17
「・・・ナ。
おい、ミナ・・・」
ゆっさゆっさと、誰かに揺さぶられた私は、重たい瞼をこじ開ける。
「・・・んー・・・?」
開けているつもりなのに、視界がものすごく狭い。
そのうちに瞼が下りてきてしまって、再び意識が沈みかける。
「こら、寝るな」
低い囁きと一緒に、額に痛みが走った。
「いたっ・・・ん、あれ・・・?」
一瞬の痛みに眠気が覚めた私は、目を開けて小首を傾げた。
目の前に、シュウがいるのだ。
「気分は?」
「大丈夫・・・だけど・・・」
尋ねられて、よく分からないまま答える。
すると彼は、色違いの瞳を細めて私を抱き起した。
目に入るものが変わって、眩暈のようなものを感じた私は額を押さえる。
そして呼吸を整えたところで、やっとまともに物を考えられるようになった。
「シエルは?」
「大丈夫だ、寝てる。
おしめも替えておいたから、心配ない」
まず最初に我が子の心配をした私に、シュウは安心する言葉をくれる。
そして、彼は私に尋ねた。
「今朝の様子が気になってな・・・少し早めに帰ってきたんだが。
何があったんだ?
・・・話せるか?」
私はその質問を聞いた瞬間、自分が泣き疲れて寝てしまっていたことに気が付いた。
思い出して、怒りが再燃する。
いや、もはやそれは怒りというよりも悲しくて悔しくて、なんだか院長に対してがっかりしてしまった・・・そんな気持ちだった。
孫フィーバーでシエルに好き勝手構っていると思えば、今度は次の孫の話をする・・・そんな彼女に、私は振り回されて、疲れてしまったのだ。
「・・・私、」
彼の質問に答えようと口を開いた私は、上手く言葉を紡げなかった。
伝えたい、聞いてほしい気持ちがあるのに、それが言葉になって出てこない。
喉が、胸の奥の方が震えてしまって、思うようにならない。
「私、」
あったことを、出来る限り客観的に見た事実を伝えようと思うのに、思い出しただけでダメだった。
「ゆっくりでいい」
ぎゅ、と抱きしめられて、彼の声と心臓の音が同時に聞こえてくる。
とくん、とくん、と規則正しく打ちつける鼓動に励まされるようにして、私は頷いた。
そして、途切れ途切れに言葉を紡ぎ始めた。
「なるほどな・・・」
おおまかに事の次第を聞いたシュウは、静かに呟いた。
それきり、口を閉ざして私の背中を撫でる。
「・・・もう、院長には帰ってもらう・・・?」
捨て台詞のようにして、彼女にぶつけた自分の発言を思い出した私は、そっと彼に尋ねた。
すると、シュウは私を抱きしめていた腕を緩める。
仰ぎ見て目が合うと、今度は頬をむにっと指で摘ままれた。
どういうつもりだ、と小首を傾げた私に、彼は「酷い顔だな」と口角を上げてから囁いた。
「強制送還をする前に、母の言い分も聞いてやってくれ。
・・・一応、息子としては2人に仲良くしてもらえると、大変助かる」
目じりに唇を寄せて言われた私は、ほんの少し、釈然としない気持ちを抱える。
彼は私の話を、一体どういう風に受け取ったのかを、知りたかった。
「・・・どうしても・・・?」
啖呵を切った自覚のある私が、小さな声で尋ねると、彼が小さく笑う。
そして、ぶよぶよに腫れた瞼から覗く私の目を見つめて、彼は囁きをくれる。
「話を聞いた結果、どう思って何を選んだとしても。
俺は、お前の味方だ。心配するな」
その言葉に、私はこくんと頷いた。
「少し待っていろ」と言い残して、シュウが寝室を出て行った。
私はシエルに授乳をしながら、静かにその時を待つ。
げっぷをさせて、寝かせようとしていると、ふいにドアがノックされた。
控えめに、ゆっくりとドアを叩く音に、シエルの目がぱちりと開く。
うとうとしていたのを起こされたこと自体は不快ではなかったのか、彼は静かに私の顔を見上げ、まるで息を詰めているかのように、じっと動かない。
それを見て、私が小首を傾げていると、ドアの向こうから声が聞こえてきた。
「ミーナ・・・?」
院長だ。
シュウが声をかけて、話をしに来たのだろう。
もとより話を聞く約束をしたのだからと、私は声を返す。
「はい」
小さく、短く発した声に、院長が息を飲んだ気配がした。
腕の中のシエルは、静かにしている。
その顔を見た私は、何故か、自分は1人ではないのだと思えた。
小さな命を守らなくては、と無意識に思っていたけれど、違うのかも知れない。
守ってもらっているのは私の方なのかも知れないと、漠然とそんなことを考えて。
半ば呆然としていた私に、院長が静かに語り始めた。
「さっきは、悪かったわ・・・ごめんなさい」
「いえ」
謝罪の言葉に、私は反射的に言葉を返す。
ささくれ立った心が、勝手に紡いだ言葉だった。
すると院長が、いくらか早口になって言う。
「無神経だったわよね。
命を削って、命を産み落としたばかりのあなたに、あんなこと・・・。
でもね、私は全然別のことを考えながら、話をしていたの・・・。
あれは、あなたに向けた言葉じゃなかったのよ・・・」
信じられないと思うけど・・・と付け足した院長は、それきり口を閉ざした。
私はしばらくシエルの顔を眺めて、そして、やっとひと言を紡ぐ。
「じゃあ、誰に・・・?」
「私自身に・・・」
すぐに返ってきた言葉の意味が、よく分からなかった。
けれど、私が聞き返す前に、院長が続きを話し始める。
「私・・・今のシエルくらいの子を育てたことがないのよ・・・」
彼女の独白に、私は言葉を失った。
院長は、シュウの母親なのではなかったか。
そんな私の疑問を、もうすでに予想していたのだろう。
彼女は小さく笑ってから、話を続けた。
「エルを産んでからの私は、体調が戻らなくてね。
3か月くらいかしら・・・ずっと入院していたの。
お乳は出ないし、起き上がっていると眩暈も酷い。
だから、エルの世話なんて出来なかった。
・・・乳母を雇う以外に、選べる選択肢はなかったと思うわ。
夫の両親は、私がお姫様だったから王宮の目を気にしていてね。
まるで腫れものに触るみたいに・・・」
そこまで話した院長は、一度言葉を切った。
「ごめんなさいね、関係の話になってしまったわ」
「・・・いえ・・・」
沈んだ声を発している院長に、私は曖昧な相槌しか打てない。
そんなことがあったなんて、全く想像もしていなかったからだ。
生まれついてのお姫様は、今まで伸び伸びと生きてきたものとばかり思っていた。
「だからね、私・・・。
生まれたばかりの赤ん坊の世話の仕方、何も知らないの・・・。
いえ、知識はあるのかも知れない。
妊娠中に、いろいろと聞きかじっていたから。
でも実体験がないからダメなのね・・・。
私が抱っこしても、シエルは泣いてしまうもの」
「それは、」
「いいのよ、ミーナ」
否定しようとした私を遮って、院長が言う。
「あなたが怒るのも当然だわ・・・。
私が正直に告白していれば、きっとこうはならなかった。
・・・変に格好つけようとしたから、罰が当たったの」
「・・・いえ・・・。
シエルを可愛がってもらえるのは、嬉しいですから・・・」
ドアの向こうから、飾らない告白が続く。
いつの間にか、私の中に燻っていたものは綺麗に消えている。
それに気づいたのと同時に、私の口は勝手に言葉を紡いでいた。
「私の方こそ、何も知らずに、苛々してしまってごめんなさい・・・。
あの・・・ひとつ、お聞きしてもいいですか・・・?」
「もちろんよ」
いくらか力のこもった声が返ってきたのを聞いて、私は思い切って訪ねることにした。
「2人目の話をしたのは、どうしてですか?」
「それは・・・」
言い淀む声。
私は咄嗟に言っていた。
「言いづらければ、いいんです・・・」
あんなに感情が爆発して、疲れて寝てしまうくらいに泣いたのに。
どうしてなのか分からないけれど、私の心は静かになっていた。
同じく子どもを産んだ女性として、なんとなく院長の痛みのほんの一端くらいは、想像出来てしまったから・・・かも知れない。
そんなことを考えていた私に、彼女は話し始めた。
「さっきの話の続き、のようなものだけれど・・・。
やっと体調が戻って、エルの世話も自分で出来るようになって・・・。
でも、やっぱり夫の両親は、乳母を雇い続けたの。
それは私の体を気遣った、優しさだったのかも知れないけれど・・・。
でもね、私は寂しかった。
幼いエルの気持ちは、ちゃんと私に向いていたけれど、それでも、
母親が2人いるような、そんな不思議な空間で子育てをして・・・。
違和感がずっとあったのね。
だから、2人目は欲しかったけれど、産むのを諦めた」
重たい内容に、私は何も言えなかった。
ただ、腕の中で眠るシエルを見つめて、静かに院長の言葉を聞いていた。
「諦め、というのは都合がいい言葉ね。逃げたんだと、今は思うわ。
産後の体の辛さが忘れられなかった。
私が乳母以上に、平等に、2人の子どもの相手が出来るのかも、
自信がなかった。
愛情を注ぐ自信はあったのにね。
ただ、よくないことばかりを考えて、足が竦んだの。
・・・だから、あれは諦めたんじゃないの。
2人目を産むことから逃げた、ってことよね・・・」
「院長・・・」
「あなたが、私のようになったら可哀相だと思ったの。
心配が不安になって、不安になったら口を出さずにはいられなかった。
そうやって、最後には自分がしたかったことを、あなたに突き付けて
しまったんだわ。
本当に・・・どうしようもない姑でごめんなさい・・・。
こんな私だけど、もう一度、母と呼んではもらえないかしら・・・」
言葉の最後で涙声になったのを聞いた私は、堪らなくなってドアノブに手をかけた。
かちゃり
小さな音すら、よく響く。
目の前に立つ院長が、私の顔を見て、大きく目を見開いていた。
「いい匂い・・・」
ダイニングテーブルには、サラダとパスタ、それから温かいスープが用意されていた。
まるで、私達が下りてくるのが分かっていたように、絶妙のタイミングで準備したことが分かる。
私の呟きに、切り分けた果物の入ったボウルを持ったシュウが、キッチンから出てきた。
その顔には、いつも通りの無表情ながら、甘くて優しい微笑みが浮かんでいる。
院長が、泣き腫らした目をぱちぱちと瞬かせて、席につく。
私もシエルをベビーベッドに下ろして、その向かいに座る。
シュウはそんな私達の顔を交互に見ていたけれど、やがて小さく息を吐いて、私の隣に腰掛けた。
音もなく、誰も何も言わなかったけれど、そこには肌で感じられる優しさがあって。
木製のスプーンで、スープを掬う。
半透明の液体が、照明を受けてキラキラ輝いている。
出産を終えて、再び肉類を敬遠している私のために、塊の肉で出汁をとってくれたのだろう。
そのことに思いを馳せた瞬間、私は寝室で彼が囁いてくれた言葉を思い出していた。
「・・・おいし・・・」
目を細めて、私は隣にいるシュウを見た。
スープを掬う手を止めた私に、彼が視線を向ける。
そのまま無言で何かを問いかけてくる彼に、私は言った。
「シュウ・・・ありがとう」
すると、彼は鼻を鳴らして言った。
「これくらい、当然だ」
照れ隠しの態度が、笑みを誘う。
私は彼の顔から視線を剥がして、目を細めていた院長に向かって、口を開いた。
「食後のお茶菓子・・・何がいいですか・・・?
・・・お母さま」
泣き笑いのような笑顔を浮かべて「あなたの好きなものを一緒に、いただきたいわ」と言った院長に、鼻の奥がつんと痛くなる。
それでも涙が出なかったのは、きっと、彼女の顔が嬉しそうだったからだ。
その日の夜、私はふと思い出して引き出しを開けた。
そこには頂きものがたくさんしまってあって、中には義母からの手紙もある。
内容はいろいろだ。
私はその中から、一通の手紙を取り出した。
しらゆり孤児院へ、結婚すると報告に行った時に、もらったものだ。
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ミーナへ
生まれてきてくれて、シュバリエルガのところに来てくれて、
本当にありがとう。
2人で幸せな毎日を送って下さい。
あなた方の母より
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時間に流されて忘れてしまっていた言葉に、私は、声を押し殺して泣いた。