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それは女性が身だしなみを整える為に携帯する小さな鏡だ。覆いがそのまま鏡の支えになって、手を放しても鏡が斜めに傾いたままになるよう設計されている。
色は可愛らしいピンク。浮き彫りになっているのは小さな薔薇。
非常に可愛らしい、しかしどこにでも売ってるような鏡だ。
「これはリリカのですか?」
「いいえ。私のではありません」
首を横に振り、リリカは鏡を不思議そうに眺める。
「そもそも私はこの姿見以外に鏡を持っていません。買うお金もないですし、ここに入ってから外に出かけた事もありませんし。私がこれを持って来ていない事も先生は知っていますよね?」
「そうですね、それにリリカなら水色を買いそうです。ピンクは好きな色ではないでしょう?」
「ええ、どちらかというと苦手な色ですね」
「……女性はみんなピンクが好きだと思っていたが」
ぼそりとユリウスが呟くと、エディがそれはいい笑顔で振り返る。
「駄目ですねぇ、女心をきちんと理解しないとモテませんよ?」
「モテたい訳じゃ」
「そんな事でどうするんですか、惚れた女性にまともに喜んで貰えると思うんですか? 変な趣味のものを送ってしまったら、最愛の女性に逃げられますよ?」
「そんな女性は」
「だいたい星の数ほど女性がいるのに全員同じ趣味とか考えられるその神経がわかりませんね。その理屈で言えば私と貴方も同じ趣味という事になりますよ? ああ、嫌ですねぇ、こんな鈍感と同じだなんて」
「少しは俺の話を聞けって!!」
エディに畳みかけられてユリウスは若干涙目だ。
「あ、あの、好きな男性に贈られたものならハニワでも嬉しいわって母が遠い目をしながら言ってたので大丈夫ですよ!!」
「……主、それ、何のフォローにもなってないから」
「だって、あはははははって母は嗤ってましたよ?」
「うん、それ明らかにおかしいよな、なんか普通の笑うと違うよな!!」
そう言われてリリカは小首を傾げる。
「でも、父の話になると母はいつもそんな感じですよ?」
「それなんて言うか駄目なんじゃないか、色々」
「え、毎日父に抱き締められてキスされていつだって弟か妹産まされそうでお母さんはお父さんに物凄く愛されてるのよっていつも言ってる母ですよ?」
「……主よく純粋に成長できたな……」
「……いつだって……」
何故だかほんの少し赤い顔で目をそらす二人にますます首を傾げていると、エディが小さく咳ばらいをした。
「と、ともかくですね。この鏡には魔法の痕跡があります」
「そうなんですか?」
「……鏡面に、呪文が書かれていたのか?」
「そのようですね」
エディとユリウスにはわかるようだが、どれほど見てもリリカにはよくわからない。
それでもしばらくあちこち角度を変えてみれば、うっすらとした油膜のような何かを見る事は出来た。
「これがその呪文、ですか?」
「そうですね。どうやら下級悪魔召喚のようです」
「しかも暴走まで組み込んであるとか、性質が悪いな」
鏡を睨むと、ユリウスはおもむろに手を伸ばす。鏡面に指を触れさせて、呪文をなぞるように動かせばぼんやりと文様が浮かび上がった。
「俺じゃなく、この鏡の通りに下級悪魔が来ていたらと思うと、ゾッとするな」
「そうですね……この陣そのものは悪魔召喚の魔術書に書いてある初歩的なものです。どうして貴方ほどの悪魔が呼ばれたのかはわかりませんね」
「はっきり言って、タイミングというやつかもしれないぞ」
文様を固定してエディに見せた後、ユリウスは窓の外を見上げた。
雲ひとつない空に輝くのは満月。しかも赤みを帯びている。
「こんな月の夜は俺達悪魔の力が強くなる。それはお前も知ってるだろう」
「ええ、ですからあえて今夜精霊召喚の陣を描かせたんですよ。逆に精霊の影響力が少なくなるから、勝手に暴走する可能性が少ないので」
「ああ、なるほどな。だが、今回は悪魔召喚の魔法陣があったから月の魔力と相まって精霊召喚陣に影響を与えてしまった。この位置に鏡があるなら、陣を挟んで合わせ鏡になるしな」
「合わせ、鏡?」
確認してみると、確かにこの手鏡とリリカの姿見で合わせ鏡になる。魔法陣はそのちょうど真ん中で描いていた形だ。けれど、それがなんだというのか。
不思議そうなリリカにエディが口を開いた。
「合わせ鏡で魔力が膨大になるのはわかりますか?」
「あ、えっと、映りあう事による倍増、ですか?」
「そうです。元々合わせ鏡と言う呪式自体が黒魔法の一種ですから、悪魔召喚と相性が良いんです」
「今回はそれに加えて魔力が増大する赤い満月、そして合わせ鏡の間で描かれていた召喚陣、それから最も世界の線引きが曖昧になる時間という要素が加わった。その結果、誰もが予想しえないほどの召喚力が
発生したんだろう」
あまりにも偶然が重なった、奇跡のような出来事だ。おそらく合わせ鏡を仕掛けた者さえ予測しえなかった事だろう。
それにしても、ここまで大事になってしまった以上、単なる悪戯では済まされない。
あまりにも許容範囲を超えた事態に、リリカの頭は真っ白になっている。
「犯人を見つけなければなりませんね」
「だな」
頷き合うエディとユリウスを、リリカはぼんやりと眺める事しか出来なかった。
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