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「だから・・・、もう、本当に分からない人ねぇ」
「母上、あなたの感性を疑いますよ」
「私の感性のどこが、どう、疑わしいのかしら。
言って御覧なさい、さあ」
「・・・私はただ、濁音が入っていた方が強そうで良いと言っているのです」
「別に強くなくたっていいのよ」
「母上・・・」
朝食を終えてしばらく経った頃から、ずっとこうだ。
そろそろ私はお昼の支度をしたいのだけれど、なんとなく2人きりにしたら収集がつかなくなるような気がして、席を立つことが出来ずにいた。
相手が紙に書き出した名前の中から良いと思うものを選びに選んで、絞り込まれた2つの名前を、お互い貶し合っている状態が続いている。
2人はさすが親子なだけあって、お互い遠慮もなく頑固だ。
不幸中の幸いといえば、2人とも育ちがいいからなのか、頭脳戦だからなのか、罵詈雑言が飛び出さないことくらいか。
決して穏やかではない雰囲気は、確実に胎教によろしくないと言えるけれど。
そんな2人を、内心ため息を吐きつつ眺めていると、ふいに膨らんだお腹が張る感覚が。
「・・・ぃっ、」
思わず飛び出た声に2人が、がばっ、と振り向いた。
「どうした」
「どうしたの?」
ほとんど同時に真顔を向けられて、私は引き攣った笑みを浮かべる。
名前決定戦の延長で声をかけられると、悪くもないのに頭を下げたくなってしまう。
ここで痛いなどと言おうものなら、大変な事態になるのは目に見えていた。
・・・大したことじゃないし、誤魔化しておこう。
「う、うん。
ええと・・・赤ちゃんに蹴られただけ」
手を振った私の言葉に、彼の眉間のしわがさらに深くなった。
・・・どうしてだ。
内心困惑した私に、彼は低い声で言った。
「痛むほど蹴るとは・・・いい度胸だ」
「え、え、え?」
どういうわけか不機嫌スイッチの入った彼に、私は思わずお腹に手を当てる。
彼の視線が私の手をすり抜けて、赤ちゃんに届きそうで怖い。
・・・それはパパのするカオじゃないですよ、蒼鬼さま・・・。
私が心の中で呟いていると、彼を見てため息をついた院長が、呆れ顔で口を開いた。
「あなただって、私のお腹を思い切り蹴ってくれてたわよ」
「・・・それはそれです」
若干決まり悪そうに目を逸らしているのは、赤ちゃんがお腹を蹴るのは仕方がない、と理解しているからだろうか。
ともかく、彼の意識が赤ちゃんから離れたらしいことを察して、私は息をついた。
そして、ぽつりと呟いてみる。
「2人に仲良く、名前を決めて欲しいのかなぁ・・・。
言い合う声が大きくなると、蹴られちゃうみたい」
サンドイッチと野菜スープを作りながら、私はため息を吐いた。
キッチンに入る直前に振り返ったら、2人がダイニングテーブルとソファに分かれて座っているのが見えた。
「君のパパとばぁばは、本当は仲良しなんだけどね」
ぽふ、とお腹を叩くと、ぼよん、と中から返事が返ってくる。
手なのか足なのか・・・元気な子で何よりだ。
目や髪の色も気になるし、唇や鼻の形がどちらに似ているのかも気になる。
痛いのは嫌だけど、それでも今は会えるのが楽しみで仕方ない。
野菜の煮える匂いに吐き気を誘われていた時期は過ぎて、私はキッチンに立つのも楽しめるようになっていた。
サンドイッチはすでにお皿に盛りつけてあるから、あとはスープをよそるだけだ。
「しゅーうっ」
顔だけを出して、ソファで腕も足も組んで一点を見つめている彼に声をかける。
すると、彼は何も言わずに立ちあがった。
「・・・どうしたの?」
無表情のままキッチンにやって来たシュウに、小声で尋ねる。
彼は視線を彷徨わせて、囁いた。
「悪かったな、子どもじみていて」
・・・そんなに小さな声で言うことないのに・・・。
きっと、院長に聞こえるのが嫌なのだろう。
察した私は、何も言わずに彼の腕を、くいっと引っ張った。
ぐらりと傾いだ彼の頬に、そのまま唇を寄せる。
「・・・・・・」
こっそり囁いた私が喉の奥で笑うと、彼の口角が上がった。
「気持ち悪いわねぇ・・・」
ダイニングテーブルでお茶を啜っていた院長が、若干体をのけ反らせた。
薄笑いを浮かべた上機嫌な、いい歳した息子を直視出来ないらしい。
昼食前までは、不機嫌オーラを撒き散らしていたのだから、無理もない。
私だって、彼がにやけるのを我慢しているらしい表情に戸惑っていた。
「なんとでも」
ふふん、と院長を鼻で笑った彼がカップを傾けているのを横目に、私はなんとなく目についた紙切れ2枚を引き寄せる。
そこには、上品な字で“シェルルハルテ”と綴られていた。
もう一枚に目を遣ると、そこにも同じように綺麗な字で“ガルディグラム”と書かれている。
「ふぅーん・・・」
それぞれがどちらを思いついたのかは知らないけれど、私は感心して息を漏らした。
すると、彼らの視線が一気に私に集中したのが分かる。
忘れていたけれど、私は審判で審査員なのだ。
今まで傍観していたけれど、私が名前について言及するということは、勝者を決めるということなわけで・・・。
漂い始めた緊張感に、私は視線を彷徨わせた。
せっかくシュウの機嫌が良くなって険悪な雰囲気が消えたというのに、ここで私が下手な発言をするわけにいは・・・。
・・・2人共、そんなに期待でいっぱいの目を向けないで・・・!
突然襲いかかってきたプレッシャーに、内心で悲鳴を上げた私は、呼吸を整えて口を開いた。
「ど、どっちも、良い名前ですね~」
にっこり微笑んで紙から手を離す。
そして、私もお茶を飲もうとカップに手を伸ばしたところで、シュウが言葉を紡いだ。
「そろそろ決着をつけませんか、母上」
「あのねシュウ、これはそもそも、」
「望むところよ。白黒ハッキリさせましょう」
私を無視して何かに合意したらしい2人は、ばちばちと視線を戦わせた後、私を振り返る。
私に逃げ場を与えるつもりはないらしく、4つの瞳には熱がこもっていた。
・・・これはもはや、避けては通れない戦いなのか。
・・・いやまあ、赤ちゃんはもうすぐ生まれるわけだから、いつかは名前を決めないといけないのだけれども。
秋めいた午後の日差しに、小鳥の囀りが聞こえる。
そんなお茶の時間に、審判の時はやって来た。
「・・・えっと・・・」
せめて、どちらがどちらを考えたのかだけでも教えて欲しい・・・。
どうしたものかと頭を悩ませて唸る私が尋ねても、2人は頑として口を割らなかった。
名前だけを見て、選んで欲しいそうだ。
私がどちらかの肩を持つ、というのは嫌なのだろう。
・・・そんなこと、今後が怖くて出来ません・・・。
「うー・・・」
心の中で嘆きつつも、私は決断しようと考えを巡らせた。
「でも、両方とも素敵なんだもん・・・」
ぼやきつつ、交互に名前を音読してみる。
「シェルルハルテ・・・ガルディグラム・・・。
ガルディグラム・・・シェルルハルテ・・・」
どちらの音も、呼びやすくて好きだ。
2人の気持ちがこもっているのだと思えば、なおさら。
「シェルルハルテ・・・なんか、女たらしになりそう・・・。
ガルディグラムは・・・ちょっと、音がゴツゴツしてて強面になりそう・・・」
「女たらし・・・」
「強面・・・」
・・・それぞれ何かを呟いているけれど、そこは無視だ。
ナヨナヨした顔の良い優男と、武骨で愛想のない強面の男。
対照的な人物像を連想した私は、そこではっと気がついた。
「・・・えっと・・・ええっと・・・」
2つの名前を何度も見比べる。
ひらめきが消えないうちに、と頭をフル回転させた私は、ああ、と何かが腑に落ちて、2人の顔を見つめた。
「グランシエル!・・・は、どうですか・・・?」
最初こそ勢いよく言葉が飛び出したものの、尻すぼみになった私に、彼らの視線が注がれる。
私は何か言われる前に、と急いで口を開いた。
「あ、あの、くっつけちゃダメかな。
だって、1つに決めたら、どっちかは消えてなくなっちゃうんでしょ?」
結局すったもんだの末、私達の赤ちゃんの名前は“グランシエル”になった。
半分私の泣き落としに近い説得が、功を奏したのだと思う。
ありがたいことに、2人は私にとっても甘いのだ。
「シエル・・・君の名前、グランシエルに決まったよ」
お腹を撫でながら話しかける。
秋の夕暮れの庭は少し冷えるけれど、背後にシュウが寄り添っていてくれるから、温かい。
背中越しに彼の鼓動と体温を感じながら、膨らんだお腹を撫でる。
「ね、シュウも呼んでみて」
「・・・ん」
照れくさそうに相槌を打った彼が、そっと手を伸ばす。
こわごわ、触れるか触れないかの手つきで、お腹をゆっくり撫でてくれる。
「グラン、シエル」
彼の低い声で名前を呼ばれたそれが、ぼこん、と返事をした。
まさか自分の手を蹴られると思っていなかったのか、彼が息を飲んで手を離す。
その驚きように、思わずくすくす笑った私は、そっと彼を仰ぎ見た。
想像した通りの、目を見開いて固まった表情が、とてつもなく可愛い。
「ね、返事したよ」
「・・・あ、ああ」
ぼんやりしながらも、彼が頷いた。
そして、もう一度手を伸ばす。
今度は、お腹から温かさが伝わるくらいの力加減で、何度も何度も、お腹を撫でてくれる。
時折、シエルが反応した。
きっと嬉しいんだろうな、なんて思って微笑めば、蹴られる時のお腹が張る違和感も、どうということはない。
「おいシエル、手加減しろ。ミナが痛がる」
「・・・さすがにそれは、通じないと思う」
私は彼の言葉を笑ったけれど、彼は至って真面目なカオをしてお腹を撫で続けた。
その日から、赤ちゃんのお腹の蹴り方がなんとなく遠慮がちになったのには驚いた。
まさかシュウ、テレパシーでも使えるのだろうか。
そうなると私が今まで赤ちゃんを理由に、シュウにお願いをしたり、いろいろ食べたりしていたこともバレ・・・それは困る。
「シエル、パパには内緒にしてね」
私は、こっそりお菓子を食べる時には必ず、お腹に手を当てて囁くようになった。