第4話「アネトの力、アネトの体質」
帰宅したアネトは、手早く執事服に着替える。
ただで養ってもらうのも居心地が悪いもので、サテュレーネ家では執事の真似事などをして暮らしている。大勢のメイドたちと共に、山ほどあるお屋敷の仕事を片付けるのだ。
「さて、リゼねえはまだアトラクシアか。まずは部屋の掃除と、花の入れ替えと――!」
玄関のエントランスで不意に殺気に襲われ、一瞬前の自分が殺された。
瞬時にその蹴りを回避したアネトは、死角からの攻撃に身構えた。
そこには、一人のメイドが立っている。酷く小柄な少女で、ともすれば幼女という形容がふさわしい。だが、成人女性の彼女はこの家のメイド長だ。
その彼女、エルメラが握った拳を高速で突き出してきた。
「報告を、アネト。本日のお嬢様の御様子は」
毎日のことなので動揺はしない。
ただ、集中して対応しなければ大けがをするし、武道の師でもあるエルメラは本気で殺しにかかってくる。この毎日の手合わせが、アネトにかなりの格闘センスを開花させていた。
「本日も問題なし、リゼねえは今頃生徒会室で執務中」
「よろしい。……腕をあげましたね、アネト」
「っていうか、命がけともなれば上達もはやいものでして」
互いの間で空気が弾ける。
次々と繰り出される蹴りや拳の乱撃、そしてねじ込まれる不意打ちの膝蹴りや肘鉄。それらをさばきつつ、今日こそはとアネトは鍛えた力を技に乗せた。
今までは一度も、エルメラに勝ったことがない。
今日、今この瞬間までは一度も。
「そろそろ一本取らせてもらいますよ、エルメらさん」
「おや? いい顔をするようになりましたね、アネト。少し本気を出してあげましょう」
「僕はもう、とっくにですよ! これがっ、僕の本気!」
風切り迫る重い強撃を避けつつ、アネトは前に出る。
強気な踏み込みに一瞬、エルメラは眼鏡の奥で目を丸くした。
刹那、密着を嫌うような肘の一撃を受け止める。そのまま肘の関節を極めながら、アネトは酷く軽いメイド長の身体を跳ね上げた。相手の攻撃の威力を殺さず、自分の力へと転じる……これもまたエルメラの教えだった。
絨毯の上にエルメラが、大の字に倒れた。
彼女をブン投げたアネトは、すでに息が上がっていた。
だが、勝負は勝負、勝ちは勝ちだ。
「……お見事。成長しましたね、アネト」
「はあ、はあ、ど、どうも……ありがとうございました、師匠」
「ですが、詰めが甘い」
「えっ? あ、お、おおう!?」
アネトはまだ、投げたエルメラの袖を握っていた。だが、その細腕が突然逆にアネトを床へと引きずり倒す。全く力を入れた気配はなく、小さな呼吸音が響いただけだ。
それでアネトは、気付けば上下逆転でエルメラに馬乗りになられていた。
容赦なく降り注ぐ拳の雨に、慌てて頭部をガードする。
その防御のためにかざした腕が、あっという間にエルメラに巻きつかれて悲鳴を上げた。
「投げて最後にトドメをささねば、こういうことになるんですよ? いいですか、アネト」
ギリギリと腕の関節が絞られてゆく。
そして、メイド服の上からでもはっきりわかる豊かな胸の双丘、その谷間に埋まっていく感覚が柔らかい。天国と地獄の狭間で、アネトは改めて師の妙技に舌を巻いた。
「本気というには、いささかぬるい投げでしたしね。よくありません、アネト」
「……女の子をブン投げて殴るようにはできてないんですよ、僕は」
「もう女の子という歳ではないですが、そういう配慮は無用です。いいですね?」
「はーい」
あと数ミリで右腕が使えなくなる、そこまで関節技を極めていたエルメラが離れた。優雅に立ち上がる彼女は、悔しいことに遺棄一つ乱していない。長く三つ編みに結った蒼髪を、そっと手でかきあげる。
遅れて立ち上がるアネトは、仕事前からもうぐったりと疲労感で身体が重い。
「いいですか、アネト。貴方は体質ゆえにセオリー通りの戦いを逸脱しています。しかし、そのアドバンテージに甘えてはいけませんよ?」
「確かに……ありがとうございました、師匠」
「あとで肘を冷やしておきなさい。それと、頼んでいた庭師が来れなくなったので」
「ああ、じゃあ庭の手入れを僕が」
「お願いします。では」
エルメラは去っていった。
そして、遠巻きに二人の戦いを見ていたメイドたちも散らばってゆく。
今日もまた、最終的にアネトは負けてしまった。
悔しいが、今日もまた一つ高みへの階段をのぼれた気がする。これがもし、リーゼロッテを守るための戦いだとしたら、相手が女性でも容赦はしなかったと思う。
そう、アネトにはアトラクシアでのリーゼロッテの護衛という仕事もあるのだった。
「ふう、まずは庭仕事か……っ! いてて、これでも手加減されたみたいなんだけどなあ」
肘がまだ、少し熱を持っている。
エルメラがその気だったら、今頃アネトは一生片手で暮らす羽目になっていただろう。
だが、痛いが泣けてくるほどじゃない。
あとで冷やしておこうと思った、その時だった。
「アネト、大丈夫? 連敗記録、更新だねっ!」
同世代の若いメイドが駆け寄ってきた。
そばかすがトレードマークの、一番若いオールワークスメイドである。名はリナリア。ポニーテールの茶髪が紅茶みたいな色で、いつもアネトとは仕事で一緒になることが多いメイドである。
そのリナリアが、そっとアネトの右肘に振れる。
「ああ、リナリア。大丈夫だよ。それに、僕には魔法は――」
「待ってて、基礎魔法の簡易的な治療術なら……おりゃあああああっ!」
リナリアという少女、いつでも快活で闊達、そして常に暑苦しく燃える熱血少女であった。そして、彼女の手から光が走る。
基礎魔法にも回復の術は存在する。
主に教会の信徒が使用する法術が回復魔法といえば一般的だが、基礎魔法でも擦り傷ややけどくらいは治療することができた。
だが、彼女の発した光は虚しく消える。
そして、アネトの痛みはまだ居座っていた。
「どう? やっぱ、だめ?」
「ありがとう、でもごめんねリナリア。僕は体質的に魔法が効かない人間なんだ」
「その話、やっぱ本当だったんだ。仕事でも飛翔の魔法とか使わず、ハシゴ使ってるもんね」
「一説には、僕がこの世界の人間じゃないからだと言われてるけど……詳しくはわからないんだ」
そう、これがアネトの異常体質。
アネトは記憶喪失の状態で突然この世界に放り出された。そんな彼を世界は異物とみなしているのだろう。この魔法文明社会において、あらゆる魔法を無効化する肉体を与えられているのだ。
紅蓮の炎も極寒の吹雪も、魔法によるあらゆる攻撃を無効化する。
同時に、魔法による解毒や治癒の恩恵も受けられないのだった。
これが、アネトを似たような体質の仲間たちと特殊学級、特務科に在学させている原因なのだった。