海に行こう!
彼女の両手を握り、目を合わせる。
波の音が静かに耳へ届くのを感じながら、俺と彼女は同時に……その言葉を口にする。
夜の海が、夜空の月が、まるで世界に俺達しか居ないと思わせてくる。
本当の自分を引き出してくれる存在。
君の笑顔で、もっと俺を照らしてくれ。
どうか、どうか……この先、ずっと……
※
父から借りたセダンのエンジンを掛け、頭の中で忘れ物が無いかを確認しつつ、アクセルを踏み込み自宅の駐車場を出る。
本日は快晴。雲一つ無い青空が広がっている。一つ文句を言うならば、暑い。ただただ暑い。もう既に体は汗ばんでいて、早くも俺は匂いを気にしだしている。なんと言っても、本日は人生初のデートなのだから。
俺はレクセクォーツという大手IT企業の専務取締役である父を持つ。周りからはボンボン、親の七光り、すねかじり、などと言われているが完全に否定できない所が痛い。何せ俺は父の目論見どおり同じIT企業に入社してしまったのだから。
俺は俺なりに努力はしている。だが周りから見れば、やはり俺の人生は優しく見えるのだろう。幼い頃から習い事を死ぬほど通わされた、と友人に言えば
『行けるだけいいやん』
と返答が帰ってくる。
そうだ、もう認めるしかない。俺は恵まれている。周りからボンボンだの親の七光りだの言われるのは仕方のない事なのだ。大切なのは今後何を成すか、それに尽きる。
さて、話を戻すが本日はデートである。デートと言っても相手の女性とは今まで二、三回程しか顔を合わせていない。しかも会話となると一言二言挨拶した程度だ。何故そんな女性といきなりデートなのか。答えは簡単だ。俺と彼女は許嫁らしい。それすらも知ったのはつい先日だが。
高速道路を小一時間走り、彼女が住まう街で降りる。そこにはひたすら田が広がっていた。まごうこと無きド田舎だ。だが嫌いではない。
「彼女の家は……」
予めカーナビに入力しておいた場所を確認。
カーナビが目的地周辺です、と言う頃には既に目的地は見えていた。かなり大きな武家屋敷。流石父が許嫁に選ぶ家柄だ。
実のところ、俺はこの縁談には後ろ向きである。当たり前の話だが、今までロクに会話もしてこなかった女性が許嫁と言われて「はいそうですか」と答える人間は少ないだろう。それは彼女も同じ筈だ。彼女だって自分の夫くらい自分で選びたい筈だ。
武家屋敷の前で車を停車させると、まるで待ってました、と言わんばかりに門が開かれた。そして数人のSPらしき人物が、俺の乗る車を囲んでくる。
「お待ちしていました。西院様。奥までお進みください」
「あ、ハイ」
言われた通り武家屋敷の奥へと徐行。
すると目の前に数十人の着物を着た女性が列を成していた。そこで車を停め、SPに促されるまま降りる。
「お車のキーをお預かりします」
「は、はい……」
SPに鍵を渡し、俺は着物の女性達の前へと立たせられる。
なんだ、一体何が始まるんだ。
「西院様、ようこそいらっしゃいました。幸村家当主、幸村 幸代と申します」
中央に立つ女性が俺へとお辞儀をしながら挨拶をしてくる。
すると周りの女性達も一斉にお辞儀。俺も釣られるように頭を下げ、なんとか挨拶の言葉を絞り出す。
「こ、こんにちは。西院龍之介と申します……。本日はお日柄も良く……」
「ふふ、申し訳ありません。緊張してしまいますわよね、こんな仰々しい対応では……」
幸村 幸代と名乗った女性は恐らく……彼女の母親だろう。幸村家当主として名乗ったのは、彼女の父親は既に他界している為だ。まだ俺が七歳かそこらの頃、葬式に行ったのを覚えている。
あぁ、そういえばあの時、泣きじゃくる女の子が一人居たな。もしかしてあの子は……
「ではどうぞ、屋敷の中へご案内します。娘はまだ着ていく服に迷っているみたいで……申し訳ありませんが、もうしばらくお待ちくださいね」
「い、いえ……申し訳ない事なんて……ないですよ……」
やばい。物凄くトンチンカンな事を言ってしまった気がする。
幸代さんは凄いニヤニヤ笑ってるし……。
「いい方で良かったですわ。それでは……」
そのまま俺は屋敷の中に案内され、客間へと通される。
客間からは見事な庭も見て取れ、ししおどしの小気味いい音も耳へ響いてくる。
なんとも心が落ち着く空間だ。静かに風が吹き抜け、風鈴が優しい音色を奏でてくれる。
もうこのまま目を瞑って寝てしまいたい、そう考えてしまうほどに心地いい。
(父はこういうのに興味が無いからな……)
俺の実家はどちらかと言えば洋風の建物。だがそこまで大きくは無い。父はインテリアなどには一切興味は無く、良く言えばシンプル、悪く言えば殺風景な家だ。幼いころ、俺の友人が家に遊びに来た時……第一声が『お前の家、倉庫みたいだな』と言われた事は今でも忘れない。そう、俺の実家はそこまで言われる程、何も無いのだ。
「もうしばらくお待ちくださいね」
言いながら幸代さんは客間から出て行き、俺は一人でこの雰囲気を楽しむことにする。
開け放たれた襖からは青空が見て取れ、夏らしい積乱雲が存在を主張していた。セミの鳴き声も聞こえ、これでかき氷でもあれば完璧だな、と思ってしまう。
するとトタトタと廊下を急ぎ足で走る音が。
この軽い足音は……彼女か。
「お、おまたせせいたしませいうた!」
カミカミのセリフを言い放ちながら彼女が現れた。
ポニーテールに白を基調としたファッション。着物でも着てくるのかと思っていたが、流石にこのクソ暑い中で着物は無いか。幸代さんやその他の女性の方々は着ていたが。
「す、すすみません! お待たせしましたっ!」
「いえ、大丈夫ですよ」
カーディガンにショートパンツ。中々に今風の子だ。
幼いころに数度会った事がある筈だが、微かに面影を残して大人の女性になっていた。
確か歳は俺より一つ下だったか。
「あ、ぁの……ほ、ほんじつはお日柄もよく……」
どこかで聞いたことのあるセリフを言いながら、彼女は俺の正面へと正座。
まるでお見合いだが、まだそちらの方がマシだったかもしれない。というか、普通はそちらが先だろう。
いきなりデートに行けと互いの両親から強制されたのだ。無茶ブリにも程がある。
とりあえず、と俺は自己紹介を始める。
自分の名前を告げ、彼女にも自身の名を告げるように促す。
ぶっちゃけ下の名前は憶えていない。なんだか可愛い系の名前だったことは憶えているが……。
「わ、私は……幸村 姫舞と申します!」
「……ひらりさん? 字はどんな風に……」
「ぁ、えっと……お姫様の姫に……舞踏の舞です……」
それで“ひらり”と読むのか。まだ俺は漢字の読み方について勉強不足だったようだ。
完全に当て字だという感も否めないが。
「では、ひらりさん。行きましょうか」
「は、はい! 本日はどちらへ……?」
「お気に召すかどうか分かりませんが……涼しい場所へ行こうと思っています」
先に立ち上がり、そっと手を差し出す。するとひらりさんは素直に俺の手を取り、頼ってくれる。
流石古い家柄なだけある。男性を立てろと教育されてきたんだろう。
昨今の女性達からすれば面白くないかもしれないが、男としては素直に可愛いと思ってしまう。
可愛いは正義だ。それ以上に正義という言葉が相応しい物などこの世には無い。
※
彼女と共に俺の車へと乗り込み、いざ出発。
てっきりSPが数人付いてくる物と思ったが、その気配は無さそうだ。
「行先は……秘密ですか?」
助手席に座る彼女は不安げに尋ねてくる。
あぁ、そういえば涼しい所、としか言ってなかったな。
「ひらりさんは……海はお好きですか?」
「あ、はい……ずっと山に囲まれて育ってきましたから……憧れではありますね」
俺もだ。初めて海を見たのは中学になってからだった。
それまで家族旅行などしたことが無かったが、中学に入学してすぐ、厳格な父が突然海に行こうと言い出した時は耳を疑った物だ。
「もしかして……海ですか?」
「えぇ、まあ……よろしいでしょうか」
「は、はい! 勿論!」
どうやら喜んでくれているようだ。
それともこれも幸村家の教育の賜物なのだろうか。
なんとなく彼女の笑顔は本物なのかどうか疑問に思えてくる。
本当は心の中で
『海ぃ? んなもん見て何が楽しいんだよ、ッケ……』
とか思われていたら泣いてしまう。
まあ、今はこの彼女の笑顔を信じる事にしよう。
そのまま再び高速道路に入り隣の県を目指して北上する。
俺が向かっているのは日本海。その海に面している水族館だ。
「龍之介さんは……今おいくつでしたっけ……」
「あぁ、俺は……今年で二十六歳です。ひらりさんは二十五歳ですよね」
「は、はぃぃ! も、もう私の素上などお見通しなのですねっ!」
いや、下の名前すら忘れていたんだが。
一個下というのも父から聞いた事だしな。
そのまま何となく……会話は終わってしまう。
お互い初デートで緊張しているのだから無理も無い。
ここは……俺がリードせねば。
「ひらりさん、イルカとシャチは……どちらが好きですか?」
「え、そうですね……両方とも可愛いですが……どちらかといえばシャチです」
「その心は?」
ひらりさんは数秒顎に指を添え、俺の質問にこう答える。
「シャチは……海のギャングですから……」
「……成程」
つまり彼女はあれか、ちょっとチャラい男が好きだと言う事か。
そういえば聞いたことがある。真面目すぎる男性は女性からつまらない、と思われると。
ならば俺もチョイ悪系で攻めるべきか。
「実は俺も……昔は少しヤンチャでして……」
「えっ、それは……ガムを噛みながら授業を受けるとか……」
なんとも可愛いヤンチャぶりだ。
しかし惜しい。俺のヤンチャは……
「えぇ、実は授業中……一度だけ教科書で隠しながら弁当を食べるという……神をも恐れる行為を実行しました」
「な、なんということを! そ、それは先生に対して失礼極まりない行為ですっ!」
「えぇ、反省しています」
俺のヤンチャな学生時代の話を聞かせると、彼女はどことなく……不安そうな表情に。
不味い、もしかして攻める路線が違ったのだろうか。
俺は昔、実はワルだったんだぜ、というアピールは彼女には逆効果だったのか?
ならば……
「学生時代といえば……高校の時、父に黙って子猫を家に持ち帰った事があります。すぐにバレてしまいましたが……」
「わ、子猫を拾うなんて……いいですね。私は子熊を拾った事ならありますが……」
なんという事だ、惨敗だ。
子猫と子熊……どちらが可愛いかなど選べないが、インパクトが段違いだ。
「その子猫ちゃんは……どうなったのですか?」
子熊がどうなったのかも非常に気になるが、俺は高校時代の頃を思い出しながら語る。
「制服の中に隠して連れて帰って……お風呂に入れて……ドライヤーをかけている時に父に見つかってしまいまして……父には激しく怒られましたが、父も父で実は動物が大好きなんですよ。しかし家で飼う事は許されず、結局知り合いに引き取られる事になりました」
「そうですか……本当は飼いたかったんじゃないんですか?」
「……どうでしょうか。思えば俺は猫の知識など皆無でした。ただ可愛いから連れ帰ったんです。父もそれを見抜いていたんでしょう。俺に子猫を育てる事など不可能だと……」
あぁ、そうだ。
あの時、父は俺を叱りつつも教えてくれた。
責任を果たすには知識と技術が必要だと……。
そう、今この時にも言える事だ。
このデートを成功させるには、知識と技術が必要だ。
デートの知識と技術……いや、俺はどちらも持ち合わせて居ないが。
「そ、そういえば……ひらりさんが拾った子熊はどうなったのですか?」
「ぁ、子熊は牧場に引き取られました。今も羊や山羊……シロクマや狸と一緒に楽しく過ごしているそうです」
どんな牧場だ。
いや、気になるが、気にしだすとキリが無い。
世界は広い、そんな牧場があっても不思議では無い。
そのまま高速道路を約二時間走り続ける。
次第に窓から海が見え始めると、彼女のテンションは一気に上昇する。
「海……海ですよ! 龍之介さん!」
まるで子供のように喜び、満面の笑みを浮かべる彼女。
その笑顔を見て安心してしまう。彼女は本心で喜んでくれているんだと。
「もう少しで高速を降ります。水族館に行く前に……砂浜にでも行きますか」
「す、砂浜……い、いいですね!」
両手でガッツポーズを取る彼女。
なんだか俺も心が踊りだしてしまう。
元々、このデートは親達が勝手に決めた物。
だがまあ……この笑顔が見れただけでも来てよかったと思える。
このデートは彼女との縁談を円滑に進める為の物。俺はその縁談事態に後ろ向きだ。そんな俺には、太陽のような彼女の笑顔は眩しすぎる。
俺は次第に、こう思い始めていた。
彼女の笑顔がもっと欲しい。
もっと……その笑顔で俺を照らしてほしいと。
※
砂浜に到着すると、既にかなりの車が駐車場を埋め尽くしていた。
なんとか一台開いている所に車を滑り込ませ、数時間ぶりに車を降りて大地を踏みしめる。
耳に届いてくる波の音。
海の香りが混じる風。どれもが新鮮だ。俺達が生まれ育った所では味わえない。
「いいですね……海ですよ、龍之介さんっ!」
「ええ。ぁ、日焼け止めとか……大丈夫ですか? うっかりしていました」
「ぁ、大丈夫ですよ。母がそういう事は徹底しているので……」
あぁ、流石だ。心の中で幸代さんにお礼をいいつつ、俺は先頭を切って歩き出す。
駐車場から砂浜までは軽く坂道になっており、そこを下ると足元に柔らかい砂の感触が。
「わ、私……砂浜って初めてかもしれません……」
彼女は砂浜に立ち、その光景を目に焼き付ける。
目の前に広がる水平線。空の青と海の青、両方が澄んでいて気持ちのいい光景だ。
波の音と合わさり、決して比喩では無く……本当に吸い込まれそうになる。
俺と彼女は海に導かれるように歩き出し、足元に波が来るか来ないか、ギリギリのところまで進む。
「いいですね、海……水着でも持ってくればよかったですね」
「あぁ、そうですね……」
少し目を逸らせば水着の女性達が楽しそうに遊んでいた。
そうか、水着姿のひらりさんを見る絶好のチャンスだったのに……惜しい事をした。
と、俺が他の水着の女性を眺めていると、ひらりさんが微妙に頬を膨らませている事に気がついた。
まさか……焼き餅でも焼いているんだろうか。いや、そんな馬鹿な。
「龍之介さん……エッチぃのが好きなんですね……」
「心外ですね。好きどころじゃありません。大好きです。この世の何よりも、俺は……」
「わぁぁ! ごめんなさいっ! もういいです、もういいですから!」
恥ずかしくなってしまったのだろうか。
彼女は俺から顔を逸らしてしまう。
ヤバい……可愛い。
「水着……次は絶対水着を……」
なにやらブツブツ呟いているが、聞かなかった事にしよう。
しかし折角海に来たのだ。少しだけでも堪能しようではないか。
俺は靴と靴下を脱ぎ、ズボンを捲って波へと足を晒した。
足裏の砂の感触がなんとも奇妙な……これはヤミツキになってしまいそうだ。
「ぁ、きもちよさそう……私も……」
そういいながら彼女も靴を脱ぎ俺の隣へ。
波に足を晒す彼女。しかしなんとも危なっかしい。
いつでも転んでしまいそうな雰囲気だ。
「ひらりさん、デートっぽく……しましょうか」
俺は手を差し出し、ひらりさんも笑顔で、少し恥ずかしそうに手を繋いでくれる。
柔らかくて小さな彼女の手。
……気恥ずかしい。
まるでいけない事をしているかのような感覚に襲われる。
待て、如何わしく聞こえるでは無いか。断じて、いけない事ではない。
手を繋ぐくらい……別に……
「龍之介さんの手……おっきい……」
言いながら俺の手をニギニギしてくる彼女。
俺はそれを返すように、彼女の手を同じように優しく、そっと力を入れる。
「少し……歩きましょうか」
お互い、繋いでいない方の手で靴を持ち、足を波に晒しながら散歩する。
時折俺の目は水着の女性へと奪われるが、それを防ぐように彼女は手をグイグイ引っ張ってくる。
その反応が面白くて、俺も心から笑顔になれる。
こんな風に笑ったのは何年ぶり……いや、人生で初めてかもしれない。
彼女と一緒に居れば、本来の自分の姿と出会えるかもしれない。
※
波で一通り遊んだ俺達は、そのまま海の家に。
少しお腹が空いたのもあるが、一度入ってみたかったのだ。
海の家の中は、まだ時間が早いからか貸し切り状態。
それともここが空いているだけなんだろうか。何にせよ騒がしいよりはいい。
二人でメニューを眺めていると、店主がオススメと見本の貝を見せてくる。
白く、手の平程の貝。これは……なんだ?
「シロガイって言うんだけども……美味いよー。カップルは料金二割増し!」
いや、ちょっとオッサン。
なぜ二割増す。
「んなもん羨ましいからに決まってんだろ。こんなベッピン連れて……で? シロガイ食っとくか?」
「二割増しじゃなければ……ぁ、ひらりさん、何か飲みますか?」
「……じゃあコーラを……」
店主のオッサンへとシロガイ二人前、それとコーラを二つ注文する。
オッサンは通常価格で食べさせてくれるようだ。いや、当たり前なんだが。
二人でカウンター席に座り、オッサンがバーナーでシロガイを焼いてくれるのを眺めながら待つ。
次第になんとも言えないいい香りが。
「私、こういうお店で食べるの初めてです……なんだかワクワクしますね」
「そうですね……。その気持ちは凄い分かります。俺も初めてなので……」
二人でクスクスと笑い合っていると、オッサンがシロガイを持ってきてくれる。
皿に乗った二枚の大き目の貝。味付けは醤油……だろうか。いい香りだ。
「いただきます」
二人して手を合わせ、貝を手で持って……って、熱っ!
やばい、素手では食えん。箸で食うしか……
「美味しいですねーっ、こんなに美味しい貝初めて食べました……っ」
って、彼女は楽勝に貝持って食べてるし!
何という事だ。これで俺が箸を使って食べるなど……男としてありえん!
ワイルドさで負けるわけには行かんのだ!
あぁ、でも熱い! もっていられない!
「……あの、良かったら……」
と、彼女は俺の貝を手に持ち、口元に運ぼうとしてくれる。
いや……あの……まじか。
「い、いただきます……」
彼女に貝を持ってもらい、俺は貝の身に齧り付く。
醤油ベースの味付け……むむ、バターかこれは。
塩味がたまらない。濃厚な貝の汁が口に溢れてくる。
「美味いですね」
「ですよね! もう一個ありますよ……はい、あーん」
うっ、彼女に手綱を握られた馬のようだ。
しかしここで引き下がっては器が知れる。
「あ、あーん……」
二個目のシロガイも頬張り、その味を楽しむ。
たまらん……貝も美味いが、彼女のあーんが……
「そういえば……コーラって……」
コーラ……あぁ、頼んだのに来ないな。
と、その時オッサンは二つのコーラが入ったグラスを握りしめ、ニヤニヤと遠目に俺達を眺めていた。
何してんだゴルァ。
「あまりのラブラブっぷりに近寄りがたくて……ほい、コーラ」
「どうも……」
俺と彼女は今更恥ずかしくなり、コーラを一気に飲むと料金を払って店を後に。
去り際、オッサンが俺に対してサムズアップをしてきた。なんとなくサムズアップを返した俺は、心なしか勇気が湧いてくる。
さっき砂浜で手を繋いだのは、彼女が転ばないようにするため……と自分に言い聞かせていた。
だが今、ここで手を繋ぐ理由は無い。
ただ……彼女に触れたいという男として当然の欲求のみだ。
なんて如何わしい。
引かれたらどうしよう……などと考えてしまう。
そっと左手を彼女の方へ。
微かに小指が触れる。
散々イチャついておいて何を今更……と思われるかもしれないが、これはこれだ。
なんの理由も無く手を繋ぐなど、さすがに勇気がいる。
小指が触れて彼女も気づいたのか、一瞬震えるのが分かった。
引かれてはいないだろうか、何故執拗に触れてくるのか、と思われているかもしれない。
だが俺はオッサンから頂いた勇気を振り絞り、そっと彼女の手を……握りしめた。
「…………」
「…………」
二人して沈黙。
やばい、手汗がハンパない。
もしかしたら……
『うっわ、コイツ手ベタベタやん……勘弁してほしいわー。この草食系動物が!』
とか思われてたら……俺の心は砕け散ってしまいそうだ。
縁談には後ろ向きとか言っておいて……俺は一体何を……
「えへへへ……」
その時、彼女は不気味に……いや、可愛く笑い出した。
なんだ、どうした。
「龍之介さんって……可愛いですねっ」
「ぁ、はい……ありがとうございます……」
してやったり……という彼女の笑顔。
よく見ると彼女の顔も真っ赤だ。
どう考えても……可愛いのは彼女の方だろう。
※
砂浜から車で水族館まで移動。
こちらも駐車場は既に埋め尽くされていたが、なんとか開いている所を見つける事が出来た。
今日はそこそこツいているかもしれない。
「結構大きな水族館ですね……龍之介さんも……来るのは初めてですか?」
「ええ。水族館が大好きな友人がいまして……彼のオススメです。シャチもイルカも居るみたいですよ」
車を降りて彼女と共に入場口へ。
その途中、今度は彼女から手を繋いできた。
やばぃ……俺の心臓はもう限界よ……
「えへへ、えへへへへへ」
「はは、アハハハハ……」
二人して意味もなく不気味な笑みを浮かべる。
恥ずかしさを紛らわすのが見え見えだ。
「い、いきましょうか。ギャングなシャチが待ってますよ」
「は、はい……」
そのまま受付へと行き、チケットを二枚購入。
当たり前のように代金は俺が払ったが、彼女もサイフを取り出し
「あの、私の分は私が払います……っ」
「……そうですか。ならこうしましょう。俺とのゲームに勝つことができれば……払わせてあげます」
「なんか急展開ですね。ま、まあ受けて立ちます」
そのまま二人で水族館内部へと。
三百六十度、全てが水槽で覆われ、まるで海の中に居るような気分……には流石にならないが、それなりに圧巻だ。
「それで……ゲームっていうのは……」
「あぁ、魚限定のしりとりをしましょう。では俺から……」
と、その時目の前をエイの巨大な姿が。
俺は思わず……
「タイ……」
「え? エイじゃないんですか?」
「虚を突いたんです。さあ、次は「イ」ですよ」
彼女は周りの水槽を見渡し、イで始まる魚を探し出す。
俺も同じように魚を眺め、この水族館独特の光景を楽しむ。
青い世界で泳ぐ魚達。
普段は見られないその光景に、思わず無言で眺めてしまう。
「い、イカっ……!」
「……? 突然どうしたんですか。イカが食べたいんですか?」
「え、えぇぇ! いや、しりとり……」
あぁ、そうだった。
本気で忘れてた。
「カ……カメ……」
「え、カメって魚ですか?!」
「そこで泳いでますよ。海で泳ぐ生物全て魚です。すなわち……人間も魚……」
「物凄い考察ですね……ま、まあ……そういう事なら……」
再び水槽を眺め、メで始まる魚を探し始める彼女。
メか。メで始まる彼女……じゃない、魚……。
彼女も必死に答えを探している。
そして何か思いついたのか、俺に顔を向けて自信満々に……
「メガロドンっ……って、ぁ……」
わざわざ古代のサメを言い放ち、しかも負ける彼女。
俺は思わず肩を揺らして笑ってしまった。
「ちょ、ちょ……今の無しで!」
「え、ええ……構いません……よ? クク……」
「わ、笑わないでくださいっ! えと、えっと……」
「あぁ、まあ……しりとりは程々にして……そろそろ水族館を満喫しましょう。次の所に行ってみましょうか」
彼女は不満タラタラなご様子。
案外負けず嫌いなのかもしれない。
案内板に従って次のコーナーへ。
そこにはイルカと人が一緒に泳ぐ光景が。
「わ、凄い……イルカと泳ぐって楽しそうですね」
「そうですね……まあ、俺は泳げませんが……」
その時、彼女は先ほどの仕返しとばかりに、ニヤついた顔で俺を見てくる。
「龍之介さん……泳げないんですか? 私が教えてあげましょうか」
「ええ、是非……。コーチの水着は俺が選んでもよろしいですか?」
途端に顔を赤くする彼女。
一体どんな水着を想像したんだろうか。
俺は普通の……そう、競泳水着のような物を考えていたんだが。
断じてスク水ではない。
「龍之介さん……エロエロですね……」
「えぇ……申し訳ありません……」
二人で水槽の中を見つめる。
中でイルカと共に泳いでいる人が、時折手を振ってくる。
彼女は嬉しそうに手を振り、俺も釣られて手を振ってみる。
「龍之介さんっ、次いきましょうっ!」
「そうですね、どんどん見ていきましょう」
彼女と共に水族館を堪能しまくる。
イルカショーや、アシカショー、そして彼女が好きなシャチのショーも全て見た。
食事も忘れて、青い世界で彼女と共に過ごす。
まるで夢のような時間だ。
本当に……楽しい時間。
願わくば、この時がずっと……続きますように……
※
そんな俺の願いも空しく、楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
気が付けば既に日は落ちていて、水族館を出る頃にはもう辺りは真っ暗だった。
月が静かに海を照らしている。
海に面して作られた水族館、その無料で開放された休憩スペースへと赴き、二人でベンチへと座る。
「今日は……本当に楽しかったです……ありがとうございました」
「いえ、俺も……楽しかったです」
そっと空を見上げ、三日月を眺める。
煌々と光を放つ月。その光を見つめていると、心なしか寂しくなってくる。
もう、これで今日と言う日は終わってしまう。
最初は乗る気がしなかったデートだが、今は真逆の感情が俺を支配していた。
このまま今日という日が止まってしまえばいい。
明日など要らない。
今日さえ……今この時さえ永遠に続いてくれればいいのに……。
「龍之介さん……実は私、龍之介さんの事、もっと怖い人だと思ってたんです……」
突然そう言い放つ彼女。
あぁ、でも俺も同じだ。最初は……こんなに楽しくなるなんて想像もしていなかった。
「えっと……その……龍之介さん、わ、私……その……龍之介さんとなら……っ」
と、それ以上言うなと……思わず手で彼女の口を塞いでしまう。
「はふむんふれはれ?」
「すみません……でも……その先は俺に言わせてください」
俺はそっとベンチから立ち上がり、彼女の手を引いて……海が目前に広がる柵の前まで歩く。
海面は静かに揺れ、月の光なのか街灯の光なのかは分からないが、かすかにキラキラと輝いて見える。
「俺も……実をいうと、今日はここまで楽しくなるとは思ってませんでした。許嫁なんて……親同士が選んだ相手という事、それ自体に不満を抱いてましたから」
彼女は黙って俺の言葉を聞いてくれる。
俺は彼女の目を見て、その両手を握る。
貴方の笑顔が好きだ。
この先ずっと……その笑顔で俺を照らし続けて欲しい。
そう……
「……このまま貴方と一緒に……いつまでもこうして……」
そこまで言う俺の口を、今度は彼女が塞いできた。
「ほんむんむん?」
「さっきの仕返しです……。私だって……いいたいんですから!」
むむ、そうきたか。
「なら……どうしましょうか」
「同時に……同時に言いましょう……! いいですか? フェイントは無しですよ!」
どうやら彼女は俺の事を相当に捻くれた性格だと理解したようだ。
まあ、大体当たっているが。
「分かりました……同時に、ですね」
「はい、同時に……」
お互い深呼吸し合い、目を合わせ……
その言葉を同時に言い放った。
『結婚……してください』