第二次中東戦争
第二次中東戦争は、1956年10月から同年11月6日にかけて勃発した中東戦争である。
スエズ戦争やシナイ作戦などとも呼ばれる。
この戦争は、エジプトによるスエズ運河の国有化宣言に対抗してだが。
イギリス・フランス・イスラエルの三国が密約を結んで、エジプトに侵攻したことで開戦。
以降、英仏側は運河地帯とシナイ半島を占領したが。
この行動は国際社会によって非難され、国際連合だが。
アメリカとソ連を支持を得た上で、即時停戦と撤兵を決議し、第一次国際連合緊急軍を展開した。
エジプト側の抵抗もあり、英仏軍は1956年11月までに。
イスラエル軍は、翌1957年の3月までに撤兵することを強いられた。
この戦争による結果、エジプトはスエズ運河・国有化を確定させた。
◆ 背景。
⭕️ スエズ運河。
スエズ運河は、フランスおよび、エジプト政府による資金援助で、1869年に開通した。
しかし、運河建設費負担の為に、エジプトは財政破綻した。
これにより、エジプト政府保有株はイギリスに譲渡された。
エジプトは、イギリスの財政管理下におかれ、後に保護国となった。
運河は、イギリスにとって、インド、北アフリカおよび中東全体への戦略上重要な地点であった。
その重要性は、二回も起きた、世界大戦によって証明された。
第一次世界大戦時、運河は英仏によって、同盟国側の船舶通航が禁止された。
第二次世界大戦時は、北アフリカ戦役において粘り強く防衛された。
こうして、連合国軍のレンドリースを含めた物資輸送や兵力輸送に利用され、戦局に貢献を与えた。
⭕️ エジプト革命。
1952年に、軍事クーデターで政権を掌握した自由将校団だが。
彼等は、ムハンマド・ナギーブ将軍を大統領に擁立すると。
翌年に、国王フアード2世を退位させ、共和制へと移行させた。
また、スエズ運河地帯に駐留していた、イギリス軍を撤退させる協定を結ばせる一方でだが。
冷戦構造において、米ソ二大国のどちらにも関わらない非同盟主義に立つなど。
アラブ世界の糾合に努めた。
しかし、アメリカがイスラエルに対する配慮からエジプトへの武器供与に消極的だった。
こともあり、1955年9月27日に東側諸国のチェコスロバキアと兵器協定を締結した。
そして、新式の兵器を購入すると。
中東における、軍備供給・独占を崩された西側諸国と代理戦争の様相を呈した。
フランスは対抗措置として、最新の戦闘機をイスラエルに売却した。
また、アメリカやイギリスなどからだが。
エジプトは、アスワン・ハイ・ダム建設資金・世界銀行の融資を撤回されると言う報復を受けた。
こうした中、1956年に大統領に就任した、ガマール・アブドゥル=ナセル。
彼は、7月26日に、スエズ運河の国有化を行なった。
⭐️ エジプト=チェコスロバキア武器取引。
⭕️ 戦争計画
このナセルによる、やり方に憤慨した、イギリス首相アンソニー・イーデンだが。
彼は、運河の国際管理を回復するために数ヶ月間に渡り、エジプトと交渉を続けたが。
結実は成せず、フランスと協力して、エジプトへの軍事行動を構想し始めた。
また、フランスは当時アルジェリア戦争においてだが。
エジプトが、アルジェリア民族解放戦線に対する各種援助を提供する実質上の庇護者である。
そう誤解し、ナセル政権を打倒する事こそが、アルジェリアにおける紛争終結に結びつくと考えた。
7月から8月にかけて、パリとロンドンを訪問したイスラエルのシモン・ペレス国防相だが。
彼は、イギリスとフランスがエジプトへの軍事行動を本格的に考えていることを知った。
また、9月半ばに再びパリへ赴き、戦争に備えるための武器調達に奔走した。
フランスは、イスラエルへの武器提供を積極的に支援した。
これで、ペレスはフランスによる、イスラエル支持の姿勢を確かめることになった。
英仏両国政府は、エジプトに侵攻して、スエズ運河地帯の確保を画策したが。
第二次世界大戦以後、かつてのような侵略目的の戦争は非難を浴びる社会となっていた。
この事からだが。
英仏が目をつけたのが、第一次中東戦争で、エジプトと敵対していた、イスラエルであった。
エジプト革命の際に、イスラエルはエジプトを攻撃しており、これに激怒したナセルだが。
彼は、イスラエルによる、インド洋への出口であるアカバ湾と紅海をつなぐチラン海峡であるが。
ここを軍艦をもって封鎖していた。
これによって、イスラエルは経済に打撃を受けていた。
スエズ運河の利権を確保するために軍事行動の口実を探していた英仏。
チラン海峡における自国船舶の自由航行権を確実なものとするためだが。
エジプト軍をシナイ半島から追い払いたい、イスラエル。
この三国は利害が一致した。
ナセル政権打倒で一致していた、三国による共同軍事行動をまとめたのは、フランスであった。
10月フランスは、自国軍用機を派遣して、イスラエル側の代表をフランスまで招いた。
三国代表は、10月22日ーー24日にかけて、パリ郊外のセーブルで秘密会談を行った。
イギリスからは外相ロイド。
フランスから首相モレ、外相ピケ。
イスラエルから首相ベングリオン、外相ペレス、軍参謀総長ダヤン。
~~等々が参加した。
三国共同軍事作戦は、以下のように遂行されることに決定された。
英仏・海軍艦隊が、地中海のエジプト沿岸で待機しイスラエルによる侵攻を待つ。
10月29日19時=イスラエル時間。
イスラエルが、シナイ半島へ侵攻したところで、英仏政府が兵力引き離しのためにと。
イスラエル・エジプト両国に、軍をシナイ半島から撤退するように通告する。
侵攻された、エジプトは通告を拒否するので、通告から12時間経過した時点でだが。
スエズ運河の安全航行確保を名目に、英仏軍が介入し、エジプト軍をスエズ運河以西へ駆逐する。
スエズ運河地帯を兵力引き離しのために緩衝地帯へ設定してだが。
平和維持を名目に、英仏軍が運河地帯に駐留し、イスラエルはシナイ半島を占領する。
イスラエルはこのため、フランスより多くの軍事援助を受け取っている。
AMXー13戦車250両を獲得した。
このほか、援助に75ミリ対戦車砲を搭載した、M50スーパーシャーマン50両も整備された
◆ 戦争の推移。
⭕️ イスラエルの侵攻。
1956年10月29日午後5時=当初の予定より2時間繰上だが。
イスラエル国防軍ラファエル・エイタン中佐指揮の落下傘部隊395人が国境を越えた。
こうして、シナイ半島スエズ運河から72キロメートル地点のミトラ峠に降下し、侵攻を開始した。
イスラエル陸軍は、10個旅団の兵力で、3箇所からシナイ半島に侵攻した。
アリエル・シャロン大佐の落下傘部隊・第202空挺旅団だが。
同旅団も、イスラエル国境から砂漠を横断する補給路の確保するため陸路シナイに入っている。
エジプト軍は、シナイ半島東部やガザ地区に、歩兵2個師団・機甲1個旅団などを配置していた。
だが、各所で撃破されている。
第一次中東戦争のときとは違い、英仏の兵器で重武装した、イスラエル軍に対してだが。
エジプト軍は防戦一方となり、撤退を繰り返した。
10月30日午後。
ロンドンで、イギリス政府により、スエズ運河からだが。
少なくとも10マイル=16キロメートル内陸に入った地点まで兵力を撤収する。
~~と言う最終通告が、イスラエル&エジプト両国代表に手渡された。
この時点で、エジプトは運河を完全に占拠していた。
また、イスラエル軍はそこから約50キロメートルの地点にいた。
それ故、通告は事実上エジプトに対する運河からの撤去命令であった。
これは、英仏の目論見であった。
ナセルは苦しい立場におかれたが、結局通告を拒否して徹底抗戦の意思を表した。
こうして、エジプト軍は、スエズ運河を物理的に通航不能にさせる実力行使に出た。
すなわち、艦船を運河に沈めて、バリケードを築いたのである。
10月31日の早朝。
エジプト海軍のフリゲート艦イブラヒム・アル・アウワル=旧英海軍ハント級駆逐艦。
この駆逐艦から砲撃が、ハイファに向けて行われたが。
フランス海軍の駆逐艦クレセントの迎撃。
イスラエル軍兵器。
ウーラガン戦闘機2機。
駆逐艦エイラート。
駆逐艦ヤッフォ。
~~等々の攻撃により、イブラヒム・アル・アウワルは被弾、発電機等が破壊された。
そのため、イブラヒム・アル・アウワルは降伏し、ハイファ港に曳航された。
同日には、英仏軍によるエジプト領内への爆撃も開始されている。
通告の回答を保留した、イスラエル軍は単独で、エジプト軍と地上戦を続けた。
シャロンは、エジプト側の防御の硬いミトラ峠を攻略しないよう参謀総長モーシェ・ダヤンに命じられていたが。
偵察隊と称して、モルデハイ・グル少佐の指揮する部隊。
一個大隊相当、更に一個大隊を増援を送り込んだ。
この部隊は、エジプト軍による待ち伏せに遭うことになった。
38人の死者を出したが峠は攻略され、エジプト側の死者は200人を超えた。
この作戦に関して、ダヤンとシャロンは激しく批判され、2人の確執を生むこととなった
11月2日までに、イスラエルは途中ソ連製戦車Tー34など。
戦利品を獲得しながらスエズ運河の東15キロメートル地点までたどり着いた。
同じく、11月2日に10000人以上のエジプト軍人が駐屯するガザ地区にも攻撃を加えた。
同日中に国連の調停により、ガザ地区のエジプト軍政官が降伏した。
11月1日からだが。
空母イーグル=英海軍オーディシャス級。
アルビオン、ブルワーク=2隻とも英海軍セントー級。
アローマンシュ=仏に売却された旧英海軍コロッサス級。
ラファイエット=旧米海軍インディペンデンス級。
戦艦ジャン・バール=仏海軍リシュリュー級。
~~等々からなる、英仏機動部隊が、エジプト領内への空襲を開始し制空権を確保した。
英仏軍は、11月5日、シナイ半島への侵攻を命じた。
さらに、イギリス軍は落下傘部隊を以て、スエズ運河西岸ポートサイドのエジプト軍を急襲した。
6日からは、戦艦や巡洋艦から艦砲射撃による援護のもと、上陸作戦を開始した
⭕️ 停戦と撤退。
三国による侵略は、国際社会から強い非難を浴びた。
アメリカは、植民地主義的侵略に同意しなかった。
7月末の危機発生以降、終始軍事行動に同意を表明せず、外交的解決を図った。
侵略を行った三国には、経済的圧力をかけ、また国連での即時停戦に関する決議を主導した。
10月31日。
国連でだが。
拒否権行使が無効である手続事項に関する国際連合安全保障理事会決議119が採択された。
国連決議ににより、平和のため結集決議に基づく特別緊急総会が招集された。
この総会では、英・仏・イスラエルに対してだが。
即時停戦撤退を求める総会決議997が、11月2日に採択された。
この国連総会決議を無視する形で、イスラエル軍はシナイ半島で攻撃を継続した。
また、11月5日英仏軍はポートサイド等に、パラシュート部隊を投下した。
翌6日には、英仏軍はポートサイドに上陸した。
ソ連は、エジプト支援よりも、ハンガリー民主化への弾圧を優先させた。
11月4日から、ソ連軍はブダペストでの民主運動鎮圧を開始した。
これは、アメリカを始め西側諸国から厳しい批判を受けた。
鎮圧後11月5日に、英仏イスラエルに対して、核兵器による威嚇を発した。
アメリカ・国連・ソ連により圧力を受け、エジプト、イスラエルが停戦に応じた。
こうして、上陸当日の11月6日に英仏は停戦受諾に追い込まれた。
11月7日午前2時=カイロ時間に停戦が発効した。
イスラエル軍の撤退後、休戦ラインのエジプト側だが。
ここには、PKOとして第一次国際連合緊急軍=UNEFが展開された。
これは、当時カナダのレスター・B・ピアソン外相による提案である。
また、ピアソンは翌年にノーベル平和賞を受賞した。
⭕️ 戦後。
結局英仏はスエズ運河を失った。
また、イギリスのアンソニー・イーデン首相は敗戦・責任をとらされる形で辞職した。
アメリカは、ナセルをこれ以上追い詰めて、ソ連が介入してくることを恐れたが。
しかし、英仏軍撤退の瞬間にアメリカが欧州に対して、圧倒的優位であることを世界に誇示できた。
イスラエルは率先して戦いを仕掛けたとして、国際社会、主にアメリカから非難された。
ジョン・フォスター・ダレス国務長官は経済制裁を示唆した。
イスラエルは上級特使として、ハイム・ヘルツォーグとゴルダ・メイアをアメリカに派遣した。
首相兼国防相のベン=グリオンは、右派政党による批判を抑えながら撤退を完了した。
11月24日侵略を行った三国に、即時無条件撤退を求める国連総会決議が採択された。
英仏は、これを受け入れ、12月21日無条件撤退を完了した。
イスラエルは、撤退と交換にチラン海峡・自由航行の確保等を目論み、無条件撤退に応じなかった。
このような、イスラエルによる非妥協的な姿勢は国際社会から激しく批判された。
国連やアメリカと厳しい交渉の末、チラン海峡・自由航行を事実上確保した、イスラエルが。
シナイ半島から撤退を完了したのは、1957年3月7日であった。
エジプトは国有化宣言を実行できた上に、イスラエルと英仏に対して正面から戦った。
そのことで、アラブから喝采を浴び、中東では発言力を確固たる物とした。
ナセルは、翌1957年1月に国内の英仏銀行・国有化を宣言。
エジプト国内に存在する欧州勢力を一掃して、4月にはスエズ運河の通航を再開した。
他方で、英仏は惨憺たる結果で終わった。
イギリスは戦費として、5億ポンド近く出費した。
だが、戦果は得られず、それどころかポンドが大幅に値下がりし続けた。
こうして、一時スターリング圏が崩壊寸前まで至った。
それが原因となりアメリカに対して経済的立場が弱くなり、以降は追従せざるを得なくなった。
フランスも、この戦争で得たものはなかったが。
米ソ以外の新しい勢力として、ド・ゴール主義を根幹とする新しい外交政策を創り出した。
⭕️ 輸送力の不足。
スエズ運河が封鎖を受けたことで、西側諸国の船舶には不足が生じた。
これを補うためアメリカの国防予備船隊からだが。
223隻の貨物船と、29隻のタンカーが現役復帰し民需輸送に従事した。




