いつのまにか別ルート!?
ニイ、と彼の唇の端が持ち上がった。
私を罵る男達の後ろの、愉悦に歪んだ眼差しに身体が震えた。
この馬鹿げたイベントを起こした黒幕を、私は迂闊にも勘違いしていたようだ。
「今更そんなか弱そうな演技をしても無駄だ」
「お前のせいで茉莉香は傷付いたんだぞっ!」
「黙ってないで何とか言いなよ~」
ドン、と肩口を突き飛ばされて、よろめいてしまう。
「み、みんなっ! 暴力はダメだよっ。元はと言えば私がみんなと仲良くなったから。だからっ」
「茉莉香は優しすぎる。こんなヤツに慈悲をかけてやる必要なんてないんだ」
「そーそー。いっそ退学にしちゃったらさ、他のうるさい虫達もちょっとはおとなしくなるんじゃなーい?」
「いいな。オレ達全員が証人になれば、いくらコイツが綾小路家の令嬢でも、退学とはいかなくても何らかの処罰は免れないはず」
「そんな。みんなが逆に綾小路さんに恨まれたら、私……」
「大丈夫だ。コイツがまた何か仕掛けてきても、俺達がお前を守ってやる」
「茉莉香は心配しないで良いよー」
「オレ達がこんなヤツにどうこうされるはずないだろ?」
茫然とする私の前で、あれよあれよと言う間に茶番が進行していく。
そもそも、私はさっき呼び出されただけだ。
クラスメイトの女の子から教師が呼んでいると聞き、空き教室へと足を踏み入れた途端に突然、甲高い悲鳴がして、彼らに糾弾された。
ボロボロになった教科書。切り刻まれた体操着。
それらはおそらく、この春転校してきた『姫野茉莉香』のものだ。
薄茶色のふわふわの髪にくりくりとした琥珀色の瞳の可愛らしい彼女は、転校してきたその日からこの学校のイケメン達を次々と虜にした。
いわゆる良家の生徒ばかりを集めたこの学校で、天真爛漫で庶民的な彼女の存在はとても異質で、眉を顰めるものでしかなく。
当然のごとく、学校中の、特に女子から蛇蝎のように嫌われている。
イジメに近い嫌がらせも度々あるらしいが、私は一切関知していない。
大事なことなんでもう一度言う。
私は一切関知していない。
だいたい、自分が乙女ゲームの悪役キャラだと判ってる人間が、馬鹿正直にヒロインを苛めて破滅する道を選ぶはずがない。
婚約者の攻略対象とも必要以上に関わらず、婚約破棄される近い未来のために自分を磨き、ヒロインとの接触も慎重にスルーしてきた。
たとえヒロインが自作自演でイベントを起こしたとしても、私が彼女に無関心だということは周りが良く理解している。接点すらない人間をイジメの主犯に仕立て上げるのは、些か無理があるだろう。捏造された証拠や曖昧な証拠など、きちんと調べるならば必ずどこかに矛盾があるのだ。
なのに、これはどうしたことか。
目の前には泣いているヒロインと、私を睨み付ける攻略対象達。
そして……
「そんな怖い顔で威嚇したら、玲那嬢はますます素直に話してくれなくなりますよ」
場違いな程ににこやか笑みで、竜ヶ崎祐が柔らかく皆を制した。
スッと足を進め、私の前に立つ。
眼鏡の奥の紫紺の瞳がひたりと私に注がれたまま、微動だにしない。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、私はその場から動くことは出来なかった。
「玲那嬢、貴女も仕方のない人ですねぇ。そんなに僕に構って欲しかったんですか? 僕のお気に入りの茉莉香にこんな悪戯までして……。そうまでして僕の気を引きたかったなんて、ずいぶん可愛らしいことをしますね」
「え、違っ」
「祐? 何を言ってるんだ! これは茉莉香へのイジメだろう」
「そ、そうだよ祐君! 私、何度も綾小路さんに嫌がらせされたんだよ」
予想もしていなかった竜ヶ崎の言葉に、誰もが一瞬言葉を失い、すぐさま否定した。
竜ヶ崎はそれらを華麗に無視して更に笑みを深め、また一歩、私との距離を縮めた。
「ああ、嫉妬してたんですね。婚約者をそんなに不安にしていたなんて、気付きませんでした」
「違うわっ、嫉妬なんて」
「でも」
また一歩。
竜ヶ崎の顔が近付く。
『氷の貴公子』と呼ばれる綺麗な顔が、私だけを見据えて微笑む。
「本当に貴女が茉莉香を苛めていたのなら、婚約者としてきちんと断罪してあげないといけませんね。そうですね……手始めに、貴女の素行を綾小路グループの取引先にお伝えして、うちも契約を打ち切るように手配する……とかですかね?」
「やめてっ! 私は苛めてなんかいないわ」
咄嗟に叫んで、首を振った。
一般庶民のヒロインとは違い、竜ヶ崎なら『いかにも真実だと思われる証拠』を捏造することくらい容易くやってのけるはずだ。
噂だけならまだしも、実際に竜ヶ崎家との取引が中止になれば、他の会社も追従するかもしれない。
ヒロインの取り巻き達だって、綾小路グループと手を切る。そうなれば、綾小路家はあっという間に没落していくだろう。
たかが子供の言葉。
だけど、経営に深く関わっている竜ヶ崎の言葉は、『たかが』なんかでは済まされない。
血の気の失せた私の頬を、竜ヶ崎がゆっくりと撫でた。
優しさすら感じさせる動きだけど、私にとっては恐怖しか覚えない。
「嫉妬、したんですよね?」
はっきりと区切るように紡がれた言葉に、吐き気が込み上げてくる。目の奥がズキズキと刺すように痛んだ。
最悪だ。
ゲームにはないエンディング。だけど、ここはゲームの世界じゃない。
そんな当たり前の事実にようやく気付くなんて、私はなんて馬鹿だったのだろう。
「あ……」
「玲那?」
答えを強要する声に喘ぐように首肯するが、竜ヶ崎は許さない。
狂気を孕んだ暗い瞳が私を縛り付ける。
カラカラに渇いて貼り付いた喉から、掠れ、嗄れた声がこぼれた。
「しっと、しました」
「やっぱり。それならそうと早く言ってくれれば。いえ、僕がアレにばかり構っていたのがいけないんですね。ふふ。嫉妬だなんて、本当に可愛らしい。貴女は恥ずかしがり屋で素直じゃないですから。でも、安心してください。僕が誰を愛しているのか、これからじっくりと教えてあげますよ」
正解を誉めるように、竜ヶ崎は麗しい笑顔を浮かべて、震える私を抱き上げた。
「祐君!?」
「祐、ソイツをどこに連れて行くんだ? ソイツは退学に」
「退学? まさか。玲那は僕の婚約者ですからね。僕が責任持って躾てあげましょう。二度とこんなことがないようにね」
攻略対象達は、真っ青な顔でぶるぶると怯える私と竜ヶ崎を見比べて、何かを悟ったふうに頷いた。
「殺すなよ」
「はは。嫌だなぁ。ちょっと玲那嬢に自分の立場を理解してもらうだけですよ」
「……あーあ、鬼畜な副会長のお仕置きじゃあ、退学の方がマシだったかもねぇ? ご愁傷様ー」
ニヤニヤと笑う攻略対象達と、「え? シナリオと違うわよ。これって間違って別ルート入っちゃったってこと?」と焦るヒロインを無視して、竜ヶ崎は私を抱えたまま歩き出した。
「ほら、玲那。皆が僕達を見てますよ。まるでヴァージンロードを歩く新郎新婦みたいですね。……若干、玲那に不埒な視線を送る輩もいますね。ちゃんと後で潰しておきますから安心してくださいね」
「り、竜ヶ崎様、逃げませんから、どうか下ろして」
お姫様抱っこで校内を闊歩され、私の気力は底辺に近い。
放課後だがそれなりに生徒は残っている。
悲鳴だか怒号だか罵声だか歓喜だか判らない声があちこちから上がり、私は泣きそうな声で竜ヶ崎に懇願した。
「祐」
「はい?」
「祐、ですよ? もうすぐ玲那も『竜ヶ崎』になるんですから、今から名前で呼ぶ練習をしないと」
「……祐、さん」
『竜ヶ崎様』と呼んだ瞬間、ひやりと冷気が吹き付けた気がした。
促されるまま名前で呼ぶと、瞬く間に冷気は消え失せ、反対に柔らかな空気に包まれる。
「はい。何ですか?」
竜ヶ崎の蕩けるような微笑みに、周りから黄色い歓声が沸き上がった。
「お願いですから、下ろしてください」
「本当に玲那は恥ずかしがり屋ですね。周りが気になるようなら、もっと僕にしがみついて顔を伏せていると良いですよ」
キュッと抱き締める手に力がこもる。
これっぽっちも下ろす気のないと、笑顔のままに私の懇願を却下した。
「あぁ、そんな可愛い顔を他の男に見せないでください。これ以上玲那に懸想する男を増やしてどうするんです。……そうか。今度は僕に嫉妬させたいんですね? そんなことしなくても、僕は玲那だけですから」
「祐さん?」
「なんならここでキスでもしましょうか? 僕と玲那がどんなに愛し合ってるか、見せつけてやりましょうね」
ふふ、と小さく笑って、竜ヶ崎が唇を寄せた。
違う。
私は竜ヶ崎を愛してなんかいない。
そう声を限りに叫びたかった。
だけど、私の眼裏を大切な家族の顔がよぎってしまう。
私が拒否すれば、きっとこの美しい悪魔は、躊躇いなく綾小路グループを潰しにかかるだろう。
暗く暗く暗い瞳が怖くて、私はぎゅっと目を閉じて竜ヶ崎の冷たい唇を受け入れた。