。


 領土奪還と同時に、イスラエル軍に打撃を与えること。


 これで、イスラエル不敗の神話を崩壊させる。


 そして、アラブ優位の状態で、イスラエルを交渉のテーブルにつかせる方が現実的であった。



 消耗戦争・ヨルダン内戦=1968年ーー1970年。



 エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領だが。


 彼は、イスラエルと第三次中東戦争の停戦を結んだ、翌6月9日。


 敗北の責任を取り辞任の演説を行い、後任にザカリア・ムヒエディン副大統領を指名した。


 しかし、エジプト唯一の政党であるアラブ社会主義連合が扇動した退任反対の大規模デモを受けた。


 これにより、ナーセルは辞任を撤回した。



 6月11日には、アブドルハキーム・アーメル国防相のほか。


 陸海空軍司令官と、多数の上級将校を敗北・責任から追放した。



 アラブ諸国の敗北は、援助国であるソビエト連邦にも衝撃を与えた。



 1967年6月21日に、ニコライ・ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長だが。


 彼は、マトヴェイ・ザハロフ元帥を帯同して、カイロを訪問、エジプト軍再建の協議を行った。



 同年7月末。


 ソビエト連邦から軍用機110機、戦車200~~250輌等の兵器がエジプトに到着した。


 10月になると、軍用機数が第三次中東戦争前の水準に回復し、戦車も700輌まで増強された。



 エジプトは、ソビエト連邦に対して、大量に軍事顧問団の派遣も求めた。


 そして、数千人規模の軍事顧問団が、エジプト入りし、エジプト軍・再編成と訓練にあたった。



 なお、ソビエト連邦は これらの対価としてだが。


 アレクサンドリアやポートサイドなど港湾4箇所。


 カイロ西空軍基地など、飛行場7箇所の使用権を得た。



 1967年10月21日。



 北アフリカ北東沿岸において、哨戒中のイスラエル海軍所属駆逐艦エイラートだが。


 エジプト海軍のオーサ型ミサイル艇からの対艦ミサイル攻撃で撃沈された。



 エイラート事件。


 この事件は、単に史上初めて対艦ミサイルが使用された攻撃であった。


 それのみならず、第三次中東戦争以降下がり気味であった、アラブ側・士気高揚に役立った。



 エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領だが。


 彼は、小規模で効果的な攻撃を仕掛けることで、アラブ側の士気を高めた。


 また、逆にイスラエルに、戦争でも平和でもない。


 ~~状態を強制することで、イスラエルの疲弊と士気低下を狙った訳である。



 そして、69年3月、ナセルは消耗戦争を称して、イスラエルへの攻撃を本格化させあ。


 また、スエズ運河では砲撃戦が行われた。


 これに対して、イスラエルはエジプト本土への空爆、小部隊の襲撃をもって徹底的に応戦した。


 消耗戦争は断続的に約1年間続いたが、1970年8月6日、アメリカの仲介によって停戦した。



 また、同年9月28日。



 ヨルダン内戦の仲介工作を行った直後に、ナセルが急死した。


 そして、ナセルの後継者だが。



 1952年のエジプト革命時に、ナセルの同志でもあった、アンワル・アッ=サーダート。


 以下サダト副大統領が昇任することになった。



 だが、当時知名度がナセルより遥かに低かったサダトだが。


 彼は世間から、繋ぎの大統領だとみなされていた。



 ヨルダン内戦。



 シリア方面では、1969年2月28日の政変でだが。


 ハーフィズ・アル=アサド国防相が実権を握ったあと。



 1970年11月のクーデターで全権を握った。



 これに前後してだが。


 アサドは、当時ヨルダン政府とパレスチナ解放機構=PLOとの間で戦闘が行われていた紛争。


 ヨルダン内戦に介入し、陸軍をヨルダンに侵入させ、PLO支援を図った。


 このままでは、ヨルダンとシリアの戦争に発展してしまうことは明らかであった。


 そこで、アメリカは空母部隊を地中海のイスラエル沖に派遣した。


 そして、ヨルダンの行動を支持すると共に、軍事介入したシリアに対する牽制とした。



 イスラエルは、地上部隊をゴラン高原に展開し、シリア軍に対して警戒を強めた。


 当初は、このヨルダンの混乱に乗じて、イスラエルが軍事作戦を展開する動きもあったが。


 その計画は見送られた。



 結局、ナセルがヨルダン・シリア・PLOの仲介に入った。



 PLOは受け入れを表明した、レバノンへ本部を移転させることとなった。


 こうして、ヨルダン政府軍、PLOとシリア軍は停戦した。



 この結果、PLOは指導部と主力部隊をレバノンに移した




 ◆ アラブの戦争準備・イスラエルの油断1971年ーー1973年9月。



 ⭕️ アラブの戦争準備。



 エジプト大統領に就任した、サダトはナセルの外交路線を転換、親ソ連から親米路線を目指した。


 アメリカによる仲介によって、イスラエルとの交渉を進めようとしたが。


 当時のアメリカ国務長官ヘンリー・キッシンジャーによる言葉を借りれば。



「勝者の分け前を要求してはならない」


 すなわち、アラブ側が負けっぱなしのままでは交渉仲介に乗り出すことはできない。


 ~~というのが、アメリカによる対応であった。



 このため、サダトは領土奪還だけではなくだが。


 親米路線転換のきっかけとしても、対イスラエル戦争を位置づけるようになった。



 1972年に入ると、エジプトの戦争計画の具体化が進められた。


 イスラエルに、弱いアラブ軍やソ連との不和をイメージさせる情報を流す裏でだが。


 軍の改革や兵士の能力向上、ソ連からの供与兵器。


 ATー3対戦車ミサイルやSAー6自走対空ミサイルなど。


 これらを有効活用した戦術の研究が進められた。


 同様に、シリア軍も地上部隊や対空戦力の増強を進めた。



 1973年夏には、来たるべき対イスラエル戦争の作戦名が、バドル作戦と定められた。


 開戦日に、イスラエルの安息日かつ、一切の労働が禁じられる、ユダヤ暦で最も神聖な日。


 ヨム・キプールに当たり、その他・理由からも最適な1973年10月6日が選定された。



 エジプトは、シリアと連携して作戦計画の作成を活発化させた。


 また、石油輸出国機構=OPECやアラブ石油輸出国機構=OAPECにも戦争協力を要請した。



 ⭕️ イスラエルの油断。



 イスラエルは諜報機関であるイスラエル参謀本部諜報局アマンやイスラエル諜報特務庁モサドなど。


 これらを通して、アラブ側による戦争準備の動きをほぼ完全に捕捉していた。



 第三次中東戦争での圧倒的勝利によって、イスラエルだが。



 アラブ側の工作結果もあってであるが。


 アラブ側の戦争能力を非常に低く見積もる風潮があったため、ほとんど注意を払うことがなかった。



 ここに、アマンの局長エリ・ゼイラ少将が作成した当時イスラエルによる状況認識を表した理論。


 ザ・コンセプトがある。



 すなわち、シリアがイスラエルに対して戦争を仕掛けるにはエジプトとの同時攻撃が不可欠である。



 エジプトが攻撃を決意するには、第三次中東戦争時だが。


 当時と同じ、二の舞を避けるために、空軍力を再建させる。


 また、Tー16やスカッドなど、攻撃的兵器の装備が必要である。



 エジプトが、空軍再建や攻撃的兵器の調達を実現する事だが。


 これは、ソ連が貸与を渋っているため、1975年までかかる。



 したがって、アラブ側は少なくとも1975年まで戦争を仕掛けてこない。


 その時には、イスラエル軍による軍事力はさらに向上している。



 1975年より前に、アラブ側が戦争準備を行ったとしてもだが。


 それらは全て、本格的な戦争準備ではなく、もし仮にアラブ側が戦争を行おうともだが。



 諜報機関が、開戦48時間前に、その情報をキャッチして動員が可能である。


 また、開戦2日目には反撃して、第三次中東戦争以上の圧倒的勝利を収められるとされた。



 その他にも、第三次中東戦争の経験からだが。



 遮蔽物が殆どないシナイ半島の砂漠では、対戦車砲や歩兵を戦車に見つからないよう隠すこと。


 これは非常に困難である。


 また、イスラエル軍戦車部隊は歩兵・砲兵の随伴がなくとも単独で突破戦力・任務を遂行できる。



 いわゆる、オールタンク・ドクトリン。


 地上部隊が少兵力でも、イスラエル空軍が空飛ぶ砲兵として地上軍を常時援護できる。


 ~~等々といった理論が語られた。



 しかし、前述のように、アラブ側は、弱いアラブ軍を演出する裏で軍・改革を推し進めていた。


 こうやって、イスラエル軍の戦術・対処も行っていた訳である。



 1971年からアラブ側はイスラエルへの挑発を強めた。


 こうして、1973年5月まで戦争の危機が高まるごとにであるが。


 イスラエルは、年1回のペースで計3回の動員令を発令した。



 だが、3回とも戦争に発展することは無かった。



 特に、1973年5月の動員だが。


 6200万イスラエルポンド=45億円と言う経済損失から国民の不満が高まった。


 そのため、イスラエル軍は、これ以上むやみに動員令を発令する事はできなくなっていた。



 また、1972年5月30日の日本赤軍によるロッド空港乱射事件。


 さらに、9月5日のミュンヘンオリンピック事件。


 ~~等々、ユダヤ人が拘束・殺害される事件が世界中で多発した。


 それ故、イスラエルは事件への対応や報復作戦に忙殺されることとなった。



 ◆ イスラエル軍の防衛計画。



 ⭕️ バーレブ・ラインの拠点。



 1968年に、イスラエル軍参謀総長ハイム・バーレブ中将だが。


 エジプト軍のスエズ運河東岸への攻撃に対処するためだが。


 アブラハム・アダン少将を長とする東岸防衛計画委員会にだが。


 シナイ半島の防衛構想を参謀本部へ検討案として上程するよう命じた。



 委員会からの答申案だが。



 その内容は、東岸沿いに監視警戒と敵軍を拘束する拠点を11キロメートル間隔で15個配置する。


 そして、拠点後方に機動予備部隊を配置。


 こうして、渡河進攻するエジプト軍に対処することを骨子とした内容だった。



 しかし、参謀本部の訓練部長アリエル・シャロン少将と計画室長イスラエル・タル少将たちだが。


 彼等は、この答申案に反対し、代わって機甲偵察部隊で東岸沿いを巡察警戒する方法を主張した。



 1969年にバーレブ参謀総長は、委員会答申案を支持し、防衛線の構築が開始された。



 いわゆる、バーレブラインと呼ばれる防衛線は同年3月15日に完成した。


 バーレブ・ラインは、スエズ運河東岸沿い約160キロメートルにわたって構築された。



 33個の拠点。

 3線の築堤。

 4本のコンクリート舗装道路。

 3本の新道。

 指揮通信施設。



 ~~等々が設置された。



 ⭕️ 開戦前夜=1973年9月13日ーー10月6日。



 1973年9月13日。



 シリアの湾岸都市ラタキアに面するラタキア沖上において、イスラエル空軍とシリア空軍が空戦。


 イスラエル1機、シリア13機の航空機を喪失。



 これに呼応する形で、ゴラン高原ではシリア軍の部隊が本格的な展開を始めた。



 同時に、スエズ運河正面では、解放タヒール23 軍事演習と称してだが。


 エジプト軍の大規模な展開が公然と進められた。



 当初イスラエルは、ゴラン高原では空中戦の影響があったこと。


 また、スエズ運河正面では、あくまで軍事演習であると信じた。


 それ故、アラブ側の動向にほとんど対応策を取らなかった。



 9月29日。



 チェコスロバキア・オーストリア国境において、2人のパレスチナ人テロリストだが。


 ソ連出身のユダヤ人を乗せて、ウィーンに向かっていた列車を乗っ取った。


 そして、ユダヤ人5人とオーストリア人税関職員1人を人質に取る事件があった。



 当時のオーストリア首相ブルーノ・クライスキーだが。


 彼が、シェーナウにある、ユダヤ人移民中継キャンプの閉鎖を提案、人質は解放された。



 イスラエルは、オーストリアの対応に反発した。


 政府もゴルダ・メイア首相が直々に、オーストリアまで向かうなどの対応に追われた。



 この事件は、テログループが、シリア軍の支配下組織と繋がりがあった。



 それ故、アラブ側の欺瞞工作であったとする説もあるが、真相は不明である。


 いずれにせよ、イスラエルで世論は主に、この事件に注目した。


 また、国境付近で、アラブ軍の展開は見過ごされがちとなった。



 10月5日。



 依然アマンは、戦争の可能性は低いとしていたが。


 参謀総長ダビッド・エラザール中将は、イスラエル軍に、Cレベルの警戒を発令。


 同時に、第一線部隊の増強が図られた。



 しかしながら、戦争に発展する確信がなく、5月の失敗からも動員令は発令されなかった。


 これにより、第一線部隊だけで、アラブ軍を相手にするには不安があった。



 10月6日午前4時、ヨム・キプールの日、朝。



 これまで、アラブ側の動きを、本格的な戦争準備ではない。


 ~~として、あらゆる戦争の可能性を一蹴し続けてきた、アマン局長のゼイラ少将だが。


 彼は、これまで主張していた事を覆して、今日の夕方18時にも戦争が勃発すると警告を出した。



 この報告を受けて、エラザールは国防相モシェ・ダヤンに、空軍による先制攻撃・許可を求めたが。


 アメリカを始めとする諸外国からだが。


 第三次中東戦争同様イスラエルは好戦的な国家であると見なされないために、これは却下された。



 また、20万名の総動員も同様な理由から却下された。


 結局、午前10時に15万人の動員令が発令され、第一線部隊も戦闘準備を行った。


 だが、ゼイラの予測より早い14時、エジプト・シリア両軍により、イスラエル攻撃が開始された。



 イスラエルは、第三次中東戦争で、アラブ側がそうであったように。


 皮肉にも、そのアラブ側から奇襲を受けることとなった。




 ⭕️ 戦争の推移。



 以下、本稿ではゴラン高原とはゴラン高原周辺の戦区を示す。


 シナイ半島とはスエズ運河・シナイ半島周辺の戦区を指す事とする。



 ⭕️ 開戦。



 第四次中東戦争の開戦時において、エジプト軍はスエズ運河渡河作戦を計画した。


 その作戦名が、バドル作戦、またはバドル計画である。



 1973年10月6日。


 スエズ運河西岸に展開した、エジプト軍第2軍&第3軍が10地点で渡河を行った。


 そして、東岸のイスラエル軍防衛線=バーレブ・ラインを突破。


 10月8日までに、縦深10から13キロメートルの橋頭堡を確保した。



 また、本作戦と並行して、シリア軍によるゴラン高原進攻が行われた。


 イスラエル軍は予期していなかった、エジプト・シリア軍の奇襲攻撃で、緒戦で敗北を喫した。


 こうして、戦争中は各地で苦戦を強いられることとなった。




 ⭕️ 10月6日。



 1973年10月6日13:50から14:43にかけてだが。



 エジプト軍は、スエズ運河東岸のバーレブ・ラインに対して攻撃準備射撃を行った。


 たあ、135個砲兵大隊約2000門の砲迫から約3000トンの砲弾が放たれた。


 拠点、機甲部隊集結地、砲兵陣地、指揮所等の目標に砲撃が降り注いだが。


 土塁・前方斜面に埋設された、地雷等の人工障害物は多連装ロケット砲による掃射で破壊された。



 また、戦車砲等の直接照準火器約2000門も攻撃に加わり、各種工作物を砲撃した。


 14:20からは3か所の陣地に展開したスカッド地対地ミサイル10基とFROG地対地ロケット20基が、ウムハシバ(Umm Hashiba)のSIGINT施設、タサ(Tasa)、ビルギフガファ(Bir Gifgafa)の師団指揮所を攻撃した[61]。


14:00には240機のエジプト空軍機がスエズ運河を越え、シナイ半島の航空基地3か所、補助航空基地3か所、ホーク地対空ミサイル陣地10か所、砲兵陣地2か所、指揮所3か所、レーダーサイト2か所、SIGINT施設2か所、段列地域3か所、拠点ブダペストを空爆した。



 ⭕️ スエズ運河渡河。



 15:05。



 エジプト軍本隊の渡河に先立ち、対戦車火器を携行したレンジャー部隊がゴムボートで渡河した。


 ロープや竹梯子で堤防をよじ登り、東岸1キロメートルまで進出して阻止陣地を構築。


 イスラエル軍機甲部隊の反撃に備えた。



 14:20に第一波、5個歩兵師団8000名が、1000艘のゴムボートに分乗して渡河を開始。


 この第一波には工兵のほか、誘導要員、砲兵隊の前進観測班も含まれていた。



 第二波だが。


 歩兵部隊と消火用ポンプを装備した、工兵隊80組が含まれていた。


 これら部隊は、15分間隔で15波に分かれて渡河した。




 ◆ アラブの二正面作戦=1973年10月6日 ーー10月10日。



 ⭕️ ゴラン高原方面。



 ゴラン高原方面では、13時58分からのシリア空軍機による空爆に続いた。


 14時5分、野砲・ロケット砲約300門が、15時まで攻撃準備射撃の後だが。


 5個師団、3個歩兵師団、2個戦車師団後方で待機が、ゴラン高原に突入した。



 対するイスラエル軍部隊は、停戦ライン上の警戒部隊を除けば、1個機甲師団、第36機甲師団。


 戦車数にして、シリア軍1220輌、対イスラエル軍177輌である。



 ゴラン高原北側に対するシリア軍第7歩兵師団の攻撃は上手くいかなかった。


 第36機甲師団所属の第7機甲旅団は、停戦ライン付近の丘に陣取った。


 第7歩兵師団の戦車や車輌を、次々と撃破した後だが。


 涙の谷と呼ばれることになる、同場所で、第7歩兵師団であるが。


 後方に待機していた、第3戦車師団や精鋭の共和国親衛旅団による増援を得つつだが。


 昼夜を問わず攻撃を仕掛けた。



 10月9日には、第7機甲旅団も稼働戦車が7輌=定数105輌にまで低下したが。


 シリア軍はら結局最後まで第7機甲旅団の陣地を突破することはできなかった。



 シリア軍は、戦車260と他車両500を失う。



 これと対照的に、ゴラン高原中部・南部の攻撃を担当した第9&第5歩兵師団だが。


 両歩兵師団の攻撃は比較的順調に進んだ。



 こちらの守備を担当したイスラエル軍の第188機甲旅団、戦車定数72輌だが。


 同旅団は、第7機甲旅団と同様、停戦ライン上でシリア軍戦車を迎え撃ったが。


 担当正面が広すぎ=停戦ラインは全長65キロメートルだが。


 うち40キロメートルを第188機甲旅団が担当した。



 6日夕方には、シリア軍の450輌に対してだが。


 第188機甲旅団の稼働戦車は、15輌にまで低下した。


 また、シリア軍に包囲された上、夜間にシリア軍の間隔を縫って退却した。



 翌7日。



 第188機甲旅団の旅団長、副旅団長、作戦参謀が三人とも戦死するという事態が起こった。



 最終的に、将校の9割が死傷した第188機甲旅団にシリア軍を止めるすべはなかった。


 シリア軍は、後方の第1戦車師団も投入して、ゴラン南部でイスラエル軍・防衛線を突破した。



 6日夜、これらシリア軍と本土の間に、味方部隊が皆無なことに気付いたイスラエル軍だが。


 動員を完了した予備役部隊を中隊ごと、時には小隊ごと。


 逐次ゴラン高原に投入しなければならなかった。



 こうした、部隊を率いた戦車兵の一人。


 ツビ=ツビカ・グリンゴールド中尉が指揮した小隊規模の戦車隊。


 ツビカ隊は夜間に、ゴラン高原を南北に走るTAPライン上に展開。


 ゴラン高原中部に位置する第36機甲師団の指揮所があった、ナファク基地。


 同基地に向かおうとする、第5歩兵師団の戦車を一晩中延滞させることに成功した。



 だが、7日正午には、シリア軍第1戦車師団のTー55戦車がナファク基地に突入した。


 第36機甲師団長ラファエル・エイタン少将や師団参謀も武器を取るほどの混戦となったが。


 ツビカ隊を始め各戦車隊が、これを撃退。



 この頃になると、イスラエル軍の予備役部隊である2個機甲師団。



 第210

 第146予備役機甲師団


 ~~等々が、ゴラン高原展開を完了。



 8日から、これら2個師団によりゴラン高原南部で反撃に出たイスラエル軍だが。


 10日までに、シリア軍をゴラン高原から追い出した。



 これに前後して、10月6日。


 シリア軍第82空挺大隊がヘルモン山頂のイスラエル軍監視哨を占領。



 イスラエルにとって、国家の目であるヘルモン山だが。


 ここを、シリア軍に砲兵観測所として、利用されるのを恐れたイスラエル軍であるが。


 8日、ゴラニ歩兵旅団による奪回作戦を試みたが、失敗した。



 ⭕️ シナイ半島方面。



 シナイ半島方面では、エジプト軍の5個歩兵師団がスエズ運河を渡河。


 橋頭保を築くと同時に運河沿いに作られた、イスラエル軍の拠点群。


 通称、バーレブ・ラインに対して攻撃をかけた。



 イスラエル軍は、すぐさま第252機甲師団=3個旅団基幹、以下第252師団。


 ~~と空軍機が反撃を行ったが、第252師団の3個機甲旅団だが。


 すべて、エジプト軍の構築した対戦車兵器による防衛網によって次々と壊滅させられた。



 空軍機も同様にだが。


 低空用・高空用対空火器を巧妙に組み合わせた、エジプト軍による、ミサイルの傘を前にしてだが。


 ほとんど、有効な航空攻撃を行えなかった。



 ゴラン高原同様7日から8日にかけてだが。


 イスラエル軍予備役部隊。



 第162予備役機甲師団=以下第162師団。


 第143予備役機甲師団=以下第143師団。



 ~~等々が到着。



 8日には、これら2個師団による反撃が行われたが。


 第162師団は、6日同様エジプト軍の対戦車兵器によって、大損害をこうむった。


 第143師団は戦場を迷走したため、殆ど戦闘に参加できず、イスラエル軍の反撃は再び失敗した。



 一方、エジプト軍だが。



 スエズ運河東岸に橋頭保を築いて停戦を待ち、シナイ半島は戦後交渉によって奪還する。


 ~~と言う作戦の第一段階が完了したためだが。


 むやみな攻撃をかけずに、橋頭保の強化につとめ、戦況は膠着状態となった。



 ⭕️ その他



 イスラエル軍は、ゴラン高原、シナイ半島で、二正面作戦を強要された。


 また、一時はゴラン高原、シナイ半島・放棄、そして、第三神殿の滅亡も考えられた。



 このため、イスラエルでは核兵器の使用が真剣に検討された。


 実際に、ディモナ核施設では、航空機用核弾頭13発が用意された。



 しかし、戦況がやや好転したため、使用の機会は免れることとなった。



 ◆ イスラエルの反撃。 1973年10月11日ーー10月17日。



 ⭕️ ゴラン高原方面編集



 10月11日、イスラエル軍は再編成ののちゴラン高原北部からシリア領への逆侵攻を開始。


 シリア軍や新たに参戦した、イラク・ヨルダン軍などの抵抗を受けながらもだが。


 イスラエル軍は、シリアの首都ダマスカスを長距離砲の射程に収められる位置まで進軍したが。


 それ以上の進撃は中止された。



 アラブ側が必死の抵抗をしただけでなく、ダマスカスを陥落させると、ソ連軍が参戦すると。


 アメリカより警告がもたらされたからとされている。



 ⭕️ シナイ半島方面。



 8日以降戦況は膠着し、大規模戦闘はなかった。



 しかし、シリアから自国の苦戦を救うためシナイ半島に対する攻勢が、エジプトに要請された。


 このためエジプト軍は全面攻勢を開始した。



 10月14日。



 イスラエル軍との間に、大規模な戦車戦が発生した。



 ミサイルの傘を出た、エジプト軍だが。



 待ち伏せするイスラエル地上軍だけでなく、空軍からも苛烈な反撃を受けた。


 それにより、エジプト軍が約200輌の戦車を喪失、攻撃は失敗した。



 この戦闘勝利によって、イスラエル軍はシナイ半島でも戦闘・主導権を取り戻した。


 そして、スエズ運河の逆渡河作戦を進めることとなった。



 15日、イスラエル軍の逆渡河作戦、ガゼル作戦=Operation Gazelleが開始された。



 イスラエル軍は、渡河点近郊の農業試験場、通称、中国農場などでだが。


 エジプト軍の強固な抵抗にあった。


 しかし、16日未明には空挺旅団と戦車旅団が逆渡河に成功。


 17日には、第162師団主力が渡河。


 対空ミサイル基地を掃討しながら、アフリカへの進撃を開始した。




 ⭐️ チャイニーズ・ファーム。



   日本が、アラブで農業支援用に設立した、農場。


   しかし、漢字が分からないイスラエル軍は、中国による農場だと勘違いした。



   そのため、チャイニーズ・ファームと呼ばれた。



 ⭕️ その他。



 イスラエル・アラブ両陣営は、激戦により、戦車・航空機・弾薬を急激に消耗。


 それぞれ、陣営が有する兵器のおもなクライアントであった、アメリカとソ連にとってだが。



 自国製兵器で編成された軍隊が敗北することだが。



 これは、中東プレゼンスの弱体化にもつながる。


 さらに、中東域外における兵器の販売にも悪影響を与える一大事となるためだが。



 ソ連は、9日からエジプトとシリアの両国に。

 アメリカは、14日からイスラエルに。


 それぞれ、大規模な軍需物資輸送作戦を開始。



 最終的にだが。



 アメリカが作戦機800機、戦車600輌を含む約2、2ーー2、8万トン。


 ソ連が、作戦機200機、戦車1000輌を含む約1、5ーー6、4万トンの軍需物資を供給。



 これら物資が損害を完全に埋め合わせることはなかったが。



 イスラエルとアラブの両陣営にとって、超大国が支援している。


 ~~と言う事の心理的・政治的効果は大きかった。



 エジプト、およびシリア以外のアラブ諸国も戦争に協力した。


 

 イラクとヨルダンは、それぞれ各個独立旅団、2個機甲師団をゴラン高原に派遣した。


 また、モロッコとサウジアラビア、スーダンの部隊が、ゴラン高原に展開した。


 シナイ半島では、アルジェリアとリビア、モロッコ、PLO、クウェート、チュニジア。


 ~~等々の部隊が戦闘に参加。



 パキスタン軍&レバノンの対空レーダー部隊がシリアに派兵された。


 さらに、ソ連の後援を受けるキューバ軍戦車&ヘリコプター部隊なども、シリアに送られた。


 北朝鮮軍パイロットは、エジプト空軍基地の防空任務に就いていた。



 戦況が、イスラエル優位に傾きつつあった、10月16日。



 アラブ石油輸出国機構=OAPECは、イスラエル支援国。


 =アメリカとオランダに対する石油輸出禁止、アラブ非友好国への段階的石油供給削減を決定した。



 また、同時期、オイルメジャー代表と原油価格交渉を行っていたOPECのペルシャ湾岸産油国。


 非アラブ国でペルシャのイランを含む~~は原油公示価格大幅引き上げを決定。



 長期にわたる先進諸国の高度成長による石油需給の引き締まりを背景にだが。


 徐々に、上昇していた原油価格は、これを契機に一機に高騰した。



 その後、OPECは加盟国の原油価格=公式販売価格を総会で決定する方式を定着させた。


 こうして、OPECは国家間カルテルに転じた。



 高騰した原油価格は、石油禁輸や供給削減という政策が停止した後もだが。


 高止まりし、世界経済にも深刻な影響を与えることとなった=オイルショック。



 それまで、欧米のオイルメジャーが独占的に原油価格を操作してきた実情をみればだが。


 自国の資源を、自国管理したいという資源ナショナリズムの高まりがもたらした結末である。


 また、この事件をきっかけにして、原油価格と原油生産・管理権はメジャーからOPECへ移った。


 すでに、1960年代後半から欧米で顕在化していた、スタグフレーションだが。


 これは、石油危機によって、先進国全体に一挙に拡大、深化することとなった。



 停戦、1973年10月18日ーー10月25日。



 ⭕️ ゴラン高原方面。



 ダマスカス平原周辺では、戦闘は小競り合い程度にとどまっていたが。


 21日夜、停戦決議を前にして、イスラエル軍によるヘルモン山の奪回作戦が再び行われた。



 シリア側山頂は容易に占領できたが。


 イスラエル側山頂では、シリア空挺部隊の反撃が苛烈で、イスラエル軍は多数死傷者を出した。


 しかし、22日の午前11時には、山頂・観測所周辺が奪回された。



 23日、ダマスカス平原において、シリア軍とイラク軍、ヨルダン軍による攻勢が予定されていた。


 しかし、シリアが停戦決議を受諾したために攻勢は中止され、戦闘は終結することとなった。



 ⭕️ シナイ半島方面。



 第162師団に続き、スエズ運河を渡河した第143、第252師団の計3個師団だが。


 これら師団は、運河東岸のエジプト第2軍・第3軍を包囲しようと。


 イスマイリア・スエズ市に向けて進撃した。



 第143師団は、イスマイリア郊外で進軍を停止。

 第162師団は、運河西岸を確保。

 第252師団は、カイロ―スエズ街道を封鎖した。


 こうして、エジプト第3軍を包囲、停戦交渉の人質とした。



 第三次中東戦争同様エジプトが再び決定的敗北を喫することを危惧した、アメリカ・ソ連など。


 両国を、はじめとする国連安全保障理事会=以下安保理は停戦工作を推し進めた。


 10月22日、停戦を求めた国連安保理決議第338号が決議された。


 また、同日18時52分より発効した。



 しかしイスラエル軍は作戦行動を続け、24日には162師団がスエズ市攻略を強行したが。


 守備部隊の抵抗にあって失敗した。



 25日には、国連安保理決議340にしたがって、第二次国際連合緊急軍が編成された。


 これにより、国連部隊が停戦監視の任に着くようになった。



 ⭕️ 停戦交渉と米ソの対立。



 戦況が、イスラエル優位に傾き始め、アラブ側の敗北が現実味を帯びてきた上でだが。


 停戦決議後も、作戦行動を続けるイスラエルに対してだが。



 ソ連は、実戦部隊の展開準備を進めた。



 実際に空輸作戦に従事していた、輸送機だが。



 これを、空挺部隊の兵員輸送用に改装するため空輸作戦は停止され、黒海艦隊も増強された。



 これに対してだが。



 アメリカは、10月25日、デフコン4からデフコン3=防衛準備態勢に引き上げた。



 また、第6艦隊に空母部隊の増援。

 第82空挺師団の出動準備。

 核搭載Bー52爆撃機をグアムから本国基地への移動。



 ~~等々をもって対応した。



 これにより、一時は第三次世界大戦の勃発も騒がれた。



 だが、イスラエル軍の作戦行動中止と同時に事態は沈静化した。




 ◆ 戦争の影響。



 ⭕️ 政治的影響



 エジプトやシリアをはじめとするアラブ諸国は、またもやイスラエルに軍事的敗北を喫した。


 しかし、緒戦での勝利によってだが。


 サダトの思惑通り、イスラエルと対等な条件で交渉に乗り出すことができるようになった。



 特にら戦争前の1972年7月に約2万人ともされた、ソ連の軍事顧問団を追放してだが。


 対ソ関係を悪化させていた、エジプトにとっては、アメリカと関係修復するきっかけにもなった。



 エジプトは、1974月2月に、アメリカとの国交を正常化させて軍事的経済的援助を受けた。


 また、1976年3月には、ソ連との友好協力条約を破棄した。



 そして、翌4月にサダト大統領は中ソ対立を起こしていた中華人民共和国に接近した。


 彼は、ムバラク副大統領を中国に派遣してだが。


 毛沢東と会見させてらソ連製武器のスペアとなる中国製武器を購入した。



 さらに、同年9月だが。



 同じく親米のサウジアラビアやモロッコなどとともに結成した反ソ同盟サファリ・クラブ。


 この同盟本部をカイロに置き、第一次シャバ紛争やオガデン戦争においてだが。


 ザイールとソマリアを支援して、アフリカでソ連を牽制した。


 そして、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻を批判した。


 これにより、モスクワオリンピックをボイコットした。


 さらに、反政府武装勢力のムジャーヒディーンに対する支援も表明した。



 そして、エジプトとイスラエル間では、1978年に、キャンプ・デービッド合意が。


 続いて、1979年3月26日にエジプト・イスラエル平和条約が締結された。



 エジプトが、イスラエルを国家承認すること。


 それと、イスラエルがシナイ半島から撤退することが定められた。


 この条約によって、中東戦争は事実上終結することとなった。



 両国は、第二次兵力引き離し協定に調印し、シナイ半島の非軍事化を進める事となった。



 ただし、パレスチナ問題の解決については進展はなかった。


 またエジプトが、抜け駆けした事に周辺アラブ諸国は猛反発した。



 それ故、1978年にイラクのバグダードで行われた首脳会議でだが。


 アラブ連盟より参加資格停止にされて、1990年まで、エジプトは復帰できなかった。



 1978年アラブ連盟首脳会議を主催して、エジプトの追放に成功した、イラク。


 イラクは、エジプトに代わるアラブの盟主になることも目論んだ。


 これは、後にイラン・イラク戦争を引き起こす原因の1つになったともされる。



 サダト大統領自身も、1981年10月6日の本戦争記念パレード最中にだが。


 エジプト軍内の反対派によって、暗殺された。



 シリアとイスラエル間では、平和条約の締結こそなかったが。


 アメリカのキッシンジャー国務長官のシャトル外交と称された仲介工作によってだが。


 停戦協定が結ばれ、またゴラン高原のイスラエルとシリア間の国境には緩衝地帯が設けられた。


 これにより、国際連合兵力引き離し監視軍が停戦監視に当たるようになった。



 ⭕️ 社会的。



 初めて、アラブの侵攻を受け、緒戦で敗北を喫したイスラエル社会は激しく揺さぶられた。


 奇襲を予想しなかった国防の準備不足は国防大臣モーシェ・ダヤンの責任となった。


 また、世論はダヤンの辞職を要求し、最高裁長官は紛争中に彼を職務調査する事を指示した。


 委員会は、首席補佐官の辞職を推奨したが、ダヤンの判断を尊重した。



 翌1974年に、ダヤンはゴルダ・メイア首相に辞表を提出した。


 ゴルダ・メイア自身も辞任して、イツハク・ラビンに首相の座を譲った。



 合計、約19000人のエジプト人、シリア人、イラク人およびヨルダン人もこの紛争で死亡した。



 エジプトとシリア空軍は、その対空防御により、114機もイスラエル機を撃墜したが。



 その3倍以上、自軍・航空機442機を失った。



 その中には、数十機におよぶ自軍・対空ミサイルによる誤射で撃墜された物を含む。



なお、戦闘機パイロットとして出撃したサダト大統領の弟も緒戦で戦死している。この戦争で国民的英雄となった当時空軍司令官で、後のエジプト大統領ホスニー・ムバーラクがサダトから副大統領に抜擢された。




 ⭕️ 軍事的影響。



 本戦争は、冷戦期の戦争においてだが。



 双方・陣営がほぼ同レベルかつ、比較的最新鋭の兵器を投入した数少ない戦争であった。



 とくに、ソ連製兵器だが。



 AT3サガー=ソ連名9M14マリュートカ対戦車ミサイル。

 SASAー6ゲインフル=ソ連名2K12クープ自走対空ミサイル。



 ~~等々の活躍が有名である。



 エジプト軍は、これら兵器を他の対戦車火器や対空兵器と組み合わせることでだが。


 濃密な防衛網を構築した。



 これにより、緒戦で反撃に向かった、イスラエルの戦車部隊や航空機に多大な損害を与えた。



 一方、戦車業界にとっては、現代版クレシーの戦いとも称された。


 対戦車ミサイルで、戦車が次々と撃破された事は衝撃的であり、一時は戦車不要論も唱えられた。



 本戦争以降開発された、第3世代主力戦車など。



 対戦車火器の火力にも十分耐えうる複合装甲を導入したが。


 装甲の弱い上部を狙って、トップアタックを行うミサイルも登場するなど。


 現在も、イタチごっこが続いている。



 また、戦車部隊と歩兵部隊の協同作戦の重要さも再確認された。


 戦後、各国で戦車部隊の行軍に追随できる、歩兵戦闘車や装甲兵員輸送車など。


 こう言った兵器の開発配備が推し進められた。



 ⭕️ 日本への影響。



 戦争中に行われた、アラブ石油輸出国機構の親イスラエル国に対する石油禁輸措置。


 それに伴う石油輸出国機構=OPECの石油価格引き上げだが。



 これは、第1次オイルショック=第1次石油危機を引き起こした。


 また、石油禁輸措置の直接対象となったアメリカやオランダだけに影響は止まらなかった。


 こうして、日本をはじめとする先進工業国における石油価格の高騰を招いた。



 日本は、イスラエルとアラブ諸国のどちらにも与しない中立的な外交を取っていたが。


 アメリカと同盟を結んでいたため、イスラエル支援国家とみなされる可能性が高いためだが。


 三木武夫副総理を中東諸国に派遣して、支援国家リストから外すように交渉する一方でだが。


 国民生活安定緊急措置法や石油需給適正化法を制定して、事態の深刻化に対応した。



 しかし、相次いだ便乗値上げなどによりインフレーションが加速された上にだが。


 整備新幹線の着工延期などの公共工事に対する投資抑制や民間企業の投資抑制も行われた。


 これにより、高度経済成長が終焉することになった。



 またトイレットペーパー騒動や洗剤騒動などが、全国で巻き起こった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ