ヴァレリーとヒュー
「ヒュー、心配なのは分かるから。頼むから離れてくれ。」
ベンの後ろを付いて行こうとするので仕方なく黒馬は厩に繋がれ、ヴァレリーはそのまま自宅に運ばれた。
それから4日、ヴァレリーはヒューバートの元に来なかった。代わりにベンが世話をしに来たが、与えられた飼い葉や水を口にする気が起きなかった。
厩の小さな窓から見える星に祈るほど、ヒューバートは倒れてしまった彼女が心配だった。
翌日、口にされない飼い葉を取り換えに来たベンはヴァレリーの住む屋敷のすぐ傍にある厩へヒューバートを移動させた。
「ヴァレリー、まだ目を覚まさないんだけどな。ずっとお前の名前を呼んでるんだ。うなされながら…。」
ベンが見上げた先に窓の開いたバルコニーがある。おそらくヴァレリーの寝室なのだろう。ずっと眠っているのだ。ヒューバートの名前をつぶやきながら。
「ま…、お前なのか、子爵さまなのかは分からないけどな。」
きっと黒馬の名前だろう。婚約が決まってからも名前で呼び合うような親密な関係になったことはない。
バルコニーを見上げるベンの横顔があまりに悲壮だったのでヒューバートは彼の準備した飼い葉を一口食べて、背中をブラシ掛けさせるのも嫌がらなかった
それからまた一週間。ヴァレリーが目を覚ましたという話は聞かなかった。
たとえ目を覚ましたといってもただの馬に報告など来ないだろうが、ヒューバートを世話するベンや厩番の様子を見れば事態は好転していないのだろう。
*****
夜が更けて星と欠けた月が辺りを薄暗く照らしていた。
天気のいい昼は開いているバルコニーの窓は今は閉じられている。初夏とはいえ夜は冷える。風に揺らめく白いカーテンは見えない。
そう思って目線をバルコニーから下げたヒューバートの視界に白くふわりとしたものが見えた。
「ヒュー…。」
ヴァレリーだった。
白くて薄い夜着一枚でヒューバートの前に立っている。
随分痩せて、日に焼けていた頬も青白い。
(まさか)
心配したヒューバートの鼻をヴァレリーの小さな手が撫でる。温かい。良かった、生きている。
「ヒュー…」
頬を撫でられて、頭を抱き込まれて暫く二人で目を閉じていた。彼女の鼓動が聞こえることに酷く安心していた。彼女は囁くように「ごめんなさい」と謝罪の言葉をつぶやいている。
何を謝ることがある。
(目が覚めてよかった)
ヴァレリーがまた笑ってくれるだけでいいのだ。
家族や周りの使用人、そして馬であるヒューバートたちにも分け隔てなく愛情を惜しみなく注ぐ彼女が、あのまま目覚めないなんてことが許される筈はない。
(ヴァレリー)
心を込めて彼女の名前を呼ぶ。彼女には聞こえないだろうが。
だが、彼女はヒューバートの声が聞こえたように微笑で答えた。
彼女を愛している。
馬の躰になった身で、いや、馬になったからこそ気付けたのかもしれないが、ヒューバートは今まで生きてきた中で初めて魂が震えるのを感じた。
同時に改めて己の姿に絶望を感じた。
彼女が倒れた時に抱きとめてやれず、傍に寄り添っていてやれなかったことが辛い。
そしてこれからも彼女に愛を告げることが出来ないことが辛かった。
絶望感に心を痛めているヒューバートの首元をヴァレリーはずっと撫ぜていた。
「ヒューバート様」
ヴァレリーがヒューバートの名前を確かにつぶやき、ヒューバートの胸はどくんと高鳴った
「わたし、ヒューバート様にどうしても会わないといけないわ…。」
彼女はヒューバートを「子爵様」と呼んでいなかったか。と疑問に思った。
「一緒に行ってくれる?ヒュー。」
ヒューバートは答える代りにヴァレリーに額を寄せる。