『1』五月中休日
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千代子は今春から大学に通うことになり、一人暮らしを始めた。
大学からは五駅ほどかかる中途半端な立地だったが、田舎町故の独特な風情と金額の安さは千代子の心をくすぐるもので、そう迷うことなくそこに決め。古い見た目はボロさを感じるが、二部屋付きに風呂とトイレが分かれて、台所まであって月八千円。一万をきるという破格の安さだった。
勿論、駐車場が無いやら、コンビニや大型スーパーが近くに無く、帰りは坂道という不便さがあったが、晴れた夜はおぼろげな提灯を灯す風情ある所で悪い気はしない。しかしながら大学やバイトの両立の忙しさで、ご近所付き合いというものは、ほとんど無くこの町の素晴らしさを誰かに訪ねる機会はとんとなかった。
千代子はバイト先の二十四時間スーパーから貰ったあまり物と、自分が買った材料と共に電車に乗り、家のある町で下りる。駅からは十分ほど歩いた先にある田舎の路地。路地のこの石畳の坂道を上りきれば暮す借家だ。
今日とて灯された提灯の淡い光をぼんやり眺めながら上ろうとした時、ふと、屋根付きの小さな鳥居の中に狐の像があることに気がついた。
普段閉じている木の扉が開けっ放しで、初めてそこに狐の像があると知り、千代子は興味が沸いて近づく。提灯の淡い光が千代子の影をユラユラと揺らした。
「あ、そうだ」
千代子はスーパーの貰いものの稲荷ずしを取り出し、狐の像前に置く。軽く手を合わせて、頭の中に何を祈ることなく、腹の鳴き音と共に千代子はその場を後にした。
「今日、何作ろうかなあ」
千代子はその夜、簡単な一人鍋をして眠りにつくことにした。深夜の時間にふと、千代子は上の階の物音で目を覚ます。その音は大した物音ではなかったが、ここに引っ越してきて二ヶ月めにして初めて聴く物音だった。
少し愉しげな声とはしゃいでいるような音が聴こえる。何故か、宴会の映像を思い出し、千代子はクスリと笑った。
二階建ての借家。
上とは独立したそこが、入居時開いていないかと同伴した兄が尋ねれれば、不動産屋は大家は下の部屋だけの貸し出しを希望ですと答えた。女性の一人暮らし、一階よりも二階の方がいい。それもこんなセキュリティ不足の借家に、暗い街灯が少ない田舎町。兄はせめて、駅にもっと近い場所にしようと何度も言ってくれたが、魅力の一万きり、八千円は捨てがたい。共営費(夜間街灯などの資金)は大家さんのご好意で無料だし、光熱費や水道代は自己の管理能力にかかるが、決まった保険に入るとうの契約もなく、礼金はあったが敷金も無し、本当に規格外の安さだったのだ。坂道は最初の間辛かったが、慣れてしまえば、駅からの道のりも十分ですんでいる。
兄は大学から近い都心の方で暮らしているので、『いざとなったら呼べ、解約して一時的に俺のマンションに暮すでもいいから、少しでも不安になったら言うんだぞ』と、ここに住んで不安を感じていない自分より、不安そうだった。なんとも優しいが、心配性な兄である。
明日は休日なので、兄をご飯に誘ってみよう。ちなみにバイトは平日の学校終わりのみ。五時か五時半から八時半、又は九時まで働いて帰り。早ければ九時半には家の風呂に入り、ご飯を作って十時か半から勉強をし、遅くとも一時頃に眠りにつく。
上の笛の音色のような音を聞きながら近くの目覚まし時計の頭を手の平で押した。そうしたら画面が光り、今の時間帯が見える。
時刻は二時少し過ぎ。まだまだ眠れる。
明日は休みだから心に余裕もあるし、上の階の少し不思議な音色をBGNにして、また眠りについた。
**
目覚めた時間は朝九時。欠伸をしながら布団から起き上がる。折角の休日なので布団を干そう。ベランダに出ると小さいが庭がある。
「あ、草…」
約二メートル程の広さの庭に草が伸び始めていた。布団を干し、景気よく叩いて、洗濯機を回しながら兄にメールする。
『今日か明日、時間開いてたら、ご飯でもどうかな?』
忙しいかもしれないしメールの返事には期待しない。
「軍手…あ、あった」
引越しの時使った軍手を取り出す。時期は五月。雨期がくるまではもう少し時間があるが、軽く草抜きはしておこう。ジャージの下部分をまくり、虫除けスプレーをふくらはぎからサンダルまで適当にかける。
コンコン。
二の腕から手、首元にもスプレーをかける。
コンコン。
はて。
Tシャツの内側を伸ばして背中や胸元、胸の谷間にもスプレーをしておく。汗止めじゃないがなんとなくだ。
コンコン。
ふと、顔を上げた。
鳥の鳴き声、風の音、近くの水路の水の音。それ以外になんだか咳払いのような声が聴こえた。ちらり、ちらりと周りを眺める。二メートル四方の庭。半端に生えた草。庭を囲むように石の積み重なった低い壁があって、それを覗くと小さな水路がある。隣の高い石の積み重なった壁との間。三、四十センチほどの広さの水路。正確に図ったわけではないので、多分それぐらいだ。
「…草の生命ってすごいよね」
なんとなく千代子は独り言を喋りだした。石壁に生えてしまった小さな草から抜いていく。
プチプチ。
「植物がすごいのか」
プチプチ。
「生物の神秘ってのですか」
プチプチ。
「世の神秘」
夢中にになって、途中から無言になったが、時折コンコンと聴こえるとに気づくと、千代子はまたなんでもない独り言を呟いた。
***
その日の夕方、兄が車で坂道下まで迎えに来てくれた。排気ガスの臭いでか、コンコンと耳に聞こえる。
「ごめんな、今日臨時出勤でさ」
「ううん、こっちこそごめんね、兄ちゃん無理してない?大丈夫?」
「千代子ーにいちゃんは、千代子のそんな優しさにホーリンラブだぞ~」
「あはは、もー」
笑いながら千代子は車に入る。
コンコン。
珍しかったのだろうか。車の中で咳きのような声がした。
「千代子、喉痛いか?」
「ううん、排気ガスで…」
「そうか…でも一応、飯屋に行く前にドラックストアに行こう」
「もー心配症だなあ」
「予備はこしたことはない」
「ふふ」
千代子はドラックストアで無くなりそうだった頭痛薬と生活用品、カップラーメンの箱買いをした。
「インスタントは身体に悪いぞー」
「兄ちゃんも好きでしょ」
「俺はな男だから、いいんだよ」
「あはは、一応、兄ちゃんの少し置いとくね」
車に数個置いて。
「あーまあ、ありがとな。でも、その種類そんなに好きだったっけ千代子」
兄に頭をなでられながら頷く。
「うん、うどんに甘い油揚げが入ってるのって美味しいよね」
「まあ、そうだな」
兄に誘われるまま和食の飲食店に入る。出された単品で、油揚げが入っていた。兄と話すことに夢中になっていると、油揚げが無くなっていて。兄は気づかずに他に頼んだ単品をモグモグ。他のお客の喧騒が聴こえる中、嬉しげなコンコンという声が聴こえた気がした。
「どうした?ニコニコして」
兄にそう言われて、頬が緩んでいたことに気がつき、軽く笑う。
「兄ちゃんと話せて嬉しいの」
「…千代子…」
兄が片手で目元を拭う。
それを見て、また笑ってしまった。