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第三次中東戦争

 ⭕️ 第三次中東戦争



 第三次中東戦争は、1967年の6月5日から6月10日にかけて勃発した戦争である。



 イスラエルVSエジプト、シリア、ヨルダン、イラク。


 ~~等々といった、アラブ諸国間による戦争であり、中東戦争の一つとされる。



 国際連合の決議によって停戦するも、イスラエルだが。



 東エルサレムを含む、ヨルダン川西岸地区やガザ地区といったパレスチナ全土。


 エジプト領のシナイ半島、シリア領ゴラン高原をも占領した。



 ⭕️ 概要。



 史上3度目の中東戦争である。



 1956年の第二次中東戦争以降対イスラエル・アラブ情勢は、比較的安定していたが。



 1966年。


 ヤーセル・アラファートが指導するファタハが、ヨルダンとの国境に地雷を仕掛けた。


 これにより、イスラエル軍兵士が殺害されたことを受けて起きたサム事件からだが。


 次第に、緊張が高まりつつあった。



 1967年5月には、エジプトがシナイ半島に地上部隊を進出させる。


 さらに、エジプトの要求により第一次国際連合緊急軍が撤退。


 チラン海峡も閉鎖するなど、イスラエルの抹殺、すなわち戦争の動きを見せるようになった。


 これに、イスラエルも動員令を発令、国防相にモシェ・ダヤンを就任させるなど、戦備を整えた。



 こうした中、1967年6月5日朝、イスラエル空軍がアラブ各国の空軍基地に奇襲攻撃を行った。


 そして、アラブ各国の空軍に壊滅的被害を与えた上で攻撃を開始した



 アラブ側は、イスラエル軍の前にほとんど抵抗できずに敗走を重ねた。



 結果、6日間で戦闘は終結。



 イスラエルはエジプトからシナイ半島、ガザ地区。

 ヨルダンから東エルサレムを含むヨルダン川西岸。

 シリアからゴラン高原。



 ~~等々を占領した。



 この戦争で、イスラエルは、ほぼ一方的な勝利を収めたが。


 これにより、アラブ側の戦争能力を軽視することとなった。


 1973年、第四次中東戦争の緒戦で、アラブ側に敗北を喫することになったといわれている。



 戦争前に比べて国際的信用も低下した。


 また、かつての支援国イギリス・フランスからは兵器を共同開発する事や輸出を断られている。



 さらに、ヨルダン川西岸から周辺国=主にヨルダンへ亡命した人々も多かった。


 結果として、パレスチナ難民は増加した。



 この戦争を受けてだが。


 国際連合安全保障理事会が決議した、国際連合安全保障理事会決議242であるが。


 中東問題の平和的解決をめざした基本的条文であるといわれる。



 2015年現在も、イスラエルはガザ地区、ヨルダン川西岸、ゴラン高原を占領している。


 そして、自国領であると主張しているが、国際的には受け入れられていない。



 なお、本戦争は6日間で終結したことから、世界一短い戦争と呼ばれることがあるが。


 実際の世界最短・戦争は1896年に起きた、イギリス・ザンジバル戦争=約40分間である。



 ◆ 名称



 本戦争の名称についてだが。



 イスラエルでは、六日戦争、六日間~~とも。


 ヘブライ語:מלחמת ששת הימים、Milhemet Sheshet ha Yamim、Six Day War~~とも呼ぶ。



 アラブ側では、大敗北。


 アラビア語:النكسة、an-Naksah、あるいは、1967年戦争。


 アラビア語: حرب


حرب 1967、Ḥarb alfu wa sitti miya wa sab`ata sittiin)と呼んでいる。



欧米では「六日戦争」が一般的に用いられているが、「1967年アラブ・イスラエル戦争(1967 Arab-Israeli War)」、「第三次中東戦争(Third Arab–Israeli War)」とも呼ばれ、日本では後者が一般的に用いられている



 ⭕️ 背景。



 第一次中東戦争、1948年ーー1949年によってだが。


 パレスチナの大部分は、イスラエルが獲得していたが。



 ユダヤ教、キリスト教、イスラームの聖地とみなされているエルサレム。


 その旧市街を含めた、東エルサレムはアラブ側のヨルダンが支配していたためだが。



 エルサレム旧市街における嘆きの壁においてだが。


 ユダヤ教の祈りを捧げることが不可能となり、正統派ユダヤ教徒を中心に不満が高まっていた。



 一方、アラブ側だが。



 1964年に、ヨルダンの首都アンマンを本部としたパレスチナ解放機構=PLOが結成された。


 それから、イスラエルに対するゲリラ闘争を行っていた。



 1966年2月、シリアでクーデターが発生し、PLO支持のアターシー政権が樹立すると。


 国内の混乱も収まらないうちに、ゴラン高原からイスラエル領内へ砲撃を加え始めた。


 イスラエルは、住民保護を理由として、7月に空軍を派遣してシリア軍と交戦した。


 シリア空軍機を撃墜して砲撃陣地を破壊、さらに示威行為として、首都ダマスカス上空を飛び回った



 当時、アラブ側にはソビエト連邦から兵器を購入していた関係でだが。


 ソ連国家保安委員会《KGB》の要員も入っていた。



 また、ソビエト連邦は、中東でアメリカ合衆国に対して有利な立場を得ようと。


 中東で戦争を起こそうと画策していた。



 そこで、イスラエルとシリアが即時に開戦する意思も態勢もなかった。


 それにもかかわらず、KGBはエジプト政府に両国が開戦するとの情報を知らせた。



 また、シリア政府に対しては、イスラエルがシリアへ侵攻する準備を開始したと報告した。


 このため両国は開戦に備えて国境沿いを軍で固めた。


 ヨルダンも、1967年5月に、エジプトと共同防衛条約を結び、イスラエルの侵攻に備えた



 一方、イスラエルは諜報特務庁モサドによる諜報活動によってだが。


 アラブ側の情勢は絶えず知らされていた。



 イスラエルは、KGBの行動とアラブ三国の緊張を根拠としてだが。


 アメリカ合衆国に仲裁を求めたが。



 中央情報局《CIA》は、アラブ諸国の侵攻はないと判断していた。


 また、当時の米国はベトナム戦争を戦っていたため、中東でイスラエルを支援する余裕がなかった。


 そのため、イスラエル政府に応じなかった。



 1967年5月16日。



 エジプトが、シナイ半島での停戦監視を受託していた国連緊急軍《UNEF》を撤退させるなど。


 情勢は一気に緊迫化した。



 当時、周辺国すべてが国交のない敵国であったためだが。


 国家消滅の危機感を抱いていたイスラエルは、アラブ諸国に侵攻される前に先制攻撃を決意した。


 こうして、開戦の準備を行った。



 KGBは、この情報を入手したが、アラブ側には伝達しなかった。



 ⭕️ 開戦~~わずか6日で停戦。



 1967年6月5日。


 イスラエル空軍機は超低空飛行で、エジプト・シリア・ヨルダン・イラク領空を侵犯した。


 こうして、各国の空軍基地を奇襲攻撃するフォーカス作戦を実施し、第三次中東戦争が勃発した。


 当時イスラエル空軍は、約200機の作戦用ジェット機を運用していたが。


 12機を除いて、全てをフォーカス作戦に投入した。


 僅かな損害を受けただけで、計410機にも上る、アラブ諸国の航空機を破壊する事に成功した。



 このフォーカス作戦によって、制空権奪取に成功した、イスラエルは地上軍を侵攻させた。



 結果だが。


 短期間のうちに、ヨルダン領ヨルダン川西岸地区、エジプト領ガザ地区とシナイ半島。


 シナイ半島占領、シリア領ゴラン高原を占領した。


 機甲総監のイスラエル・タルは、シナイ方面の3個機甲師団長の一人としてだが。


 地中海沿岸のルートを進撃し、エジプト軍に対する圧倒的勝利をおさめた。



 ヨルダンとエジプトは6月8日に停戦、シリアも6月10日に停戦した。


 延べ、6日間の電撃作戦で、イスラエル占領地域は、戦前よりも4倍以上までに拡大した。



 ⭕️ 消耗戦争。



 第三次中東戦争は、一応の停戦には至った。


 だが、アラブ諸国も領土を喪失したままでいられるはずも無く、すぐに紛争が勃発した。



 ヨルダンは、聖地東エルサレムを奪われ、国家の威信が揺らいだ。


 そこで、停戦から半年後に、PLOを支援して、ヨルダン川西岸を攻撃した。


 だが、失地回復には至らなかった。



 また、エジプトはスエズ運河を挟んで、イスラエルと対峙したが。


 1968年からエジプト軍が散発的な砲撃を加えるようになった。


 これにより、いわゆる消耗戦争と呼ばれる砲撃の報復合戦となった。


 この砲撃戦によって、スエズ運河は実質的に通航不可能になった。



 消耗戦争は、断続的に2年間続いたが。



 1970年6月。


 イスラエル軍が、スエズ運河を越えて、エジプト軍を攻撃し、砲撃陣地を破壊して占領した。



 1ヶ月以上の占領の末、8月に両国は停戦した



 ⭕️ 停戦後。



 この1970年は、アラブの転換点となる重要な年となった。



 PFLP旅客機同時ハイジャック事件をきっかけにだが。


 9月には、ヨルダンがPLO攻撃するヨルダン内戦が発生。


 ヨルダンは非難されて孤立し、PLOはレバノンに逃れ、後のレバノン内戦の引き金となる。



 内戦直後、エジプト革命の立役者ナセルが死去、サダトが大統領となった。



 彼はイスラエルとの講和を目指す一方でだが。


 シナイ回復などの有利な条件で講和を果たすために、再度イスラエルに対する軍事行動を画策。


 空軍司令ムバーラク主導の空軍再建や、イスラエル自慢の機甲部隊を打ち破るためにと。


 ソ連からの対戦車ミサイルを中心とする対戦車戦術・導入などを推し進めた。



 一方、圧倒的勝利を収めた、イスラエル側ではアラブに対する油断が生じた。


 また、モサドによる動向情報への反応も鈍くなっていた。



 さらに、奇襲による国際社会の信用低下に加え、中東でパワーバランスが崩れる事を危惧した二国。


 イギリス・フランスは、アラブ寄りの政策に転換した。


 これにより、両国はイスラエルへの武器輸出停止などの措置を取った。



 こうした、情勢の変化が、続く第四次中東戦争緒戦における大損害へと繋がる事となる。



 ⭕️ 国際社会の対応。



 アメリカを始め、欧米諸国はイスラエル支持、ソビエト連邦はアラブ支持の立場を取った。


 米ソは協議を行い、イスラエル軍の撤退と、アラブ側にイスラエルを承認させる妥協案をまとめた



 しかし、国際連合総会への提出を前に、アラブ側が妥協案を不服としたため決議は行われなかった。


 こうした、諸外国の対応の遅れもあり、イスラエルは占領の既成事実化を進めていった。



 しかし、消耗戦争による戦争の再燃で、再度米ソに加えイギリスが調停に加わった。


 これにより、イスラエル寄りの米国案に、アラブ寄りであるインド案を加味した形で協議を行った。



 その結果11月22日。



 国際連合安全保障理事会は、イスラエルの占領を無効とする安保理決議242を全会一致で可決した。



 中華民国。

 フランス。

 イギリス。

 アメリカ。

 ソビエト連邦。

 アルゼンチン。

 ブラジル。

 ブルガリア。

 カナダ。

 デンマーク。

 エチオピア。

 インド。

 日本。

 マリ。

 ナイジェリア。



 ~~等々で、可決した。



 決議では、同時に国際水路の自由通行権の保障、パレスチナ難民問題の公正な解決。


 ならびに、イスラエルを含む全ての当事国・生存権・承認を確認した。



 決議は、イスラエルの占領を無効とする一方でたが。


 撤退期限は定められず、経済制裁など、具体的なイスラエルへの対抗措置も行われなかった。



 また、英語文では"Withdrawal of Israel armed forces from territories occupied in the recent conflict;"


 最近の戦闘での占領地域からのイスラエルの撤退。



 フランス語文では。



 "Retrait des forces armées israeliennesdesterritoires occupés lors du récent conflit; "


 最近の戦闘でのすべての/それらの占領地域からのイスラエルの撤退。


 ~~等々と、言語によって解釈が変わる内容になっていた。


 定冠詞"les"。


 英語ならば"the"。


 ~~等を付けることで、第三次中東戦争での占領地すべてを特定する意味となるが。


 英文では意図的にtheを省くことでだが。


 イスラエルによる占領の、少なくとも一部は認められる余地がある解釈を可能にした。


 これは、野口雅昭によると。



 イギリス大使、ヒュー・フット・キャラドン卿だが。


 彼が、意図的にあいまいにすることで決議案の採択を可能にしたと言う。



 ただし、武力行使。


 英文"acts of force"。

 仏文" d'actes de force"



 ~~と言う否定は共通しており、武力による領土の獲得を否定する前提があった。



 一方、イスラエルの独立が確認されており、イスラエルにとって有利な内容と言えた。



 その結果、イスラエルは英文・解釈を根拠に、また、占領地であること自体を否認した。


 こうして、全ての係争地を返還する必要はない~~として占領地を支配する事を続けた。



 また、アラブ側当事国=エジプト・ヨルダン・シリア等も、イスラエルの承認を拒んだ。


 1970年、アメリカの要請に従いエジプトが応じるとヨルダンも従った。


 だが、シリアは拒否を続けた。



 しかし、本決議は現在でも有効である。



 1973年。



 第四次中東戦争時の安保理決議338ではだが。


 安保理決議242に、基づく停戦が確認され、シリアも受け入れた。



 1980年には安保理決議465で、重ねてイスラエルによる占領の無効を決議した。



 従って、第三次中東戦争以降のイスラエル占領地だが。


 これらは、原則としてイスラエルの支配は公認されていない。



 パレスチナ解放機構=PLOもまた、当初はイスラエルの承認を拒否していた。


 そして、全パレスチナの解放を主張した。



 第四次中東戦争後の1979年、イスラエルはエジプトと単独講和を結んだためだが。


 エジプトから占領した、シナイ半島については返還したが、残りの占領地は実効支配を続けた。



 1988年、PLOのアラファト議長だが。



 彼は、安保理決議242の受入によるパレスチナ・イスラエルの2国家共存に方向転換した。


 そして、11月15日にパレスチナの独立宣言を行った。



 1993年のオスロ合意でだが。


 イスラエル占領地=東エルサレム及びシリアから占領したゴラン高原を除く。


 ~~を、パレスチナ自治区として認めることになったが。



 イスラエルは、パレスチナ自治区の各地で、ユダヤ人入植地を築いて、支配の永続化を図っている。


 こうして、対立は未だに続いている。



 ⭐️ パレスチナ・イスラエル問題。



 ⭕️ イスラエル軍捕虜処刑事件。



 第三次中東戦争中、イスラエル国防軍によってだが。


 エジプト兵捕虜やパレスチナ人義勇兵が処刑されたとされている。



 実際、戦争に参加した退役軍人が、49人のエジプト兵捕虜・違法処刑を認めたとされる。


 また、当時従軍していた兵士も投降したエジプト兵がイスラエル兵に射殺されているのを目撃。


 また、イスラエル人記者も、5人のエジプト兵が穴を掘ることを強制された上だが。


 その場で殺害され、埋められたさまを見たと語っている。



 これらの話がイスラエル・メディアを騒せ、ドキュメンタリー番組も制作されている。



 2007年3月5日。



 エジプト外務省が。



「第三次中東戦争中に当時、イスラエル軍を指揮していたベンエリエゼル国土基盤相がエジプト兵捕虜250人を処刑した」


 ~~と非難した。



 非難・根拠は、イスラエルのテレビ局が放送した番組だが。



 番組制作者のRan Ederlist氏が。



「内容はエジプト兵の処刑ではなく、エジプト軍傘下、パレスチナ人部隊だイスラエル兵に殺害された事件のドキュメンタリー番組であり、番組内容が歪曲されている」


 ~~と否定する声明を出している。

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