第1話「その花園の支配者は、悪役令嬢」
異世界でも空は青いし、太陽は燦々と眩しい。
この大地で目覚めて最初の数カ月で、言語と読み書きの問題を解決できたので、アネトは何不自由なく暮らしていた。安定した学園生活を謳歌してさえいる。
足りないのは、強いて言えば……以前の記憶。
記憶喪失のまま生きていても、不自由はなかった。
なぜ、この世界に呼ばれたのか?
以前は自分などんな人間だったのだろうか?
意外と異世界に順応し、魔法文明社会に馴染んでいる。
それに、大事で大切な仕事もあった。
「フッ、待たせたな! この俺を今までの臆病者たちと一緒にするなよ、リーゼロッテ!」
大樹の上で読書に興じていたアネトは、本を閉じると眼下を見下ろす。
学園の裏庭には今、人だかりができていた。様々な身分の者たちが通う帝国英雄学術院『アトラクシア』の生徒たちだ。皆、これから起きるイベントに興奮気味である。
そして、この場の視線を余さず集める美貌が静かに戦いを告げた。
「まずは勇気ある挑戦に敬意を表しますわ。獣のごとき蛮勇にね、オーッホッホッホ!」
彼女の名は、リーゼロッテ・サテュレーネ……この学び舎のマドンナにして三年生首席、無敗を誇る未来の大英雄だ。
同時に、アネトの保護者を名乗る義理の姉でもある。
今日もまた、彼女に交際を迫る男子が剣を抜く。
このアトラクシアでは、あらゆる局面に実力主義が採用されていた。
「リゼねえ、今日もやる気満々だな。さて、と」
燃えるような紅い髪は長い長いツインテール。細身の長身ながら、リーゼロッテの全身は鍛え上げられた騎士のように筋肉の鎧を身にまとっている。それでいて、女性的な豊満に過ぎる曲線で象られていた。
そのリーゼロッテが、そっと手を伸べる。
呪文の詠唱を必要としない、基礎魔法の光が宙に魔方陣を描いた。
そして、引き出された巨大な鎌がヒロインを死神に変える。
「くっ、今日こそ想いを遂げるっ! 家のためにも、リーゼロッテ! お前を手に入れる!」
「フフフ、できるかしら? さあ、アトラクシア・デュエル!」
「エンゲージッ! うおお!」
――アトラクシア・デュエル。
生徒同士の諸問題を解決する最速にして最適解の手段だ。実力こそが全てのこの学術院では、生徒たちは文字通りお互いを刃と砥石に変えて研鑽を積む。切磋琢磨のためならば直接対決もいとわない。
敗者は勝者に従うべし。
それだけが、自由なる帝国英雄学術院のたった一つのルールだった。
「まあ、リゼねえの心配はいいとして……いた。あの娘か」
枝葉の陰から身を乗り出して、声をあげる大衆に目を落とすアネト。その中に素早く、目的の少女を見つけ出した。
今にも泣きそうな表情で、潤んだ眼差しを決闘中の少年に向けていた。
もう名前も忘れたが、確かにリーゼロッテに頼まれて調べた通りである。
そのリーゼロッテだが、踊るように剣戟に舞っていた。
「くそっ! 攻撃が当たらない! あんな大振りのデカい武器を振り回してるのに、スピードに追い付けない!」
「まだまだギアを上げて差し上げましてよ」
「ちぃ! こうなったら……炎よ! 我が手に集いて礫と弾けろっ!」
男はパワーもスピードも劣ってると察するや、初歩的な炎の精霊魔法を放った。
観衆から悲鳴が上がる中、リーゼロッテは軽々と回避しつつ、周囲を防御魔法で火炎から守る。あくまでも武器と肉体、そして基礎魔法しか使わないつもりだ。もはや余裕を通り越して、彼女が退屈し始めているのがアネトにはわかった。
レベルが違い過ぎて、戦いにすらなっていなかった。
そろそろかとアネトも本を手に飛び降り、音もなく着地する。
ターゲットの少女はもう、涙ぐんでいた。
そんな彼女へ気配を消して近付き、耳元にささやく。
「もうすぐ幕引き。あなたはあなたの想いをとげるがいい」
「え? それって……キャッ!」
構わずアネトは、少女の背をトン! と押した。
人が囲んで包む闘技場へと、ふらふらと彼女が歩み出る。
それは、リーゼロッテの鋭い一閃が少年の剣を叩き落した瞬間だった。
「勝負ありましたわね。……どうせ貴方も、サテュレーネの家の名が目的なのでしょう?」
「そ、そうでもあるが! 俺のような男にこそ、お前はふさわ、ひっ!」
片手で軽々と、倒れた男の喉元に刃を突きつけるリーゼロッテ。
その瞳が、カミソリのように鋭く細められる。
同時に、彼女はおろおろとする先程の少女に振り返った。
「わたくしの勝ち、交際の申し出はお断りしますわ。ただ」
「た、ただ? あっ! お前、いつかの時の下級生!」
「あっ、ああ、あの、そのぉ」
アネトの調べでは、あの男子は帝国内でも有数の実力を誇る貴族の家柄である。そんな彼が、気まぐれからか困っている後輩の女子を助けたことがあるらしい。
それが彼女にとっての恋の始まりで、辛い片思いの発病でもあった。
そして、恋の病をこそ、義姉のリーゼロッテはなによりも嫌がっている。
「見なさいな。地位や名誉、財産を夢見る目を開いて……憧れ恋焦がれて貴方を追ってきた、彼女のあの姿を!」
「あ、あの時の……え? じゃ、じゃあ、俺のことを? 君がか?」
「オーッホッホッホ! かわいい後輩のまなざしにも気付けぬ男なんて、わたくしの相手が務まるはずありませんわ! では、失礼!」
ひゅん! と大鎌を消すと、汗一つかいたようすも見せずにリーゼロッテは去った。自然と称賛の声が左右に割れて、その中を彼女は颯爽と歩く。
彼女を高嶺の花と羨望して、戦う前から諦める男子も多い。
だが、違う……リーゼロッテの周りでは誰もが、彼女を飾る花々になってしまうのだ。
「今回もこれで、よし。……でも、いつもどうしてリゼねえはこんな面倒なことを?」
そう、毎回アネトは頼まれている。
自分に言い寄る男子にも、他の誰かが想いを募らせているのではと調べさせられるのだ。そしてだいたいはその通りであり、少年少女の青春はそこかしこで複雑に混線している。
ただ一人、誰からも畏怖と憧憬の念をもって尊敬される、リーゼロッテ本人以外は。
とりあえず、義理の姉に今日も恋人ができなかったことに安心し、そのことに無自覚で気付けないままアネトも彼女のあとを追って消えた。