12
「あででででで・・・!」
「どうしてやりましょう、この色ボケ皇子・・・」
悲鳴を上げる皇子さまと、彼の耳たぶを摘まんで、ぐいーん、と引っ張るジェイドさん。
涙目になっている皇子さまを見る限り、補佐官殿の辞書に容赦という文字はないらしい。
しばらくそうやって制裁を加えていたジェイドさんは、ひーひー言いながら耳を押さえる皇子さまを無視して、つばきに視線を投げた。
すると、彼女はジェイドさんと目が合うのと同時に、我に返ったらしく立ち上がり、ぴっ、と人差し指を立てた。
「あのね、ディーの耳が取れちゃったら、弁償どころの話じゃないんだからね」
論点は違うような気がするけれど、とりあえず皇子さまへの暴挙を注意していることは伝わったのか、ジェイドさんが少しむくれたまま頷く。
そんなジェイドさんの耳元でつばきが何かを囁くと、むくれたジェイドさんが頬を緩める。
・・・どうやら2人は、相変わらず仲睦まじく過ごしているようだ。
私が2人の様子に目を細めていると、背後のシュウが、ぼそりと呟いた。
「バカップル」
彼にこの言葉を教えたのは私だけれど、これで良かったのかは疑問だ。
「それにしても、見事に満開ですねぇ」
驚きました、とジェイドさんが微笑んで、桜の木を見上げる。
私もシュウも、気づけば皆で同じように桜の木を見上げて、ほぅ、とため息をついていた。
「それであなた方、この花が咲いている下で食事をする習慣があるんですって?」
ジェイドさんが、何気なくつばきに尋ねる。
彼女は頷いて、私を見た。
「うん。
ね、お姉ちゃん?」
私は彼女に相槌を打って、口を開く。
「ん・・・と、いろいろな楽しみ方がありますよ。
お弁当を持ってきて、桜の下で食べたり。
出店のものを買って、桜並木を散歩しながら食べたりとか。
・・・桜の花を塩漬けにして、ゼリーにしたりとか・・・染物にしたりとか・・・。
私は家族や友達と、こうやってお弁当を食べるお花見が多かったんですけど」
「お姉ちゃんのお弁当、美味しいんだよ~」
つばきがジェイドさんに言って、にこにこと微笑む。
そんな彼女の髪に乗った花びらを、彼が摘まみながら頷く。
「ええ、楽しみですねぇ。
来年は、私とつばきで作りましょうね。
屋敷の皆さんも、連れてきてあげましょう」
「うんうん。
きっと皆、喜ぶと思う。
教授とリジーさんも、誘おうね」
つばき、にこにこ。
ジェイドさんも、にこにこ。
見つめ合って、摘まんだ花びらを吹いて飛ばして遊んでいる。
背景が桜色だからか、完全に2人の世界に入り込んでいるらしい。
私は口の中が砂糖でじゃりじゃりしている気がして、持って来たお茶を淹れることにした。
シュウに手を伸ばしてもらって取ってもらったお茶セットを並べ、人数分用意をする。
すると、胡坐をかいて桜を見上げていた皇子さまが、ぽつりと零した。
「・・・この木って、割とどこにでもあるのか?」
「さあ・・・俺が知っているのは、ここだけだが・・・」
お茶を淹れる私の後ろで、シュウが答える。
ジェイドさん達の頭の中は、まだ桜色に染まっているらしく、こちらの会話に見向きもしない。
「桜、気に入りました?」
私が声をかけると、皇子さまが頷く。
「それもあるんですが・・・どこかに纏めて植樹して、誰でも楽しめるようにしたらどうかと。
・・・まあ、もうどこかにそういう場所があるのかも知れないけど・・・」
「なるほどな」
真面目な顔をして言った彼に、シュウが相槌を打つ。
私は用意したお茶を2人に差し出して、口を開いた。
「そういうことなら、蒼の騎士団に動いてもらったらいいんじゃないでしょうか」
「蒼に?」
カップを傾けようとしていた皇子さまが、意外そうに目を見開いた。
「主要な街に駐在所がありますよね。
そこを拠点にして、桜を探してもらうんです」
「そうだな。
郊外へも巡回に出る必要があるし、片手間程度に探してもらうのはいいかも知れない」
「ふーん・・・」
私とシュウの言葉に、皇子さまが何かを考え込むようにお茶を啜る。
桜色の2人に目を遣ると、もはやこちらのことなど眼中にないらしく、2人して落ちてくる花びらを捕まえようと奮闘しているのが見えた。
・・・どうでもいいけれど、彼女がはしゃぐのは、あまりよろしくないような・・・。
すると、意識の逸れた私の耳に、皇子さまの声が響く。
「ちょっと親父に相談してみようかな。
・・・あの人、楽しそうなことだと食いつくみたいだし」
「ああ、それは確かに」
さすが、陛下に“ちゃんとしろ”と言い放っただけあって、皇子さまの意識は高いらしい。
私は彼に感心しながらも、話がひと段落した気配に、離れた場所で遊んでいる2人に声をかけた。
「やっぱり美味そう・・・」
ぱか、と開けたお弁当箱を覗きこんだ皇子さまが、ぼそ、と呟く。
それを聞いていた私は、頬を緩める。
自分が作ったものをそうやって言ってもらえるのは、大変嬉しい。
「あとの人達は、そのうち来るでしょう」
バカップルモードから回復したらしいジェイドさんが言って、隣に座ったつばきが頷く。
「うんうん。食べよう、お姉ちゃん」
「ん、じゃあ皆さん、どうぞ」
私の言葉に、つばきが取り皿とフォークを配って、お花見が始まった。
「やっぱり、お姉ちゃんのご飯は美味しいね~」
何度も我が家にお泊りしている彼女には、馴染みの味らしい。
しみじみ感想を漏らし、唐揚げや肉巻きを頬張っている。
アンが配達してくれた食堂のサンドイッチも、なかなか好評だ。
食事が進み、時折笑い声が混じるほどに会話も弾んでいる場の空気に、ほっと胸を撫で下ろしていると、シュウが背後から囁いた。
「良かったな」
その声に振り向けば、色違いの瞳が優しく細められている。
私も彼に微笑んで、小さく頷いた。
そして、その途端に「きゅるるるる」とお腹の虫が騒ぐ。
「・・・くっ・・・」
どうやら背中越しに、私のお腹が鳴ったのを感じ取ったらしい。
シュウは笑うのを堪えて声を漏らし、それから取り皿を取ってくれた。
あれと、これと、それからそっちのも・・・と、唐揚げも肉巻きも、ポテトサラダも取り皿にこんもり盛りつけてもらった私に、周囲の視線がグサグサと刺さる。
というか、これは明らかに引かれている。
特に皇子さまは、あんぐり口を開けて驚いているようだ。
「・・・ごめん・・・すごーくお腹空いてて・・・」
フォークを片手に縮こまると、シュウが息を吐いた。
「残したら、俺が食べるからいい」
夫である彼の声にも、呆れた感がある。
私は言われるまま頷いて、唐揚げにフォークを突き刺した。
この時の私は、自分の身に何が起きているのかを考えもしなかった。
ただ、お腹が恐ろしいくらいに空いて、だから食べたのだ。
その食べっぷりは、もう何日も食べ物を口にしていなかったかのよう、だったらしい。
自分の名誉のために言っておきたい。
・・・食べ方は、汚くなかったと思う。
「はい、つばき」
取り皿を空にした私は、彼女のリクエストで作った浅漬けを差し出した。
「わ、ありがとー!」
喜んで一本漬けに手を伸ばした彼女に頷いて、私も自分の分を取った。
脂っぽいものが多い食事だから、こういうさっぱりとしたものが欲しくなる。
作って正解だったな、と内心呟いた私は、背後からの視線を感じて振り返った。
「・・・なあに?」
眉間にしわを寄せたシュウに、そっと尋ねる。
「あ、ごめんね寄りかかったままで」
妊婦の体重を支えるのに疲れたのかと窺うと、彼は小さく「いや」と否定した。
それなら、一体何なのだろう・・・と思いつつも、私は小首を傾げるだけにとどめて、胡瓜をぱくりと咥える。
その瞬間、皇子さまが唐揚げを取り落としたらしく「うわ」と声を漏らすのが聞こえた。
浅漬けを加えたまま視線を投げると、瞬時に顔を逸らされる。
「・・・む?」
そのままシュウを見上げ小首を傾げると、今度は彼が目を逸らした。
・・・私、何か可笑しなことしたんだろうか。
訝しく思いながら、胡瓜を齧る。
こきゅ、と音がして、じゅわりと旨味と塩気が口の中を満たしていく。
「・・・おいひい」
思わず漏れたひと言に、シュウの腕が強張った気がして、私は首を傾げた。
ちなみに、彼らが浅漬けに手を伸ばすことはなかった。
この世界の人には、あまり馴染みのない調理法だったのだろうか。
疑問はもうひとつある。
食べ終わったつばきが、耳まで真っ赤だったのは一体どうしてだろう。
・・・もしかして、塩加減を間違えたんだろうか。
「・・・まだお腹が空いてる・・・」
「は?!」
ぽつりと呟いた私に、つばきが声を上げた。
信じられない、といった表情を浮かべて。
いつもよりかなり多い量を食べているはずなのに、私は満腹感を感じていなかった。
理由は分からない。
けれど、飢えとはこういう感覚なのか、というくらいの空腹感が居座っているのだ。
さすがに、おかしいのは自分でも気づく。
「おかしいよね、どうしてだろ・・・」
首を傾げながらも、サンドイッチを頬張る。
おかしいとは思うけれど、空腹感がある限りは食べなくては、とも思うのだ。
半ば本能的に、体が欲するままに食べ続けるしかない、と。
すると、背後のシュウが私の額に手を当てた。
「熱はないな。
・・・そういえば、今朝は死んだように眠っていたし・・・確かにおかしい」
もぐもぐと口を動かしながら彼の言葉を聞いていた私は、ふぅ、と息を吐いてお茶を飲む。
「お姉ちゃん、大丈夫・・・?」
つばきが心配そうに私に問いかけて、ジェイドさんが口を開く。
「感覚が麻痺して、満腹感を感じられなくなっているのかも知れません。
一応、このへんで食べるのは控えた方がいいですよ」
「ん・・・そうだよねぇ・・・」
見れば皇子さまも、こくこく頷いている。
私は頷いて、大きく膨らんだお腹を撫でた。
「シエル、お腹いっぱいになった?」
名前が決まってから頻繁に呼びかけている我が子は、お腹の中から返事をしてくれることが増えた。
毎回というわけにはいかないけれど、最近はかなりの頻度でお腹の中で動きまわっているようだ。
私が撫でる手に、シュウが大きな手を重ねる。
「シエルを口実に食べ過ぎて、あとで腹を壊しても知らないぞ」
「分かってるってば・・・でも、ほんとにお腹が・・・」
笑みを含んだ声に、私は口を尖らせた。
「・・・触ってみても、いいですか・・・?」
そんな私に、恐る恐る、といった風に声をかけてきたのは、皇子さまだった。
勇気を振り絞ったのか、若干手が震えているのが分かる。
私はそんな彼に小さく噴き出して、もちろん、とお腹をぽふぽふ叩いた。
「ディー・・・」
そっと手を近づける彼に、つばきが囁く。
皇子さまは振り向かずに、私のお腹に手のひらを当てた。
おへその上辺りに感じる温もりに、お腹の中から反応が返ってくる。
ぼよん、と手のひらが押し返された感覚に、皇子さまが息を飲んだ。
「シエル、オーディエお兄ちゃんだよ」
私もお腹に手を当てて、我が子に囁く。
すると、顔を強張らせながらも目を輝かせた皇子さまが、そっと微笑んだ。
その時だ。
ぼこぼこぼこ、とシエルが運動会でもしているのかというくらいに、手足を動かしているのが伝わってきた。
もちろん、痛みを伴って。
「いっ・・・」
突然のことに思わず顔をしかめた私に、皇子さまが慌てて手を離す。
驚きに言葉を失ったのか、彼の顔は真っ青だった。
「ミナ・・・?!」
「お姉ちゃん?!」
「・・・痛むのか」
バカップルの後に、シュウの硬い声が聞こえて、私は首を振る。
「ん、だいじょぶ・・・なんか、ものすごい動いてるみたいで・・・!
・・・あ、・・・で、も・・・やっぱいた・・・っ」
言葉を紡ぐ間にも、痛みがやってくる。
シエルが動いている痛みなのか、別のものなのかが分からなくなるくらいに。
「・・・ひ、ぅ・・・っ」
声にならない声を上げた私に、痺れを切らせたのかシュウが皇子さまを呼んだ。
「リオン達に離宮には来ないように、伝えて来い。
今から病院に連れて行く」
「・・・あ・・・う、うん、分かった!」
言われたことを一瞬遅れて理解したのか、皇子さまが立ち上がる。
すると、ジェイドさんが走り出そうとしていた彼を引き留めた。
「待ちなさいオーディエ。
その辺の白の誰かに事情を説明して、私の車を離宮に回させて下さい。
私が、彼らを病院に連れて行きますから」
「分かった」
冷静な、だけど強張った声で告げたジェイドさんに、皇子さまが頷いて踵を返す。
彼の顔色は少しだけ悪かったけれど、とても頼もしい顔つきをしていた。
「・・・う、く・・・っ」
呻き声を抑えようとしても、どうしても口の端から漏れてしまう。
体の奥の方が絞られて、千切れてしまうのではないかという痛みに、私は浅い呼吸を繰り返していた。
「大丈夫だ。
すぐに車が来る。そうしたら、病院に行くぞ」
シュウが、いつの間にか脂汗を浮かべた私の額を、ハンカチで拭ってくれる。
「た、べ・・・すぎっ・・・?」
彼の表情が、見たこともないくらいに硬くなっているのに気づいて、軽口を叩いてみる。
けれど、彼は何も言わずに私を支える腕に、わずかに力を込めた。
「つばき、」
ジェイドさんが、硬い声のまま彼女に声をかける。
「うん」
返事をしたつばきもまた、思いもしない展開に動揺しているのだろう、掠れた声で応えた。
「あなたは食堂で待っていなさい。
ああ、私の執務室でも構いません。
ともかく、誰かあなたを知る人のいる場所で、事態が落ち着くまで待機すること」
脂汗を拭われながら、私はジェイドさんの事務的な台詞を聞き流す。
もう顔を見て、その声を聞き取ろうとすることは難しかった。
痛みの波に晒された私の耳は、つばきの声を拾う。
「・・・でも・・・」
口ごもった彼女に、ジェイドさんの声が飛ぶ。
「あなたも、大事な体なんですよ。
側にいたい気持ちは分かりますが、今は控えましょう。ね?
大丈夫、私があなたの分まで力になりますから」
「・・・ん、分かった。
お姉ちゃんのこと、よろしくね。
食堂でアンと待ってる。落ち着いたら、迎えに来て」
「ええ、必ず」
そこで2人の会話は途切れた。
そして、私は頬に冷たいものが触れたのに気づく。
痛みに目を閉じてやり過ごしていた私は、そっと目を開けた。
すると目の前に、心配そうに私を覗きこむ彼女がいた。
「お姉ちゃん・・・」
「だい、じょぶ・・・ね?」
「ん、分かった」
掠れた声に、眉根を寄せた彼女が渋々頷いて、視界から居なくなる。
すると今度は、ふわりと私の体が浮く。
太くて逞しい腕に抱きあげられた私の背中は、汗でぐっしょり濡れていた。
等間隔でやってくる痛みの波が、恐怖心を煽る。
私はシュウの首にしがみ付くようにして、その痛みと戦っていた。