ヒューバートという男
ヒューバート・ダンヴィルは完璧な人間だ。
子爵家の次男に生まれ、乗馬が得意で様々なレースに出場し栄冠を勝ち取るほどの腕前。休日には狩猟に出かけ、獲物を狙う様はまるで神話に出てくる狩猟の神のようだと称賛される。
加えてしなやかな筋肉をまとった高い背、広い背中に、つややかな黒髪と少し垂れ気味の榛色の瞳。高い鼻と程よい厚みの唇を持ち合わせた甘いマスク。ひとたび彼が社交の席に現れれば出席した女性は皆、彼に群がるのも頷ける。
彼は完璧な人間だから。
ただ、完璧な彼にも欠点があった。
彼は酷く冷たい男だということ。
まっすぐな太めの眉は常にその中心に皺を寄せていて、引き結ばれた唇は口角を上げることを知らない。たまに笑う時もあるが、それは専ら人を嘲笑するときのみに使用される。
完璧であるが故の欠点であると数少ない友人は言うが。
社交界では彼を「氷の貴公子」と陰で呼んでいた。
「おい、ヒュー。景気の悪い顔をしてるんじゃないよ。まあ飲め。」
その数少ないヒューバートの友人がグラスを片手にやってくる。ヒューバートは眉間の皺を緩めずに彼からワインの入ったグラスをひったくった。
「わんさかと湧いてきやがって。身動きも取れやしねえ。だからパーティーは嫌いだ」
ご婦人の聞くに堪えない悪態を付いたがここは壁の隅だから問題ない。
「お前のレースの優勝記念だろう。主役のお前が居なくてどうするんだよ。」
「どうもしねえ。今だって俺が居なくったってパーティーはトドコオリナク進んでるじゃねえか。」
レースの主催者や出場者なら致し方ないが、見たこともない「知り合い」が自分に媚び諂って群がってくる。俺の何が欲しいんだか知らないが。そういった欲にまみれた目が大嫌いだ。
ワインを一気に飲みほしてグラスを転がす。
「まあまあ。ヒュー。せめて婚約者どのに挨拶ぐらいはして帰れよ。」
友人が目線で示すと、会場の隅の壁際に一人の少女が所在無げに立っていた。
ヒューバートはあからさまに舌うちをし、友人はそれに苦い顔をした。
曽祖父の遺言で婚約者となった辺境の男爵令嬢。彼女の目の前に立つと、ヒューバートに怯えるように肩が跳ねて俯いたままでもごもごと挨拶の言葉をつぶやいた。
田舎育ちのあか抜けないドレス。お古なのか分からないがサイズも合っていなくて肩がずり落ちそうになるのを必死で引き上げる様が無様だ。とヒューバートは冷たい目で婚約者を見下ろして会場を去った。
引き上げる廊下でも妙に胸元を強調したドレスや鼻が曲がりそうになる香水のにおいを纏った女たちが寄ってきたが虫を払うようにしてヒューバートは厩へ足を運んだ。
厩で休んでいる馬たちに一際美しい白馬が居た。ヒューバートの馬だ。
三年前に手に入れた雌の馬で、レースに出場したのもこの馬とだった。白馬が心配そうにこちらを見ている気がしたがヒューバートは白馬に鞍をつけて跨った。
家路につくでもなく辺りを走り、やがて雨が降り始めると白馬が足を止めた。
「どうした。走れ。」
胴を蹴るが馬は足を動かさない。連日のレースと先ほどの走りで疲れが出たのか。ヒューバートは馬の管理を厩番に任せているのでそれが分からない。息は上げていないので疲れてはいないように見えた。
白馬はやはり心配そうな眼をこちらに向けていた。
「なんだその眼は!走れよ!」
馬に同情される筋合いはないと鞭で腿を叩く。
同情!?「同情」だと?
「この俺の、何処に同情するところがあるんだよ!」
白馬の白い毛並みに血がにじむ。白馬はそれでも嘶きを上げず、動こうとしない。
貴族の家に生まれ、優れた容姿、優れた能力。
悪態を付いてヒューバートは白馬から降りる。白馬はしばらくヒューバートの後姿を見つめていたがやがてとぼとぼと彼の後ろを付いて来た。ヒューバートはわけのわからない苛立ちを込めて振り向きざまに白馬の首元を殴った。
雨が強くなって白馬とヒューバートを濡らす。
馬は一瞬ヒューバートを驚きの目で見たが、ぼきんと硬いものが壊れる音と共に濡れた地面に倒れこんだ。
殴った拍子にバランスを崩し、足が折れていた。
馬は立った状態でないと己の生命を維持することができない。寝ころんだままだと自重で内臓がつぶれてしまうのだ。骨折をすると馬はよほどのことがない限り死を選択する以外ない。
不思議な方向に曲がった足をばたつかせて荒い息をする白馬を一瞥して、ヒューバートは白馬に吊るした荷物をひったくり、雨の中を歩き始める。
雨脚は強くなり、雷が轟いている。
「ヒュー!」
呼ばれた気がして足を止めたヒューバートに雷鳴が響いた。