16
その日は朝から、結構な威力の爆弾が落ちてきた。
「ねえミーナ・・・シエルの夜泣き、酷いと思わない?」
放たれたひと言に、私の手がぴくりと反応してしまう。
仏の心で右から左へ受け流す・・・そう自分に言い聞かせて過ごすことにしたのに。
せっかく院長がシエルに会いに来てくれたのだから。
特に赤ちゃんの時期は毎日変化の連続だから、貴重な時間を一緒に過ごさせてあげたい。
それにシエルにとって、祖父母は院長1人きりなのだ。
・・・私の家族には、きっと生涯会うことは出来ないだろうから。
だから、そういう気持ちを持ち続けよう、と決めたはず・・・はずなのだ。
隣に座り、トーストに齧りついていたシュウの動きが止まる。
そしてすぐに、眉間にしわをくっきりと刻み、口を動かし始めた。
・・・とりあえず口に入っている分は、飲み込むことに決めたらしい。
「すみません。
眠れませんよね、やっぱり・・・」
声を落とした私に、院長は渋い顔をして首を振った。
彼女の前に置かれたスープは、まだ半分くらい残っている。
「私はいいのよ。全然平気。
あなたの体が心配なの。
だからねミーナ、シエルを別の部屋に寝かせたらどうかしら?」
「・・・え?」
思いもしない方向性のアドバイスに、私は一瞬彼女の言葉の意味が理解出来なかった。
聞き返せば、院長はわずかに首を傾げてシュウを見る。
「その方が、ミーナの体力が戻るのも早いと思うのよね」
私がその様子に閉口していると、少し前のめりになった院長に向かって、シュウが口を開く。
「それは助言として、一応受け取っておきます」
なんとも無難な切り返しだ。
温度のない声で言い放ったのを聞いて、私は内心で胸を撫で下ろした。
けれどそこで出したものを引っ込めるような院長では、ない。
「1人にするのが心配なら、私の部屋に寝かせてもいいのよ?」
「それは・・・」
言い淀んだ私を、院長が見据えた。
その視線から逃げるように、私は俯いて呟く。
シエルの母親は私なのだから毅然としていたいという思いと、院長がそこまで言うほどに私は弱々しく見えるのかと、自分を情けなく思う気持ちがゆらゆら揺れるのだ。
「あの・・・シエルと離れると、私が不安で眠れなくなっちゃうので・・・」
「そういうことです」
低く穏やかな声が横から言ってくれたのが聞こえて、顔を上げる。
ちらりと彼を一瞥すれば、そこには緩やかに口角を上げて私を見つめる、色違いの瞳があって。
つられるようにして笑みを浮かべた私は、ほっと息をついた。
「そーぉ・・・?」
院長はどこか納得のいかない表情を浮かべ、私とシュウの顔を見比べて呟いた。
朝食を終えたら寝室に戻って、シュウは出掛ける支度をする。
彼が着替えたりしている間、私はベッドに座ってシエルのお食事タイムだ。
しっかり食べたあとは、不思議とお乳の出が良い。
まさに私の食べたものがシエルの栄養になる、ということなのだろう。
小さな口で一生懸命吸いついている我が子の顔を見ていると、愛おしくて堪らない。
「いっぱい飲んで、たくさん寝ようね~」
もういい、と言わんばかりに顔を背けたシエルを抱き起す。
肩にガーゼを当てて、そこにシエルの顎がくるようにして、背中をトントン、と軽く叩く。
すると、「けぷ」という小さな音が聞こえた。
「・・・終わったか」
着替えたシュウが隣に座って、腕を差し出した。
彼は何も言わないけれど、私はその腕にそっと我が子を乗せる。
シエルもお腹がいっぱいになって満足しているのか、むずがることもなく、大きな腕の中で大人しくしていた。
シュウは、間近になった自分の顔をじっと見つめるシエルに微笑む。
「もうパパの抱っこで泣かなくなったね~」
柔らかな頬を、ふにふにと指で押しながら囁いた私は、頬が緩みきった彼の肩に頭を預けた。
「どうした・・・?」
控えめな声に、私は視線を上げる。
「今日も、帰りは夕方だよね・・・?」
「ああ、そうなると思う。
・・・ミナ?」
答えに頷きもしなかった私を呼んだ声は、いつもと変わらず穏やかだった。
彼の腕の中で、シエルがうとうとし始めている。
「・・・大丈夫・・・ちょっと、疲れちゃっただけ。
なんか、余裕がないっていうか・・・」
ため息混じりに呟いた私の腕に、シエルを抱かせて、彼はその大きな手で私の頬を撫でた。
体温が、じんわり沁みてくる。
「それは、あの人にも話してある。
体が妊娠前に戻ろうとする期間だ、不安定にもなって当たり前だろう」
「シュウ・・・」
「・・・と、ジェイドが本で読んだと教えてくれた」
「そ、そっか」
・・・ジェイドさん、相変わらず勤勉ですね。
何だか肩透かしをくらったような気持ちで頷いた私に、彼はなおも言葉を続ける。
「だから、ミナの負担になるようなら帰ってもらうと、最初に約束してある。
・・・その方が気が楽なら、今からでも母には孤児院に帰ってもらおう。
シエルの顔を見せるなら、あと半年くらい待って、列車で孤児院に行けばいい」
「うん・・・でも・・・」
その言葉を肯定も否定も出来ずに俯こうとした私を、彼の手が阻む。
私は観念して、そっと口を開いた。
「シュウもいてくれるし、大丈夫・・・だと、思う・・・」
途切れがちに紡いだ私の言葉を聞いて、彼は小さく息を吐きだした。
そして、何か言う代わりなのか、唇が降りてくる。
それを受け入れるつもりで目を閉じた私の耳に、唐突にノックの音が響いた。
唇が触れる寸前で止まり、シュウが舌打ちをする。
この家の中で、今、寝室のドアをノック出来るのは1人だけだ。
「王宮から迎えが来てるわよ~」
そう告げた院長は、すでにドアの向こうからいなくなったのだろう。
階段を下りる音が聞こえてくる。
上ってくる音は、2人で話をしていたから聞こえなかったのか・・・。
「・・・行かなくちゃ、ね?」
囁くと、触れそうで触れない位置で立ち止まったままの唇が、ふわっと落ちてきた。
「・・・っ、おぎゃぁぁぁっ」
泣き声に振り返った私は、昼食の準備をしようと冷蔵庫の中に伸ばしていた手を止めた。
おかしい。
たった今寝かしつけてきたばかりなのだ。
おしめも替えたし、授乳も済ませたばかりだ。
不思議に思っている間にも、我が子の泣き声が聞こえてくる状況に、キッチンからリビングを覗いた私は固まった。
院長が、あのゆっさゆっさ揺する方法でシエルをあやしているのを見てしまったのだ。
正直、まだ走ったりと急な動きをするのは辛いけれど、緊急事態だから仕方ない。
足元がふわふわと頼りないのを無視して駆け寄った私は、急いで院長からシエルを受け取る。
渋る彼女のことなど、構っている場合ではない。
私は多少強引にその腕から我が子を抱き上げて、声をかけながら泣きやむのを待った。
すると、ほどなくしてシエルは泣き止み、寝息を立て始める。
「・・・お母さま・・・」
シエルが寝入ったのを見届けた私は、そっと起こさないようにと注意を払いながらベビーベッドに小さな体を下ろした。
一瞬強張った小さな握りこぶしを指先で撫でてやれば、体から力を抜いたのが分かる。
それを見て、ほっと息を吐きだした私は、隣でシエルを見下ろして笑顔を浮かべている院長に向き直った。
「シエル、眠ってましたよね・・・?」
「え?・・・ええ」
・・・やはりそうなのか。
引っかかるものはあるけれど、問い詰めたり詰ったりするだけの気力も度胸もない私は、ただ静かに言葉をかけるしかなかった。
「眠っている時は、そっとしておいて下さい」
お願いします、と付け加えると、院長がため息をつく。
「でも、昼間に寝過ぎてるんじゃないかしら。
だから夜泣きが頻繁なのかも知れないわ」
「それは、もう少し大きくなったらそうかも知れませんけど・・・。
今のところ先生から聞いてた通りの生活リズムですし、これが標準だと思いますよ」
思い切って先生の存在を口にした私を見て、院長は渋々頷いた。
・・・院長はシュウのことを、一体どういうふうにして育てたのだろうか・・・。
フォークを置いた私は、向かいに座る院長からの視線に気が付いて、顔を上げる。
すると彼女は、眉根を寄せて言った。
「あら、もういいの?」
「お腹がいっぱいで・・・」
「もう少しお腹に入れた方がいいわよ、シエルのためにも」
はにかんで誤魔化した私に、院長はボウルに入った果物を指差した。
そこには実りの季節らしく、色とりどりの果物を切ったものが入っている。
「もう十分食べましたよ、サンドイッチも果物も。
それに、1日に何度かに分けて食べてますから・・・」
授乳するのに、食べた方がいいのは分かる。
けれど妊娠中から結構な感じで体重が増えているのだ。
明確な数字は分からないけれど、体感的に体が重く、肉付きが良くなった気がする。
だからそういうことも考えて、1食分の量を減らしたものを、1日に何回も摂っているわけで。
・・・まだ体調的にたくさん食べられない、というのも理由の内ではあるけれど。
つつつ、とこちらに寄せられたボウルを押し返した私の顔を、院長が心配そうに覗きこむ。
「しっかり食べないと、胃が小さくなってしまうわ」
「え、っと・・・」
今までになく自分の思いを通そうとする院長に戸惑いを覚えた私は、どう切り返したものかと視線を彷徨わせる。
すると彼女は、私の名を呼んだ。
「ミーナ・・・」
諭すような口調に、私はそっと視線を合わせる。
院長はそんな私の視線を捉えると、口を開いた。
「お願いだから、ちゃんと食べてちょうだい。
体がしっかり元通りにならないと、2人目を産めなくなっちゃうでしょ」
ため息混じりのひと言に、私の頭の中が真っ白になる。
一瞬、何を言われたのかがよく分からなくて、瞬きを繰り返す。
そして、一拍おいてやっと、その言葉の意味を理解した。
・・・もう、2人目の話ですか・・・。
呆れと怒りが一緒になって襲いかかって、目の前がチカチカする。
指先から体温が奪われて、頭の芯が冷え切っていく。
口の中が乾いて、非難する言葉を紡ぐことが出来なかった。
私はテーブルの下でこぶしを握りしめ、我を忘れないようにするのに精いっぱいで・・・。
はらわたが煮えくり返るなんて経験、初めてかも知れない。
自分を蔑ろにされたような気分になった私は、かといって怒りを相手にぶつけるつもりにもなれず、静かに立ち上がった。
食器を手に取り、院長を見下ろす。
「そういうことは、シュウとゆっくり考えますから」
浮かべた微笑みが引き攣っていなかったことを祈りながら、私は食器を洗った。
なんとか苛立ちを抑えた私は、シエルがぐずり始めたところで授乳とおしめ替えを済ませて、洗濯物を畳み始めた。
ソファに広げた洗濯物は、ほとんどがシエルのものだ。
私とシュウのものは寝室に持っていって、寝る前に畳むことにしている。
「孤児院は順調ですか・・・?」
他愛もない話をしようと口を開いた私に、横で手伝ってくれている院長が手を止めて何かを考える素振りを見せた。
「そうねぇ・・・順調といえば、順調ね。
特に大きな問題も起こらず、というところかしら」
「それは、良かったです」
ガーゼを畳んで積み上げる。
もうひとつ、と広げれば、洗剤の良い匂いがした。
「そういえば、イルベの近くに難民キャンプがあったでしょう?
あれも解体されて、ほとんどが移民申請を通過して、イルベの住人になったそうよ」
「・・・そうですか。
それじゃ、西は少し混乱しているんでしょうか」
難しい話は分からないけれど、シュウが関わるかも知れない話だ。
私は手を止めて、院長の言葉に耳を傾けた。
「混乱、まではいかないかしら。
駐留している蒼の騎士団が、相当頑張ってくれているみたいね。
今のところ、治安が乱れたりとか・・・そういうことは、心配なさそうよ」
「それなら、良かったですね。
良くないことを考える人達が孤児院を襲ったり・・・なんてこともなさそうですし・・・」
狙われるのは、いつも弱い者・・・女性や子ども、老人だ。
いつかの私も、油断していたところに引ったくり、などという散々な目に遭った。
思い出に苦い顔をした私に、院長が頷く。
「そうね、とりあえずは平和よ」
「子どもたちは、どうしてます・・・?」
シエルはお腹がいっぱいで満足しているのだろうか、全く起きる気配がない。
私はベビーベッドに向けた意識を戻し、彼女に尋ねた。
すると、院長が言う。
「子どもたち、元気いっぱいよ。
今は農園の方に協力してもらって、秋の野菜を収穫させてもらったりしてるの」
子どもたちの話題を口にする時の院長は、とても生き生きしていた。
やはり根本的に、子どもが好きなようだ。
ささくれ立った心が凪いでいることに胸を撫で下ろした私に、彼女は楽しそうに話し始めた。
・・・基本的に、孫が絡まなければ良いお姑さんなのだと思う。
「子どもって、いいわよね」
ひとしきり孤児院の子どもたちの話をした院長が、最後のひと言を残して席を立つ。
畳みながら相槌を打っていた私は、最後のガーゼに手を伸ばした。
すると、キッチンの方へ行った院長の声が、背後から聞こえてくる。
「特に女の子。
もうちょっと余裕が出来たら、可愛い服をたくさん着せてあげたいのよね」
楽しそうに弾んだ声と、薬缶をコンロにかける音。
カップ同士が軽く触れて出る音が、耳に心地よい。
私は畳み終わった洗濯物の中から、シエルのものを纏めて、ベビーベッドの下に収納する。
立ち上がってシエルの様子を覗きこむと、ぐっすり眠っているのがひと目で分かって、私は思わずほおを緩めた。
確認を終えて振り返ると、院長がダイニングテーブルにお茶菓子を出しているところだった。
彼女は振り返った私に気づいて、口を開く。
「男の子って小さいうちは、ママ、ママ、って寄ってくるけれど・・・。
大きくなったら壁を感じるのよねぇ・・・あの小さな甘えん坊はどこ行っちゃったのかしら」
零れた愚痴に、思わず苦笑してしまう。
院長はきっと、シュウの幼少期と今を思い浮かべているのだろう。
成長したらまるで別人、くらいに思っているのかも知れない。
「そうですね・・・。
シエルもいつかは、私に甘えなくなるんでしょうね」
まだ私がいろいろお世話をしなくては、何も出来ない赤ん坊だ。
今からそんなことを憂いている場合ではないけれど、なんだか想像すると寂しい気持ちになる。
呟いた私に、院長は手を叩いて口を開いた。
「だからね、ミーナ。
次は、女の子がいいわよね」
絶句、である。
昼食の時に一度爆発しそうな怒りを抑えたからなのか、一歩退いた感覚でそのひと言を受け止めた私は、沸々と湧きあがるものを堪えて、ゆっくり息を吐きだした。
もう次の孫を期待しているのかと思うと、やるせない気持ちになってしまう。
「・・・やめて下さいよ。
ついこの間、シエルが生まれたばかりじゃないですか」
いろいろな意味を込めて、苦笑いを浮かべて言った私に、彼女は眉を八の字に下げる。
「シエルも可愛いけれど・・・でも、」
「でも?
何ですか、でもって・・・!」
つい、口調に棘を含んでしまう。
ピリリ、と緊張感を纏った私に、院長は言い淀んだ末に白状した。
「・・・だって私、本当はもう1人、女の子が欲しかったんだもの」
ぶち、と私の中で何かが音を立て、切れた。
「じゃあご自分で産んで下さい。
院長のために子どもを産むだなんて、冗談じゃないです!」
内側で荒れ狂うものを隠さず言い放って、私は院長に背を向けた。
「え、あ、ミーナ・・・?!」
背後に、院長の焦りを含んだ声が投げられる。
けれど、それに振り返って返事をするだけの余裕はもうなかった。
・・・もう駄目だ。
私は懸命に保っていたものを手放すことにした。
頭の中が沸騰しているのだ。
このままでは熱くて痛くて、どうにかなってしまう。
眠っているシエルを腕に抱くと、小さく身じろぎした。
わずかながら正常に機能している理性を働かせ、我が子を取り落とさぬように気をつけながら、私は院長の前を通り過ぎる。
「ミーナ、」
すると、その瞬間に声をかけられた。
頬に視線を感じるけれど、私は顔を上げずに、彼女に何も言わせまいと口を開く。
「シエルにとっても大事なお祖母ちゃんだから、って思ってたけど・・・。
もうたくさんです。
そんなに女の子が良かったなら、シエルにも会いに来なければ良かったのに・・・!」
「待ってミーナ。聞いて、」
ただならぬものを感じたのか、彼女の声が震えている。
けれど私は、その声を遮って言い捨てた。
悪いけれど、もう無理だ。
「シュウが戻ったら、送ってもらって下さい。
・・・それからでも列車、間に合うと思いますから」
寝室のドアを閉めて、息を吐く。
すると、緊張の糸が切れたかのように、怒りから悲しみや悔しさに切り替わった感情が、爆発した。
嗚咽を漏らさずに済んだのは、腕に抱いた我が子のおかげだ。