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体調、絶不調。
「・・・っ、」
口を押さえて、バスルームへ駆け込む。
最近、ずっとこれだ。
目じりに浮かんだ涙をごつごつした指が拭ってくれるのに任せて、私は彼の肩に頭を乗せる。
頭が重たくて仕方ないのだ。脳みそと鉛が入れ替えられたのかと思うほど。
しつこく何かを主張する己の体に戸惑ってしまう。私にどうしろと言うのだろうか。
胃の中は空っぽだし、口の中が酸っぱい。口を開きたくない。
「はちみつ紅茶でも飲むか・・・?」
そっと囁いた低い声に、ゆっくりと首を振る。
日に何度もバスルームへ駆け込む私の体に、響かないようにしてくれているのだろう。
その気遣いが嬉しいのに、それを表現するだけの気力が、バスルームに駆け込むたびに削り取られていってしまうのが分かる。
もう、目を開けているのも億劫だ。
「昨日は夜中も、だったからな・・・。
寝不足だろ、このまま眠ってしまえばいい」
「ん・・・ごめん、ね・・・」
肩に回された手が暖かくて、意識が暗闇に引き摺られていくのを感じながら、私は呟く。
それが彼に聞こえていたのかは分からないけれど、大きな手が肩を撫でてくれるのが分かって、安心して意識を手放した。
柑橘系の香りが鼻先を掠めて、緩やかに浮上していた意識が急にはっきりするのが分かる。
白い天井の眩しさに思わず顔をしかめて、自分がソファに横になっていたことに気がついた私は、ゆっくりと体を起して彼の姿を探す。
どれくらい眠っていたのだろう。眠りに堕ちる寸前まで、隣合わせに体温を感じていたのに。
「どこ・・・?」
喉がカラカラに渇いていて、声が上手く出せない。
大きな声で彼を呼びたいのに、胸の奥が震えて力が入らない。
視界から彼が消えると、ふいにやってくる不安。恐怖と言い換えてもいいくらいの、底知れない暗くて淀んだ、私から考えることを奪うもの。
ある日突然もといた世界に戻された私は、皆が少しずつ肩代わりしてくれた代償と引き換えにして、この世界へ“帰って”きた。
彼が片方の目を犠牲にしてまで私を呼び戻してくれたことに、自分を軽蔑するほどに嬉しくて、申し訳なくて・・・。
そんな葛藤をやり過ごした私は、穏やかな毎日を取り戻したはずだった。
新しい命を一緒に守っていこうと言ってくれる彼は、片方の目から光を失ったというのに、どういうわけか以前よりも強くて頼もしくなっていて。
だから、もう大丈夫なのだと言い聞かせているのに。
「シュウ・・・?」
目に映っているのは確かに彼と暮らす家のリビングなのに、そこに彼の存在がないだけで、ここ最近感じている吐き気とは別のものが、胃をひっくり返そうとする。
分かっている。
怖いのだ。また、見えない力に引き離されたのか、と。
不思議な、言葉では説明のつかない力に、抗いようのないことをされてしまった体験は、そう簡単に記憶の奥でじっとしていてくれない。
彼が視界からいなくなれば、今度は彼が消えてしまったのかと不安になる。
彼の傍にいなければ、自分がまたどこかへ飛ばされてしまったのかと怖くなる。
帰ってきたばかりの頃は、ただ嬉しくて・・・。
けれど、何度も朝を迎えるうちに、嬉しさや穏やかな安心感の中に影が落ちていることに気がついてしまったのだ。
そして、思う。次に引き離されたら、もう頑張れないと。
きっと命は勝手に未来へと向かって伸びていくだろうけれど、私には自分が壊れてしまうだろうという予感があった。
心臓の位置までおかしくなったのか、喉元でどくどくと脈打つのを感じて、呼吸が乱れる。
ぎゅっと目を閉じて、それをやり過ごそうとしていると、今度は、鈍い鼓動がお腹の中心から聞こえてくるのが分かって、私はそっと手を当てた。
・・・しっかり、しなくちゃ。
呼び起されるようにして我に返った私は、そっと立ち上がる。
これ以上、彼の手を煩わせるようなことはしたくない。心配をかけるなんて、論外だ。
「シュウ?」
天体盤を見上げて、眠りに堕ちてからそれほど経っていないことに気づいた私は、ダイニングテーブルの上に果物が置いてあるのを見つけた。
思わず手に取ると、目覚めた時に感じた甘酸っぱく爽やかな香りに満たされた。
目を閉じて吸い込むと、波立っていた感情がいくらか落ち着きを取り戻す。
「・・・いい匂い」
鮮やかなオレンジ色と、瑞々しい黄色が並んで美味しそうだ。
呼吸が楽になった私は、オレンジを手に持ったままキッチンを覗く。
「んー・・・上、かな・・・?」
そこには彼の姿はないことに内心肩を落としながら、私は呟いた。自分の小さな声だけでもいいから耳に入れていないと、静寂に心が負けてしまいそうで。
2階へ上がるために踵を返そうとしたところで、視界の隅に沸騰してカタカタと蓋を鳴らす薬缶に気づく。
きっと、彼がコンロにかけたまま傍を離れたのだ。
「あららら・・・」
ぼやき半分で呟きながらスイッチを切ろうと伸ばした私は、ふいに眩暈を感じてたたらを踏んでしまう。手にしていたオレンジが、ごと、と床を転がっていくのを遠くで聞く。
すると、何かに掴まろうと伸ばしたはずの手が、ぐい、と引き寄せられた。
やはり遠くで、カチ、とスイッチの音がして、沸騰してカタカタ鳴っていた音が消える。
「あ、」
「・・・ミナ」
ほんの少し緊張を含んだ声に遅れて、彼の匂いで肺が満たされる。
そのことにほっとした瞬間、膝から下の力が抜けた。
かくんと折れた私の膝を掬った彼が、そっと息を吐くのが分かって、私はぐらつく頭をもたげて言葉を紡いだ。
「ごめんなさい・・・」
「どこも痛めてないか?」
「ん・・・」
体のあちこちを触りながら尋ねられて、くすぐったさを耐えながら答えると、彼は眉間にしわを寄せて私の顔を覗き込む。
ソファに逆戻りした私は、彼に横抱きにされていた。
「眠れなかったのか」
残念そうに言われると、こちらとしても頷きづらい。
「うーん・・・」
左右で色の違う瞳は、どちらも私を見つめて揺れている。
それだけで、彼が私のことを心底心配してくれていると分かって、頬を緩めてしまう。
「でも、熟睡してたと思う・・・。
起きた時は、体が軽かったよ?」
「・・・そうなのか?」
ぺたぺたと私の体のあちこちを触診していたらしい彼は、ひと通り確認し終えたのか、眉間のしわを消して囁いた。
頬に添えられた手に自分の手を重ねると、彼がそっと息を吐く。
・・・心配、かけてばっかりなんだよね。
広がった申し訳ない気持ちに俯くと、彼がわずかに手に力を込めて、私の目を覗き込んだ。
「代わってやれればいいのにな・・・」
思わぬ台詞に、噴出してしまう。
「お腹が膨らんでも、大丈夫なの?」
彼は、私のお腹が膨らむごとに、手を当てたりするのを躊躇うようになっていた。
曰く、力加減が分からないのだそうだ。風船を思い描いているらしく、割ってしまいそうで怖いとか、なんとか。
蒼鬼のふたつ名が嘘のように可愛らしく思えて、私には、そんな彼が好ましく目に映る。
体調が思わしくない自分を棚に上げて噴出した私に、彼が視線を逸らして呟いた。
「番が苦しむのを見ているのと天秤にかけたら、代わった方がまだいい。
眠れないのは春の巡回で慣れているし、体もミナよりは遥かに丈夫だ」
「・・・でも、大丈夫。
みーんな、同じように辛い思いをして乗り越えるんだから。ね?」
真面目なカオをして視線を戻した彼に、くすくす笑みを漏らしながら言葉を返すと、彼はため息を吐いて口を開く。
「それじゃ、父親は皆同じように、おろおろしながら番の世話をするわけか」
「そういえば、顔色がだいぶいいな」
言葉の通りに、いや、少し過保護気味に世話を焼いてくれる彼は、手の中のオレンジと私の顔を交互を見ながら呟いた。
彼の手が皮を剥くたびに、爽やかな香りが漂ってくる。
「オレンジとかレモンとか、柑橘系の匂いが良かったのかな。
そういえば、胃のむかむかする感じ、ちょっと良くなった気がする・・・」
「そうか」
頷いて言うと彼が、ふ、と息を吐いて頬を緩めた。
そして、おもむろにひと房摘んで、隣に腰掛けて彼の手を見つめていた私の口元に差し出す。
「ほら」
「え、えっと・・・?」
まさか口元まで運んでくれると思っていなかった私は、半分驚きで口が開いてしまった。
そこへ滑り込ませるようにオレンジを入れられて、条件反射で咀嚼する。
じゅわ、と甘酸っぱい果汁が口の中に広がって、思わずふにゃりと微笑んでしまった。
「うまいか」
目の前で甘く微笑んだ彼に何度も頷いた私は、嚥下しようとして喉に引っかかるような違和感を覚えて顔を歪める。
「薄皮は飲み込めないか・・・」
ティッシュを差し出してくれた彼に礼を言って、口の中に残っているものを吐き出す。
「ごめんね、シュウ・・・せっかく、」
「ほら」
顔をあげて謝ると、またしても口の中にオレンジを放り込まれた。
「・・・んむぅ」
今度は薄皮まで剥いてくれたらしく、すんなり喉を通っていく。
「これなら大丈夫だな」
そんな私を眺めて満足そうに微笑んだ彼が、言いながらどんどん薄皮を剥いて、小さなガラスのボウルに入れる。
ごつごつした手は、剣を握って働いてきたけれど、ものすごく器用なのだ。いつだったか、一緒に豆を莢から取りだす作業をした時には、片手間のくせに速くて丁寧で、主婦としての矜持が砕かれたのを覚えている。
刃物を使うのも細かい作業も得意だから、いつかレストランでも開業出来そうだ。
「あんまりたくさん、いいからね。
ごめんね。シュウも大変だろうし・・・次からは自分で、」
あまりの集中具合に口を挟んだ私を遮って、彼は大きくため息をついた。
「ミナ」
私の名を呼んだ彼の表情は、オレンジを手ずから食べさせて満足そうにしていた時とは、一変してしまっている。
久しぶりに咎めるような、お小言を口にしそうな雰囲気に思わず首を竦めてしまう。
彼はそんな私を見て、果汁で汚れた手を拭きながら小さく息を吐いた。
「・・・気づいて、ないんだろうが・・・っと」
動きを止めたままの私を横抱きにした彼が、眉間にしわを寄せる。
「最近、謝ってばかりだな」
「・・・そう、かな・・・」
内心どきりとしたのを悟られたくなくて、思わず俯く。
すると、隠すことは許さないとでも言うかのように、私の頬に手を添えた彼が囁いた。
「この目のせいか」
「まさか!」
間髪入れずに言葉を投げると、彼は目を細めて微笑んだ。
「なら、必要以上に謝るな」
「うん・・・」
バリトンの囁きが、私の中から言葉を引き摺り出していこうとするのを感じて、思わず彼の首に腕を回す。
「それとも、何かあるのか・・・?」
その言葉に、しがみつくようにして腕に力を込めると、お腹の部分を避けるようにして、彼が抱きしめ返してくれる。
嗅ぎ慣れた匂いがして、私はそっと息を整えた。
「あのね・・・」
「ん・・・?」
肩口に額をくっつけて囁けば、彼が同じように囁きを返す。
耳元で聞こえる声と腕から伝わる体温に、自分の体が嬉しくて疼いているのが分かってしまった私は、頬を緩めながらそっと呟いた。
「視界から、いなくならないで。
シュウが見えなくなると、まだ怖くて・・・子どもみたいだけど・・・」
私が勇気を出して言葉にした気持ちを、彼は鼻で笑う。
むっとして体を離した私が見たのは、これ以上ないくらいに甘い微笑みを浮かべてこちらを見つめる彼の顔だった。
「だからと言って、謝る必要はないだろうに」
呆れたような言葉を選んで紡いだ割に、その表情はとろけてしまいそうだ。
私の頬を包むように触れた手に気を取られていると、目の前に彼の顔が近づいてきていた。
「・・・じゃあ、口癖かな」
「それは直した方がよさそうだな」
漂う甘い空気に飲まれるのが悔しくて呟くと、彼が小さく笑って言う。
「協力する」
どうやって、と言いかけた私の声は、重ねられた唇の隙間から小さな音になって漏れた。
頬を包む彼の手からは、オレンジのいい香りがしている。