ヒューバートとヒュー
黒馬が疲れてしまったのだと思ったヴァレリーはしばらく歩いた所にある沢に馬をやり、ヒューバートに水を飲ませ、ブラッシングをした。
「ヒューは走るのが好きなのね。こんなに遠くに来ちゃったわ。」
楽しげに肌を擦ってくれる手の心地よさにヒューバートは目を細めた。
ヒューバートも馬を走らせることが好きだった。
金儲けが好きな父。社交界で目立ち、派手に暮らすことが好きな母。年の離れた兄と姉は偉そうにしているが結局のところ親の威光を笠に着ているにすぎなかった。
幼いヒューバートが良い成績でメダルをもらおうと、乗馬の協議会で優勝しようと誰も見向きもしなかった。向けた好意を素直に返してくれる馬だけがヒューバートの友達だった。
しかしヒューバートが成人し社交界に出るようになると周りの見る目は掌を返すように変わった。
美しい容姿の紳士を恋人にしようと淑女は躍起になり、ヒューバートに言い寄るだけでなく恋愛遊びやゴシップ好きな母親や姉を丸め込んで無理矢理二人きりにされたり挙句の果てはベッドに忍び込まれもした。
父親はヒューバートが大きなレースに出るようになるとスポンサーを付け、儲けはすべて自分のものとした。
さらなるレースの勝利と儲けに執着した父親は、ヒューバートから馬の管理も奪い取り、専門の厩番を雇い競走馬のケアをさせた。その間母親に連れられて夜会に出席させられる。
ヒューバートは社交界に煩わしさしか感じず、馬を操ることだけに集中した。
父親が用意した競走馬は若い雌の馬だった。その頃に知った婚約者と同じ名前の白馬。従順だが何処か悲しげな瞳をした馬だと思った。厩番とそりが合わないのか、白い毛並みにところどころ血が滲んでいるのを見た。
そういえばヴァレリー…俺の白馬はどうなっただろうか。
女王杯という権威のあるレースにも関わらず、父親は他の競技者を買収してヒューバートを優勝させたという事実を祝賀パーティーの最中に知った。そんな事をしなくても勝てる自信はあったのに。そして父親に自分の実力を信用されていなかったことにショックを受け、さらに父親に期待していた自分に幻滅した。
こんなことになるなら怪我なり体調不良なりの理由をつけて棄権しておけばよかった。
父や母の打算に満ちた瞳。女たちの自己顕示欲に満ちた獣のような瞳。
ヒューバートは募った苛々を優しい白馬にぶつけてしまった。
足が折れていたか。すまないことをしてしまった。
白馬がもしも生きていれば謝ろう。この姿なら彼女と言葉が通じるかもしれない。
「再来週の女王杯の障害物にヒューと出ようと思っているのよ。」
ヴァレリーの言葉に傍にいたベンだけでなくヒューバート自身も驚いた。
「本気かよ、ヴァレリー!」
「あら、本気よ。ヒューなら出来るわ。」
女王杯はトラックを回るレースのほかに障害物を既定の順序で越えていく競技がある。黒馬は飛んだり跳ねたりが好きだから参加させようということなのだが。
(女王杯だって!?)
つまりヒューバートはあの雷に打たれ、3か月前まで時間を飛び越えて馬となったという事か。
そうなると、人間のヒューバートも確かに今ここに存在し、白馬のヴァレリーもまだ生きているということになる。
「そりゃあ、コイツはヴァレリーの言うことだけはよく聞くし、足腰もしっかりしてるから…。」
「そうでしょう!」
ヴァレリーは緑色の瞳をキラキラさせた
「きっと、子爵様も女王杯に出場されるでしょう?この子がとっても素晴らしい良い子ですよって報告して差し上げたいの!きっと喜んで下さるわ!」
夢見るように目を輝かせるヴァレリーにベンはあきれ顔だ。こうなるとヴァレリーは意見を曲げない性格のようだ。
ヒューバートも決意した。女王杯の会場に行って、人間のヒューバートが己自身なのか確認したい。そして白馬のヴァレリーにこれから起こることを教えてやらなければ。それが馬の姿になってしまった己の使命。そして白馬に傷を負わせてしまったせめてもの償いになればと意気込んだ。
「ヴァレリー?」
気合を入れて厩舎から競技場にでたヴァレリーがふらりと傾いた。慌ててベンが駆けつける。
「大丈夫か?」
「平気よ…なんだか、眩しくて、眩暈が…。」
ベンに支えられて日陰に移されるが、ヴァレリーはそのまま気を失ってしまった。ヒューバートはどうすることもできなくてそわそわとヴァレリーを抱きかかえたベンの周りをうろつく事しかできなかった。