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柑橘系の匂いに満たされた寝室に、うっすらと日の光が差し込む。

夕立から嵐に変わって振り続けた雨が止んだのだろう、窓から覗いた景色には、朝もやが広がっていた。


あれからシュウは、これでもか、というくらいの量の柑橘類を買い込んできた。そして、すぐ食べられるように薄皮まで処理して、冷蔵庫に常備してくれている。

起き上がるのも億劫な日が続いた私にとっては、とてもありがたいことだった。

しかも彼は、剥き終わった果物の皮を干したものを麻袋に入れて、家の至る所に置いてくれたのだ。おかげで、私の体の調子も安定し始めた。

それまでは体がだるくて重くて、おまけに吐き気も思い出したように襲いかかってくる日々だったというのに、嘘のようで。

・・・命が膨らんでいくのを支えるのは、文字通り命がけなのだと実感した毎日だった。

いや、本当の命がけは、これからなのだけど・・・。




「ミナ、」

寝室で身支度を整えて、お守り代わりにグレープフルーツの匂い袋をカバンにしまっていると、シュウが顔を覗かせた。

「支度は?」

名前を呼ばれて振り向いた私は、開きかけていた口をそのままに言葉を失ってしまう。

色違いの瞳が柔らかく細められる瞬間を正面から見て、不覚にも一瞬、見とれたから。

ひと揃いの瞳だった頃と今では、何かが違うものが宿っている気がするのだ。

・・・色が変わって、糖度が上がるとか。果物みたい。

そんな感想を抱いた私が立ち上がるよりも早く、彼がその手を差し出す。

「・・・ありがと」

大きな手に掴まって、よいしょ、と腰を上げる。

お腹の重りが、これから自分がどこに行くのか知っているとでもいうのか、寝室から出るのを拒んでいるようだ。

腰が重くて仕方ない。

「ふぅ・・・お待たせ」

息をついて呼吸を整えた私に、彼が頷く。

天窓からはお日さまの光が差しこんでいて、お出かけ日和であることを告げている。

私は、青い空に似合う、爽やかな柑橘類の匂いがするストールを羽織って寝室を出た。





季節は秋を迎えようとしている。

日差しはまだ強いけれど、吹く風は涼しい。そのせいなのか夕立やにわか雨が多くなって、嵐のように天気が荒れる日もある。

「いいお天気で良かったねぇ」

「ああ」

ふぅ、と息をつきながら言えば、隣を歩く彼は目を細めて頷いた。

「昨日のうちに、雨雲が抜けたんだろ」

「洗濯、帰ったらもう1回しようかな。

 今日ならいろいろ乾くよね」

「・・・お前は寝てろ」

雨が上がった後の空を見ていると、無性に洗濯したくなる。お腹が大きくなかったら、スキップしたくらい気持ちが良くて、わくわくする。

そんな気持ちの私に、彼は渋い顔をして言った。

一瞬、繋いだ手に力が入るのを感じる。

「あまり動かないでくれ」

「えー・・・」

やる気スイッチの入っていた私は、そのひと言に消沈してしまう。

「・・・大丈夫なのに」

嫌だ、と言えないのは惚れた弱みだ。もうそこは白状してもいい。

けれど、この人の心配症ぶりというか過保護ぶりというか・・・そういうところは、たまに大げさだと思う時がある。

そんな気持ちで、ぼそりと呟いた私の顔を、大きなため息を吐いて覗き込んだ彼は、眉を八の字にして口を開いた。

「・・・つい2,3日前まで吐き続けてたんだぞ。

 頼むから、おとなしくしていてくれないか」

「・・・うーん・・・」

同じように眉を八の字にして困った顔をすると、彼が真面目な顔をする。

「今日だって、歩いて行くことはないだろうに・・・。

 何かあったらどうする」

「大丈夫だってば・・・」

彼の言葉に苦笑して手をぱたぱたと仰ぐと、今度は眉間にしわを寄せて、ため息をつかれた。

悪阻の酷さを目の当たりにしたからなのか、彼は私がいくら大丈夫だと言っても聞く耳を持たないらしい。

胃の辺りがムカムカすることもあるけれど、どちらかというと今はふいに睡魔がやってくることがあるくらいなのに。

時折、ひゅう、と強い風に背中を押されながら、私は彼の顔を仰ぎ見る。すると、大きな手が強い風を遮るように私の腰を支える。

小言ばかりを紡ぐ口とは裏腹にその仕草がとても優しくて、思わず笑みが浮かんでしまった。

・・・変な奴だな、なんて笑われるのも、たまにはいいかも知れない。






「・・・はい、いいわよ~」

膨らんだお腹に聴診器をあてたり、触診したりしていた先生が微笑んだ。

ふぅ、と息をついた私は、服をもとに戻しながら体を起こす。

今日は定期健診のために、王立病院の産科を訪れているのだ。

「いたって順調、問題なし!」

担当してくれているのは明るく朗らかな女医さんで、自身にも4人のお子さんがいらっしゃる先輩お母さんである。

相対していて、頼もしいと思える女性だ。印象としては、肝っ玉母さんのような・・・。

「お家のこととか・・・旦那さんは、協力してくれてる?」

「そのへんは問題ないんですけど・・・」

カルテに何かを記入しながら質問した彼女に、言葉を濁す。

歯切れの悪い私を不思議に思ったのか、彼女は椅子を回転させて体をこちらに向けた。

「けど?」

小首を傾げて先を促されて、私はドアの外を気にしながら口を開く。

「ちょっと過保護というか、心配症というか・・・」

診察室の外で待っている彼の耳が声を拾ってしまわないかと、つい小声になってしまった私に、彼女は訝しげに眉根を寄せた。

私は彼女から質問が出てくる前に、口を開く。

「何でもしてくれて、吐き続けてた時はとってもありがたかったんですけど。

 今は、歩くことも止められるくらいで・・・」

もう何ともないんですけどね、と苦笑しながら付け加えた私を見て、彼女は息を吐いた。

その仕草は、真っ白な白衣に身を包んでいるからなのか、私の感性を否定しているようには見えない。

「確かに過保護で心配症だねぇ。

 ・・・体調が安定してるなら、適度に体を動かした方がいいよ」

「そうですよねぇ」

相槌を打ちながら、私は彼に対して少し頑固になることを決めたのだった。


「そういえばね、」

先生が再びカルテを記入するために私に背を向けた。

私は手荷物をかごから取り出して、診察室を出る準備をする。すると、ふいに柑橘の香りが漂って、彼の顔が脳裏をちらついた。

いつもよりも長い時間診察室から出てこないから、きっとやきもきしているに違いない。

落ち着かない様子でソファに腰掛けているのを想像して、内心でくすりと笑ってしまう。大体、待ち合い室は9割女性で埋まっているのだ。その中に蒼鬼がどっしり腰掛けているなんて、可笑しい。

「たぶんだけど、男の子だよ」

「え?」

唐突な言葉に一瞬で我に返って、耳を疑った私は、思わず聞き返してしまった。

「あの・・・?」

すると、彼女は苦笑しながら振り返って、もう一度同じことを口にする。

「男の子。

 今日の診察で、ほぼ確実に男の子だってこと分かったんだけど」

「本当ですか?!」

無意識に声の大きさが全開になってしまった私に、彼女は苦笑したまま頷いた。

「そ、やっと分かったね~」

その言葉を片方の耳で聞きながら、私は膨らんだお腹に手を当てる。

じんわり温かくて、不思議な場所。時折何かを主張するもの。

思い起こせば、その主張の仕方が男の子だと納得出来る気がした私は、抑えきれずに笑みを零してしまう。

「そういえば、そろそろ名前、考えてる?」

感慨に浸っているところへ、何気ない言葉が飛んできて、私は曖昧に微笑む。

「ええと、彼と、お母さまが・・・」

「ミーナさんは考えないの?」

それはきっと、彼女にとっては至極当然な疑問なのだろう。小首を傾げたまま、私を真っすぐ見つめてくる。

私はその視線から逃げるように目を逸らして、ぼそりと呟いた。

「審判と審査員がいないと、泥仕合になってしまうので・・・」

「・・・ん?

 名づけの話だよね?」





診察室を出ると、すぐに彼が近づいてきた。

スライドドアを閉め終わる前に、私の手から手荷物を取り上げて腰を支えるようにして歩く。

「・・・病人じゃないんだけどなぁ」

くすくす笑いながら零した呟きには反応せず、彼はエレベーターの方へと足を向る。

ちらりとその表情を覗きこむと、いくらか強張っているようにも見えて、私はそっと問いかけた。

「どうかしたの・・・?」

病院の中は静寂に満ちているけれど、産科の辺りは小児科も婦人科もある。子どもの声が響くこともあるから、少し声を落とせば会話をしていても大丈夫だろう。

彼は尋ねた私に視線を向けて、すぐに前へと戻す。

そして、下へ向かうボタンを押してから、おもむろに口を開いた。

「いつもより検診に時間がかかっていたが、何かあったか?」

「うん、ちょっとね」

落ち着いた声色の中に、いくらか緊張めいたものを感じ取った私は、それに気付かない振りをしながらエレベーターの表示を見つめたまま言う。

その瞬間、チン、と短くベルが鳴って、目の前のドアが開いた。

あっさり頷いて答えた私の顔を凝視している彼は、それに気付いていないのか、固まったまま全く動く気配がしない。

「シュウ?」

名前を呼べば、はっと我に返ったらしい彼が、やっと一歩踏み出した。

小さな箱に乗り込んで、地上フロアのボタンを押した私は、エレベーターのドアが閉まるのを待ってから彼に寄り添った。

「・・・何があった?」

硬い声が、短く問う。

きっと診察室から長いこと出てこなかったことで、何か良くない想像をしているのだろう。

けれど私は何も答えずに少し背伸びをして、彼を手招きするだけ。

すると、彼は訝しげにしながらも少し屈んで、顔を近づけてくれた。

私はその肩を掴んで、耳元に口を寄せる。

そして、秘密を打ち明ける時のようなドキドキを抱えたまま、そっと囁いた。


してやったり感に満たされながらエレベーターを降りた私は、隣でそわそわと視線を彷徨わせながら落ち着かない様子の彼に言う。

「だいじょぶ・・・?」

お腹の子が、男の子だと知ってショックなのか何なのか・・・先生から聞いたことをそのまま彼に聞かせたところ、思い切り挙動がおかしくなってしまっているのだ。

喜んで欲しいとか、名前は何にしようとか、そんな反応を見せてもらいたかったと思う反面、あまりの動揺ぶりに心配になってしまう。

大概、私の世界も彼中心だ。

「男の子か・・・」

心配でその顔を覗きこみつつ、ゆっくり歩いていると、ふいに彼が呟いた。

地上フロアは総合受付になっているから、多くの人で溢れていて、喧騒とまではいかなくとも、いろいろな人達の話し声が響いている。

私は特に薬を処方されたりはしていないから、行き交う人々とぶつからないように気をつけつつ、薬のカウンターは素通りだ。

「・・・もしかして、ショック?」

「まさか」

嫌な予感に即答が返ってきて、私は胸を撫で下ろす。

女の子がいいとか、そういう話を一切してこなかっただけに、いざとなったら彼の態度に不安が募っていたようだ。

そんな自分を自覚したところで、今度は疑問が浮かぶ。

「・・・じゃあ、どうしてそんなに動揺してるの?」

「いや、それは・・・」

素直に尋ねた私に顔を向けた彼が、気まずそうに口を開いた。

その瞳は、ゆらゆらと揺れている。

「本当に生まれてくるんだな、と思って・・・。

 これまでにいろいろあったから、その先をつい忘れてしまっていたらしい」

「あ・・・そっか・・・」

そのひと言に私も、はっとさせられてしまう。

私自身も、自分に宿った命が、ずっとくっついたままでいるような気がしてしまっていた。

「なんか、急に実感したかも・・・」

「ああ」


ゆっくり歩いていたはずの私たちは、いつの間にか病院のエントランスを過ぎて、眩しい日差しの下にやってきていた。

少し強めに吹く風は、もうすぐ秋がやってくることを知らせてくれる。

きっと秋が過ぎて、一面雪で真っ白に染まる頃には、赤ん坊を抱いてこの病院に立っているはず。そのことを改めて意識して、私はなんとも言えない気持ちになった。

それはきっと彼も同じで、私たちはお互い見つめ合ったまま。

しばらくそうしていると、突然風が強く吹き付けて、私は思わず首を竦めてしまう。

すると、彼が持ってくれていた荷物の中から、何も言わずにストールを取り出す。

「・・・ミナ」

そして、私の首にストールを巻きながら、彼は口を開いた。

私は小首を傾げて先を促す。

「今から体力、つけておくか」

「え?」

首元にじんわりと熱がこもっていくのを感じながら、聞き返す。

彼の表情は真剣そのもので、さっきまでの動揺や戸惑いなんてものは感じられない。

・・・そんなに真剣に、何考えてたんですか。

話の流れから、なんだか嫌な予感がするな・・・と不穏な空気に体を引いていると、唐突に声がかけられた。

「エルー!」



少し離れたところから駆け寄ってくる姿は、久しぶりだ。

仕事はお休みなのだろうか。

ほんのり浮かんだ疑問はさておき、体力をつけようというシュウの言葉がうやむやになりそうな予感に、私はその人へ、自然と笑みを向けていた。









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