月を見つめて
少し特殊な書き方をしてみた。
授業が終わり、階段へと向かう人の流れに逆らって廊下を直進する。程なくして到着した突き当たりの部屋には、「図書室」と書かれた古いプレートがぶら下がっていた。
軋む扉を開けて中に入ると、俯いて読書に興じていた少女が顔を上げる。
「やあ、君か。毎日飽きずに、よく来るね?」
「お前もな。図書委員でもないくせに」
適当に本を見繕い、少女から少し離れた位置に座り込む。
二人を邪魔する者はいない。
-7
「この図書室ってさ」
「うん?」
「図書委員いないよな」
ああ、と納得したように頷く。
「もともとここは半ば放置されていたようなものだからね、図書委員も名前だけさ。最近は鍵の管理も私がしているよ」
「へえ。なら、いつまでもゆっくりできると」
「そうでもないさ。下校時刻というものがあるからね、それを過ぎると叱られてしまうよ」
「ああ、まあそんなもんか」
「残念だったね?家に帰りたくないからって放課後ずっとここにいることはできないよ」
「いや、俺は別にそんな複雑な家庭じゃないぞ。本がじっくり読めるって意味だ」
「そうか。まあ、適当に言ってみただけなんだがね」
しかし、と一度言葉を区切る。
「君はどうにも言葉を額面通りにしか受け取れないようだ。一度相手の真意を探ってみるといい。肝心なことは、目に見えないのだから」
「心で見なけりゃ物事はよく見えない、ってか」
「よくご存じで」
-6
「そういやさ」
「うん?」
「お前って、友達いるの?」
「…どうしてそんなことを聞くんだい?」
「いや、お前と会うのってこの図書室だけだし。たまに見ても一人でしかいないし」
「くく、気になるかい?」
「ああ、わかった。いないんだな」
目を細める。
「…そういう君は、いつも誰かと楽しそうに話しているね」
「なんで怒ってんだよ。ていうか、あいつら別に友達じゃねえぞ。合わせた方が楽だからそうしてるだけで」
額に手を当てる。
「…そうか。合わせる、か…。それができたら、どんなに楽だったか…」
「まあそんなわけで、友達って言ったらお前くらいだな」
「…うん?」
「ん、違ったか?」
「いや、違ってはいないのだが…意外だね、君が私を友達だと思っていたなんて」
「そうか?この関係性は普通に友達だろ。俺は友達いないから知らんけど」
「そんなものか。私もわからないが」
「別にいいんじゃないか?知らなくてもいいことだってあるだろ」
「それもそうか。たんぽぽの花一輪の信頼のために一生を棒に振るよりは、そっちの方がずっとましだ」
「チサの葉一枚の慰めよりもな」
「よくご存じで」
-5
「この図書室ってさ」
「うん?」
「俺達しか使ってないよな」
「まあ、場所が場所だしね。目立ちもしないし、多分ここを知らない生徒の
方が多いのではないかな?」
しかし、と続ける。
「どうしたんだい、いきなり?私と二人きりでは寂しくなってしまったのかな?」
「いや、別に。この環境は変わらないってのを確認しただけだ」
「…不満かな?」
「まさか。今更誰かが増えたりしたら、多分俺はもうここには来ない」
「おや、奇遇だな。私もそう思うよ」
「ああ、俺はもう暫くこの雰囲気に浸っていたい」
「へえ、もう暫くでいいのかい」
「適切な表現じゃなかった。叶うならずっとだ」
「そうこなくては」
可笑しそうに笑う。
「私も、この環境が好きだよ。君とこうして他愛のない話をしているのも好きだし、二人で黙々と本を読んでいるのも。耳を澄ませば地球の回転する音すら聞こえそうな沈黙の中で、ページを捲る音だけが響く。実にいい環境だ」
「生憎、ここに父親の死を知らせる司書はいないけどな」
「よくご存じで」
-4
「そういやさ」
「うん?」
「お前って、なんでそんなに本読むの?」
「…本が好きだから、では駄目かな?」
「いや、もちろんそれもあるんだろうが…お前の場合、何か別の理由がある気がする」
「ふむ…丁度いい機会だ、話しておくとしようか」
読んでいた本を閉じ、こちらに向き直る。
「私は…そうだな、言葉にするなら…『私』を作るために、本を使っている…と、言うべきか」
「それはどういう?」
「…私はね、『私』という人間がどんなものなのか、よく解らないんだ。だから、本を読んで…登場人物達の考えに触れて、『私』を形作ろうとしている。要するに、私は空っぽなんだよ」
「ほお、なかなか面白い。けどな、本はどこまで行っても所詮娯楽だ。エッセイとか教科書ならともかく、小説は娯楽として楽しむものだと俺は思うがね」
悲しげに俯く。
「…そんなことを言われてもね。仕方ないじゃないか、私はこれしか知らないんだ」
「『自分』なんて曖昧なもんだろ。だから皆、他人の評価を求めるんだよ。『自分』を証明するために」
意外そうに顔を上げる。
「…なるほど、そんな考え方もあるのか。なら、君から見た『私』はどんな人間なんだ?」
「そうだな…本好き、クール、変わり者。パっと思いつくのはこれくらいか」
「…『君』も充分変わり者だと思うがね」
「それはお互い様だろ。むしろ変人同士だから波長が合うんじゃないのか」
「それもそうか。私達は惹かれあっているんだね」
「俺がここに来たのは偶然だけどな」
「くく、偶然は愛のように人を縛るんだよ」
「夜に飛んだら綺麗だろうな。というか、お前も愛なんて言葉使うのか。少し意外だ」
「よくご存じで。君は私をなんだと思っているんだ」
「本好き、クール、変わり者。俺の唯一無二の親友」
「おや、位が上がったね」
-3
「そういえば」
「ん?」
「私と君が恋愛関係にあるという噂が流れているらしいね」
「ああ、知ってる。クラスの奴に聞かれた」
「まったく、何が面白いのだろうね。普段は私に関わろうともしないのに」
「そんな奴の話だからこそ気になるんだろうよ」
「そんなものか。しかし、いいのかい?」
「何が?」
「私が周囲から浮いているのは知っているだろう。その私とそんな噂を流されたら、君まで孤立してしまうのではないか?」
「別に、それならそれでいいさ。あんな奴らよりお前との時間の方が遥かに大切だ」
「…そんなことを言うから、噂を信じる生徒が増えるのだと思うが」
「言わせておけばいい。どうせすぐに飽きるだろ」
溜息を吐く。
「だからこそ、冷めるまでの間はいくらでも残酷になれるのだろうね。少年も残酷、少女も残酷…か」
「優しさなんてものは、大人の狡さと一緒にしか育っていかないのさ。だろう?」
「よくご存じで」
-2.5
扉の開く音が聞こえ、顔を上げる。
「よう、今日は遅かったな?」
「…ああ、すまないね。少し野暮用が…?あれ…?」
覚束ない足取りで、数歩進んだかと思うと…突然、床に倒れ込む。
「おい、どうした?…おい、返事をしろよ」
倒れたままピクリとも動かない様は、まるで死んでいるようで。
「おいっ…!くそ、保健室に…!」
持ち上げた身体はとても軽く、魂が抜け落ちてしまったかのようだった。
-2
「ヒヤヒヤした。病気じゃないって言われた時は少し安心したが」
「いや、すまなかった。私のせいで君に余計な心配を掛けてしまったね」
「ああ。で?」
「…で、とは?」
横目で睨みつける。
「惚けるなよ」
「いや、本当に解らないんだ。悪いが、今日はまだうまく頭が…」
「話すまでは帰れないと思え」
「…何もないよ。ほら、これで満足かい?」
溜息を吐く。
「ストレス?お前が?何もないのに?
冗談は程々にな」
「何もない。本当だ、信じてくれ。私達は親友だろう?」
「親友なら正直に話すと思うがな」
「…親友だからこそ、話せないんだよ。お願いだ、これ以上聞かないでくれ」
「それは無理だ。俺はお前に聞かなきゃいけない」
目に見えて怒りが募る。
「…何故だい」
「お前、俺しか友達いないだろ。俺が聞かなきゃ、お前は一生孤独なままだ」
興奮して立ち上がり、大声でまくし立てる。
「何故だっ…!?どうして、そこまで!なんで私に拘るんだ!?私には君なんて必要ない!私はずっと、孤独なままだ!これまでも、これからも!私は、孤独に満足しているんだ!もう私を放っておいてくれ!私に、関わらないで!」
「無理して嘘吐くんじゃねえよ」
「なぜ嘘だと言える!?」
「だって、お前…嘘じゃないなら、なんで泣いてんだよ」
ハッとして我にかえる。
「…え…?私が、泣いて…?」
「ああ。それに、前に『この環境が好きだ』って言ったお前の笑顔。あれは、絶対に本物だった」
座り込み、自嘲気味に笑う。
「くく…そう、か。君は、私をよく見ていてくれたんだね…。それこそ、私以上に」
「自分を証明するために、他人を求める。前にも言った筈だな」
「ああ、そうか。そうだったね」
沈黙が流れ、やがて声を上げる。
「なあ」
「ん?」
「私はさっき、親友の君に嘘を吐いたな」
「ああ」
「もう関わるな、とも言った」
「言ったな」
「それでも君は、私を助けると言うのかい」
「当たり前だろ」
「なぜ?」
「親友だからな。裏切られても傷つけられても、最後まで信じ抜く。俺はそう決めた」
「…そうか。わかった、話すよ。今度こそ全部、嘘偽りなく」
「ああ、そうしてくれ」
息を落ち着かせ、話し始める。
「前に、噂の話をしただろう。私達が、その…。恋人同士だという噂の」
「ああ」
「それで、その噂を良く思わない生徒が数人いてね」
「なんで?」
「君は知らないだろうが…一部の女子生徒達に、君が人気の様なんだ」
「なんでまた」
「さあ、そこまでは。それで、私はその生徒達に敵視されてね」
「…あー、うん。だいたいわかった。しかし、お前が倒れるレベルってことは…お前、具体的に何された?ああ、辛かったら言わなくていいが」
「いや、大丈夫だよ。そうだな、例えば…ここ最近、この部屋の本が妙に減ったと思わないかい?」
「ん…ああ、気になってはいたが。…あー、まさか」
「気付いたかい。彼女達はね、ここから本を持ち出して私の前で燃やす…という行為を続けていたんだ。わざわざ鍵を破壊してまでね」
「はあ、なんつー罰当たりな…。で、他には何かされたか?」
「いや、大したことはされていないね。せいぜいが持ち物を破壊されたり、罵倒や暴力を受けた程度だ」
顔を顰める。
「…俺としては、そっちの方が重大なんだが」
「おや、心配してくれるのか」
「何度も言っただろ、俺はお前の親友だって」
「解っているさ。しかし、私は淋しい人間だ」
「…なら、言っておこうか。お前が『お前』である限り、俺はお前を裏切らないよ。それと、精神的に向上心の無い奴は馬鹿だ。じゃあな、俺は帰る」
「……よくご存じで」
「……君は私を裏切らない、か。知っているさ、そんな事は」
-1.5
「…?今日は、彼は来ないのか。珍しい事もあるものだ」
-1
「…おや」
顔を上げる。
「驚いた。てっきり、もう来ないのかと思っていたよ」
そこには、見慣れた『彼』の姿があった。
「ああ、すまん。最近少し立て込んでてな、正直少し疲れてる」
「ほう、この前とは真逆だね。無理して来なくても良かったのに」
「そろそろ淋しくなってきた頃かと思ってな。邪魔だったか?」
「いや、お気遣い痛み入る。しかし、もっと自分を大切にしてほしいね」
「お前が言うか」
「それもそうだね。では、疲れているなら少し休んでいくといい。時間になったら私が起こすよ」
「お気遣い痛み入る。それなら、お言葉に甘えるとするか」
壁際に座り込む。
「…すまんな、迷惑かける」
「構わないさ。少しの間だが、いい夢を見てくれ」
ゆっくりと、眼を閉じる。
「ああ、おやすみ…」
「…眠ったか。まったく、君は本当に無茶をする」
静まり返った図書室で、ただ彼女の声だけが響く。
「知っているかい。ここ数日で、私が何か嫌がらせを受けることは無くなったんだ。それこそ急に、全くね」
応える者は、誰もいないが。
「…時々、思うんだ。私は、うまくやれているだろうか。君の傍にいていい人間なのだろうか」
それでも彼女は、言葉を紡ぐ。
「君は私に多くのものを与えてくれた。しかし、私は君に何も返せていない」
吐き出すように、絞り出すように。
「解らないんだ。何故君は、そこまで私によくしてくれる。私は、君の害にしかならないだろうに」
あるいは、神へ懺悔するように。
「今回だって。私のせいで、君は今まで築いてきた立場を失くしてしまった」
悲痛な顔で呟き続ける。
「…君は『親友だから』と言うのだろうな。そのくらいは、私にだって解るさ」
瞳は『彼』に向けられて。
「君は、優しすぎるから。だから、私は縋ってしまうんだ。君ならすべて許してくれる、独りよがりにそう考えて。しかし、実際そうだろう?」
顔には儚い微笑みを。
「この前のこと、今なら解るよ。何故あの時解らなかったのかも。私にとって、やりきれなさや切なさに涙を流す事は生まれて初めてだったんだ。だから、自分が何故泣いているのか解らなかったんだ。これも、君から貰ったものの一つ」
あるいは、自嘲の笑みを浮かべて。
「今まで沢山の話をしたね。偶然は愛のように人を縛る、とも言ったか」
心の中身を、すべて掻き出す。
「愛とは、イコール執着だとも。愛は、即ち祈りであるとも。そんな言葉も知っているけど」
それは決して、受け売りではなく。
「『愛』とは、『罰』だと思うんだ。君に甘えて、縋ってしまう…私に与えられた罰」
彼女自身の、本物の言葉で。
「愛は私を苦しめるが、同時に私を私たらしめてくれる。…こんな作り物の私だが、人の真似事はできるらしい。私は、君の『罰』が欲しい」
その時、彼女は確かに『彼女』であった。
+1
「…ん」
意識を取り戻す。
「ああ、目が覚めたかい」
「…おい、もう夜じゃねえか。起こしてくれるんじゃなかったのか」
くすくすと笑う。
「いや、君があまり気持ちよさそうに眠っているものだから…つい、ね」
「お前…」
「いいじゃないか。ゆっくり休めただろう?」
「まあ、そこに関しては有難いが。で、どうするんだ?もうとっくに下校時刻過ぎてるだろ」
少し考える素振りを見せる。
「…ふむ。どうせなら、もう少し休んでいこうか。たまには悪くないだろう」
「どっちみち時間は過ぎてるからな。それもいいかもしれん」
「ああ、なら少し外を見てみるといい。夜景が綺麗だよ」
窓に振り返る。
「ん、そうだな。この高さから町を見渡すのも新鮮な感じがする」
彼の横顔に笑いかける。
「町もいいが、空も見てみなよ。…ほら、月があんなにも綺麗だ。一点の曇りも無い程に」
ちらりと横目で彼女を見やり、それから月に視線を移す。
「俺はまだ死にたくないし、時が止まるのも困る」
目を伏せる。
「…そうか。よく「何故なら」…?」
言葉に割り込む。
「今止まったら、これからお前と過ごす事ができなくなるだろ。夜はまだ長いんだ、俺だって一人じゃ肌寒い。お前が隣にいると暖かいんだ」
深く顔を伏せ、片手で覆う。
「…くく、そうか。ありがとう、と言えばいいのかな」
彼女を見つめて淡々と返す。
「泣くなよ。雨が降り出して止まなくなるだろ」
顔を上げて見つめ返す。
「その雨で町が海に沈んだら、それこそ綺麗なんだろうね?そのままそこに呑み込まれ、二度と戻れなくなる程に」
笑みを浮かべる。
「よくご存じで、って返せばいいのか?生憎ともう手遅れなんだが」
「それは奇遇だな、私もなんだ。二人仲良く海底人の仲間入りかな」
「良かったな、友達が増えるぞ」
「ならやめておこう」
「同意見だ」
笑い合う。
「ああ、やはり。君とこんなくだらない話をしている時が一番楽しいよ」
「俺もそうだ。さっき夢にも出てきたからな」
「へえ。どうせなら、二人でもう一眠りしていくかい?君が言っていたように、夜はまだ長いだろう」
「ああ…いや、やめておこう」
「おや。どうしてかな?」
「また夢になるといけない、ってな」
「…それは嬉しいな、よくご存じで」
夜は深まり、やがて日が昇る。
軋む扉を開けて一組の男女が出てきたその部屋には、「図書室」と書かれた古いプレートがぶら下がっていた。
二人を邪魔する者はいるかもしれない。
しかし今、二人は確かに幸せだった。