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目の前で、ぼっさぼさの髪をボリボリと掻いて、アシュベリア陛下が欠伸をしている。
大きな口を開けて、眦にうっすらと涙を浮かべて・・・。
見れば見るほど、私の知るご本人だとは思えない。
サボり癖があるのは知っているけれど、それでも王宮の中の彼は、真っすぐ前を向いてハッキリものを言う人だ。
人の目を惹きつける、オーラやカリスマ性のある人だと思う。
こんな、若干崩れかけ中年のような雰囲気を纏うだなんて信じられない。
「あのぉ・・・」
どっかり腰掛けている彼に向って、私は口を開いた。
変装している割に、ふんぞり返るような雰囲気が隠しきれない彼。
おどおどしながら口を開く私。
もしかしたら借金取りと、夫の作った借金を取り立てられる主婦に見えたりするのだろうか。
・・・そうだったら、ちょっと面白い・・・じゃなくて。
現実逃避しそうになった頭を軽く振った私は、不思議そうにこちらを見ている陛下に向かって、尋ねてみることにした。
「どうして、街に・・・?」
声を潜めた私に陛下は、にかっと歯を見せる。
「気分転換、だな」
「きぶんてんかん・・・」
・・・憂さ晴らしということか。
この人の一体どのあたりに、晴らしたい憂いがあるのだろう。
そんなことを思っていた私は、無意識のうちに顔に出ていたらしい。
気づけば目の前の陛下が、半目になって私を見ていた。
「お前、俺はストレスと無縁だと思ってるだろ」
「・・・思ってないです」
無駄だとは思いつつも、一応否定してみる。
気づいた時には陛下とは親戚関係になっていた。
だからという言い訳は通用しないと思うけれど、私は一方的に、陛下に対して気安い感情を抱くようになってしまっている。
・・・チェルニー様には、こうはいかないけれど・・・。
「傷ついたぞー」
「すみません」
真顔を繕って否定した私を見て、陛下は頬杖をついて、ぶすっと視線を逸らす。
「俺だって、いろいろ大変なんだ」
「・・・ですか」
ぼそりと呟いた声に、小さく相槌を打ってお茶を啜る。
ちびちび飲むには、少し温い。
「それにしても、ずいぶん化けましたね。
私、全然気づきませんでした」
他の誰にも聞こえないように、そっと囁く。
すると彼は、頬杖をついたまま私を一瞥して、ふん、と鼻を鳴らした。
・・・やっぱりどこか、偉そうな気がする。
「化けた・・・ねぇ・・・」
ため息混じりに呟いた彼は、グラスについた水滴を爪先で弾いた。
「喜んでいいんだか・・・」
「へい、」
「ミーナ」
呼ぼうとして、陛下に遮られた私は慌てて口を噤んだ。
どうしたものかと視線を彷徨わせていると、低い声が飛んでくる。
「ベルだ」
不機嫌そうに眉間にしわを寄せる陛下に短く言われた私は、思わず目を瞬かせた。
すると、息を吐いた彼が呟く。
「街にいる間は、ベルと名乗ってる」
「ベルさん・・・ですか」
「さん付けも、しなくていい」
「・・・でも、年上ですから・・・」
年上、目上の人間を呼び捨てにするのは抵抗がある。
この世界では、あまり気にし過ぎても生きづらいとは思うけれど・・・。
戸惑う気持ちを隠せない私に、彼は小さく笑った。
どこか、自嘲めいた笑みだった。
「なら、これは命令ってことで」
「・・・ずるいです。
街に下りたら、ベルになるのに命令出来るなんて」
咄嗟に文句を言うと、彼が口角を上げる。
今度はどこか、楽しそうだった。
「・・・悪かったな。
俺は我儘なんだ」
「で、ベルはお金持ってるんですか?」
タルトを追加注文した陛下は、目の前に運ばれてきたものに目を輝かせている。
フォークを手にしたところで水を差した私に、彼は仏頂面をした。
「持ってる。
・・・てゆうか、働いてるからな」
「そりゃまあ、アレも立派な労働だとは思いますけど・・・。
そもそも、現金支給なんですか?
てっきり現物支給型の労働なのかと思ってました」
大口でタルトを頬張る彼を見ながら、ぽつりと呟く。
すると陛下は、口元についたタルト生地やクリームを気にするふうもなく、にやりと笑う。
「現物支給、だな。
現金がなくても生きていけるし」
意味深な笑みにつられるように、私は小首を傾げた。
陛下の口ぶりだと、現金を持ち歩くのは普段の生活の中では難しいような・・・。
そんな私の疑問を見透かしたのだろうか、彼はにやりと笑ったまま口を開く。
「だから、働いてるって言ってるだろ」
「うん?」
まるで意味が分からない私が不思議そうにしているのを、陛下は楽しそうに見ていた。
そして、やはり笑顔で囁く。
「・・・いいか、秘密だぞ」
この流れは、良くない展開だ。
陛下の持つ秘密なんて、大体が良くないものに決まっている。
半ば本能的に察した私が耳を塞ぐよりも早く、陛下が言い放った。
「実は王都で仕事をしてるんだ」
言葉を失った私を、陛下が人の悪い笑みを浮かべて眺めている。
お皿の上のタルトは、あっという間になくなっていて、興味の対象が再び私に移ったのだろう。
「ちなみに、」
得意げに口を開いた陛下を前に、私は慌てて耳を塞いだ。
きーん、と耳鳴りのような音だけが聞こえるのに安心して、目の前で何かを言っているらしい陛下の顔を見つめる。
口の動きが止まったところで、ぱっと手を離した。
呼吸を再開したように、音の波が脳に入ってくる。
私は、ふぅ、と息を吐いてから陛下の目を見た。
その時だ。
意地悪く陛下の口元が歪んだ。
「運送会社だ」
「・・・あぁっ」
聞いてしまった。
小さい声だったのに、直前まで耳を塞いでいたからなのか、ものすごくハッキリと聞き取ってしまったではないか。
「あーあ、聞いちまったなー」
ぷくく、と陛下が噴き出す。
私は両頬を押さえて、楽しそうにしている彼を睨みつけた。
「・・・絶対、絶対にジェイドさんやディディアさん達に、バレないようにして下さいね。
私が知ってたってこと、知られたら・・・」
想像して、頭を抱える。
「きっとチクチク責められるに決まってます・・・!
シュウにもきっと怒られる・・・!」
陛下は“秘密”だと言ったのだ。
誰にも言うなと、そういうことだろう。
頭を抱えた私に、ふんぞり返った陛下が言う。
「任せとけ」
その自信はどこからくるのか、とツッコミたくなるのを堪えた私は、仕方なくため息混じりに頷いたのだった。
それからは、自らの運送会社のお兄さんぶりを、陛下は楽しそうに話してくれて。
確かに、もともと体は丈夫そうだし、じっとしているのは性に合わないようだし・・・。
それに、世間知らずなのかと思っていたけれど、社会に出ているということは意外とそうでもないのか・・・。
陛下の印象が少し変わった私は、相槌を聞きながらその話を聞いていた。
買い物をした老夫婦の荷物を自宅まで配送して、お礼にお菓子を貰ったこと。
田舎から出てきた女の子の引っ越しの荷物を届けて、困っているようだったから、重い家具の位置変えを手伝ってあげたこと。
お給料は日払い制だし、勤務時間も短くて済む。
おかげで良い気分転換になり、これまで続けてきたのだそうだ。
仕事仲間とも、仲良くやっているというから、本当に楽しいのだろう。
本業の合間に働いて、家計の足しにするのだという理由も、なかなかの美談として受け入れられているらしい。
・・・本当のことがバレないことを、心から祈っておこう。
聞いている分には充実した楽しい内容に、私は頬を緩めていた。
気づけばカフェの中は、客が少なくなっている。
・・・シュウは、一体どこまで買い物に出たのだろうか。
姿を消した夫のことを考えていると、ふいに陛下が声を落とす。
「本当は・・・これじゃいけない、って分かってるんだけどな」
零した言葉が重くて、私は咄嗟に受け止めることが出来なかった。
沈んだ声に、何と言葉をかけるべきなのか、分からなくて息を詰める。
陛下の自嘲気味に歪んだ口元が、続きを紡いだ。
「聞いたことあるか?
一国の主が、街に出て荷物運んで小遣い稼ぎに勤しんでるなんて」
そのひと言にも何も言えなかった私を見て、彼は肩を竦める。
そして、大きくため息を吐いた。
「・・・オーディエ、覚えてるか?」
「ええ・・・話したことは、ないと思いますけど」
オーディエ皇子・・・陛下の1人目のお子さんだ。
私が子守りをしていたリオン君の、お兄さん。
シュウと一緒に暮らし始めた頃の、夏の夜の食事会で初めて彼の姿を見た。
物静かな少年、という感じで・・・それだけだ。
大人の輪には入ろうとせず、離れた場所でリオン君と遊んでくれていたのを覚えている。
「あいつ、後を継ぎたいって言い出したんだ」
「・・・そう、ですか」
陛下の口ぶりからは、“意外”とか“戸惑い”とか、そんな感情が透けて見える。
けれど私は、皇子のことをほとんど知らない。
相槌を打つにも困った私が無難な言葉を紡ぐと、陛下はため息を吐いた。
その顔つきは、どこかで見たことがある。
・・・そっか・・・。
記憶を手繰り寄せて、腑に落ちた。
最近のシュウが見せる、父親のカオだ。
「それはいいんだ・・・でも、説教されちまった」
「誰にです?」
尋ねると、陛下が小さく笑う。
「オーディエに、だよ。
・・・そろそろちゃんとしろ、だと」
「ちゃんと・・・」
彼の言葉に、半ば呆然と呟いた私は、ああ、と気がついた。
「・・・てことは、ちゃんとしてなかったんですか」
陛下が、口に含んだアイスティーで咽る。
気管に入ったらしく、少し涙目になっていた。
私は妊婦なので、向こう向いてもらえませんか・・・とは言えなかった。
苦しそうに咳込む陛下の顔が、なんだか本当に苦しそうだったから。