15
「またですか・・・」
シュウが目頭を指先で揉みつつ、ぼそりと呟いた。
私は、まさに目が点。
「また、ってあなた・・・それでも私の息子なの?」
旅行カバンを手に立っていたのは、王都から遠く離れた西の地で孤児院の院長をしている、シュウのお母さまだった。
そう、私のお姑さんである。
「可愛いわね~」
院長が頬を緩めて、シエルの眠るベビーベッドを覗きこむ。
「いつ起きるのかしら?」
「生まれたばかりの赤ん坊ですよ。
寝るのと泣くのが仕事です」
独り言のように院長が言って、それをシュウがソファで本を読みながら、目もくれずに切り捨てる。
うちにやって来てから、ずっとこの調子だ。
お茶を出したものの、ベビーベッドから離れない彼女が口を付けるわけもなく。
院長がやって来たのだから寝ているわけにもいかず、私は重い瞼を持ち上げるのに精一杯で、シュウの肩に頭を預けたまま動けずにいる。
シエルが眠っている間、私達も昼寝をするのが習慣になっているから、この状態はなかなか辛いものがあるのだけれど・・・。
「・・・母上、」
「なあに?」
気を抜くと瞼が落ちてしまいそうだ。
私は会話する2人の顔を見るだけの気力もなくて、ほんの少しだけ、と瞼を閉じた。
どこかで、赤ん坊の泣き声がする。
けれどそれは一瞬のことだった。
目を開けようとした途端に、赤ん坊の泣き声が遠ざかっていく。
そして、重くなった腕を持ち上げて、瞼を擦った。
その時だ。
「・・・ふ、ふぇぇ、ふぇぇぇ・・・」
「あらやだ・・・」
シエルのぐずる声と、続いて女性の声が薄っすらと聞こえてきたのだ。
瞬時に意識がはっきりした私は、慌てて飛び起きた。
ほんの少しだけ、と目を閉じてから、どれくらい経ったのだろうか。
10分のような気もするし、1時間のような気もする。
時計のない世界では、思うように時間を管理できない部分があるのだ。
それを良しと思える時の方が大半だけれど、今回ばかりは・・・。
「シエル・・・っ?」
シュウの肩に頭を乗せたまま寝入ってしまったらしい私は、半ば悲鳴に似た声を上げて立ち上がる。
ベビーベッドを覗きこむと、そこはもぬけの殻。
「え・・・?!」
いるはずの我が子がいないことに動揺した私は、がばりとシュウを振り返った。
すると、眠そうに瞼を持ち上げた彼は、不思議そうに小首を傾げる。
どうやら彼も、私と同じように居眠りしていたらしい。
「シエルがいないの。
どうしよう・・・?!」
鏡を見なくても分かる。
きっと今、私は真っ青だ。
私を見たシュウも、途端に目つきを険しくした。
けれど、次の瞬間、彼はふっと息を吐きだして目元を和らげる。
「大丈夫だ。
・・・そこに・・・たぶん母上と一緒だ」
そう言って彼が一瞥したのは、庭に面した窓だった。
開け放たれたままの窓から、庭へ出る。
秋の夕暮れ、吹く風は赤ん坊にとっては冷え過ぎていた。
そして、その冷たさは私の目をしっかり覚まさせてくれた。
「すみません、お母さま」
声をかけると、シエルを懸命にあやしていた院長が振り返る。
「あら、まだ寝ていても良かったのに」
若干がっかりしたように言って、彼女は腕の中でぐずる赤ん坊に視線を落とした。
「泣く子ほど強く育つ、って言うものね~」
そして、リズムをつけて上下に揺する。
・・・それはちょっと怖い。
むずがるシエルの頭が上下に揺れるのを見てしまった私は、慌てて院長に向かって腕を差し出した。
ここは少し勇気が要るけれど、きちんと自己主張しなくては・・・と、半ば使命感のようなものが背中を押してくれる。
「あとは私がやりますから。
お母さまは、シエルの機嫌が良い時に構ってあげて下さい」
「あら、私は泣いてるこの子も大好きだわ」
「・・・え?」
てっきり我が子が自分のもとへ戻ってくるものと思っていた私は、院長が微笑んだまま口走るのを聞いて、呆気に取られてしまった。
・・・いやいやいや、びっくりしている場合ではないのだ。
気を取り直した私は、もう一度彼女に言う。
「あの、そうじゃなくてですね、」
「母上」
私の言葉を遮って、シュウが声をかけた。
いつの間にか背後に立っていたらしい彼は、私の肩に手を置いてから、続きを口にする。
「シエルが泣いているでしょう・・・ですから、ミナへ」
彼にしては、ずいぶんと優しい言葉の紡ぎ方だった。
まるで、おもちゃを放そうとしない子どもを諭すような、そんな雰囲気すら漂っている。
院長は自分の息子に言われたからなのか、少し黙ったあと、シエルを私の腕へと返してくれた。
小さな、まだ絹ごし豆腐のように柔らかい頬に触れると、体温が奪われているのが分かる。
・・・もしかしたら、肌寒いのも不快だったのかも知れない。
そう思い至った私は、とにかく室内へ、と踵を返した。
シエルは、すでに泣きやんでいて、ぐずぐずと喉をひくつかせている。
ひと仕事終えた感じというのか、「ふぅ・・・」とでも言いたそうだ。
・・・もちろん、それは私の勝手な思い込みだけれど。
いくつかの感慨に耽っているところに、シュウが呟くのが耳に入ってくる。
「・・・母親ですから」
そのひと言が自分に向けられたものではない、と分かっているから、私は顔を上げなかった。
「それで、いつまで?」
夕食の席でシュウが放った質問に、院長はむっすりと膨れて口を開いた。
「・・・手助けが必要でしょ」
「誰のですか」
間髪入れずに尋ねる彼に、彼女がふくれ面で答える。
「ミーナに決まってるでしょ、いい歳したあなたの手助けなんてしませんよぅ」
なんだかシュウが院長をいじめているように見えてしまう。
「・・・それは、ありがたいですけど・・・」
言葉を選んだ私に、院長が頷く。
正直、助かるのは確かだ。
産後の入院期間を経て、帰宅した私達を助けてくれたのは、他ならない院長だった。
体が重く、眩暈がする私に代わって、シエルのおしめを替えてくれていたのだ。
私の隣に寝かせていたから、今日のようにシエルを抱き上げて連れて行くということは、なかったけれど・・・。
「そうよね?
手があった方がいいわよね?」
身を乗り出した院長に、私は視線を彷徨わせたあとシュウを見上げた。
彼は私を一瞥して、小さく息を吐く。
そんな彼を見た院長は、勝ち誇ったような笑顔を浮かべた。
「かわいい孫のためだもの、任せておいて!」
「やはり、シエル目当てでしたか」
ため息混じりの彼の言葉に、私も内心肩を落とす。
そんなことをしていると、2人の言葉の応酬が始まった。
「目当てだなんて・・・もう少し言葉を選べないの?」
「あなたは孤児院の院長でしょう。
院の子どもたちのことは、放って来たのですか」
「あのねぇ・・・あの子達だって、私の可愛い子どもたちよ。
放って来ただなんて言い方、あんまりだわ」
「失礼。
ずいぶんと浮ついておられるようだったので」
「浮つく・・・」
「ええ、そう見えますよ」
「まあ確かに・・・あの子達と孫だったら、孫の方が可愛いに決まっているけれど」
そのひと言に、私は思い当たることがあった。
初孫の誕生を受け、違う人格が現れるという、かの有名な現象。
その現象が現れると、厳つい顔をした老人ですら、孫の前では満面の笑みを浮かべてしまうという。
そう、いわゆる孫フィーバーである。
孫フィーバー中であるらしい院長は、その日から我が家に滞在し始めた。
もちろん手を貸していただいているわけなので、本当に助かっている。
文字通りのお姫様育ちなために家事全般が苦手なようだけれど、それでも食器を洗ってくれて、洗濯物を畳んでくれるだけでも、心から感謝したい。
・・・そう、思うのだけれど。
「ふ、ふぇぇ、ふぇぇぇっ・・・」
「あれ、お腹すいちゃったかな?」
泣き声を上げたシエルを抱き上げて、声をかける。
おしめは替えたばかりだし・・・と考えを巡らせていると、ふいに横から院長が顔を覗かせた。
「泣いたそばから抱っこしちゃったら、癖になっちゃうわよ」
独り言かと思うくらいの小さな声なのに、そのひと言が重く響く。
なんだか責められているような気分になるのは、私が疲れているせいなのだろうか。
「そ、そうですかねぇ・・・」
肯定も否定もしないようにと、曖昧に言葉を濁らせながらシエルをあやす。
すると次第に泣き声が寝息に変わり、私はそっとベビーベッドに我が子を寝かせた。
ふぅ、と息をついて洗濯物を干そうと庭に出る。
朝早くに干して、西日が射すまで風に晒しておけば、まだ大抵のものは乾く季節だ。
連日大量の洗濯物が出るようになった我が家は、この作業がひと苦労だ。
私は手早く干してしまおうと、集中して作業を開始した。
「エルはいつ頃戻ると言っていたかしら」
とにかく早く、と手を動かす私の背に、声がかけられる。
振り返るだけの時間も惜しい私は、院長の問いかけに洗濯物を干しながら答えた。
「えっと・・・日が暮れた頃には戻ると思いますよ。
今日も郊外の視察だそうですから、王宮には寄らずに戻ると言ってましたし」
いろいろな事務作業が整い、シュウは晴れて10の瞳の担い手なのである。
院長が我が家に滞在してくれることを知った王宮側からの依頼で、王都の郊外を視察に出歩くようになった。
蒼鬼の目が届く地域なのだと、周囲に知らしめるため、だそうだ。
時折オーディエ皇子が同行することもあり、若い女の子達が煩わしい、と渋い顔をしていた。
・・・おそらく寝不足のせいだ。
関係のないことを思い出して、小さく笑みを浮かべていると、彼女が言った。
「そう・・・お父様の帰り、遅いんですって」
「え?」
右から左へと通過した台詞が引っかかった私は、思わず手を止めて振り返る。
そこにいたのは、シエルを抱っこした院長だった。
驚いて一瞬言葉に詰まって、上手く言葉が出てこない。
私は洗濯物を掴む手を握りしめた。
「あの、シエル寝てましたよね?」
つい、声が硬くなってしまう。
自覚はあったけれど、それはもう止められなかった。
「見ていたら起きたのよ。
それで泣きそうだったから・・・でも、」
腕の中のシエルを見つめて、緩んだ頬をそのままに言葉を紡ぐ院長。
そんな彼女に、自分の奥底の方で何かが沸々と湧きあがる気配を、私は感じていた。
すると、院長の言葉の途中でシエルが口を歪めた。
「・・・っ、おぎゃぁぁぁっ、・・・おぎゃぁぁぁっ」
短く息を吸ったかと思えば、大きな声で鳴き始める。
赤ん坊の大声に驚いたのか、院長が目を見開いた。
「あららら、どうして急に泣くのよ・・・?
抱っこしても静かにしてたじゃないの」
院長が声をかけ、あやしてもシエルが泣きやむ気配はない。
それどころか、揺さぶられて泣き声が途切れ途切れになっている。
私は洗濯物をカゴに放り込んで、両手を差し出した。
まだ生まれてひと月ほど、検診は数日後だ。
その検診を通過して初めて、外気浴が許されることになっている。
つまり、今はまだ直射日光の下、屋外の風に吹かれるのは避けるべきだと、私達は夫婦で話し合っていたところで。
そして、泣き方が尋常でない以上、シエルは外の刺激が怖いのではないか・・・と思うのだ。
「私が抱っこしますから」
真っ赤な顔で泣き続ける我が子を迎えるつもりの私に、院長は若干体の角度を変える。
体を捻って、腕に抱いたシエルを私の視線から隠すような仕草だった。
「泣き続けるのも体力が要るんです。
・・・お願いですから、お母さま」
私の視線は、泣き続けるシエルに釘付けだ。
・・・抱き癖など構うものか。
とにかくこちらへ、と目に力をこめると、ようやく院長は体を強張らせて全身で泣き声を上げるシエルを返してくれた。
そのあと、似たようなことが何回も続いた。
孫フィーバー恐るべし、である。
そんな中で私は、だんだんと自分の心がささくれ立ち、神経が尖ってゆくのを感じていた・・・。