ヴァレリーとベン
翌朝、早朝から女王杯に出場するために会場である王都に向かう準備をするヴァレリーにベンが慌てて駆け寄った。
「ヴァレリー!出場するつもりなのか?女王杯に!」
「ええ、心配かけたわね。ベン。ちょっと鈍ってるかもしれないけど平気よ。」
2週間近く眠っており、体力も落ちて鞍を着けるのもふらつきながらのヴァレリーなのだが明日開催される女王杯に出場する気持ちは揺らいでいなかった。
「昨日まで臥せってた奴がよく言うよ」
ベンは鞍を取り付けるヴァレリーの手を取った
「?ベン?」
「行かせないぞ。」
ヴァレリーの体を心配して。それだけではないようだ。ヒューバートから見えるベンの瞳には燃えるような感情が宿っている。
「どうしたの?ベン。わたし、本当に平気よ?病気だったって訳でもないんだから…」
「子爵のどこがいいんだ!あんな薄情な奴!」
大声を出したベンにヴァレリーは驚いていた。普段こんなに声を荒げる男ではなかったから
「ベン、だって、ヒューバート様はわたしの婚約者だし…」
ベンの剣幕に戸惑いながらヴァレリーは言い返す
「あいつと婚約して、それからあいつは君に何をしてくれたっていうんだよ。会いに行くたびにしょんぼりして帰ってきておいて…!嫌味みたいに暴れ馬を寄越して…」
ベンの口を通して自分がヴァレリーに対して行った行為にショックを受けた。
「君が女王杯に出場したって、あいつは気にも留めないさ。自分の名誉だけにしか目がない冷たい男だよ!「氷の貴公子」だって聞いてるだろ!」
「やめてベン、手を放してちょうだい。」
掴まれた手を振りほどこうとするヴァレリーをベンはその逞しい胸に抱いた。
ヒューバートは驚きと嫉妬を感じたが、頭を激しく振って苛立ちを表現することしかできない。今はただ、彼女を抱きしめることが出来るベンが羨ましくて仕方がなかった。
「子爵との婚約が断れないなら、君を攫って、田舎で暮らしたっていいんだ。馬は一頭ずつしか連れていけないかもしれないけど…」
熱く語るベンの胸を押してヴァレリーは距離を取る。
「ヴァレリー…。」
俯いたまま、ヴァレリーは首を振る。離れた距離を取り戻そうとするベンの腕は空中に留まったまま
「ヒューバート様は、…彼は、とても寂しい方よ。」
俯いた顔を上げたヴァレリーははっきりとそう言った。
ベンを見る瞳は静かだった。ベンもヒューバートもその静かな美しさに見とれた。
「だから、彼に会いにいかないといけないの。明日でないと駄目なのよ。」
(ヴァレリー、貴女は何を知っているのだ)
彼女が眠っている間、何かが起きたのだという事しかヒューバートには分からない。
ベンはしばらく俯いて拳を握っていた。そして想いを吹っ切るように顔を上げる。
「分かったよ。言い出したら聞かないもんな。お嬢様は。」
ベンが『お嬢様』と呼んだ。それは彼がヴァレリーから決別した意思表示だろうか
「ただし、せめて何人か付き添いを連れて行ってくれよ。また倒れられたら困るし、子爵の奴に会うのに身支度だって必要なんだからな。」
涙をこらえているのか少し鼻を赤くして強がるベンにヴァレリーは「ごめんなさい」とは言えなかった。代わりにいつも通り彼に接するよう明るく笑った。
「わかったわ。ベン。」