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「・・・ふ・・・ふぇぇぇ・・・」
かすかに聞こえてきた泣き声に、意識が覚醒する。
私は重たい体を起して、ベビーベッドの中でぐずり始めたシエルを抱き上げた。
寝室の天窓から、月明かりが差しこんでいる。
まだ真夜中のはずだけれど、そんなことは彼には関係ないらしい。
「大丈夫か・・・?」
目を覚ましたシュウが、隣で体を起こす。
「ごめんね、起しちゃって」
無事に退院して、シエルを連れて帰宅した私達の生活は、それまでとは一変した。
とにもかくにも生まれたばかりの我が子が中心で、私は寝る暇もないくらいに振り回されている。
それは出産前から覚悟していたから、今のところ想定内だ。
「いや、いい」
シュウが起き上がって、ベッドから降りる。
そして、その手で私の頬を撫で、指先で泣いているシエルの頬をつつくと言った。
「少し待っていろ」
「うん・・・?」
小首を傾げつつ、彼が寝室を出て行くのを見送る。
ドアは音を立てずに閉じた。
我が子中心の生活で、振り回されているのはシュウも同じだ。
彼の方は、出産前に新米パパ教室らしきものや、バードさんら子持ち既婚者の皆さんからいろいろとアドバイスを受けていたらしい。
その中に、“子どもを夫婦の寝室に寝かさないか、夫だけ別の場所で休む”という忠告があったのだという。
私も、こうして時間を問わず泣くのが赤ん坊の仕事だと分かっているから、彼には客室で眠ったらどうかと提案したこともあった。
けれど、シュウは一緒に寝ている。
曰く、「俺は在宅勤務だから構わない」のだそうで。
泣き続けるシエルのおしめを替え、お乳をあげていると、シュウが戻ってきた。
その手には、マグカップが2つ。
「ありがと。
・・・もうちょっとかかるから、そこ置いといて」
「ああ」
囁きに頷きが返ってくる。
シュウはカップに口をつけて、無心でお乳を飲むシエルを覗きこんだ。
「・・・顔立ちが変わってきたな」
「最初は、お猿さんだったもんね」
彼の言葉に小さく噴き出した私は、そっと尋ねてみる。
「・・・ねえ、これじゃ眠れないでしょ。
寝室、別にしてもいいんだよ・・・?」
すると、彼はため息混じりに言った。
「お前は気にしなくていい。
それとも、一緒でない方が気が楽か・・・?」
「まさか。
そうじゃなくてね、えっと・・・」
誤解をされそうな雲行きに、慌てて言葉を探す。
そして、素直に「体が心配」だと私が言うよりも早く、彼が口を開いた。
「俺の心配はいい」
そう言って、彼はシエルを抱いている私のこめかみに唇を落とす。
「ん、ありがと・・・」
もう余計なことは言うな、という合図なのだと受け取った私は、ただひと言頷いた。
こんなふうに、私達の日常は大きな変化の中でも、十二分に平和だった。
・・・嵐が、やって来るまでは。
「こんにちはー!」
元気の良い声と、
「どうも、お邪魔します」
落ち着いた青年の声。
ドアベルが鳴って玄関に出ていたシュウが、2人を引き連れて戻ってきた。
「ミーナ、良かったね~」
アンが、言葉と同時に持っていた紙袋を差し出す。
私はシエルをシュウに任せて、それを受け取った。
リボンのかけられた包みが中に入っている。
「ありがと、アン。
ノルガも、ありがとね」
にこにこしているアンの隣で微笑むノルガに目を遣る。
少し見ない間に、大人の男になってしまったらしい。
赤い髪は短めに揃えられていて、どこかキリっとした印象を与える。
これまで弟分のように思っていたけれど、そろそろ私の方が卒業しなくてはいけないようだ。
それに、彼にももう守るべき家庭がある。
彼を気にかけるのは、アンの専売特許になったのだ。
姉というよりは母親の気持ちでノルガを見ていると、頭上からものすごく鋭い視線が。
どうやら、シュウが私のつむじを睨みつけているらしい。
「・・・お、お昼にしましょうか」
私は逃げるように、用意したものを温めるためキッチンへ駆け込んだ。
配られたお茶にお礼を言うと、シュウは優しく目を余細めた。
どうやらご機嫌は治ったらしい。
「団長、目の下にクマ出来てる」
「ミーナも・・・2人ともずいぶん寝不足みたいだね」
お茶を啜りながら、2人が交互に私達の目の下を見つめる。
指摘された私は、そういえば眠い気がして欠伸を噛み殺す。
ちらりと隣を見遣れば、シュウも口元に握りこぶしを当てて、欠伸を堪えていた。
もしかしたら、お互い自分で思う以上に、体が疲れているのかも知れない。
そう思っていると、ノルガが口を開いた。
「やっぱり、育児って大変ですか?」
食後の緩い空気と眠気で、どこか意識がぼんやりしている私は、何と答えたらいいのかと考えを巡らせる。
すると、隣でカップを持ち上げたシュウが答えた。
「俺は、まとまった睡眠が取りづらいくらいだが・・・」
そこまで言って、彼が私を一瞥する。
私はその視線を受け止めて、小首を傾げた。
「ミナの方は、大変だろうな」
「・・・そうかな?」
改まって言われると、なんだか照れくさい。
皆の視線を避けるようにお茶を啜った私は、席を立った。
「ちょっとごめんね。
シエルの様子、見てくる」
リビングの隅にベビーベッドがあり、そこにシエルがすやすやと眠っている。
夜泣きをする以外は、授乳の後の吐き戻しもほとんどないし、ご機嫌がななめになって泣きわめくこともない。
まだ手足をばたつかせるくらいにしか動けないから、こうしてベビーベッドに寝かせておけば、とりあえずは少しくらい家の掃除を放棄しても大丈夫だ。
「いい子だね~」
規則正しく上下するおなかを眺めて微笑んでいると、私の気配に気づいたのか、小さな目がぱちりと開いた。
「ごめんごめん、起しちゃったね」
そう言いながらも、言葉に嬉しい気持ちが滲んでしまう。
可愛らしい顔を見ると、多少の寝不足などどうでも良くなってしまうから不思議だ。
私はそっとシエルを抱き上げて、ぽふぽふ、と手を当ててあやす。
「いっぱい寝たねぇ、シエル」
ほわわわ、と小さな口で欠伸をする姿に、いっそのこと思い切り抱きしめたくなった私は、代わりにその場でくるりと回った。
そうでもしないと、嬉しさや幸せが込み上げて溢れてしまいそうだ。
腕の中のシエルは、シュウ譲りの緑色の瞳を真っすぐに私に向けている。
目が回るとか、そういうことはないのかななどと思っていると、ふいに人の気配がして私は振り返った。
「起きたのか」
平坦な声だけれど、優しい声だ。
まだシエルにはそれが父親の声だという認識はないと思う。
けれど、私と同じくらい手をかけてくれていることが良かったのか、彼が抱っこしている間も、大人しくしているようになった。
最初の最初は・・・おっかなびっくりのシュウの態度が、シエルの恐怖を煽ったのだと思うのだ。
赤ん坊は、私達が思うよりも本能的に賢くて敏感だから。
「うん、今さっきね。
シエル、パパ来たよー」
とんとん、と小さな体を手のひらでノックしながら話しかけた私に、シュウが手を伸ばした。
「少し、昼寝でもした方がいいな」
彼の親指が、私の目の下をなぞる。
「ん・・・」
じんわり温かいものを感じて、思わず目を閉じた私は、アンとノルガの存在を思い出して目を開けた。
頬に添えられた大きな手が気持ち良すぎて、このまま目を閉じていたいけれど・・・。
「2人は・・・?」
重たくなった瞼を持ち上げながら問うと、シュウが苦笑いを浮かべた。
そして、何も言わずに顎でダイニングを指す。
「はい、どーぞ」
ノルガがアンに向かって、ひと口サイズにしたケーキを差し出す。
私からは彼らの背中しか見えないけれど、アンがケーキをぱくりと頬張る瞬間、見つめ合う2人の横顔が、どうしようもなく甘いことだけは分かった。
「おいし~!
ノルガも、はい」
「う?
お、俺はいいよ・・・アン、全部食べちゃって」
「えええー。
いいじゃん、ほら、あーん」
照れるノルガに、満面の笑みを浮かべたアンがフォークを向ける。
ぶつぶつ言いつつも口を開けるあたり、ノルガくんも惚れた弱みだ。
・・・というか。
目の前で繰り広げられた光景に言葉を失っていると、シュウがため息混じりに言った。
「あいつらは、このあと出掛けるそうだ」
「あ、うん・・・」
半ば呆然と相槌を打った私に、彼が顔を近づける。
「うん?」
声をかけた私のことなど意にも介さず、色違いの瞳がどんどん迫ってきている。
「しゅ、」
突然訪れた熱っぽさに私が戸惑っていると、掠め取るようにして唇同士が触れた。
「ちょっ・・・!」
あっという間の出来事に慌てて囁いた私を見て、彼は口角を上げた。
「気にするな。
・・・どうせあいつら、」
そう言って視線を投げた彼が、珍しく固まる。
私もつられて目を向けた。
そして、絶句する。
腕の中のシエルを取り落とさなかったのだけは、誰でもいいから褒めて欲しい。
結局、真っ赤になった私をからかうだけからかって、アンとノルガは帰っていった。
曰く「子どもが出来て、そういうことがなくなる夫婦」とは無縁そう、だそうだ。
・・・なんというか、余計なお世話です。
そして、昼食の片づけがひと段落して、シュウと2人してソファに転がっていた時だ。
またしても、玄関のベルが鳴り響いた。
嵐の到来である。




