3.家
「レイナッ!!」
「っ、ごめんってばー。だって、これが危ないところだったのよ?許せないじゃない」
言いながら、レイナリースは片手で意識のないアイゼルの体を軽々と持ち上げてみせる。
物扱いされている男は、この際生きているのだし放っておいても構わないだろう。命の危険があるわけでもないのだし。
リアンゼルは返り血にまみれたレイナリースへ目を向けた。
「だからと言って、無暗に人を…、」
そう言葉を詰まらせるリアンゼルの顔色は悪い。
レイナリースから漂う血の臭いに酔ったのだ。
リアンゼルには見るのも耐え難い惨状だろう。
この兄は自給自足の生活を送りながらも、動物をさばくことが出来ないほど血に弱いのだ。
それゆえにもっぱら草ばかり食べることになったリアンゼルは、女のレイナリースよりも細身の体格となってしまったわけなのだが。
「…無暗に、人を傷つけてはいけないよ…」
「うーん…、気を付けるわ。ごめんねリアン兄」
わかっているのかいないのか。
不安になるけれども、レイナリースとて馬鹿ではない。きっとわかってくれるだろうと期待をして、青ざめた顔でリアンゼルはこの場に残るもう一人の男を振り返る。
レイナリースに投げ飛ばされた青年はゆっくりと立ち上がるところだった。
その瞳に映る理性の光に、リアンゼルは彼とならばまともな話し合いが出来そうだと思った。
一方のデュークもまた、軽々とアイゼルを担ぎ上げる謎の女よりか弱い風情の少女ならば話が通じそうだと算段を立てていた。
そうして先に口を開いたのはデュークだった。
この地に住んでいるらしい彼らに、自分たちが訪れた目的を伝えて敵意がないことを示そうとしたのだ。
「…私達はこの地に住まうという、黄竜様と竜騎士殿に会うために来ました」
その言葉にリアンゼルの頬はひきつった。
黄竜と竜騎士。あまりにも身近であったその言葉に、乱れた呼吸を整える。
今はこの地を離れた両親は、彼らが生まれるよりも以前にそのように呼ばれていたことを長兄から聞き及んでいたからだ。
さてどうしたものか。
彼らの目的は知れたが、だからといって敵ではないとは言い切れない。
竜の血を飲めば大いなる力が手に入るだとか、そんな噂話を信じて竜を討つ人間達も存在しているのだ。
下手に首を突っ込んでは、リアンゼルだけでなくレイナリースをも危険にさらすことになる。
ここは悟られないように彼らを追い返すのが無難だろう。
リアンゼルがそう考えを巡らせている横で、あっけらかんとした様子でレイナリースは口を開いた。
「黄竜?父さんのことなら今はいないわよ」
「ちょ、レイナッ!」
「なんと…、お二方は黄竜様のご息女であらせられましたか…。」
考えなしの妹の言葉を止める間もなく、デュークに真実を暴露されてしまい焦るリアンゼル。
慌てるリアンゼルをよそに、デュークは驚いたように息を飲み込んでいた。
だが、その言葉に引っ掛かりを覚えてリアンゼルは首をひねる。
彼は今、何と言ったか。傍らではレイナリースがぶほっと噴出した。
ゆっくりとその言葉を反芻し、そうしてリアンゼルは被っていた編み笠を勢いよく外して激怒した。
「僕は男だ!」
厚手の外套を羽織っていてもわかる細身に、幾分低い気もするが柔らかな声音だけを聞けば確かに性別を見誤るのも仕方がないのかもしれない。
何より隣にいるのがレイナリースだ。
彼女よりも大人しく楚々とした風情のリアンゼルが誤解されるのも無理はない。
素顔をさらしたリアンゼルだが、傍らの妹はけたけたと耳障りな笑いを立てて言った。
「でも兄さん女顔だから顔出したって変わらないしー!」
「……その、申し訳ない…」
ちらりとリアンゼルを見たデュークもまた、レイナリースと似たような感想を抱いたのだが賢明な彼はその言葉を飲み込んだ。
頭を下げるデュークに、リアンゼルは鼻息も荒く笑い続ける妹を振り返る。
「そもそも!レイナが女の子なのにがさつ過ぎるから間違われるんだ!!」
「え、そこで私のせいになるの?」
「君はもっと女の子らしくしないとだねっ、」
唐突に始まったリアンゼルの説教に、レイナリースはからかいすぎたかと天を仰ぐ。
「聞いてるのっ?!」
「はーい、聞いてまーす」
ぴしっと手を上げてレイナリースは元気よく答えた。
「レイナッ!!」
結果、リアンゼルの怒りは深まった。
必死な様子で顔を赤くさせて怒る兄を眺めながら、レイナリースは下を向いて反省の姿勢をとりながら今日の夕飯について思いを巡らせていた。
◇
それが夢だとすぐにわかった。
「はーっ、まじヤバいって」
「とりあえず明日の数学と英語だけは気合入れて勉強しろよ」
項垂れて歩く少年の肩をばしんと叩いたのは自分の腕だ。
黒い制服に身を包んだ、細い腕。
現実とはかけ離れたその夢を、アイゼルは頻繁に見ていた。
「なあ、佐々木は中間余裕なのかよ?」
振り向いた先、黒髪を短く刈り込んだ少年が不敵に笑っている。
「まあな。俺はお前たちと違って予習もばっちりよ」
「かっー!これだからマジメは!!」
そう言って騒ぐ彼の名は高橋。先ほどの佐々木と一緒に夢の中ではいつも一緒の友人だ。
「相沢だって俺と似たようなもんだろーっ?!」
勉強嫌いの高橋はすがるような目で見つめてくる。
相沢と呼ばれたアイゼルの口が、勝手に動いて言葉をつづる。
「あ、俺は昨日一夜漬けしたとこが出たからヨユー」
「ずるいぞ相沢ぁ!」
…どうやら彼らは仲が良いらしく、いつもこうして楽しげに笑っていた。
ひどく平和で、安全な世界。
この国とは違う、その不思議な夢を見始めたのはアイゼルがちょうど彼らほどの年のころだった。
「あ、ミツー!」
甲高い声が響く。
夢の中で、アイゼルの名は相沢光だ。
その下の名を呼ぶ者は、親を除けばただ一人だけ。
振り返る相沢少年の視線の先。
こちらに手を振る一人の少女の姿。
膝までしかない短いスカート、同じような色合いの制服から彼女も学校の生徒なのだろうと予想していた。
「ようっす! !」
高橋が威勢よく彼女の名を呼ぶ声が耳に届かない。
いつもそこだけ、霞がかったようにおぼろになってしまうのだ。
「ミツ、テスト一日目はどうだった?」
明るい少女の声がする。
彼女の顔を見ようと視線を上げた先、アイゼルの意識は急速に途切れてしまった。
◇
うすぼんやりとした視界に、見慣れない天井が映る。
ずきずきと鈍痛をもって響く腹を押さえて、アイゼルはうめき声をあげて身を起こした。
見慣れない部屋だった。窓ひとつない部屋は、一面だけ土壁で出来ていた。
ぼんやりと淡い光を放つ不思議なランタンには、炎ではなく白く丸い明かりが灯っている。
周囲にとりあえず身の危険はないようで、アイゼルは小さく息をついた。
そうして最後の記憶をたどる。
どうして自分は見知らぬ部屋に休んでいるのか。
「確か…俺はデュークとアグレールの山道を逃げて…、」
そうしてアイゼルは思いだした。
敵を瞬く間に蹂躙した、少女の形をした恐ろしい悪魔の存在を。
「ッデューク?!」
自分はあの悪魔の一撃で意識を失った。
あの場に残されたはずのデュークがいないことに気づき、アイゼルは湧き上がる焦燥感に舌打ちをする。
周囲に目を走らせるも、武器となるものは置かれていないようだ。
出入口は扉が一つ。
「くっ…、」
いまだに痛む腹を押さえて寝台を降り、そろそろと音を立てずに扉に張り付いた。
耳をそばだてれば、かすかに話し声らしきものが聞こえてくる。
「…が…、…ゼル…。」
「…きみ…か。」
ぼそぼそと交わされる会話。
その片方の声音がデュークのものと酷似していて、アイゼルは慎重に扉を開いた。
そうっと開いた扉の先は、どうやら民家のダイニングのようであった。
木で作られた床に壁。天井にはなぜか板を打ち付け補修したような跡がいくつもある。
大きな丸い木のテーブルに腰かけたデュークと見知らぬ少年が、和やかな様子で茶を口にしながら談笑しているではないか。
緊張にこわばっていた肩の力が抜け落ちた。
「…デューク。」
声を上げれば、慌てたように菓子に手を伸ばしていたデュークが振り向いた。
「アイゼル!気づいたのだな!!」
喜色満面に声をあげるデュークの向かいには、淡い蜂蜜色の髪をした少年が穏やかに微笑んでいる。
優しげなその笑顔に、殺気立っていたアイゼルもどっと肩の力を抜いた。
周りを見渡すと、小さい家だが白磁の並ぶ食器棚、大輪のひまわりが活けられた花瓶がテーブルの上に飾られておりどうやら彼の家らしいことがうかがえる。
…あの悪魔の姿はどこにもない。
自分が意識を失っている間に何があったのか。
あの人外の力を持つ悪魔を、たおやかな様子の少年とデュークの二人とで撃退したのだろうか。
ともかく、二人の落ち着きようからこの家は安全なことが知れてアイゼルは息を吐き出した。
「…あの悪魔はいないのだな」
安堵したようにそう吐き出せば、少年の肩がぴくりと震えた。
デュークの表情もまた、どこか気まずそうな様子で視線が彷徨っている。
「あの、アイゼル…?聞いてほしいんだが…」
「…」
何故だろうか。
嫌な予感がぬぐえない。
今にも逃げ出してしまいたい衝動に駆られるアイゼルに、非常にもデュークはその言葉を口にした。
「彼女なら、目覚めないアイゼルのためにヤマオオグマを狩りに行ったよ…」
「…クマの生血はせいがつくからね…」
二人分の憐みの視線がアイゼルに突き刺さる。
けれどもアイゼルは二人の視線を気にしているどころではない。
悪魔は狩りに出た?それも、凶暴で名の知れたヤマオオグマを狩りに?
そもそも、あの悪魔は少年と知り合いなのか?
そうしてアイゼルは再度室内を見渡した。
棚に並べられたカップ。数は五つ。…この家は少年だけの家ではないのだ。
家族がいるのだ。そうして、そのうちの一人はあの悪魔のような女なのだ。
頭で理解するより早く、口は言葉を吐き出していた。
「帰る、すぐ王都に帰るッ!!!」
渾身の叫びが小さな家を揺るがせた。
「落ち着きなさいッ!アイゼル!!」
「そ、そうだよっ!君は目覚めたばかりなんだから!無理しないで!何より勝手に帰られたらレイナが恐いッ!」
出口はどこだと歩き始めたアイゼルに、大慌てでデュークと少年が駆け寄ってくる。
取り押さえようとするデュークの腕を交わしながら、アイゼルは木製の扉い手をかけた。
ギィッ
扉が軋んだ音を立てて開いた。
アイゼルが何の力を加える間もなく。ひとりでに。
「…」
恐る恐る視線をあげる。
扉が開かれた先、アイゼルの眼前には虚ろな瞳があった。
鋭い牙が並んだ口元からだらりと垂れる長い舌。
クマだ。赤茶色の毛並みの、大きなクマだった。
生気の抜けおちた黒い瞳がアイゼルを映す。
その眼はまるで「次はお前だ」と告げているようであった。
「…あ、目が覚めたの?よかったー!」
場違いに明るい声が響く。
クマの頭が眼前からどけられ、その下から鮮やかなひまわり色の頭がのぞく。
生き生きと力に満ち溢れた瞳と目が合った。
鳶色の瞳は鋭くアイゼルを穿ち、その薄い唇には笑みが浮かんでいる。
「…。」
「大物を仕留めたから、いま捌いてあげるね!」
頬を染めて笑う少女。
その頬に飛んでいる血しぶきさえなければ、愛くるしい乙女そのものだ。
「……ワァ、タノシミダナァ。」
ぜんまい仕掛けのように、それだけ言ってアイゼルはかくかくと踵を返してデュークの前まで戻ってくる。
ふるふると小刻みに揺れる彼を苦笑交じりに見やってから、デュークは立ち上がるとクマを担いだ少女へと手のひらを向けた。
「ほらアイゼル、正気に戻って。あちらが私たちが尋ねにきた黄竜殿のご息女、レイナリース嬢だ」
ばっと音が出るほど首を回してアイゼルがクマを…もとい、レイナリースを見た。
「はぁい!」
ひらひらと血に濡れた手を振り返すレイナリースに、これまた素早く首をもとの位置へと戻す。
小さく左右に振られる続ける首はデュークに無言で『無理無理無理無理』と言っているようであるが、デュークは気づかないふりでレイナリースへと笑顔を向けた。
「そしてレイナリース嬢、これが騎士のアイゼルです。仲良くしてあげて下さいね」
「うきゃー!よろしくねアイゼルっ!」
はしゃいだように上がる高い声。
アイゼルは絶望の眼差しでデュークを見やった。
探し求めていた黄竜の縁者だろうと何だろうと、一振りで刺客を鎮める女と関わり合いになどなりたくもない。
アイゼルは安全志向なのだ。安全第一。
危険物そのもののような彼女とはお知り合いにはなりたくはないのだが…。
「……よ、よろしく」
そう思っていても、アイゼルは大人だ。
ぴくぴくと震える口元を引き上げ、歪な笑みを浮かべてみせた。
「うんうん!末永くよろしくねーっ!」
「…うん?」
末永く、だと?
アイゼルは浮かべた笑みもそのままに硬直した。