魔王は夢で恋人に逢う ~Erlkönig~
魔王クラネスは机に伏して眠る。
まだ若い彼であっても、それが体に良くないことは知っている。しかし彼女に手紙を書き、その名前を思い出そうと悩むうちに、眠りつくのが日課となっていた。
◇◇◇
魔王クラネスは夢の中にいる。現実では机に伏し眠っているのだろう。彼は今、自分が夢の中にいるのだと認識し、意識の混濁もない。そこがこの夢の奇妙な所だ。しかし今の彼にとっては些細なことだ。
愛しのセレファイス、我が恋人よ。
彼女は人か、魔族か、妖精か。それも些細なことだった。彼女は常にここにいて、魔王クラネスと愛し合う。時に夜空を舞い、時に宴を開き、詩を詠み、歌い、寛ぐのだ。
♪魔王クラネス こちらへ
今宵も朝まで 語りましょう
川岸の花咲き 貴方の偉業を称えます……
◇◇◇
朝の陽ざし。
魔王クラネスは目を覚ました。
夢のような夢、などと頓智のような余韻を味わう余裕も持たず、彼は急ぎ恋人の名前を思い出そうとした。彼女は……
魔王クラネスは彼女の名前が思い出せない。しかし彼女の顔や仕草は何一つ忘れることはない。彼女は彼にとって永遠の恋人、世界は彼女を愛し愛されるために存在するのだから。
「……お食事を……お持ちしました……」
老婆が魔王の居室に入り、テーブルで紅茶とイングリッシュ・ブレックファーストを用意した。人間界の、しかも英国式の食事など癪に障る所もあるが、朝食だけは認めざるを得ない。ブレンドされた紅茶の香りを楽しみながら、彼は今日の執務を老婆に尋ねる。
「……昼には黄金のガレー船が……セレナリア海の……」
魔王クラネスの友人たちが、海の向こうから家族を連れて会いに来るらしい。彼らは知的で立派な魔界の貴族で、頻繁にクラネスを訪ねては、胸のすく冒険話を聞かせてくれるのだ。城に籠りがちなクラネスにとって、それは至福の一時。
慌ただしくも楽しい昼が過ぎ、やがて夜の帳が下りる。ランプに火をともし、魔王クラネスは手紙を書き始める。愛する恋人へ思いの丈を伝えるため、愛用の使い古したペンを手に。宛先は……
◇◇◇
魔王クラネスは夢の中にいた。現実では机に伏し眠っているのだろう。しかし今の彼にとっては些細なことだ。
愛しのセレファイス、我が妻よ。
彼女は常にここにいて、夫クラネスと愛し合う。共に銀河を旅し、共に喜びを分かち、手をつなぎ、指を絡め、見つめ合って微笑むのだ。
♪魔王クラネス こちらへ
用意はとうに 出来てます
みんな歌って 踊りましょ
大人も子供も さあおいで
永久の楽園へ さあおいで
◇◇◇
朝の陽ざし。
魔王クラネスは目を覚ました。
彼は急ぎ恋人の名前を思い出そうとする。彼女は……
魔王クラネスは彼女の名前が思い出せない。何度これを繰り返したかわからない。机の上は彼女への書きかけの手紙で一杯だ。一度片付け整理しよう。散乱する原稿用紙、これでは執務に支障が……
「……お食事を……お持ちしました……」
◇◇◇
魔王クラネスは今宵も夢の中、現実では机に伏し眠っているのだろう。彼はここでセレファイスに逢える。しかし目覚めれば彼女の名前すら思い出すことが出来ない。彼にはそれが、寂しかった。
「愛しのセレファイスよ、ここでしか逢えぬのか」
セレファイスは大きくかぶりを振った。
しかしそれは拒絶の意味ではなかった。
彼女は歌う。
♪我が夫クラネスよ
私はいつも、側にいるわ……
◇◇◇
老婆セレファイスは、今夜も机に伏して眠る夫クラネスの肩に毛布を掛けた。彼が握りしめる万年筆は使い古され、かつて名の知れた文筆家であった名残を示す。今は引退し静かな老後を過ごしているが、彼はなぜか寝る前に必ず妻へのラブレターを書き始めるのだった。
幻想小説家であったクラネスが夢と現実の区別がつかなくなって数年になる。初めは心配していた子どもたちや孫も、今は受け入れ静かに見守っている。どうやら彼は、子どもたちを友人だと認識しているらしい。だったら私は、召使の老婆かしら。彼女はそう呟いて、肩をすくめた。
セレファイスは、夫クラネスを後ろからそっと抱きしめた。愛してるわクラネス。幸せよ。私はいつも、側にいるわ……