Ep2: 何故か読める文字 -ファーストワード-
思い出したくもない過去というものは、大概にして忘れることのできないものだ。
正確には言えば、思い出したくもない過去というものは、大抵は忘れたくないものなのだ。
少年ナキの思い出したくもない過去というものもまた、忘れたくない、忘れられないものだった。
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小学生くらいにしか見えない少年が口にするには少々不似合いな言葉に対して、犬小屋は僅かに前のめりに傾いた。
「復讐……トナ?」
傍らであからさまに驚きの表情を見せているクサリコに比べ、反応こそあったものの落ち着いた声でカズラは聞き返す。むしろ、驚きを見せるか、子供のくせにと笑われるかと思っていたナキの方が意外そうな表情を見せていた。
犬小屋に引き籠もった顔からは表情は確認できない。
一瞬、鼻で笑われなかった事に期待を持ったナキであったが、それを思い出して表情を引き締める。
「笑わないのか?」
「笑う? 何故デス? ああ、冗談みたいな容姿デモ、真剣の言葉と冗談の区別はつくつもりデス」
意外と真面目な返答に、ナキが再び面食らったような表情を見せた。
そしてはっとする。
滑稽な容姿に囚われ、彼の事を軽薄な人間だと思い接していた自分の心にナキは気付く。
目の前の男は真面目に話を聞いている。そのことをようやく理解したナキは、ぐっと唇を噛み締めて誠意を見せる。
「……悪かった。別に変な格好だから、ふざけて聞いてると思ったんじゃないんだ。いつもこのことを話すと大人は笑うから……」
「おっとこちらコソ失礼しマシタ。別にワタシを侮ってるダロ? と責めているつもりはアリマセン。時折混ぜる自虐は持ちネタのようなものだと思って下サイ」
へらっと今度は砕けた語調でカズラは首を振る。
気分を害した訳ではない事を知れて、ナキはほっと胸を撫で下ろした。
気を利かしてくれているのか一瞬見せた砕けた態度を、カズラはすぐに解く。
「予め言っておきまショ。あなたは子供ダ。ワタシ達もマダマダ子供ダ。デモ、今からスルのは契約のお話。大人の話デス。あなたを子供扱いするつもりはアリマセン。それだけは理解していて下サイ」
重みのある声だった。
ナキは未熟であっても馬鹿ではない。カズラの言う意味を、声が厳しい調子になった意味を理解出来ている。
カズラはナキの言葉を、たとえそれがどれだけ滑稽であっても冗談として聞く事はないだろう。
その一方で、哀れな子供の頼みだといって、同情や憐れみで素直に言う事を聞いてくれる訳ではないという事だろう。
緊張した。しかし、自分の事を子供扱いしないという言葉は、何故かとても嬉しいとナキは思った。
「分かった。じゃあ早速話すよ。僕が復讐したい相手の事を。そいつがどんな奴かという事を」
「ええ。よろしくお願いシマス」
ナキは考える。
彼らの協力を得るにはどうしたら良いのか。
復讐に共感を得るにはどうしたら良いのか。
同情をするつもりがない事を、カズラは予め告げてきた。それが何を意味するのか。
「僕の過去をだらだらと話しても仕方がない。そいつがどれだけ酷い奴かだけを手短に話すよ」
自分の哀れな過去など彼らの動機足り得ない。
動機として最も相応しいのは、『奴』がどれだけ卑劣な存在かを伝える事だとナキは判断した。
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『土地食いドミヌス』と呼ばれる男がいる。
ドミヌスはノトスの大地主である。
枯れた土地の多いノトスの中で、水源に恵まれた豊かな土地を多く所有し、それを土地に恵まれぬ人々に貸し与えている。
水を操る魔法の使い手としても広く知られ、魔導士としての腕も中々のもの。
手広く様々な商売に手を伸ばし、国からの信頼も厚い。
それが表の顔。
ドミヌスは水を操る。
土地に眠る水を全て移動させることができる。
彼はいくつもの土地を枯らした。
彼の土地の価値を上げる為に。
そして水を取引材料に、多くの土地を安く買い上げてきた。
土地を枯らし、土地を貪るその姿から、ドミヌスを知る者は彼を『土地食い』と呼んだ。
彼の食い物にされてきた土地に、水の魔法を扱える者が全くいなかった訳ではない。中にはドミヌス以上の才能を持つ水使いもいた。
そんな者達は余さず殺されてきた。彼の雇った暗殺者達に。
何人殺し、何人傷付け、何人貪り食い、何人の人生を台無しにしてきたか。
恐らくはノトスで最も多くの人間を不幸にしてきたのが彼、『土地食いドミヌス』なのだ。
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ナキもドミヌスの全てを知っている訳ではない。
彼には理解できない難しい悪事もドミヌスは裏で働いているという。
彼は知る限りの彼の悪行を話した。
「……それがドミヌスという男なんだ」
ナキが復讐したい相手、ドミヌス。
彼の話を聞き終えた、カズラの第一声はナキの思わぬものだった。
「話がズレてマス」
「……え?」
失敗したか、ナキは背筋に悪寒が走るのを感じた。
何処で失敗したのか。ドミヌスが如何なる悪人かをしっかり話せた筈なのに。
カズラの表情は覗えなかったが、クサリコの方は時折その悪質さに怒りや悲しみの色を見せていた。
伝わっていない筈はない。
その意味を、カズラはすぐに明かした。
「復讐トハ仕返しのコトデス。自分にされた何カを、相手ニ何らかノ手段をモッテお返しスルコトデス」
ずいっと犬小屋がナキに迫った。
焚き火をしても薄暗い闇の中、近付いた所でその入り口の奥の表情は決して見えない。
大きな犬小屋の圧迫感に、ごくりと息を呑んだナキに、やはりカズラは意外な言葉を吐いた。
「アナタの話には、アナタがされた『何カ』が含まれていまセン」
同情などしてくれないと思っていた。
話しても無駄だと思っていた。
だから話さなかった、ドミヌスの噂などよりも重要な要素。
本当は何よりも知って欲しかったことを、カズラは今、求めている。
「ドミヌスとか言うテンプレートな悪役貴族ガ、どんな奴かはどうでもいいデス。別にワタシ達は正義の味方でも天使でもナイのダカラ。綺麗な理由も正当な訳も必要アリマセン。タダ、素直に、話せばいいのデス」
パチンと焚き火が弾ける。
「アナタはどうして彼を恨むのデス? アナタは彼をどうしてやりたいのデス? ワタシが欲しい情報はソレだけデス」
傍らで、クサリコが優しく微笑んでいた。
「そうそう。私達はのとす? って国の味方をする訳でもないし、カワイソーな人達を助けたい訳じゃないよー? ナキ君と私達は話してるんだよ」
不思議な人達だ、とナキは思った。
天使。天からの使い。
そんな聖人君子のイメージとは、二人の悪魔はあまりにも掛け離れていた。
でも、そんな彼らが何故かナキに一番近いところにいる気もした。
「……ドミヌスは僕の父さんと母さんを殺した。だから僕も、あいつを同じ目に遭わせてやりたい」
人には話せなかった、話したくなかった自身の忘れたい記憶を、ナキが話したくなったのはそのせいだったのかも知れない。
本心からくる短い言葉を聞いたカズラは、すっと前に手を付きだして、それ以上の言葉を制止した。
「オーケイ。それで十分デス。それ以上深くは聞きまセン」
カズラが立ち上がる。合わせてクサリコも立ち上がる。ナキも思わず釣られて立ち上がった。
「ワタシ達は人間出来てマセンカラ、別に殺しがいけないだトカ、説教じみたコトはいいまセン」
「そだよー。だって私達……」
「クサリコ、余計なコトは言わなくてヨロシイ」
クサリコが言いかけた言葉をどうしてカズラが制したのか、それが少し気になったが、ナキはそれに触れなかった。こう見えても、カズラには何か考えがあるように、ナキは思い始めていたからだった。
そしてそんなことよりも、ナキが気になったのは自分自身のことだった。
「それじゃあ……」
期待に胸が高鳴る。
そして今度は期待通りの答えが返った。
「協力しまショウ。どれだけお役に立てるかは分かりマセンがネ」
「私は最初からナキ君の頼みを聞くつもりだったよ~!」
しかし、その先は少し予想外の言葉が続いた。
「デモ、君は『復讐』というモノを、『殺す』というコトを本当に理解していマスか?」
ナキには即答できた。
理解している。
『殺す』とは、ドミヌスが両親にしたことだ。『復讐』とは、ナキがドミヌスに同じ事をしてやることだ。
しかしナキは答えなかった。
どうせ理解などされないと思っていたから。
どうせ親を殺された事のない人間に、自分の気持ちなど分からないと思ったから。
下手に口を開いて、天使の機嫌を損ねることをナキは避けた。
「……ま、その答えを聞いたトコロで、ワタシは約束を違えませんケドね。念のために聞いたんデス」
ナキがカズラの言葉の意味を知るのはもう少し後のお話。
その時は、ナキは理解していなかった。
カズラが自分を理解できないと思っている時点で、自分自身が彼のことを何一つ理解できていなかったということを。
それはカズラの、優しくも残酷な忠告だった。
「少年が後悔しないように、ネ」
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天使さまは、世界を学び、そして世界を救うだろう。
カズラとクサリコ、『天使の伝承・召喚の儀』にて喚び出された二人を『天使』だと仮定するならば(本人達は否定しているが)、二人がまずすべきことは決まっていた。
「これで全部」
「ホホー。これまた随分な量デスね。よく集めたモノデス」
朝を迎え、ナキ率いる子供達は隠れ家にしていた廃屋に隠していた書物を引っ張り出していた。元は倉庫だったらしい廃屋からぞろぞろと子供達が一冊ずつ本を抱えて出てくる光景も終わり、外には山のように本が積み上げられていた。
「ナキ君は勉強熱心だねぇ。私一年に一冊本読むか読まないかのレベルなのに」
クサリコの言葉に若干どころか相当な不安をナキは覚えた。
「コミックなら山程読んでるじゃないデスか。立派な本デスよ」
「あー。じゃあ年に数百冊は読んでるね!」
「こみっく……?」
子供達が不思議そうに尋ねる。
「何デス? この世界にはコミックも存在しナイのデスか? カルチャーショック! ちょいとお待ちなサイな」
カズラが頭の犬小屋に手を突っ込む。便利なのかは今ひとつ分からない収納スペースからぐいと引っこ抜かれたのは数冊の本だった。
子供達は興味ありといった様子で次々と引っ張り出されるそれらを受け取っていく。
ナキだけがどうしてあんな小さな小屋にこんなにものが入っているのか疑問に思いながら、最後の本を受け取った。
ぱらりと受け取った本を捲りナキが中を覗く。
そこには見た事もないような様々な絵と……
「……何、この変な文字?」
見た事もない奇怪な形状の文字が書かれていた。
子供達が珍しい絵の本にわいわいと騒いでいる中、ナキが漏らした一言をカズラは聞き逃さない。
逆に子供達が引っ張り出した本を開いて、中身を確認する。
「……マァ、変だとは思ってたんデスけどネ」
そして、何かを悟ったように、ふむと頷いた。
「クサリコ。本を触ってみてクダサイ」
「ん? カズ兄どしたの。ま、いいけど」
クサリコも続いて本を拾い上げ開く。
そして、本のページに手を滑らせて、「ん?」と声を漏らした。
「あれ? おかしいな。『文字の形』と『入ってくる情報』が噛み合わないよ」
クサリコの奇妙な言い回しがナキの意識を引いた。
そして更なる一声がクサリコの口からぽろりと零れる。
「あ、分かった。魔法ってそゆこと?」
分かった。
ナキはその言葉を聞いて、飛びつくようにクサリコに近寄る。
「分かった!?」
「わ! ナキ君何! びっくりするなぁ、もう」
「ご、ごめん。でも本当に魔法が分かったのか!?」
ぽんとナキの頭に手を乗せ、クサリコがにこりと笑う。
にわかには信じがたかった。
クサリコは僅かに本の上に手を滑らせただけだ。たったそれだけで魔法を理解できるなど有り得ない。
本を長年読み込んで、ようやくほんの少しの魔法を覚えたナキだからこそ分かる。
「分かったよー。この文字を触ってすぐに分かったかな。ねぇ、カズ兄? そゆことっしょ?」
「エエ。元々オカシイとは思ってたのデスよ。こんな文化も何もかも違うヨウな魔法の世界で、すんなりとソノ世界の子供達とコミュニケイション取れてる時点デネ」
「な、何? どういうことだよ!」
何故か通じ合っている奇人二人の会話についていけずに、ナキが不満げに声を大きくした。
すると、おっと、とカズラがナキの頭を本を持たない手で押さえ付け、ちっちと舌を鳴らす。
「声を荒げちゃいけまセン少年」
ナキの声に、カズラ達から受け取った本に見入っていた子供達が怯えた様子を見せていた。カズラに制止された意味を理解し、ナキはカズラの手をそっと払い除ける。
それでいい、と軽く頷き、カズラは片手で本を閉じた。
「慌てズともキチンと順を追ってお話しマスヨ。ワタシ達が何を理解したカをネ。ナニ、大したコトではありまセン」
冷たい風が吹いた。
今の季節には似合わない、凍えるような風が。
ナキは一瞬感じたその感覚を、こう感じた。
風が、空気が、世界が震えている。
ナキは本能で感じていたのだろう。
自分が喚び出してしまったものが、世界そのものが震え上がる程に異質なものだという事を。
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「ソモソモ、言葉というモノそれ自体には特別な意味はアリマセン」
カズラが犬小屋から取り出した紙切れに、さらさらと何かを書き出した。
差し出された『屑』と書かれた紙を見た子供達は首を傾げる。
「何それ?」
「コレは『クズ』と読みマス。ソウ、ワタシの事デスネ」
「それで『くず』って読むの?」
不思議そうな顔をしている子供達の中で、文字を少しは知っているナキが、地面に木の枝で文字を書く。ナキ達にとっては見慣れた文字だ。
「『クズ』はこうじゃなくて?」
「そうデスネ。ソレも『クズ』。でも、ワタシ達の世界の『クズ』はコッチ」
「……世界によって文字は違うの?」
ぽかんとした表情でナキが尋ねる。
そんなナキに後ろから抱きつき、クサリコが笑う。
「そうだよー。私達の世界では、国ごとに文字も言葉も違うんだよ」
「国ごとに? ……あと、離れろよ」
照れ臭そうにナキがクサリコの手を振り解く。えーいいじゃん、と駄々をこねるクサリコにしつこく纏わり付かれながら、振り払うのを諦めたナキが視線でカズラに話の続きを促した。
「クサリコ。コミュニケイションも程々にネ。嫌われマスよ。サテサテ、話の続きデス」
ぶーぶー言いながらもナキを解放するクサリコ。
それでよしと頷くカズラが、バラバラと犬小屋の中から本を零す。
相変わらず何でも出てくる犬小屋に驚きつつ、ナキは本に近寄った。
今まで取り出した漫画とは一転、かなりの厚みのある本ばかりだ。落ちて開いた中身には、形の違う文字が見て取れる。
見るからに特徴の違う文字を見て、ナキは彼の言葉が嘘ではない事を薄々信じ始めていた。
「証拠、という程のモノでもありまセンが、ワタシ達の世界にはこの通り沢山の『言語』がアリマス。ソレゾレの言語に単語がアリ、ソレゾレが意味を持っていマス。サテ、ココで問題デス。正解したら、クズなワタシからちょっぴり素敵なプレゼントがアリマスヨー!」
少し退屈な話になり、飽きかけていた子供達が一気に興味を取り戻した。
カズラはそれを見て満足したように頷く。
飽きられるのが嫌なのか、とナキはやっぱりこの変人を理解出来ずに複雑な表情を浮かべた。
「デハ、問題。具体的な話をしまショウ。『クズ』という単語が、『クズ』という意味を持つのは何故でショウ?」
子供達はきょとんとしていた。ナキも同様である。
ちなみにクサリコもきょとんとしていた。
むっとして、一人の少女が声を上げた。
「クズはクズだよ!」
「クズの胸に刺さる辛辣な言葉! デモ何故ダロウ……ゾクゾクしてきマス……!」
「カズ兄キモイ」
妹に割と辛辣な言葉を投げつけられ、僅かに硬直するカズラだったが、「冗談はサテオキ」と気を取り直して、少女を指差す。
「その通りデスグッドガール。『クズ』は『クズ』。『クズ』という単語が『クズ』という意味を持つ理由はソレに他ナリマセン。ほんのちょっぴり正解なので、ご褒美デス」
犬小屋に再び手を突っ込み、カズラが取り出したのは少し大きめの袋だった。
それをぽいと少女に投げる。
少女が中を覗き込むと、そこには色とりどりの丸い何かが大量に入っている。
何かを量りかねている少女が顔を上げると、カズラがその中のひとつを既に手に持ち、口に放り込んでいた。それが食べ物だと少女が理解できるように。
「それはキャンディというモノデス。少女の戦利品ではアリマスが、みんなで分けっこしてクダサイ」
わいわいと子供達が少女に集まる。
その光景をカズラはどんな表情で見ているのか、相変わらず暗い犬小屋の中は覗えない。
ぱんと手を叩き、カズラはナキだけを見下ろした。
「サテ。ほんのちょっぴりと言った理由、少年にはワカリマス? と言っても、『ワタシ達の世界』と『少年達の世界』の概念が少し違っていたとシタラ……答えられる訳もないのデスが」
「……いい加減勿体ぶらないで言えばいいだろ。厄介払いは済んだんだから」
子供に合わせて話をする必要はない、ナキはそんな意図を込めて無愛想に言った。
カズラもそれを理解したようで、オーケイ、と話を続けた。
「コッチの世界の話をしまショウ。ワタシ達の世界では、『意味に合わせて言葉を作った』。『クズというものに、クズという単語を割り当てた』とでも言いましょうカ」
今ひとつナキが理解できないような顔をしているのも無理はない。
その理由にもカズラは気付いている。
「……マ、少年達の世界では『言葉が先にあった』のデショウガ」
「言葉が先に……?」
カズラ達の世界と、異世界テッラは、『言葉』という概念に大きな違いがあった。
それを本に触れたカズラとクサリコは感じ取ったのだ。
「例えば『リンゴ』があるとシマス。ワタシ達の世界では、ソレに『リンゴ』と名付けたからコソ、ソレを『リンゴ』と呼ぶのデス」
クサリコが、カズラの傍にふらりと歩み寄り、言葉を続けた。
「でも、この世界の本に触れて分かったんだけど、この世界では『リンゴ』という言葉自体が『リンゴ』のイメージや意味を持っている。ちっと分かりづらい?」
頭がこんがらがってくる。
ナキはそんな怪訝な表情を浮かべて、むうと口をへの字に曲げた。
「あのね。私があの本に触れた時、『リンゴ』を表す文字に触れた瞬間にそれが『リンゴ』だって分かった……みたいな?」
「本来『言葉』には意味を与えなければそれ自体は意味を持たナイのデスが、この世界では何故か『言葉』自体が意味を持ってしまっているのデス」
「……」
納得いかない様子のナキ。
じゃあ、とカズラは仕方がないといった様子で短く纏めた結論を出した。
「要は魔法みたいなものでワタシ達は会話を交わせているという事デスよ」
「……だから何なんだよ」
今ひとつ、何が言いたいのかがはっきりしないカズラの結論に、ナキは不満げに呟いた。
結局、長々と話に付き合って、復讐のきっかけになるものは掴めていない。
幸先悪い状況に、ナキは苛立ちを隠しきれずにいた。
「…………イエネ。『ワタシ達の知る概念をこの世界の言葉に刷り込んでる誰かがいる』と、言いたかったんデスが……少年には興味のない事デシタネ」
そのせいで、意味深なカズラの言葉を聞き逃しているとも気付かずに。
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二度目の夜が訪れる。
この世界の書物に目を通しつつ、子供達と遊ぶように日中を過ごしたカズラは、ようやく落ち着いたといった様子で焚き火の前で読書に勤しんでいた。
クサリコはというと、子供と遊ぶのに全力を注いでいたようで、殆ど本も読まずにテントで眠りについている。
「我が妹ながら実に幼い……デスネ」
ぼそりと低い声を零したカズラの声が、急にトーンを上げた。
「ソウは思いまセンカ? 少年」
後ろから近付いていたナキの気配にカズラは気付いていたようだった。
「何か魔法のひとつでも覚えたのか?」
「随分と不機嫌そうデスネ。今更ワタシ達の期待外れ感に気付いたのデスカ?」
ぐっとナキは唇を噛んだ。
焚き火の光に向かうカズラの背中は暗く影が掛かっている。相変わらず表情一つ覗えない。
「最初から言っているデショウ? ワタシはどうしようもないクズだト」
始め見た時から期待外れだった。
一日を共に過ごし、更に期待は遠のいた。
小屋の入り口がナキの前に開けた。
「何を怒っているのデス? 最初のヨウにご機嫌取りでもしてクレマセンカ? ソレトモ、まさかこんなイカれた救世主が、ほんの少しの可能性でもいると思っていたのデスカ?」
「……そっちが本音か、悪魔め」
昨日と今日の日中に見せていたフレンドリーな態度から一転、カズラは挑発的にナキの前に立った。
「本音? 知ってマスか少年。人は自分の鏡デス。君の態度を見直してみたらいかがデス?」
役に立たないと判断した時点で、ナキにとって目の前の悪魔はリスク以外の何者でもない。
油断している内に、まだ魔法を覚えていない内に、ナキはカズラを始末しようと考えていた。
……というのは建前だ。
期待を裏切られたという一方的な逆恨み。やり場のない感情をぶつけたいだけのただの八つ当たり。
子供そのものな理由が、ナキを突き動かしていた。
「僕は魔法を使えるぞ。お前は何もできないだろう」
「何もできナイ人間などいまショウカ? ソレがたとえクズであっても、ネ」
ひやりと冷たい風が吹く。
僅かに犬小屋の中で黒い髪がちらついた。
焚き火から一歩、カズラが前に踏み出したその時。
青白い夜の明かりが、犬小屋の入り口に差し込んだ。
黒い絵の具で塗りつぶしたような深い暗闇。暗闇の中には暗闇があった。
「あ……」
ナキが怯んだ一瞬、気付けば彼は夜の空を見上げていた。
何が起こったのかを理解する間もない。
気を逸らした隙に抑え込んだにしてはあまりにも早く、『何か』をしたとしか思えない出来事だった。
「お前今何を……!」
「サテ、何でショウ?」
仰向けに倒れるナキが見たのは、カズラの奇怪な後ろ姿。
青白い光で影の掛かる背中。
闇夜に浮かぶ犬小屋という奇妙な光景を見ながら、ナキはふと思い出す。
「こんなワタシが救世主な訳ナイでショウ。もしもワタシが救世主な主人公ならば、この世界はきっとシュールなギャグ漫画の世界に違いアリマセン」
珍妙な容姿に、奇怪な口調、戯けた調子には似合わない、黒く塗りつぶしたような光のない瞳。
ナキは、きっと見てはいけなかったものを見てしまった。
「クズの手も借りたい心中お察しシマス。お手伝いはシマスヨ。ご期待に沿えるかは別として、ネ」
くくっ、と悪戯っぽくカズラが笑った。
振り向いて、「いつまで転がってるのデス?」と手を差し伸べるカズラの顔はもう見えない。
ぽかんとしたまま素直に手を取るナキに対して、カズラはぼそりと尋ねる。
「復讐、ネ。悪いとは言いまセン。デモ、一つダケ聞かせてクダサイヨ。何答えなくとも構いまセン」
見てはいけないものだった。
しかし、見なければナキは違う道を歩んでいただろう。
その目を見たからこそ、本当の意味で、初めてカズラの言葉にナキは耳を貸した。
「君にはどんな世界が見える?」
それが最初の言葉だった。
主にこのシリーズでは世界観やら背景などをご紹介。
今回のタイトルについては今のところは回収されません。