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9.ある日山の中、山賊に出会った

タイトルは森のふふふんのメロディです

ヤツが出ます


がたごとと馬車が大きく揺れる。


モリスを発ってから二日ほどがたつが、周囲は荒れた岩山が広がっていた。


赤き山脈アグレールはすでに遠く、レイナリースは道の悪さに辟易しながらも荷台から後方を眺めていた。


「んもー、お尻が擦り切れちゃいそう」

「…ここは地獄だ…」


レイナリースが不満をもらす傍らでは、ぐったりと項垂れたリアンゼルが顔を蒼白にさせて世の不幸を嘆いていた。


乗り物に乗ったこともないリアンゼルはすっかり馬車酔いしてしまったらしい。

先ほどからレイナリースのいる後部から顔を覗かせては、胃の中のものを吐き出していた。


「大丈夫?リアン(にい)ー」

「…もう出すものも何もないからね…うっ…、」

「はいはい」


ぐっと身を乗り出すリアンゼルの背中を落ちないように捕まえて、レイナリースはその背を撫でてやる。


聞くに堪えない音を立てる兄に仕方がないとレイナリースは苦笑する。


「まあ、こればかりは慣れるしかないですね…」


顔を覗かせたシアンも気づかわしげにリアンゼルを見やる。

その手には水筒が握られていた。


「本当は前側の方が酔いにはいいのですけど…」


御者台には今、デュークにロザンナ、アイゼルが顔をそろえて周囲の警戒に当たっている。

道が悪く、馬を走らせられないここら一帯にはまれに山賊が出るらしい。


一台だけで進んでいることもあり、襲撃される恐れが非常に高いと警戒を強めているのだ。


騎士の二人が前方の異変を察知できるよう、デュークと共に御者台に詰め、狭い御者台では邪魔になる大柄なヤスを馬車内に配置し、後方には”猛獣”スキルもちで勘の鋭いレイナリースが見張りについている。


非戦闘員のシアンとリアンゼルは安全な馬車の中に始めはいたのだが、リアンゼルの馬車酔いのために後方から離れられなくなっていた。

問題もなく山道を進んでいる。

彼らの通った道には転々と吐しゃ物がまき散らされていたが、雨が降れば綺麗になるだろう。


「…」


ふいにレイナリースはリアンゼルの背をさする腕を止めた。


その鳶色の瞳は馬車の進行方向からみて右後方にくぎ付けだ。


「レイナ?」


不安そうに眉をひそめてシアンがそっと声をかける。

その声に、レイナリースはぐったりと身を乗り出したままのリアンゼルを片手で引き上げると馬車の中へと放り込んだ。


「ぐふっ!」

「…シアン、アイゼルに知らせて。一、二、三…全部で五人かな」

「っ、はい!」


うめき声を上げるリアンゼルはそのままに、レイナリースは揺れる荷台で立ち上がった。


すんと風に鼻をすませる。

ぴりっと肌に心地よく刺さる緊迫感。


こきりと指を鳴らす。


緩やかな傾斜になっている上部から、ひゅっと風を切って矢が飛来する。


素早く見切って馬車に刺さるものを叩き落とせば、上方からは動揺するように気配が乱れた。


攻撃の手がやんだ。

どうやら相手はこちらが矢を落とすとは思ってもいなかったらしい。

想像以上の相手の動揺に、レイナリースは呆気にとられるがそれも好機かと明るい笑顔で頷いた。


そうして、ひょいっと身軽に飛び降りる。


じゃりっと岩交じりの道に降り立ってから、ぐっとしゃがみこんで力をためる。


「ふんっ!」


風を纏って一気に跳躍した。


傾斜を瞬く間に飛び越えてレイナリースは男たちの前に立った。


薄汚れた軽鎧をまとうもの、簡易的な胸当てだけをつけたもの。

装備も武器もバラバラな男たちが、驚愕の面持ちでレイナリースを見返している。


彼らが乗っているヤギのような生き物が、レイナリースの視線を受けてぶるぶると身を震わせ始めた。

毛に覆われたそれは大きさならば馬よりも二回りほどに小さい。

けれど人を乗せて山を駆けてきたのを見るに、力強く足場の悪い地を走るのに長けた獣なのだろう。


すうっと大きく息を吸い込む。


ヤギもどきに騎乗したままの彼らを追い払うなら、一声で済む。


「グゴァアアアアアアア!!」


軽く唸り声を発すればヤギもどきたちは面白いほどの恐慌状態に陥った。


「ベーッ!ベェエエ!!」

「ベェエエエエエ!」

「うわっ、おい!こらっ!」

「うわぁあ!」


足を蹴り上げ暴れまわるヤギもどき。

中には走り去るヤギもどきから振り落とされる男もいる。

運悪く振り落とされたまま、足場の悪い傾斜をごろごろと転げ落ちるものまであらわれた。


思った以上の成果にレイナリースですらしばし呆然とする。

ヤギもどきは臆病な性質なのかもしれない。


うーんと考え込んでから、レイナリースはくるりと踵を返す。


男達が恐怖に染まった瞳でこちらを見てくるのもあまり気分のいいものではない。

震える男たちに手を上げるのも何だか違う気がして、レイナリースはとんっと軽く地を蹴った。


とりあえず、先に行った馬車に合流しよう。

とんっとんっと軽やかに岩を蹴りつけ、風を纏って走り出す。


目当ての馬車はすぐに追いついた。


「あれ?」


立ち止っている馬車の周りで、ロザンナやアイゼルたちが先ほどの男たちに似た者たちと剣を合わせているではないか。


ぐぐっと眉根を寄せて、レイナリースは一気に跳んだ。







「アイゼルさんっ!後方から賊が五人ほど!」


顔を覗かせたシアンの言葉に、アイゼルは舌打ちした。

この馬車は周囲に護衛の姿もないのだ。

山賊からすれば格好の獲物に見えるだろう。

恐らく襲撃されるだろうと予想はしていたが、つい舌打ちが漏れる。


「ちっ、やはり来たか…!」


すぐに剣を手に後方へ向かおうとするが、シアンはまだ声を発していた。


「それがっ!レイナが迎撃に出ました…!」


一瞬息が止まった。


アイゼルは呆然とする頭を叱咤して、きつく歯を食いしばる。


「…あの馬鹿ッ!一人で行ったのか?!」

「は、はい!」

「くそっ!」


がしがしと乱暴に髪を掻き毟り苛立ちもあらわに唸るアイゼルに、ロザンナが冷静に口を出す。


「アイゼル。レイナならば大丈夫。あの娘は強いです」

「だがなあっ!!」


冷静さを欠いた様子のアイゼルに語り掛けながら、ロザンナの視線は前方へと向けられている。


「それよりも、こちらにもお客様がいらっしゃいましたよ」

「っ、デューク。馬車の中に。」

「わかった」


馬を止めるとデュークは素早く幌をくぐると中に潜り込んだ。


それを見届けたロザンナが身軽に御者台から飛び降りる。


ふうっと大きく息を吐き出して、アイゼルはパンッと頬を叩くといまだに顔を覗かせているシアンに向けて言った。


「シアン、お前も中にいろ」

「…えぇ」


桃色の瞳はじっとアイゼルの様子を眺めていたが、ふいと踵を返すと馬車の中へと戻って行った。


それを見たアイゼルもまた御者台から飛び降りる。

落ち着くように馬の首を撫でて、前方で腕を組んで佇むロザンナの隣へと進み出る。


「…殺気を隠すことも知らない素人です」


ロザンナの批評にアイゼルも苦笑を零す。

前方に潜んでいるらしい気配は十。わかりやすいほどの殺気を放っている。


「こちらの力量も見極められない時点で、終わっていますね」


亜麻色の髪を耳にかきあげて、ロザンナは冷ややかに言い放った。


「……。」


そんなロザンナを見やりながら、アイゼルの意識は後方へと飛んでいる。

前方の敵をみるに、後方から奇襲をかけるつもりで動いていた敵も脅威ではないだろう。

何せレイナリースは一人で暗殺者たちをも退けたのだ。

問題はない、はずだ。

それでも、万が一何かがあったなら。

もし、怪我でもしたのならば…。


「…ふふ、だから彼女もきっと大丈夫ですよ」

「…何がだ?」


唐突にもらされたロザンナの声に、アイゼルは訳が分からずに問いかけた。

そんなアイゼルを見て、ロザンナはふふっと小さく笑う。


「レイナを案じているのでしょう?先ほどからあなた、すごく苛立っていますわ」


柔らかく微笑んで、ロザンナはアイゼルを見た。

その全てを分かったような眼差しに、アイゼルの頬に赤みがさす。


「んなっ…!お、おれは…っ!」

「あなたは、わかり辛いようでわかりやすいのですね」


アイゼルの抗議を笑顔で一蹴してロザンナは一つ頷いた。


「今まではデューク様にべったりで邪魔でしたから、それくらいがちょうどよいでしょう」

「邪魔って…」


意外に辛辣な評価に、アイゼルはこれまでにロザンナがそう思っていたのかとショックを受けた。

そんなそぶりを微塵もみせなかったというのに。


これだから貴族は怖いのだ。

腹の内が全く読めない。


ぐうっと言葉を飲み込んだアイゼルをそのままにその場にロザンナの声が響く。


「さあ、仕事の時間です」


すらりと長剣を鞘から抜き放って、ロザンナは艶やかな笑みを浮かべて声高に宣言した。


「命が惜しくば、降伏なさい。死にたいものはかかってくるとよい」

「ちっ…ばれてやがる…!」

「へっへ、別嬪さんじゃねぇか!」

「今夜は楽しめそうだ」


ロザンナの言葉に待ち伏せをしていた山賊たちがぞろぞろと道に現れた。

その数は十人。

読み通りの人数に、思わずアイゼルの顔にも苦笑が浮かぶ。


相手は数で勝っているからこそ強気なのだろう。

アイゼルとロザンナに向けて、下卑た笑みを浮かべている。


「おい!荷と女を置いて行けば命だけは助けてやんぜっ!」


鉈のような刃物を手にした体格のいい男がそう言い放った。


後方に並んだ男たちも自分の優位を信じているのか、余裕のある態度だ。


「五ずつでいいか?」

「ええ。手早く済ませましょう」


ロザンナに提案すれば、こくりと頷きが返る。

アイゼルは剣を抜いた。

その時だ。


『グゴァアアアアアアア!!』


山間に響き渡る猛獣の咆哮。


びりびりと背を焼くような感覚に、アイゼルはちらりと後方の山々へ視線を飛ばす。


「なっ…!なんだ…?!」

「悪いな。急いでいるんだ」


狼狽えている山賊たちを一瞥し、アイゼルは長剣を振りかぶった。

隙だらけの男の腹をつき、抜いた刃で後方に立つ一団へと躍りかかる。


「ひっ!」


大ぶりな動きで切りかかる男の一撃を背を反らしてかわすと、振るった腕の隙間に飛び込む。

恐怖にひきつった男の顔を見ながら、下方から剣を跳ね上げて切り伏せた。


後方からの殺気に素早く身をかがめれば、背後を狙った上段からの剣がまだ息の合った男の脳天に突き刺さった。


「あっ、す、すま…」


咄嗟に謝る男を蹴り飛ばして、剣を構えたまま震えていた男に駆け寄り横なぎの一撃。

倒れる男から剣を奪って、逃げ出そうと背を向ける男に投げつけた。


「ぎっ、」


うまく背に突き立った剣を横目に、腰が抜けたのか必死に地を這って逃げる男を切り伏せた。


「悪いな」


このような旅の途中でなかったら、生きたまま捕縛して近隣の街に運ぶことも出来ただろう。

だからこそ、彼らは不運だったという他はない。


相手の力を見極められないようなら、どのみち長生きは出来なかっただろうが。


振り返れば、踊るように剣を振るロザンナの姿がある。

最後の一人を切り伏せ、血払いをしてロザンナもまた振り向いた。

…が、その目はなぜか空を向いている。


いったい何が。

つられてアイゼルも空へと視線を上向けて、自分に向かって落ちてくる人影に目を見開いた。


「わっ、アイゼルどいてどいてーっ!」

「んなっ…!」


みるみる眼前いっぱいに広がる少女の姿に、アイゼルは動くことも出来ずにいた。


「ぎゃふっ!」


どすん、という衝撃と共にアイゼルの体が地にたたき伏せられる。

空から降ってきたレイナリースは慌てたように下敷きにしたアイゼルの胸ぐらをつかみ上げてゆさゆさと揺さぶった。


アイゼルの脳みそもゆっさゆっさとシェイクされて、レイナリースを受け止めた衝撃に加えて何だか色々限界だ。


「あ、アイゼル大丈夫?!ちょっと、アイゼルーッ!」

「あら、レイナ嬢そんなに揺すっては駄目ですわ」


青白い顔のアイゼルにレイナリースは動揺して掴んだ胸倉もそのままに身を震わせる。

そうして鳶色の瞳を潤ませて叫んだ。


「ど、どうしようー!アイゼル死んじゃったー!」

「…死んでねえしっ!!」


涙声になったレイナリースに反応するように、ぐったりとしていたアイゼルの瞳がぐわっと見開かれる。

けれども気合は続かず、すぐにがくりと首をうなだれさせて一言つぶやいた。


「あ、後は頼む…」

「うわぁああああああん!!アイゼルゥウウウウッ!!」

「あ、癒しの天使リアンきゅん。アイゼルの治療をお願いしますわ」


わっとアイゼルの胸に俯せるレイナリースをそのままに、ロザンナは冷静に馬車の中へと声をかけた。










珍しいこともある。

アイゼルは暖かな木漏れ日を感じながら思った。

最近は、あの不思議な夢を見る頻度が上がっている気がする。


年に数度みるだけだった不思議な世界の少年の夢を、ここ最近は数日おきに見ていたのだ。


ぼんやりと、陽だまりの中で相沢少年は窓の外を眺めている。


ずらりと並んだ本。

机と椅子もまた、長く連なり配置されているその場所は勉学に励む者たちのための施設のようだ。


その窓際の一番端に、相沢と仲のいい友人たちは集まってノートを広げて勉強をしている。


「うぐ…っ、さいんこさいんたんじぇんとって何者だよ…っ!」

「…高橋、授業で三角比を習っただろう」


頭を抱え込んで苦しげにうめく高橋に、佐々木は呆れたように嘆息する。


「だから授業中居眠りすんなって言ってんだろ」


相沢がそう軽口をたたけば、高橋はますます頭を抱えて小さくなった。


「うぅ…。昨日はクランで狩りに行ってたからねるの遅くて…」

「またゲームか」

「またか…」


佐々木と相沢の言葉に、高橋はしょんぼりと項垂れた。


この高橋は”げーむ”好きらしく、げーむに夢中になって勉学を疎かにすることがよくあるのだ。


それを友人二人もわかっているようで、彼らの顔には仕方がないとばかりの表情が浮かんでいる。


「ミツ!」


ふいに、軽やかな声が相沢の名を呼んだ。


耳に心地よい少女の声に、相沢は急いで振り返る。


片手をひらひらと振った少女が鞄を手にして歩いてくる姿が映る。

その鞄についている水色の小さな人形は、相沢が彼女に贈った”すとらっぷ”だ。

ぶちゃっとつぶれた顔のオークに似た生き物が何故か果物を抱えている謎の物体は、少女のお気に入りの”きゃらくたー”らしい。

アイゼルにはその良さがまったくわからなかった。

相沢もまた、戸惑いながらもそのきゃらくたーを手にしたところを見るに少女の感性についていけなかったようだ。


まあ、それでも少女が喜んでいたのを見て己の疑問には蓋をして満足したようであったが。


「ごめん、掃除当番だったから遅くなっちゃった」

「いいって。まだみんな始めたばっかだし」


慌てて相沢の隣に鞄を広げて勉強の支度を始める少女に、相沢はそう言って声をかける。

にやにやと笑っている高橋の頭に手刀を落として、相沢は教科書に視線を落とす。


年若い少年たちの、何とない日常の情景がそこにはあった。


平和で穏やかな、午後の一コマだ。


アイゼルはただ黙って彼らの様子を見守っている。

柔らかな午後の陽ざしの中、熱心に勉学に励む彼らを。


(……。)


この幸せがいつまでも続けばいいのにと、小さく胸に抱いて。







うっすらと目を開く。


薄汚れた幌が視界に入り、次いでこちらを覗きこんでいる土気色の顔をしたリアンゼルの顔がうつりアイゼルは叫んだ。


「っぎゃああああ!」

「うぷっ…、」


何かを懸命にこらえる様子のリアンゼルは、リスのように頬を膨らませている。

その頬には木の実が詰まっているわけでもないだろう、アイゼルは悲鳴を上げるとその場に飛び起きてリアンゼルの背をつかむと大慌てで外へと引きずり出した。


「お□×△〇※△~…」


間一髪。

でろでろと胃液を吐き出すリアンゼルの背を撫でながら、アイゼルはだらだらと流れる冷や汗を拭った。

色々と危なかった。

これほど焦ったのは、この右目を負傷した戦争の時以来かもしれない。

あの時も死ぬかと思ったものだ。


ふうっと大きく肩で息をする。


吐き出したリアンゼルも落ち着いたのか、ぜえぜえと荒い息をしながら身を起こした。


「あ、ありがとう…アイゼル…」

「お、おう」


そう言って少しは落ち着いたアイゼルは辺りを見渡した。

どうやら少し開けた場所で野営の準備をしているらしい。


とまった馬車の向こう側に、炎の揺らめきが見えている。


「…大丈夫か?」


ちょうど夕食の支度をしているのか、煮炊きをするよい匂いが鼻をくすぐる。


ふらふらと立ち上がったリアンゼルは頷いて、ふらふらと身を揺すりながら歩き出した。


「ちょうど、夕食なんです…。僕はいらないって言ったのに…」


ぶつぶつと言葉をもらすリアンゼルは相当に気分が悪いようだ。


「…酔った時こそ、ちゃんと食べた方がいいんだぞ」

「そうなの?それは…頑張らないとなぁ…」


疲れたような笑みを浮かべて、リアンゼルの後を追ってたき火へと向かう。


そうしてぱちぱちと爆ぜるたき火の傍らで、アイゼルは衝撃に意識を飛ばしかけた。


「アイゼルッ!しっかり!」と腕を掴んでデュークが揺すらなければ、立ったまま気絶していたかもしれない。

それほどの衝撃だったのだ。


熊がいた。

火を囲む仲間たちの向こう。

生気の抜け落ちた虚ろな獣の目がアイゼルを見つめている。


「アイゼルー!元気が出るように、今夜は熊汁だよーっ!」


ひまわりのような晴れやかな笑顔を浮かべてレイナリースが言った。

彼女のかき回す大鍋からは、何やら熊の手がのぞいている。

さながら魔女の大鍋だ。


「レイナ嬢は狩りの名手ですね。こんな大物をあっという間に仕留めるなんてすごいです」

「う、うん…。しかも素手だもの…。すごいわ…」


ロザンナの賛辞に、どこか戸惑ったようなシアンの言葉が続く。


「アイゼル…、君のためにレイナが熊を狩ってきたんだよ…」


ぼそりと小声でデュークが耳打ちする。

ぎくしゃくと首を巡らせれば、きらきらと期待に輝く瞳と目が合った。


「あ、あ、あり…アリガトウ」


デュークに脇を支えられながら、アイゼルは震える喉を叱咤して振り絞るように声を吐き出した。


「ううん!いっぱい食べてねアイゼルッ!」

「ウン…ソウダネ…」


もう二度と熊は食べないと誓った日は遠く。


どんと目の前に盛られた皿からは獣の爪がのぞいている。

美味いのか美味くないのか。


夢の世界で言うならば高級食材であろう熊の手を前にして、アイゼルは唾を飲み込んだ。

せめて、爪は除去して欲しかったと思うのはアイゼルの我がままだろうか。



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