実茂幽霊(三十と一夜の短篇第49回)
藤原実茂は幽霊となって、この世にカムバックした。
というのも彼の名を騙った馬鹿者が小説を書いているという情報が耳に入ったからだ。その馬鹿たれの本を探したが、本屋にはないし、国立図書館にもないところを見ると、騙り野郎はそもそもデビューしていないらしい。噴飯ものである。能登と備前で国司を務めたことのあるこのおれの名をデビューもしていないなんちゃって野郎が使うなど言語道断である。
幸いにも彼は会社から帰宅途中で最寄駅の改札から出たばかりのその詐称者、実茂譲を見つけることができた。
「おい、そこの偽物」
「え? おれのことですか?」
「お前以外にどこに実茂がいる」
「ああ、それはペンネームです」
「わけの分からん横文字でおれを煙に巻こうったって、そうはいかん。即刻、おれの名前を使うことをやめてもらおう。この偽物め」
「そんなこと言われても困りますよ。ところで、あなたのお名前をきいてませんでした」
「おれこそ、本物の実茂、能登守、備前守歴任者の藤原実茂さまだ」
「はあ」
「お前ごときが使っていい名前じゃないんだ」
「でも、別におれはあなたの名前からつけたんじゃないです。おれのじいさまと大叔父ふたりの名前がそれぞれ、譲、茂、実で、そこから実茂譲って名前にしたんです」
「お前のじいさんなど知ったことか! どうせ、百年かそこら前の人間だろうが。この俺さまは千年前の人間だぞ。後一条帝の御世の人間だぞ!」
「あの、帰っていいですか?」
「ダメだ。実茂の名前を金輪際使わないと誓詞を出せ」
「習字ダメなんですよ」
「なに!? お前、字が書けないのか? それでよく小説家になろうだなんて思えたもんだな、まったく」
「ホントですよね」
「じゃあ、誓詞の文章はおれが書いてやる。その様子だと花押も書けないんだろうから、お前はただ血判を押せばいい」
「痛いのは勘弁してもらえませんか?」
「字は書けない、痛いのはいやだ、それでよく小説家になろうだなんて思えたもんだな」
「同じことを二度言うのはそれが重要だからですか?」
「生意気を言うな! お前、官位は?」
「そんなもん、ありませんよ」
「なに! 官位がないだと! つまり、それは人間じゃないってことだ! ダニだ、ダニ! このおれはな、従五位下備前守だぞ。お前みたいな無位無官のものが気軽に話しかけていい名前ではないんだ!」
「あの、もうバスが出るんで、そろそろ勘弁してもらえませんか?」
「こら待て、このダニ野郎! まだ、話は終わっていないぞ」
実茂譲はバスに飛び込み、パスモで速攻バス代を払うと一番後ろの席へ逃げた。
もちろん藤原実茂もそれを追ったが、バスの運転手に止められた。
「お客さん、バス代を払ってもらってません」
「おれはあそこのダニに用事があるだけだ。この乗り物に乗るつもりはない」
「でも、バスに乗るなら乗車賃払ってもらわないと」
「お前、官位は?」
「は?」
「ふふん、お前も無位無官か。まあ、いかにもそんなツラをしている。ダニ面だ」
バスの運転手の鉄拳が藤原実茂の顔のど真ん中をとらえた。
五メートル後ろに吹っ飛ばされてから分かったのだが、運転手は座席を下げられるだけ下げて並外れた大きな体をなんとか運転席に押し込んでいたのだ。
「ダニ野郎! ゴミ! 無位無官!」
藤原実茂は大声で叫びながら、狩衣をばたつかせ、烏帽子を落としそうになりながら、なんとか逃げ切ったが、実際、運転手のほうはバスをそのままにはできなかったので、昇降口にちょっと足をかけただけで追跡は打ち切っていた。しかし、藤原実茂は自らの膂力の勝利だと思い、ぜいぜい息を荒くつきながら、そろそろあの世に戻ろうかと思ったときのことだった。
バス停のある側とは反対側にある商店街に直衣を着た幽霊を見つけたのだ。まだほんのガキがまるで公卿さまみたいに乙に澄ましているのが気に入らず、ちょいと脅かすことにした。
「おい、そこの」
「わたしですか?」
「そうだ。お前、名前はなんていう?」
「四辻実茂と申します」
「なんと、またもや剽窃野郎に出会ってしまった」
「剽窃?」
「お前の名前だ! お前はおれの名前である実茂をパクってるじゃないか!」
「そんなつもりはなかったのですが、お気を悪くされたのなら申し訳ない」
「申し訳ないどころじゃないぞ。お前、いつの時代の人間だ?」
「後小松帝にお仕えしました」
「きいたことのない帝だな」
「あなたは?」
「おれは後一条帝にお仕えした」
「じゃあ、あなたはわたしが生きていた時代よりも三百七十年ほど前の人ですね」
「つまり、おれが先に実茂を名乗ったわけだ。分かったか、この盗人野郎」
「でも、あなたにちなんでつけたわけじゃないんです」
「盗人はみんなそう言う。さっきのダニもそうだった。おい、お前、官位は?」
「そんなに大したものではないです」
「いいから言え!」
「従二位です」
「ふふん、やっぱりな! 無位無官のダニめ……って、え、従二位?」
「はい。官職は権中納言です。わたしの家は元は室町家と申しまして、藤原北家閑院流です」
「な、なに、なんだって?」
「後一条帝の御世の方はご存じないでしょうが、太政大臣西園寺公経の四男、薮内大納言と称せられた室町実藤からの分家でございます。ところで、あなたの官位をまだ伺っていませんでしたね」
太政大臣の四男で大納言ときいて、藤原実茂の顔がさーっと蒼くなった。言葉づかいも先ほどからの粗雑なものではなく、ひどく気弱でおっかなびっくりなものになっていた。
「あ、いえ、もう大丈夫です。そんな名乗るようなものではないんで」
「いえいえ、そうはいきません。あなたのお名前を勝手に使ってしまったこちらに責があるのでしょう。ぜひともお伺いしたい」
「その、備前守、です……」
「備前は上国ですから、従五位下ということですか。おや、では、あなたは公卿ではないのですね?」
それで十分だった。藤原実茂は恥ずかしさのあまり、火花を散らしてぐるぐるまわりながら消え失せてしまった。
その後、四辻実茂の幽霊はコロナで営業自粛中の居酒屋に自分が五百年以上前に死んでいるのをいいことに無理を言って入り込んで、麦焼酎をひと壜空けたという話だ。