『8』六月下木曜朝
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午前の静かな教室。その部屋の中には今、千代子しかいない。千代子はそんな静けさを気にすることなく黙々と準備を開始する。
用意するは硯、書画皿、とき皿、プラスチックコップ、筆数本、布数枚、雑巾、新聞紙、ダンボール、座布団、水入りペットボトル(硬水)、水道水(軟水)。千代子は朝一で文房具八百万店から買ってきた色紙と巻紙を袋から取り出して置き。
「ふふふ」
不気味な笑い声を小さく響かせながら、残りの一つ固形古墨を取り出す。
「ふっふふ!ふふ、ふふふっ!」
たまらないといった様子で墨が入った箱に頬ずりをする千代子。
「バイト代半分使っちゃったけど、悔いはない!ないよ!」
ちなみに千代子のバイト先は時給九百円(保険手当て無し)だ。手の平サイズの古墨。中々の高価格の品。靴を脱ぎ、床に敷いた座布団上に正座すると千代子は震える手で箱を開けた。
若干息が荒い。
「は、ふ、ふふ…」
怪しい。
静かな教室内で小さく笑いながら千代子は墨を引き抜き。手の平において、その質感を楽しむ。
ひんやりとしている。市販の物より少し、気持ち、柔らかい気がする。市販の物より軽いような気もする。
顔を近づける。クンクンと匂いを嗅ぐと、普段の物より風味を感じた。千代子的に。
先っぽをにちょこっとだけ舌を当ててみる。舌を戻し、口の中で静かに味わって。
「独特さがましたような…若い味とは違うような…」
口を開けて先っぽを噛んでみようとして、一瞬躊躇う。
「も、もったいない…いや、でも、この墨は今回だけしか味わえないもので…」
ゴクリッ。
唾液を飲み込み、深呼吸。
「し、失礼します…!」
「山田、お前は変態か」
ペシリ。
頭を軽く叩かれた。千代子は顔を上げる。隣には白衣を着た男性教諭が立っていた。
「佐藤先生…」
泣きそうな千代子を見て、佐藤は静かにタメ息をつく。
「今回の水墨画の特待生がお前だけだからいいが、他の生徒にこんな姿見られたら、頭の中身を疑われるぞ」
「見られなければ…佐藤先生ちょっと後ろ向いてもらっても」
「イヤだ」
「…瞼を一分ほど瞑ってもらっても」
「イヤだ」
「…じゃあ、三十秒ほ」
「イヤだ」
「…にじゅ」
「イヤだ」
「じゅう」
「しつこい」
「……」
「……」
「…あ!UFO!」
「古い」
「あ、佐藤のご飯!」
「腹が立つ」
「……けちっ」
「あ?」
鋭い眼光で睨まれて、千代子は渋々と噛むのを諦めた。座布団に座って佐藤を力なく見上げる千代子。
「…今、帰ってから噛めばいいやって思っただろ」
「!」
目を見開いて固まる千代子。佐藤は眉間にシワを寄せて、ため息を吐いた。
**
午前中の柔らかい太陽の光を浴びながら、真剣に硯で墨を擦っていく千代子。硯の表面に今日の気分の水を垂らし海(液体を溜めてる部分)に少しづつ増やしていく。
「あ、ぁあ…」
千代子の口から思わず漏れる感嘆の声。息づかいが微妙に荒い。否、墨を手にしてからずっと荒い。高揚した頬、潤んだ瞳、息づかいと共に震える唇。若干エロい。
「…山田、俺はこの場面を見られて、変な噂を立てられない自信はない」
「…?」
邪魔しない距離の隣にしゃがみこんで、半眼でそんなことを言ってくる佐藤。千代子は意味が分からず首を傾げた。手の動きは止めず訊く。
「それで、佐藤先生は何故いらっしゃったんですか」
「なんか、早く帰ってほしそうだな」
「……」
「否定しろよ」
「…えっと、担当していただきありがとうございます?」
「疑問系をつけるな」
「先生は注文が多いですね」
「…ちっ」
「あ、舌打ち…」
床に尻をつけてドカリと座ると、佐藤は呟く。
「やっぱり、いいモノを生み出す人間は奇人ばっかだな…」
片膝を立てて千代子の瞳を覗きこむように見つめ。
「ところで山田千代子」
「はい」
「この大学はサークル入会が必須なんだが、この時期になり一年で届出が出てないのは山田だけだ」
「……えっと」
目を見開く千代子。
「…出ないのに入るんですか…?」
「ほう、最初から出る気がないとは、いい度胸だ」
「…お金かかりますよね?」
「会費はサークルによるな」
「そんな無駄な事より画材に回したいです…」
「正直すぎだろ」
呆れた目を向ける佐藤。
「まあいい」
佐藤は手を止めて筆を選び始めた千代子を見ながら言う。
「俺は馬鹿がつく水墨画マニアのお前を気にっている」
そうポツリと言われ、チラリと佐藤を見る。千代子の瞳は不思議そうだ。
「だからまあ、なんだ、俺が受け持つサークルならずっと仮入部状態にして、会費を免除してやってもいい」
「えっ」
「他にバラすなよ」
「わ、ぁ…」
ジッと佐藤を見つめる千代子。
薄黒い瞳が揺らめいている。
「貴方様は本当に佐藤先生ですか…?」