13
「あれ・・・?」
すっと痛みが引いたことに気づいて、私は辺りを見回した。
「・・・どうした」
耳元で控えめに響いた硬い声と、色違いの揺れる瞳。
心配そうにしている彼が、抱きかかえた私の顔を覗き込む。
「ん、ちょっと痛みが、落ち着いたみたい・・・。
えっと・・・」
お花見をしていた私は、突然やってきた痛みに耐えかねて病院に行くことになったのだ。
脂汗が出て、体の中が抉られ絞られるように痛くて・・・。
皇子さまが車の手配をしてくれて、ジェイドさんの運転で、それから・・・。
・・・それから・・・?
断片的な記憶を辿った私は、その辺りからが思い出せなくなって首を捻った。
すると、運転席に座っているジェイドさんが、バックミラー越しに目を合わせて教えてくれる。
「もうすぐ病院ですよ。
・・・おそらく、また痛みの波がやってきます。そういうものだそうですよ」
「詳しいな」
私を抱きかかえたまま、シュウがミラー越しのジェイドさんに言った。
ジェイドさんは水色の目を細めて、ふふん、と笑みを漏らす。
「つばきのため、ですから」
そんな彼に何も言えずにいると、シュウがぼそりと。
「・・・気持ち悪いな」
そこからは、ただただ、言葉の応酬だった。
昨日の涙を誘うような男同士の友情など、風の前の塵に同じだったのかと思うほど。
「つばきのことに関しては、きちんと知っておかなくては。
ちなみに一日の食事と睡眠、ひと月の身体のサイクルは最低限把握してます」
「・・・末期だな。
リアが家出したくなるのも分かる気がする」
「あなただって、私と似たようなものでしょうに。
王宮の厨房に出入りしてたの、知らないとでも思いました?」
「お前な・・・本当に気持ち悪いぞ」
「ま、ミナにどうにかして肉料理を食べてもらいたくて、思考錯誤してたんでしょうけど」
「・・・料理長が喋ったのか」
「まったく甲斐甲斐しさを通り越して、執着に近いものがありますね。
少しは自覚したほうが身のためですよ」
ダメだ。
この2人、お互いに喧嘩したがってるのかと思うくらい遠慮がない。
痛みと戦って疲れてしまった私は、2人を止めるだけの気力もなく、ため息を吐いた。
その時だ。
また、やってきた。
「・・・っ」
襲いかかってきた痛みに思わず、ひゅっ、と息を吸い込む。
すると、ジェイドさんがミラー越しに私を見た。
「ミナ、そこの大男の肩でも掴んで、痛みをやり過ごして下さい。
多少なら爪が食い込んだって、びくともしないはずです」
「は・・・っ、はい・・・っ」
言いようのない痛みに、私はシュウの首にしがみついて浅い呼吸を繰り返す。
耳元では「確かに、ミナの握力など大したことはないが・・・」などと、彼がぶつくさ言うのが聞こえていた。
けれど私に、不機嫌そうな彼を宥めるだけの元気はもうない。
とにかく痛いのを何とかして欲しい。
痛くて痛くて、仕方ない。
平然としているシュウに苛立ってしまうくらいに、どうしようもなく痛いのだ。
こんなに理不尽なことがあるのかと、半ば絶望的な気持ちになる。
ぎゅ、としがみ付いた手が無意識のうちに爪を立て、シュウが息を詰めた。
きっと追い詰められた私の力が、予想を遥かに上回っていたのだろうけれど・・・。
ごめんね、と心の中で懺悔したものの、それを伝えるだけの余裕がない。
私は浅い呼吸を繰り返しながら、とにかく痛みの波を受け流そうと、それだけに集中していた。
それからは痛みの波と、それが凪いでいく時間とが交互にやってきて。
痛い時は本当に辛くて辛くて、シュウに腰を押してもらったりもして・・・。
時折誰かから、何かを尋ねられたり言葉をかけられたりした気がするのだけれど、いかんせん痛みを受け流すことに精一杯で、記憶が曖昧だ。
いつの間にか病室の椅子に腰かけている自分に気づいて、私は深呼吸をする。
せめて痛みの引いている間に自分の足で歩いていれば、何がどうなったのかも分かるだろうけれど・・・。
正直、周囲のことなど気にかける余裕はなかった。
「シュウ・・・?」
痛みから解放されるわずかな時間に、私は背中を擦ってくれている彼を呼んだ。
「ん?」
気遣わしげな声色に、自然と口角が上がる。
「痛くて何言われてたのか聞き取れてなかったんだけど。
・・・やっぱり、このまま出産・・・?」
「ああ」
「そっか・・・だよね・・・」
いよいよきたかと、心臓が、きゅぅぅ、と縮むのが分かる。
彼が手を伸ばして、タオルで黙り込んだ私の額や首筋を拭ってくれる。
いつの間にか、結構な量の汗を掻いていたらしい。
結いあげていたはずの髪がほつれて、頬に貼りついているのが、今さら少し不快だ。
こっそり眉根を寄せると、彼が私の髪を解いて、簡単に纏め直してくれた。
「ジェイドさんは・・・?」
そういえば、と彼の存在を思い出した私は、シュウに尋ねてみる。
すると彼は、髪を纏める手を止めずに答えた。
「王宮に戻った。
・・・入院の準備を取りに、リアと行ってきてくれるそうだ」
「ん、わかった」
2人が行ってくれるということは、シュウはずっと一緒にいてくれるということ。
他人が自分が不在の間に、自宅に立ち入るということは気持ちの良いことではないけれど、今は夫である彼が付き添ってくれることの方が大事だ。
そう思った私は、素直に感謝することにして頷いた。
「何か、して欲しいことはあるか?」
「・・・お水、飲みたい」
囁いた彼に、私も小さな声で返す。
喉が渇いて、声が上手く出せなかった。
それからは相変わらず、何度も何度も、痛みと凪ぎが交互にやってきた。
心なしかその間隔がだんだんと短くなっていくような気がして、それが出産が近づいている不安を煽る。
いつだったかチェルニー様から「痛いわよ」と脅かされた記憶が、今さらながら脳裏を何度も掠めていった。
・・・これ以上痛くなったら、どうにかなってしまいそうだ。
そうして、時には部屋の中を歩き回り、時には彼に腰を押してもらい、また時にはどうにもならない痛みが苛立ちに変わって、我儘をたくさん並べてみたり。
そんな私に辛抱強く付き合ってくれたシュウは、終始瞳を揺らして心配そうにしていた。
次に私が我に返った場所は、何かの台の上だった。
長いこと痛みと戦っていたからか、せっかく纏め直してもらった髪は乱れ、体中が汗でぐっしょり。
文字通り、戦いの後のようだ。
けれどまだ終わっていない。
今は小休止のようなものなのだ。
痛みの間隔が短くなっているから、おそらくまたすぐに、私は戦地へと赴くことになるのだろう。
それを思うだけで、気絶しそうだ。
汗ばんだ手のひらは、大きな手を必死に握って痛い。
目を開けたいけれど、思うように体が動かない。
半ば朦朧とした意識に支えられて、ただ、大きな手を握るだけだ。
「ゆっくり、おちついて呼吸しろ。
もうすぐ、あの女性の医師が来るそうだ」
低い声が耳元で囁いて、タオルで至る所を拭いてくれる。
・・・いつだったか、風邪を引いてしまった時にも、同じようなことをしてくれたっけ・・・。
現実逃避気味に思い出を呼び起こした私は、重い瞼をゆっくりと開いた。
照明が眩しくて、目に痛い。
私は深呼吸して彼の顔を見つめる。
「しゅ・・・、ど、して・・・?」
喉がカラカラで、声が思うように出せない。
足を開いた状態で乗せられた台が、かの有名な分娩台だと気づいた私は、小首を傾げる。
すると彼は、何も言わずに私の首の後ろを支えて、水を差しだしてくれた。
口に含んだ水が、ゆっくりと体に染み込んでいくのを感じながら、彼の言葉を待つ。
「医師を呼びに行く間、見ていてくれと頼まれた」
「ん・・・」
潤った喉が、すんなり声を通す。
私はそっと言葉を紡いだ。
「シュウ、先生が来ても、ここにいてね」
この世界にはおそらく、出産に立ち会う、という概念がない。
これまで検診でも日常でも、立ち会うかどうか、という会話は一切なかった。
それならそれで、郷に入りては郷に従えというか、私も1人で臨むつもりだったのだ。
・・・けれど今は、彼の手を離してしまうことが怖い。
「分かった。心配するな」という囁きを最後に、私は再び痛みの渦に飲まれていった。
そこからはもう、半分目を閉じていたこともあってか、記憶がさらに曖昧だ。
大きな手の感触だけは、きちんと手のひらに焼きついているのだけれど。
覚えているのは、私の呻き声と体にこもる熱。
それから、尋常でない痛みと体のどこかを、ぐい、と圧迫されたような感覚。
叱咤されたり激励されたりを繰り返したことと、誰かが一緒に「ひっ、ひっ、ふぅぅっ」と呪文のように唱えていたこと。
そして唐突に訪れた、体の一部が抜け落ちたかのような虚無感。
それが分かった途端の爽快感。
研ぎ澄まされた神経が血の匂いを拾って、ほとんど同時に、私の耳は捉えていた。
赤ん坊の、産声を。
その時になってやっと私は、長い戦いが終わったことを実感したのだった。
分娩台に乗ったままの私の胸に、生まれたばかりの我が子が綺麗になって帰ってくる。
私は汗でべとべとだけれど、小さな彼はそんなことは気にならないらしい。
真っ白なタオルに包まれたまま、おとなしくしている。
胸に乗せられた彼は、お腹の中に入っていた時とは違う重みを持っていた。
感動なのか何なのか、ともかく胸が震えて仕方ない私のこめかみに、唇が落とされる。
呆けたように我が子に見入っていた私は、新米パパの存在を忘れていたようだ。
「お疲れさま」
咄嗟にそんな言葉が突いて出た私を、彼は小さく笑った。
「それは、俺がお前に言う台詞じゃないのか」
「・・・あれ?」
共に闘った感のある私は、思わず小首を傾げる。
「まあ、確かに疲れたな。
・・・ミナもシエルも、無事で良かった」
苦笑交じりの彼に頷くと、大きな手が小さな赤ん坊に伸ばされた。
「小さいな」
「ん・・・だね」
シュウの指先がシエルの頬をつつき、私はそんな夫の顔を見つめる。
色違いの瞳からは甘いものが零れているけれど、目の下にはクマが出来ていた。
良く見たら、久しぶりに疲れた顔をしている。
「・・・私達、こんなに一緒に頑張ったの、初めてかも・・・」
ぽつりと零した呟きに、シュウは静かに相槌を打った。
ちなみに、生まれたばかりの赤ん坊は猿みたいだと聞いていたけれど、意外と可愛げのある顔をしていた。
・・・これももう、親ばかに分類されるのだろうか。