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Ep4: 晴れない空の下で


 『魔法』を、『アルマを物理的事象に変換するすべ』と定義する。

 『呪文』を、『アルマの変換方向性を、共通イメージをもって限定するためのツール』と定義する。


 ―――『魔導基礎理論』 著者:『銀魔女』アスミ・ウェネーフィカ より一部抜粋




   ----




 カズラは叫ぶ。


『コメディタッチ』


 そして、彼の頭の小屋から飛び出してきたのは、ナキに見せた『火を噴く武器』とはまた違ったものだった。先端が丸みを帯びた剣のようだが、持ち手はやたらと重々しく見える。

 さほど長くもなければ、特別な魔法の気配も感じさせない奇怪な剣に、カズラと対峙する男達は大した脅威を感じなかった。


 その時までは。


「ホッケーマスクはちょいとばかしこの頭には小さすぎマスので妥協しマショウ。さながらワタシは十三日の不審者デス!」


 カズラの言葉の意味をその場にいる殆どの者が理解できずにいたが、その言葉に気を取られている余裕などなかった。

 巨大な音が、すぐにその言葉を打ち消してしまったからである。


 ヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!


 彼らの誰もが聞いた事もない低く響く唸り声。

 それは確かにカズラの構える剣から響き渡った。


「な、なんだそれは!?」

「ビビりマシタ? 正解デス。コレに触るのはあまりオススメできマセンから」


 得体の知れないものに二の足を踏むのは、生き物として当然の反応である。

 忠告がなくとも、魔法かどうかすら分からないカズラの取り出した『唸る剣』に向かっていく者はそういない。

 

「ホラホラ。道を開けて下サイ。触ったらどうなるかは、アナタ達のボスで試してアゲマスのデ」


 僅かに男達の中の一人が反応を示した事にナキは気付いた。


「『ドミヌスさえ血祭りにあげられれば』、ワタシのボスは満足のようデスシ、ネ?」


 小屋の入り口を僅かにカズラがナキの方向へと傾けた。『ボス』はナキの事だろうか。

 その挙動から、意識をナキへと逸らしたと判断した、反応を見せた一人の男が無言でカズラへ飛び掛かった。音もなく駆け、手にする細身の剣をカズラに向けて斜めに振り下ろす。

 剣が接するその瞬間、勝利が確定するその瞬間、噛み殺そうとしていた男の感情が爆発した。


「ドミヌス様には指一本触れさせない!」

「えっ? 何か言いマシタ?」


 くるりと、一瞬で小屋が前に振り向いた。ついでに『唸る剣』も、僅かに横へ揺れる。

 ほんの少しの挙動だったが、それが男に『唸る剣』が触れるか触れないかの僅かな差となっていた。

 誰の目からも『唸る剣』は男の足にそっと触れただけに見えた。


「ぎゃああああああああああああああああああああああああ!」


 男の足を『唸る剣』が掠めた瞬間に、異様な音が響いたような『気がした』。

 しかしそれは男の壮絶な悲鳴に掻き消された。


「あ、ダカラ触らない方がいいって言ったのに。突然大声出すからうっかり当ててしまいマシタ」


 男の足の傷は、刃物に少し触れてしまっただけとは思えない程に深かった。

 飛び散った鮮血に、囲む男達の顔が真っ青になっていく。

 ナキもまた、その光景に絶句していた。

 ただ二人だけ、その場で冷静さを保つのは九頭竜兄妹のみである。


「クックック。趣味は日曜大工のこのワタシ。何を隠そう頭の小屋もお手製デス。何ならアナタ方も、加工して犬小屋にしてあげマショウか?」

「私、チェーンソーの音とか大嫌いなんだよね。うるさくてうるさくて肌に響くもん。クズ兄、もうちょっと静かにできない?」


 取り囲む男達が徐々に後退りし始める。


「んん? 確かにコレはちょっとグロイデスかネ? じゃあ火炎放射器デ? いや、それとも普通に金槌で撲殺? ノコギリギコギコは面倒臭いので却下デス」

「とにかくドミヌスをやっつければいいんだから、あんまり凝ったことはしなくていーんでない?」

「そりゃそうデスネ? それとも、出来る限り惨たらしく終わりを迎えさせるのがいいデスか、少年?」


 ぺらぺらと会話する二人の視線がナキに向く。当然、びくりとナキが肩を弾ませる。

 今が逃げるチャンスなのではないか。

 男達が隙だらけの二人に、もはや飛び掛かる余裕さえなくなり始めたその時。


「それとも……じわじわと嬲り殺しにするのがいいデスか?」


 ぱっと『唸る剣』からカズラが手を離し、僅かに前に傾けた小屋頭から零れ落ちた『何か』を手に取った。そしてそのままその先端をナキへと向けて、指を窪みに引っ掛ける。

 タン、と軽く弾むような音がして、ナキの頬の傍を空気が素早く流れた。

 何が起こったのかをナキが理解する前に、再び空気を切り裂くような甲高い悲鳴が木霊する。


「あああああああああああああああああ!」


 ナキが背後から響いた悲鳴を耳にして、身体を捻って後ろを見た。

 すぐ傍までいつの間にか迫っていたのは、今では目を抑えてのたうち回っている一人の男だった。

 

「あどけない少年を狙うトハ、人間の風上にも置けまセン。……イヤ、『自分から風下に陣取っていた』んデシタッケ? ずっとソウしていれば良かったのにネ?」


 背後まで気付かれずに迫っていた男の存在の意味を理解したナキは、ずりずりと這いずるように素早く男から距離を取った。


「『どうして気付いたか』って?」


 今度はクサリコが口を開く。

 ナキの耳には誰の声も入っていない。にもかかわらず、誰かが確かにそう言ったかのように、クサリコは目を抑えてのたうち回る男の更にその先に顔を向けた。


「『肌で感じた』、とでも言おうかな? 流石にナキ君に手出ししようとするなら……私もちょっぴりクズなカズ兄の残虐殺戮ショーに協力しちゃったり」


 赤い瞳の焦点が、確かに何かを捉えた。

 クサリコはぺろっと舌を出し、何かに笑いかけた。


「私、可愛いものが大好きだからね」


 クサリコの視線に向かって、カズラが再び何かを放つ。

 そしてまた悲鳴が上がる。

 

「駄目デスよ。風下に陣取っての、相手の気配を察するアドヴァンテージを、自ら捨てるどころか、相手に譲ってしまうナンテ」

「私達じゃあ、気付かないとでも思ってた?」


 クサリコの視線が僅かに左の方にずれた。

 それに合わせてカズラの腕も左に触れる。


「気付かないワケないデショウ? 『常に風を引き寄せている街』が、異常だってコトクライ。特にウチの妹に『感覚に訴える仕掛け』を施すのは感心シマセン」

「大方、魔法か何かで風を起こして、風に乗ってきた臭いや温度で外敵を察知してるってところかな? 残念無念、凝った仕掛けだけども、私にはかんたんに見抜ける……いいえ『感じ抜ける』よ」

「『感じ抜ける』……オウ、ナンカ官能的な響きデス!」

「キモイクズ兄」


 クサリコの視線が右に大きく揺れた。

 それに合わせて、カズラの手も右へと照準を定めた。


「マ、申し訳ありまセンが、とっくの昔に台無しになってるんデスよ。いえ、台無しにしてやったと言うべきデスカ?」

「そうだねカズ兄。台無しにだってするよね。だって、私達、あらゆるものを台無しにしてナンボの……」


 クサリコがくるりと左足を軸にして身体を回す。

 そして、背中をぶつけあい、背中合わせにたった小屋と兎が「ひひっ」と笑った。


「クズだから♪」


 急に周囲が暗くなった事にナキが気付いたのは、二人の軽やかで奇妙な動きに見惚れている事に気付いたのと同時だった。

 はっとして上を見上げると、落ちてくるのは巨大な水の塊。

 悲鳴を上げる暇もなく、ナキの身体は瞬時に飛び込んできたクサリコの腕に抱えられていた。


「ナキ君。ちょっぴり退却ー」

「わっ、わっ、わーーーーーーっ!」


 滝のように降り注ぐ水の塊が、一気に地面を飲み込んだ。

 思いの外素早いクサリコは、水が落ちてくる前に動いていたからか、ナキを抱えても余裕の待避を見せつける。そう、彼女はとっくに気付いていた。


「な、なんだよ、さっきからなんなんだよ!」


 ナキが取り乱しながら、じたばたと暴れる。

 しかし、すぐに気付いた。

 上から落ちてきた水、その正体に。

 街の方角に陣取る、七三に分けた青紫色の髪。ぴっしりと整えた紳士風の服装。丸いハット、右目にはモノクル。髪と同じ色の青紫色のステッキ。


「これはこれは……我が土地の恩恵を羨む下々の者が彷徨いていると思ったら、意外や意外、中々の手練れだったようだ。何もさせて貰えずに、私の雇った上々な傭兵達がほぼ全滅とは」


 その声を初めて聞いたとき、ナキは「こいつはきっと悪いやつだ」とすぐに分かった。

 紳士的で、柔らかいその裏で、相手を果てしなく見下し、腹の底に何かを隠している事を臭わせる胡散臭い声。

 ナキが見た、過去の『奴』と、男の姿は完全に一致した。


「しかも、子供を抱えて私の魔法を躱すとは……お嬢さん、貴女、私が見てきた中でも最上の逸材のようだ」

「……ナキ君。もしかして、こいつが?」


 クサリコの反応を見て、おっと、と紳士風の男が丁寧に腰を折る。


「これは失礼。名乗るのが先でした。私は『ドミヌス・ハロードヌィ』。『ハロードヌィ』の称号を、母国ノトスより与えられた貴族です。以後お見知りおきを」


 ナキが語るまでもなかった。

 自ら名乗るその男こそが、ナキの親の仇、『土地食いドミヌス』なのだ。


「何処のどなたかは存じませんが、実に素晴らしい。その伝承の天使を思わせる黒髪は何かを意識して染めてらっしゃるのですか? 実に似合っていますよ。天使のようだ。そしてそれと相反する、悪の権化、魔王を思わせる赤い目が、また背徳的な美しさを感じさせる。その頭の耳は兎ですか? 愛らしい。美しさの中にあしらった愛らしさもまた、美しい。私が見込んだ者達による防衛魔法を見抜く感性や、物怖じしない度胸、美しい。どうしてここまで美しい女性に今まで私が気付く事がなかったのか……実に不可思議。貴女は、ここ最近天より舞い降りた、本物の天使であるとしか思えない」


 舌先三寸の適当な世辞だが、『ここ最近天より舞い降りた、本物の天使』というのがあながち間違いでもないのでナキは一瞬びくっとする。別に慌てる事でも無かったが。

 クサリコに降ろしてもらいながら、ナキはふとクサリコの顔を見た。


「……ふへぇ」

「ちょっといい気になってるのか!?」


 満更でもなさそうなクサリコ。

 その表情を見て、ドミヌスはしめたと言わんばかりに口の端を釣り上げた。


「……どうですお嬢さん? 私の元に来ませんか? 美味しい食事と賃金で、手厚く歓迎しますよ? 私の屋敷を襲撃した事ならどうかお気になさらずに。貴女に罪はない。大方、何処かの下民に唆されたか……そちらで倒れている不審者に利用されていたのでしょう」

「……え? 倒れているって……」


 恍惚とした表情で惚けていたクサリコが、ドミヌスの思いもしなかった言葉に、ふと思い出したように水塊の落ちた場所を見る。

 そこには仰向けに横たわる小屋男が残されていた。

 

「カズ兄が死んでる!」

「死んだの!?」

「あ、殺したつもりはないのですが……? 多分多少水を飲んで気を失ってるだけかと……」


 ドミヌスでさえ否定しているが、クサリコは慌ててカズラに駆け寄る。

 

「人工呼吸……だっけ? 腹を押す奴やらなきゃ!」

「ちょっと待ってお嬢さん! 素人知識であんまり変な事をしたら……」

「どーん!」


 クサリコがカズラの腹を踏み付けた!


「お嬢さん!? 何で踏むんです!?」

「え? だって、気持ち悪いから手で触るのとかイヤだし……」

「きもっ……!? え!? 兄、なんですよね!? さっきカズ兄って……」

「だって、こんな小屋被ってる不審者、気持ち悪いよね?」

「せ、正論ですけど……でも踏むのはあんまりじゃないですか!?」

「靴ならまぁ、踏んでもいいかな? ……と」

 

 悪役でさえドン引きする仕打ちである。

 

「どーん!」

「やめてあげて!」


 遠慮のない追撃。

 ドミヌスとナキが同時に止めに入ろうとしたその時だった。


「ブフーーーーーっ!」


 小屋の入り口から噴水が噴き上がった。

 カズラの口から大量の水が吐き出されたようだった。

 地面に新たにできた水たまりには、小魚がぴちぴちと跳ねている。

 ドミヌスはクサリコに駆け寄ろうとした足を止めた。

 ナキも足を止め、ふと過去に見たものを思い出した。


「ゲホッゲホッ! 溺れ死ぬかと思った……マシタ!」

「カズ兄が生き返った! あと、若干素に戻った!」

「死んでマセンヨ! あと、ワタシ視界が悪いんデスからちゃんと攻撃来てるなら教えてクダサイヨ! それと何を人の事思いっキシ踏んヅケテくれるてんデスか!? ……足蹴にサレテチョト嬉しいデス」

「やっぱり触らなくて良かった気持ち悪い!」


 ナキは思い返す。

 自分がほんの少し前に見た本の事を。

 今見た光景は、まるでそれとそっくりだった。

 更にナキは思い返す。

 顔に被った小屋、その中から取り出す様々な道具、それもまた、ほんの少し前に見た本に似たような光景が描かれていた。


「『気付き』マシタ?」


 立ち上がったカズラがくるりとナキを振り返る。

 『その本を見たことのない』ドミヌスもまた、異変に気付いた。


「……待て。確かに私の魔法は周囲の水を操るものだ。だが、用いた水は屋敷に蓄えた水だ」


 ぴちぴちと跳ねる、カズラが吹きだした小魚を見下ろし、ドミヌスは目尻を釣り上げた。


「『小魚など何処から湧いた』?」

「オオーウ! よく『気付き』マシタ!」


 カズラがドミヌスを振り返り、人差し指を小屋の頬に当てた。


「だが、それに突っ込むのは『粋』じゃない」


 カズラの言葉に重みが宿る。

 所々に歪みを含めた声ではない、すっと通る声。

 ナキは思い返した本の呼び名をふと口にした。


「……コミック」

「イエス!」


 ほんの微かなナキの声に、カズラは勢いよく振り返った。

 

「こんなワタシが救世主な訳ナイでショウ。もしもワタシが救世主な主人公ならば、この世界はきっとシュールなギャグ漫画の世界に違いアリマセン」


 腕を大きく天に向けて広げ、カズラは空を見上げる。


「ソウ! キッと! ここハ! 『ギャグ漫画』の世界ッ!」


 彼の今の言葉を理解出来る、ただ一人の『この世界の人間』であるナキは、ただただぽかんとしていた。

 そんな馬鹿な。

 しかし、今まさにカズラに見せつけられた光景は、まさにそれだったのだ。


「だったら話は簡単デス! ここハ何でもアリの、シュールで、不思議な、ギャグ漫画の世界! 何でも思い通りに、コミカルに! 突っ込み所も、ルールも、何一つ存在シマセン! 異世界なのに文字が読めちゃったリ! 会話も通じチャウ! 魔法だっていきなり! 突拍子もなく使えチャウ! ギャグのように首が飛び! 溺れた人間は噴水のように水を吹く! どう見ても一畳もナイ犬小屋からは、何故か四次元に道具が飛び出す! コレがワタシの魔法!」


 カズラの顔から、再び『唸る剣』が飛び出した。


「……『Comedy Touchコメディタッチ!』♪」


 まるでギャグ漫画であるかのように、ありとあらゆる事象を愉快に、全ての法則を無視して違和感なく呼び起こす。

 それがカズラの魔法。

 クサリコが、最後ににこっと笑って付け加える。


「ま、今のトコロはそういうことにしとく?」

「余計な一言はイリマセンヨ、クサリコ」


 コミック、ギャグ漫画、そんな言葉を知らないドミヌスでも理解出来た。

 そして、呟く。


「何でも……出来る? そんなの……有り得ないッ!」

「『有り得ない』がナイのが漫画の世界デスよ、ジェントルマン。それでは張り切ってイキマショウ」


 剣が再びうなりを上げる。

 共鳴するように風も唸った。


「シュールでコミカルな……殺戮タイムデス」


 犬小屋から、人間のものとは思えない舌がべろりと伸びて、その入り口を嘗め回した。

 コメディ演出。

 しかし、『コレ』を敵に回す者達にとっては、その演出が何よりも不気味なものに映った。


「うわあああああああああああ!」


 一斉に、ドミヌスの配下達が逃げ出す。

 隠れていた者達も、姿を現し這いずり回るように逃げていく。

 

「お、お前達! 払った報酬を忘れたか! 私を守れ! 戦え!」

「金で命が賭けられマスカ。所詮その程度の関係だったという事デスヨ……なんて事は言いまセンヨ。お気の毒……とも思いまセンヨ」


 カズラの足がぐるぐると、車輪のように回り出す。

 そして駆け出す。車のように。

 そして、耳にキンと響くブレーキ音を響かせ、逃げる配下達の前に立ち塞がる。


「残念ながら、我々に楯突いた者は誰一人逃がしませんよ? でも大丈夫。怖くアリマセン」


 空に無数の玉が跳ぶ。

 落ちてきたそれを、『唸る剣』で全て受け止め、カズラは再び舌を垂らした。


「痛いのを感じる間もなく、コミカルに逝かせてあげます」


 カズラの『唸る剣』に乗るのは無数の首。

 血を垂らす事もなく、乗った首はぽかんと間の抜けた表情を浮かべていた。

 

「悪魔……悪魔あああああああ!」

「ひどーい。私達は悪魔じゃないよ」


 別方向へ逃げていた者が叫びを上げると、その方に細い腕が巻き付いた。

 今まで動きを見せなかった兎耳のもう一人の悪魔が優しく微笑む。

 ふっと息が吹きかかり、抱きつかれた男はぶるりと震え上がった。


「ただのクズだよ」


 色っぽい声が、近くで腰を抜かしている男の耳を撫でた。

 次の瞬間。


「だおじおはおへおhふぃおqあはおわおfんぼあうhふぁおじゃじぇhkはf!?」


 抱きつかれた男が、この世のものとは思えない狂った絶叫をあげた。

 言葉に出来ない悲鳴に共鳴して、逃げ惑う者達が悲鳴を上げる。

 何をしたのか分からない。ただクサリコは抱きついただけだ。

 しかし、確かに男を狂わせたクサリコは、泡を吹き白目を剥いた男をぱっと離し、近くの男に歩み寄る。


「次は……だーれだ?」


 白兎のように白い肌、白兎のように赤い瞳、今まではそこまで恐ろしい相手だとは思われていなかった女もまた、カズラ同様に恐ろしい存在だとその場にいる全員が理解した。

 そこから先は誰一人逃げられない。

 

「以下略」


 ぼそりとカズラが呟いた後の一瞬の出来事。

 何が起こったのかを理解する事さえも出来ない、本当に一瞬の。

 ナキが一度瞬きした瞬間。

 世界は姿を変えた。


 響き渡る悲鳴は消え去っていた。

 怯え逃げ惑うドミヌスの手下達は動かなくなっていた。

 辺りには黒い血が飛び散っていた。

 

「ひっ……ひっ……! き、貴様……何をした!?」

「雑魚の始末のシーンにコマを割くのはモッタイナイ。何も細かい状況まで、コマを割く必要はないデショウ?」


 気付けばドミヌスは地面に腰を落とし、それを見下ろすようにカズラとクサリコは立っていた。

 一瞬の間に何かが起こったわけない。

 『起こった過程』が丸々スキップされてしまったのだ。

 守る者もいなくなり、あまりにも滅茶苦茶な光景に既に精神を正常に保てなくなっているドミヌスが、後ろに這いずりながら声をあげた。


「待て! やめろ! お前達は何が目的だ!? 金か!? 何なんだ!?」

「お命頂戴ジェントルマン。アナタに復讐するコトが目的デス」


 カズラの手には、何かを打ち出す武器が握られていた。

 

「ふ、復讐!? お前達に私が何をしたというのだ!?」

「マァ、こんなのに何かしたら覚えてマスヨネ。そうデス。ワタシ達は何もされてマセン」

「ナキ君……あっちの子供に見覚えはない?」


 クサリコが親指で後方を指差す。

 ナキを一瞥して、ドミヌスは震える声で叫ぶ。


「し、知らない! あんな子供は知らない! 私は何もしていない!」


 ナキの腹の底から、異常な光景の連続で消えかけていた怒りの炎が蘇った。

 

「心当たりがあり過ぎて、覚えてられないんデスかネ?」

「うわぁ。どれだけナキ君みたいな子を作ったのかな?」


 顔を見合わせ、はぁ、と兄妹は溜め息を漏らした。

 その一瞬、ドミヌスがステッキを持つ手の力を強めた。


(……馬鹿めがッ!)


 周囲の水気が一気に揺れ動く。

 一瞬の隙を、ドミヌスは探っていたのだ。

 あとは呪文を唱えれば、目の前の悪魔を吹き飛ばす魔法が使える。


 タン。


 しかし、呪文は口から出なかった。

 代わりに口からは、抑えきれない悲鳴が溢れる。


「あ、ぎ!? ぎゃあああああああああああああああ!?」


 地面に突いた手、その指先には一本の釘が突き刺さっている。

 カズラの手の武器から一瞬で放たれたもののようだった。


「余計な真似はしないコトデス。心の声のフキダシ、丸見えデスヨ?」

「く、くぎっ……! くぎいいいいいい!」

「ん? これデスか? 釘を打つのに便利なネイルガン。銃みたいで格好良いデショ? 良い子は真似しないでネ♪」


 タン、とまた一発。先程は人差し指を射貫いたネイルガンが、今度は中指を貫く。


「あああああああああああああああああああああ!」


 ドミヌスは、悲鳴をあげながら予感した。


(もしかして……こいつ……全部の指に……!?)

「正解デス。出来る限り苦しめて……殺す予定デスヨ♪」


 声に出さずとも、心の内をカズラは覗く。

 ドミヌスはその答えに顔を更に絶望で歪めた。


「や、やめてくれぇ……! 謝る! 金なら払うぅう! 何でもする! 何でもするから!」

「ん? 何でもする?」

「あ、ああ! 何でもする! 私が憎いのならどんな償いでもする! だから、だからもうやめて……!」


 んー、とカズラは悩む素振りを見せる。

 しかし、見せたのは素振りだけだった。


「じゃあ、潔く苦しんで死ねます?」


 タン。今度は薬指。

 

「ひぎゃああああああああああ!?」

「謝罪に誠意が感じられまセェェェン! 少年の怒りを思い知るが良いノデス!」


 タン。タン。

 今度は一気に二本。的確に小指と親指を貫く。


「あぎゃあああああああっがっ!? ひゃあああああああ!」

「次は左手デス。イヤ、単調な責めも詰まらないデスカネ?」


 カズラがネイルガンを放り捨てる。

 

「クサリコ。触って差し上げたらどうデス?」

「そうだね」


 目を細めて、クサリコは笑う。口元だけで作った、何の心も籠もっていない笑みだった。

 触る事に何の意味があるのか、彼女に触れられて発狂した男の事を思い出せば、そんな事はすぐに分かった。


「カズ兄と話したんだー。多分だけど、私が『触る』と……カズ兄の拷問よりもずっとずっとずっとずっとずっとずぅぅぅぅぅぅぅっと苦しくて辛くて……痛いと思うよ? だから、歯を食いしばった方がいいかも?」

「むしろ食いしばる歯の間に舌を挟んで食い千切る方をワタシはオススメしますガネ」

「な、何を……何をする気……や、やめ……」


 前々から二人の兄妹に何か不気味さを感じていたナキは、笑顔で恐ろしいことを口にするクサリコを見て、確信した。

 この二人は狂っている。

 見れば分かることだが、その程度で片付くものではない。

 この二人は、今泣きじゃくりながら取り乱しているドミヌスよりもずっと残酷で、ナキが話さなかった二人の両親に実行された方法よりもずっと非道な方法でドミヌスを殺そうとしている。

 何の迷いもなく。


「私は大した事をするつもりはないんだけど……なんか、私に触ると『痛い』らしいんだ。『向こうの世界』に居る時から言われたこと。それがこっちの『魔法の世界』だとどうなるのか……多分、もっともっと痛くなるんじゃないかなって思うの。ううん。多分痛いよ。『私は全然痛いとは思わない』けど。みんながそう言うから多分痛い。思いっきり、心を込めて触るから、多分すっごく痛い」

「何なんだ……! お前ら一体な」


 可愛らしく「えいっ」と声を出し、クサリコが満面の笑みでドミヌスに抱きついた。

 一瞬。

 悲鳴が上がる事もなく、ドミヌスは一瞬だけ白目を剥いた。

 そしてすぐに目を覚ます。


「…………ひぁ」


 声も出ない、そんな様子だった。


「もう目も見えないデショウ? もう耳も聞こえないデショウ? もう声も出ないデショウ? 当然デスヨ、ジェントルマン。アナタが今されたコトは、簡単に言い表せば『一年間、絶え間なく加え続けられた拷問を、一秒も満たない間に凝縮された上に、一年分の後遺症を同じ時間に凝縮して味わった』、と言ったトコロデスかネ? 途中で自殺したくなるレベルの苦痛デスよネ。デモ、流石に一秒じゃ無理デスよネ。そして、一秒経てば、もう自殺する力すら残りまセンよネ。……それこそ今、こんなコトを言っても聞こえてないから無駄なんデショウが」


 それはむしろナキに向けられた言葉だった。


『これで満足かな?』


 そう言われている気がして、ナキはぶるりと身を震わせる。

 息絶え絶えに、瞳をぐわんぐわんと揺らすドミヌスの姿は、見るも痛々しいものだった。


 ざまぁみろ。


 その言葉が口から出ない。

 ナキは何かを言おうとしたが、喉の奥底からは何も出てこなかった。


「……ご……じ」

「カズ兄。殺してだってさ」

「オヤ、丈夫デスね。『死にたい』と思うような余裕があるトハ。贅沢デス。実に贅沢デス。流石は少年が語った通りの強欲な悪党。まだ希望が叶うと思っているトハ」


 カズラがとんとクサリコの肩を叩く。


「もうワンタッチいっときマスか? いえ。『苦しい』とも思えないマデやっときマショ」

「カズ兄えぐーい。でも、私はハグ好きだから何度でもいいよっ♪」


 抵抗する気力も、舌を噛み切る余裕のない、死んだ魚のような目をしたドミヌスでも、一気に目の色を蘇らせた。


「ひや……やあああああああああああああああっ!」


 絶叫。しかし逃げる余裕はない。

 無様に泣き声を上げ、命乞いの言葉さえひねり出せず、ただ拒絶の意志を示すだけ。

 その光景を、ナキは見たかったのだろうか?


「ドミヌスさん。私、あなたに褒めて貰ってとっても嬉しかった。でもね、あからさまな嘘はいけないよ?」


 息が掛かる程にドミヌスに顔を寄せて、クサリコが囁く。


「『九頭竜鎖子クズでクサレ』な私に、褒める所がある訳ないでしょ?」


 そして、かぷっと優しく耳を甘噛みした。


「…………」


 最早、リアクションすら取れない。

 ナキにはドミヌスの頭の中で何が起こっているかは察する事ができない。

 ただ、確かにドミヌスの身に最悪な事態が起きている事は分かった。

 クサリコが、唇をドミヌスから離して、カズラの方を向く。


「……ドミヌスさん『助けて』だってさ」


 ドミヌスは何一つ声に出していない。しかし、クサリコの言った通りの事を思っているのだろう。

 

「嫌デス。まだ足りナイ。少年の苦しみは、きっとこんなものではナイのデショウ! ジェントルマン? アナタが少年にしたコト、胸に手を当てて思い出して御覧ナサイ!」


 クサリコがそっとドミヌスの頬に手を当てる。

 今度はドミヌスに反応は見られない。


「……『覚えてない』って」

「オウノー! 思い出せない程に、非道な行いを繰り返してきたという事デスカ! 何という事デショウ!」

「あ、『お前達に私が何をした』だって」

「ん? 何もしてませんケド? 少年の恨みを代わりに晴らしているだけデス!」


 声を出さないドミヌスとどうやって会話をしているのか?

 そんな事はどうでもよかった。


「もう一発、行っときマス?」


 悲鳴も上がらない。

 拒絶の動きも見られない。

 ただその姿は痛々しい。

 他人の為にここまでやれるのか。否、『他人にここまでやれるのか』。

 虚ろに虚空を見つめるドミヌス。今度はクサリコが、その眼球に指を伸ばす。

 目を閉じる余力すら残っていない。眼前まで迫った人差し指に対して、ドミヌスはぴくりとも動かない。 

 少し尖ったクサリコの爪が、ドミヌスの眼球を抉ろうとしている。

 この上なく残酷な仕打ち。これから見せられるのは、恐らくは目を覆いたくなるような凄惨な光景なのだろう。


「もう……いい……」


 ナキは拷問など受けていない。それでもやっと声が出せる程に、喉は渇き、首を締め付けられているような感覚に襲われた。

 今ならはっきりと分かる。

 本当に苦しんでいるドミヌス。

 ――この男の、こんな姿を見たかったのではない。

 そして、はっきりと言える。

 ここまで残酷な拷問を繰り広げながら、『笑っていられる』二人の天使。

 ――自分はこいつらとは違う。


 ドミヌスに刃向かうよりも、ずっと勇気が必要だった。

 ドミヌスに見せられた光景よりも、ずっとおぞましかった。

 ドミヌスとは比べ物にならないほどに、彼らは禍々しかった。


「やめろ……!」


 振り絞る。

 奮い立たせる。

 止めなければ。

 もう視ていられない。


「もう……やめろ……!」


 兎がぴたりと指を止め、くるりと小屋が振り向いた。


「少年。日和りマシタか? ワタシ達は、少年が望んだ光景を見せてあげているというノニ」

「……望んでない。こんなの! 望んでない!」


 ふう、と小屋が息を吐く。


「……デハ、何がお望みデス? この男を野放しにシマスか? それでまた、君のような子供を生みだしマスか?」

「それは……!」

「少年。君はまるで見えていない。だから聞いたんです。二度も」


 カズラの声色が変わる。


「『君にはどんな世界が見える』?」


 恐ろしくて残酷な、救いのない世界が広がっている。

 迫るカズラに答えを返せずに、ごくりとナキは息を呑む。

 

「『君はどんな世界を見たい』?」


 復讐が望みだった。しかし、復讐の先にある『世界』を考えた事なんてなかった。

 今思い浮かんだその『世界』は、陰惨でどす黒い、深く暗い場所だった。

 本当にそれが、見たかった『世界』なのか?

 その時、少年はようやく理解した。


「……僕が見たかったのは、こんなものじゃない」


 カズラの言葉を思い返す。

 『君はまるで見えていない』。

 その通りだった。

 彼が見ていたのは、狭い穴蔵の中、ほんの少しだけ開けた視界の中だけだった。


「では、どんな世界を見てみたいんです?」

「分からない……けど……」


 ナキはひとつの答えを出した。


「こんな世界は、二度と見たくない」


 かつて見た絶望を、二度と見たくない。見せたくない。

 何も知らない少年が出した答えに、小屋はやれやれと首を横に振った。


「駄目デスネ。君はヤッパリ見えてナイ」


 ひやりと辺りに冷たい空気が流れる。

 小屋の暗闇から、不気味に黒い瞳が光った。


「デハ、お開きデス」

「……やめろ。何をする気だ」


 ナキがカズラの動きに気付く。片手をゆっくり持ち上げて、奇妙な構えを取っている。

 振り上げた手を固めたまま、ドミヌスを見下ろしている。

 絶対に良からぬ事をしようとしている。

 止めなくてはならない。

 それが、この『悪魔』を呼び出してしまった、自分の、『責任』。


「やめろッ!」

 

 パチン!


 弾ける様に、カズラが擦り合わせた指が大きな音を響かせた。







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