茜
「男が同性愛を嫌うのは、優位を脅かされたくないからだそうよ」
背筋が伸びた、美しい後ろ姿は、紅茶を入れるために沸かし始めたヤカンの前から動かない。
テーブルの真ん中に置いてある菓子入れのクッキーに手を伸ばして、私はその背中の中程を覆う髪が揺れるのを見ていた。
「男は貫くもの。貫かれるものである女よりも、生物的に優位であるべきなの。それは男の本能であり、深層心理レベルの常識と刷り込みよ」
クッキーをかじると、カスがテーブルにこぼれて散らかった。ココア味。
スカートにも乗ったカスを払い、残りも口に放る。奥歯で噛み砕くと、アーモンドの香ばしい香りがした。
夕暮れが窓から差し込み、茜色に部屋を染めた。茜色は懐かしい郷愁を呼び、帰りたい時間の匂いを纏うらしい。帰りたい故郷も時間ももたない私には、夕暮れの茜はただ部屋を染める忌々しい輝きにしか思えない。好きで集めたインテリアの青も白も黒も、同じ色で染め上げられることが気に食わない。隣の椅子に座るうさぎのぬいぐるみも、いまは赤い。
「同じ位のはずの男から、貫かれるものが出るということは男としての地位を脅かされるということだわ。あるいは同じ男から、貫かれる対象として見られるということは、自分の確かな優位を脅かされる危険があるということ」
「お湯は。まだ沸かないの」
「もう少しよ。まだ待っていて」
さっきからそればかり。ティーカップも、シンクに浸かったまま洗いもしていないくせに。お茶の葉も無いことだって、本当は知っている。
それなのに沸いても使えないお湯が沸騰するのを、出てこない紅茶が差し出されることを、私は待っている。彼女が向ける背中を見ながら。
口に運び続けるクッキーの数だけが減ってゆく。口の中が乾いて、唾液がうまく出てこない。
「古い時代、同性愛は排除されたことも、最も神聖な行為だとして崇められたこともあるわ。排除されたのは危機感から。崇められたのは、それは本来痛みしか伴うことのない性行動だからよ」
本当は聞きたくない。彼女の背中が語る言葉も、母の話も。彼女が背中を向けている間、私はとても寂しくて、孤独で、貧弱で、不幸になる。彼女の背中は私の話を拒絶して、彼女の頭の中は待っているなにかと禁断の愛のカタチのことで一杯になる。
夕暮れの赤を嫌って眉をひそめる私の姿も、彼女は見ない。
母の話も聞きたくない。幼い頃に私を捨て、女として生きて死んだ母の言葉なんて、聞きたくないのに。最後に看取って欲しい、と呼ばれた母の枕元で囁かれた言葉が頭の中をめぐって離れない。
彼女が、かつて母だった女のように私に背を向け続けるのなら、私はすべての荷物をここに捨て置き知らない場所に旅立っただろう。耳を塞ぎ、目をつぶり、体を丸めても許される場所を求めて、歩きだしただろうに。
「でもね、男性愛の記述は多いのに、女性愛の記述は少ないのよ」
そう出来ないのは、彼女がときどき私を振り返ってくれるからだ。
涙がこぼれ、腰を浮かせる間際に彼女は長い髪を翻しながら私を正面から見つめてくれる。それだけで、私はこの茜色の部屋から飛び出すことができなくなる。
「男性が女性と契る行為は、男性愛を神聖とした時代で最も下劣とされたものだったの。妻以外の、娼婦と呼ばれる女性はどの歴史にも必ず存在しているのに、その必要性には目を向けられず、汚さと行為の低俗さばかり評価される。彼女たちは人の歴史においてなくてはならない存在だったのに、最も汚く最低な職業であるとして罵られるの」
湯気を吹き始めたヤカンの取っ手を握り、彼女はシンクにすべて流した。お湯がシンクをたたく音と流れていく音が茜色の部屋に響き、茜色の湯気がもうもうと立つ。
彼女の背中は、空になったヤカンに再び水を入れ直して火にかけた。
「どうしてお湯をこぼしちゃったの」
「悪いものが入っていたのよ。あれで、お茶は飲めないわ」
青く閃く炎を見た。ヤカンの焦げた底で踊り、茜色の部屋のなかで唯一青い。
「茜色は嫌いだわ」
これは彼女の一言だった。はっとして彼女を見ると、赤く光を反射する暗い瞳とぶつかった。私の好きな彼女の瞳も、いまは懐古の色に染まっている。
「茜色は嫌いだわ。良くないものばかりを思い出すの。嫌いな人の手のひらだったり、爪の間に詰まったゴミのことだったり、髪の毛先のことだったり、動かない体のことだったり」
私を見つめている瞳の焦点は、しかし私を通り越したもっと遠くで結ばれている。知らぬうちに、隣にいたうさぎのぬいぐるみを抱きしめていた。
「キスをしましょう。男が男を好きになるのが最悪だったり神聖だったりするのなら、女が女を好きになることだって最悪だったり神聖だったりするべきよ。同性愛が愛の両極のかたちならば、昔受けた異性からの陵辱を上書きするくらい容易いはずだわ」
椅子を力任せに引き、背もたれに手を置くことで私に覆いかぶさる彼女の体を、私は力なく押し返した。拒絶はできない。彼女の提案に、私が惹かれたのが事実だから。昔の傷を上書きできるほどに強く清く美しい愛があるのならば、それに身を任せてしまっても惜しくはない。
胸の膨らみを押す私の手を、彼女は握った。
「茜色は嫌いだわ。昔の、懐かしくて忌々しい匂いがするから」
迫ってくる茜色の唇を、私は拒めなかった。




