第6話「夢で出会って、想い想われ」
その夜、アネトは妙な夢を見た。
夢だとわかるから、いわゆる明晰夢だ。
だが、その舞台も時代もわからない……オーレリア帝国どころか、この異世界大陸のどこにもない場所のように思えた。
軍事教練だろうか、外では掛け声を合わせて走る少年たち。
斜陽の中、全てが茜色に染まる部屋に一人の少女が目の前にいる。
『緋川先輩っ! 諦めちゃ駄目ですよ! だって、小さい頃からずっと先輩は!』
アネトの喉から迸る声。
そう、自分がこの謎の景色の主人公だった。
そして、目の前では洗濯物を取り込みながら少女が無理に微笑む。涙をこらえての笑顔だと、すぐにわかった。
『ありがとう、でもいいの。彼には、本当に好きな人と幸せになってほしいから』
『でも、大金持ちの転校生、それも出会ってまだ一ヶ月ですよ!?』
『……一目惚れかもしれないし。それに、実家がプロリーグのスポンサーだって』
『あの人、そんなことで恋人のこと振っちゃうんですか!?』
『恋人じゃ、なかったんだよ? 片思い、本当にただの幼馴染だったの』
緋川というファミリーネームに心当たりがある。
今は思いだせないが、夢の中のアネトはないはずの記憶を総動員していた。目の前の、どこか垢抜けない純朴そうな少女のことが、次から次へと思い出される。
そう、この先輩は緋川リゼ。
献身的にサッカー部を支える敏腕マネージャーだ。
それというのも、小さい頃から憧れていた想い人が、そのサッカーとかいう球技に打ち込んでいたからだった。
だが、その男はリゼを選ばなかった。
『あーあ、負けヒロインになっちゃった』
『そんなの、周りが噂してるだけですよ! だって、先輩は絶対にあの人と結ばれるって』
『いいんだあ、彼が幸せならそれで。さ、片付けちゃお?』
『緋川先輩っ!』
ああ、そうかとアネトは理解した。
これは、恐らくは自分が勝手に妄想している夢だ。寝る前に、リーゼロッテの昔の名を聞いたから、記憶と知性が引っ張られているのだ。
そうして生まれた夢の光景は、ただの空想に過ぎないかもしれない。
だが、アネトは不思議と目の前の笑顔を知っているような気がした。
『どうして……こんなに優しくて、びっ、びびび、び! ……美人で。頭もよくて』
『うんうん、そうだねー。家も隣同士で、幼稚園から一緒なのにね』
『あっ、その話マジなんですか!? もう、整っちゃってるじゃないですか! 色々!』
『そうなんだけどねー、ふふ。さ、君も自主練で残ってるんでしょ。グランド、空いてるよ?』
『先輩……でも』
『ね、行っておいでよ? ……一人になれないと、わたし泣けないから』
常日頃から姉が口にする、負けヒロインという言葉。要するに恋に破れた乙女たちのことをさす蔑称らしい。
そして、もう一つ……余りにも意外で信じられないことがわかった。
アネトは以前、リーゼロッテと、緋川リゼと同じ世界にいたのかもしれない。
失われた記憶の断片がこの夢かもしれないと思うと、なぜか胸が熱くなった。
だが、世界は徐々に色を失いセピア色に閉じてゆく。
消えゆく夢の中で、思わずアネトは叫んでいた。
「緋川先輩っ! そんな、そんな先輩が、僕はっ!」
身を起こして呆然とする。
今この瞬間、アネトは現実世界の朝に覚醒していた。
汗びっしょりで息は荒く、鼓動の高鳴りは心臓が飛び出してきそうな勢いだ。
生々しい夢の記憶だけが、何度も頭の中で繰り返される。
あれは本当に、ただの夢か?
それとも本当に、義姉の失恋の傷なのか? もしそうなら、その心の傷は今も膿んで出血している。だから彼女は、あらゆる求愛を退ける傍ら、その相手を想う女の子たちを大事にしてきたのではないだろうか。
「馬鹿な、そんな……うっ、頭が。……とにかく、着替えて……この時間ならまだ誰も。軽くシャワーでも」
お屋敷の使用人にして養子という微妙な立場でも、伯爵には我が子のようにかわいがってもらっている。メイド長のエルメラも配慮してくれている。
早朝、まだコックたちも朝食準備を始める前の時間帯だ。
アネトは手早く着替えとタオルを手に浴場へと向かった。
そう、浴室ではなく浴場。
このお屋敷にはバカでかい風呂があるのだ。
「さすがにお湯はこの時間は……あ、あれ? 誰かいるのかな」
向かった先ではすでに、潤沢な湯が浴場を白く煙らせていた。
この時代、この帝都でも限られた身分の家にしか湯は供給されていない。庶民の家はそれでも、上下水道が整ってはいるが、すぐに湯を使えるのは貴族の特権だった。
そして、すりガラスの向こうで湯気がぼんやりと影を浮かび上がらせる。
それは、長い紅髪をゆらした裸体だった。
天使か女神か、その両方か。
こちらの存在に気付かぬ曲線美の集合体は、濡れた柔肌も露わに扉を開いた。
「ふう、さっぱり……久々に嫌な夢を見ちゃっ、た……あ? あ、あれ、えと」
リーゼロッテだ。
彼女は、生まれたままの姿で固まる。
当然だが、アネトも硬直した。
いかに義理の姉弟同士でも、もう年頃の少年少女である。
親しき中にも礼儀あり、そういう異界のことわざを教えてくれたのはリーゼロッテだった。その彼女が、目を丸くして瞬きを繰り返している。
アネトも思考が停止したが、とりあえず背を向け視線をそらした。
「おっ、おはようございます、リゼねえ! ご、ごめん、知らなくて!」
「え……ああ、うん。おはよ、アネト」
「とりあえず、身体を拭いて服を着て! っていうか、なんでこんな時間に」
動じた様子も見せず、むしろまだ寝ぼけているのかリーゼロッテの言動は鈍い。それでも彼女はめりはりのある身体をタオルで覆った、
その艶めかしい音さえも、アネトの鼓膜を撫でれば心が乱れる。
なぜ、誰もがアトラクシアでリーゼロッテに挑んでくるかわかった。絶対的なカリスマ、美と知の結晶にして融合体。首席の上級生を誰もが女神のように焦がれて憧れる。
そして、もしアトラクシア・デュエルで勝てれば交際の機会が訪れるのだ。
「もう大丈夫よ、アネト。こっちを向いて? ごめんなさいね、変な夢を見たものだから」
いつもの素顔のリーゼロッテ、紅蓮の魔女を演じる悪役令嬢の彼女ではない。
凛として涼やかな学園での彼女も魅力的だが、普通の女の子でしかない義姉もアネトは好きだった。この好意が本当に姉弟のものかが、ちょっと今はわからなくなってくる。
それでも振り向けば、最低限の蠱惑的な肌をタオルで覆ったリーゼロッテが微笑んでいる。
「すみません、まさかリゼねえがいるとは思わなくて」
「わたしだって、アネトが現れるとは思わなかったわ。つまり、おあいこってこと」
「え、ええ。それでまあ、ちょっと僕もシャワーをと」
「そう。あら、なんだろ……少し疲れてる? よく眠れなかったの?」
そっとリーゼロッテが頬に触れてくる。
沐浴を済ませた清らかな彼女の手が、寝汗の乾いた肌を撫でた。
慌ててアネトは飛びのく。
「あ、ああっ、その……変な夢を、見て」
「ふーん。奇遇ね、わたしも一緒。ああ、ちょっと待ってて」
不意にリーゼロッテは、一歩下がって精神を集中させた。
彼女の濡れた紅髪が、ふわりと浮き上がる。
「炎よ、焔よ、その熱よ。大気を震わせ逆巻き昇りなさい!」
火の精霊を使役する魔法が励起して、リーゼロッテの周囲を熱風が取り巻く。渦巻くその空気は、彼女からタオルをはぎ取りながら渦巻いた。
あっという間に、リーゼロッテは髪も肌も乾かしてしまう。
彼女は魔法の効果が切れると同時に、宙に漂うタオルを再び自分の痩身に巻き付けた。
「ふう、これでよしっと。アネト、髪を頼める?」
「あ、ああ、うん……」
「このへんはもう、貴族階級だと基礎魔法扱いよね。……加減を間違えれば、対象を消し炭にする業火と烈風の攻撃魔法なのだけど」
サラサラと長髪をかき上げ、リーゼロッテが無防備な背中をさらした。
実は、彼女のツインテールは毎朝アネトが結っている。本人は自分でもできるはずだし、着替えの時にメイドにやらせればいいのに、なぜかアネトを指名するのだ。
おかげでいまでは、櫛と髪飾りでいつものリーゼロッテを飾るのが上手くなった。
彼女が脱衣所の椅子にしどけなく腰掛けたので、やれやれとアネトはいつものように準備を整える。
「……リゼねえ、いつもと同じでいいかな?」
「ええ、お願い。さーて、今日も一日バリバリ悪役令嬢やるわよっ!」
「それなんだけどさ、リゼねえ。リゼねえは……自分では、その、ええと」
しっとりとしつつも艶々に乾いた髪へ櫛を入れる。腰まで伸びる長い紅髪は、まるで朱色の絹糸のような手触りだ。それをいつも通り、ツインテールに結ってゆく。
普段からお馴染みの仕事なのに、妙に胸が高鳴った。
「わたしはまあ、第二の人生だし? なるべく沢山の女の子に、想いをかなえてもらえれば嬉しいかな。卒業したら冒険者として、率先して出稼ぎに行くんだし」
「そう、なんだ」
「でも、気になる子はいるよ? ……この帝国を出て、その子と冒険の旅がしたいかもね」
そう言って鏡の中ではにかむリーゼロッテに、敵わないなあとアネトも苦笑をこぼす。義姉が旅立つ時、想い人との二人の時間を守れる、そんな男になりたいとアネトは心の中に呟くのだった。