『2』十二月上金曜夜
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やかんのお湯が沸いた。
寒い時期の沸騰した湯気の白さを頬に当てながらカップラーメンに湯を注ぐ。フタを閉じて箸と小皿をその上に乗せて、カーディガンを羽織っている状態で家をそのまま出た。
のんびりと坂道を下りていく。小さな屋根に小さな鳥居に狐の像。大学のキャンパスで買って使っている小皿の一枚を狐の像の前に置く。
「そろそろいいかな」
カップの蓋を開けて、中の甘い油揚げを皿上に乗せた。
「いただきまーす」
コンコン。
カップラーメン(麺はうどん)を啜りながら、千代子は夜空を見上げる。欠けた月がホワホワ淡く光っていて綺麗だ。
「明日、バイト終わったら飲み会に行かなきゃいけないんだよねー」
湯気が上がる甘い汁を飲んでは、合間合間に呟く。
「ご飯に、油揚げ系出ないかなあ…タッパ持っていってもいいかな?」
コンコン。
「あ、飲食店でそんなことしたら怒られちゃうか…コンちゃんも一緒なら最初からそーいうメニューを…」
立ち食いを終えて、手を合わせてごちそうさまと呟き、チラリと皿を見る。
上には何も乗っていない。
皿をカップに入れて帰路に向かう。玄関について、サンダルを脱ぐ時、足を柔らかく温かい、もふりとした筆のような質感が撫でた。
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「僕、千代子ちゃんのこと狙っとるんや」
忘年会シーズン、慌しく喧騒わきかえる居酒屋。
飲みも中ばんになった所で、千代子はバイトを終えて居酒屋にやって来た。座った途端、大学のキャンパス仲間の一人が隣に来たそうそう言い寄ってきて仰け反る。
「マロ先輩、あぶれちゃいましたか」
マロ先輩、何故か何時もマロ眉な為、皆からそう呼ばれていた。
「やや、ちゃ、あーうん、そや、あぶれて可哀想な先輩の相手してや」
上服は着替えたようだがどことなく油絵の具と墨の匂いがする。
「あれ、マロ先輩、墨汁の匂いがする」
「えっ」
マロ先輩の服元に鼻を寄せ嗅ぐと、頬を染められた。
「いやーん、実は脈ありなん?照れるわー」
「マロ先輩の絵はピカイチですからね、水墨画を描いたなら是非とも見たいです」
マロ先輩、両手の平をワキワキさせ。
「せ、積極的ー僕、ドキドキしちゃう…よし、そんなら今日は僕ん家にお泊まりして、見に来ちゃう?」
「今日は兄ちゃんの家に泊まるので」
「うはーい、兄様の壁現るとかこわしっ」
片手で自分の額を叩いてリアクションをとるマロ先輩。
「ところで、メニュー表どこですかね?」
「お、ちょい待ってな」
マロ先輩は立ち上がり、騒いで王様ゲームをしている一団の男の背を足裏で体重をかけて踏み潰し、その尻下に引かれていたメニュー表を抜き取ってきた。
「まだ、生暖かいでー」
「…マーロー」
マロ先輩の後ろから、潰された男が四つん這い、ハイハイ状態で畳の上を歩いてきて首をロックする。
「いきなり抜けて、いきなり俺を潰すとはどーいう了見じゃ」
「タカがメニューを座布団にしとるからやろ」
「あー?」
「僕、念願の春に向けて忙しいんや、からまんといてー」
「あ、座布団油揚げ焼き、美味しそうですね」
千代子が微笑んでそう言うと、マロ先輩はタカの腕から頭を抜き出し、後ろに倒す。
「やーん、可愛ええなあ、酒は?なに飲む?ここ、梅酒美味いんやで」
「マママ、マーローマーローは~おっぱいがお好きじゃ~け~♪」
わけがわからない歌を畳の上で横になりながら叫ぶタカ。
「タカは、酔いすぎやわ、よし、そのまま永遠の眠りについとけっ」
背中でタカを押し潰しながらマロ先輩はメニュー表を千代子と眺める。千代子が他の油揚げを探していると、潰されたタカが薄目を開けてポツリと何か呟いた。マロ先輩がニコニコ顔でタカの頭を叩く。
「いてーこの、マロ眉がー」
眉毛をタカにグリグリされながら、マロ先輩は片手を大きく上げて、店員を呼ぶ。
「すみませーん、注文ええですかー」
店員がそそくさとやって来きた。
「座布団油揚げ焼きに、厚揚げのお浸し、がんもどき、天ぷら盛り、梅酒水割りとロック二つ頼んます」
「わ」
座布団油揚げ焼き以外は何も言ってないのに頼まれてしまう。キョトンとして表の値段に視線を向けていると。
「飲み放題代以外は、後日男どもの割り勘やけ、頼んどき、頼んどき」
「え」
「僕の叔父の系列店やから、融通きくんやーもっと食うなら食いななー」
「マロのコネマロー」
「おーこらあ、払うもんは払うんやけ、ええやろ、タカ鳥の丸焼きにすんで」
タカの茶髪の短髪頭を両手でグリグリしながらマロ先輩が言う。
「…じゃ、じゃあ、さ、さ、刺身、お刺身…食べても?」
千代子が頬を染めながら欲を出してそう言うと、マロとタカがキョトンとする。
「あ、こ、こ、高級、すぎですよね…ごめんなさい…」
恐縮して頭を下げる千代子。
「おー俺、チョコが動揺してんの初めてみた」
「僕もー」
片手をビシリと上げるマロ先輩。
「てーいーんさーん、お刺身八点盛りっプリーズ!」