第9話「魔女の怒りが呼ぶ禁術」
その日はクラスの四人で昼食を食べて、生徒会室にも顔を出してみた。
だが、意外なことにリーゼロッテの姿が見当たらない。
そういうこともあるかと、アネトも午後の授業を受けて終業の鐘を聴く。
級友たちに挨拶して、さてと校門を出ると意外な人物が待ち受けていた。
「あれ、リナリア? どうしてここに」
そう、校門の前で周囲の視線を集めていたのは、メイド服姿のリナリアだった。屋敷のオールワークスメイド、こちらを見つけた瞬間に駆けてくる。というか、突進してくる。
いつもいつでも、彼女は勢いがよくなんでも全力全開な少女だった。
「アネトオオオオオオ! お疲れ様っ!」
「あ、うん。リナリアもお疲れ様」
「お嬢様は? まだ生徒会のお仕事かな」
「まあね。リナリアはどうして?」
「街への買い出し、おつかいだったの。メイド長が、二人を途中でお迎えしてくれるなら馬車を使ってもいいって」
リナリアはいつになくテンションが高い。
そして、物珍しそうに周囲をくまなく見渡していた。
その意味がアネトにもわかる。
リナリアは恐らく、学校にあまり通わなかった娘なのだ。オーレリア帝国では、読み書きソロバンができるレベルから先は、限られた身分の人間しか進学が許されていない。
メリアのような庶民の出の生徒が例外中の例外なのだった。
「へー、これがアトラクシア学術院かあ! くーっ、テンションあがるううううう!」
「少しなら案内するよ。リゼあねは、まあ、馬車を見れば待っててくれるからすれ違っても大丈夫」
「いっ、いいの!? やたっ!」
「どこから回ろうか」
「大食堂っ!」
だろうなと思った。一緒にサテュレーネの屋敷で暮らしているからわかる。リナリアは、その華奢な身に反して大食漢、大変な健啖家である。
この時間だとまだ、大食堂でもお茶やスイーツを出しているだろう。
基本が貴族や良家の子供たちが通う場所なので、学生食堂のレベルも極めて高かった。しかも、生徒とその関係者はなにをどれだけ食べても無料なのである。
かといって、リナリアに好き放題食べさせるのは危険だ。
せいぜいお茶にケーキといったとこだろう、そう思って歩き出すと、
「あーらあら、貴方たしか……イーネビッチ? だったかしら? 魔女の弟よね!」
不意に呼び止められて、アネトは振り返った。
そこには、縦巻きロールの金髪をなびかせる、この国の皇女様が立っていた。周囲にずらりと、騎士科のイケメンたちを並べて、シャルフリーデ殿下のご登場である。
彼女はどういうわけか、リーゼロッテの名前を覚えられないようだ。
いつもわざとらしい間違い方をしているが、天然なのかどうかはアネトには判断しかねる。リナリアも突然の謁見に目を白黒させたが、慌ててその場にひざまずいた。
「あら、いいのよ? ここではあてくしも一人の生徒。まあでも、メイドとしては合格点ね。……貴方はあてくしに頭を垂れないのかしら?」
アネトは学術院の一年生であると同時に、サテュレーネ家の執事見習いでもある。
謙遜しておきながらも服従の態度を要求されれば、迷わずリナリアの隣に控えた。
瞬間、石畳を見つめるアネトの後頭部が衝撃に痛む。
シャルフリーでは遠慮なく、ヒールでぐりぐりとアネトを踏みにじってきた。
「ちょっとそこなメイドさん? 靴が汚れてるの、拭いてくださらない?」
「え、あ、ちょっと! いったいなにを、ってかアネトから足をどけ――!?」
「リナリア、いけないよ。僕は大丈夫……拭いてあげて」
慌てふためきながらも、リナリアは理解したと思う。シャルフリーデはこの国の姫君、皇女なのだ。さからえば自分はもちろん、アネトやサテュレーネ伯爵家にも害が及ぶ。
それを踏まえたうえでの反応が見たくて、シャルフリーデはこんな子供じみた挑発をしているのだ。
「あら、おりこうさんだこと。……ちょっと詰まらないわね」
「こっ、皇女殿下。それでは、失礼してお拭きいたし、ます」
「ええ、ピッカピカにして頂戴? それともそうね、一番きれいになるのは……下賤な娘にでも舐めさせてみようかしらん? 犬みたいにペロペロとねえ」
取り巻きの男子たちから笑いが上がった。
これはもう、悪趣味には付き合えないなと思った。アネトは自分への侮辱には耐えられても、親しい者たちを馬鹿にされると我慢がならないたちだった。
夕焼けに染まる学び舎の中央通りで、誰もが遠巻きにおびえて見守るしかなかった。
そう、紅蓮の魔女と呼ばれる義姉以外の誰もが。
「……ちょっと、なにをしてるのかしら? 正直におっしゃってくださいな、皇女殿下」
ちょうど別棟に続く階段を、一人の女子が降りてくる。
彼女の歩調に合わせて、左右のガス灯が光り始めた。
夕闇迫る中、そこには激怒に美貌を凍らせるリーゼロッテの姿があった。
「あらあら、魔女のご登場? ごきげんよう、ええと……エーゼボッチ?」
「ご機嫌いいわけなくてよ、皇女殿下。わたくしの名はリーゼロッテ。麗しくも荘厳なこの響き、覚えるには少し頭が足りないのかしら?」
「……プッ、アハハッ! そういう無礼なとこ、好きよ? 周囲で震えてる者たちの方がよっぽど小利口ですもの。あてくしの血と立場を恐れぬ無礼、その身で詫びなさいな」
親衛隊とでもいうべきシャルフリーデの取り巻き、その中でもひときわ体格のいい男が剣を抜く。騎士科の生徒は基礎魔法はもちろん、独学でなにかしらの魔法を補助的に用いることが多い。剣術や馬術だけではなく、真のエリートとして教育された未来の英雄である。
オーレリア帝国の騎士団といえば、列強に囲まれたこの小さな国の守護神なのだ。
「さて、リーゼロッテ先輩……紅蓮の魔女とか呼ばれてうかれているようですが――」
「チッ、うるせーな筋肉ダルマが」
「……は? い、今なんと」
「っと、いけないいけない。オーッホッホッホ! わたくしが魔女か聖女かはどうでもいいんですの。そして、我が家の者を侮辱する女が皇女殿下でも、わたくしには関係ありませんわ」
恐れ知らずなと、誰もがざわめく中でリーゼロッテの声が澄み渡る。
「まずはそこのノッポさんからかしら? 全員同時にでもよくてよ……アトラクシア・デュエルッ!」
――エンゲージ!
瞬間、大男が巨体を裏切る俊敏性で階段を駆け上がる。
リーゼロッテが大鎌を取り出した時にはもう、彼は全身の筋肉を躍動させて肉薄していた。もちろん、残りの取り巻きたちがやいのやいのとはやしたてる。
アネトは頭上に足をどける気配を感じたが、瞬間ドシリ! と今度は全身がきしむ。
なんと、改めてシャルフリーでは、アネトの背に座ってきたのだ。
慌てて四つん這いになったが、アネトは目線でリナリアを落ち着かせる。
「あてくしの下僕が勝ったら、そうねえ。その男と交際なさいな、魔女さん」
「クッ、誰がこんな……では、皇女殿下! わたくしが勝ったらお分かりですね?」
「ええ。あてくしが直に相手してあげてよ。その前に、あてくしの下僕たちが黙ってはいないでしょうけど」
正直、アネトはじれつつも冷静に頭脳を働かせていた。
デュエルが成立している以上、二人に割って入ることはできない。それでアネトに助けられたとしても、リーゼロッテのプライドが許してくれないからだ。
それなのに、お構いなしにシャルフリーデの親衛隊は次々と剣を抜く。
「俺からのデュエルも受けてもらいますぞ! 副会長殿!」
「これはいい、あのリーゼロッテ先輩が僕の者に……いざいざ、デュエル!」
「まあ待て、今は俺の番だ! そして、このまま一気にケリをつけ――!?」
その時だった。
力強い男の太刀筋をそらして、その威力を自分のスピードへと吸収するリーゼロッテ。旋毛を巻いてその場で一回転、優雅にバレエダンサーのように仕切り直す。全力で剣を押し込んでいた男は、突然の距離感につんのめった。
そして、強い魔力が呪文に乗って励起する。
「大地の牙よ、踏みしめる我が領土より敵を退けよ! ……ちょい手加減気味で、っと」
突然、ドン! と階段の一部が尖って持ち上がった。鋭利な切っ先というにはいささか平らだが、大男は腹に巨大な岩柱のボディブローをもらって浮き上がる。
アネトは背の上に、シャルフリーデが息を飲む気配を確かに感じた。
「くっ、全員でかかれ! シャルフリーデ様に勝利をお届けするのだ!」
「うおおおっ、俺の女になれえ! 一日中コレクションの切手語りをしてやるっ!」
「ま、待て、うかつだぞ! この気配……基礎魔法! レジスト、魔法防御だっ!」
大挙して未来の騎士たちが階段を駆け上がる。
だが、頭上に真っすぐ左手をかざして、静かにリーゼロッテの声が響き渡る。それはまるで歌っているようで、呪っているようで、それでいて祈っているような声音だった。
「ジ・アルタス・イスブール……エンテ、ラ、エルトゥース……!」
それは、ここではない時、今ではない場所の言葉。
古代の言語で詠唱される、俗にいう神代魔法と呼ばれる術の目覚めだった。その威力は術者次第では、街一つを消し去るとも言われている。
だが、アネトから立ち上がったシャルフリーデは愉快そうに見上げて笑う。
「ウフ、フフフ……ハハハッ! もう神代魔法も会得してますのね! ええと」
「リーゼロッテ! リーゼロッテ・サテュレーネでしてよ! さあ、もう少しで詠唱が完了しますわ。星をも砕く一撃、耐えられて?」
「……ま、いいでしょう。今日はこれくらいで許して差し上げますわ。興覚めですもの」
登り始めた月を掴むような、リーゼロッテのその手から魔力が弾けて消える。
以前から彼女はいくつかの神代魔法を持っていると語っていたが、あの話は本当だったのだ。魔法が全く効かないアネトを覗けば、この場の全員が蒸発していたかもしれない。
同時にアネトは気付いた。
シャルフリーデはあの時、アネトとリナリアに基礎魔法で防御を施していたと。
ただ、リーゼロッテが本気ならそんなものは嵐を前にかざした紙にも等しい。
そして知る……シャルフリーデはリーゼロッテが手加減するのを知っていたのだと。なんにしろ、去ってゆくシャルフリーデを追いかけて親衛隊の男子たちも消えた。
それを氷の無表情で見送ってから、リーゼロッテはやれやれと肩をすくめて微笑するのだった。