教卓前の席の花咲さんが、授業中隣に座る俺をいつも誘惑してくる
廊下側から数えて三列目、その一番前の席が俺・篠宮晴斗の席である。
二ヶ月前の厳正なるくじ引きの結果、俺はこの座席でスクールライフを送ることになった。
一番前ってだけで気が滅入るというのに、その中で輪をかけて最悪なのがこの席だ。なにせ教卓の目の前なのだから。
内職しようにもすぐに発覚してしまうし、授業の終わりにはノートを運ぶ等雑用を押し付けられることも多々ある。
「授業に集中出来て良いじゃん」と言う優等生もいるわけだけど、そんな意識の高い生徒ならどんな席に行っても授業に集中するだろう。
つまり百害あって一利なし。それが教卓前の席の実態なのだ。
この日の一時間目は、英語の授業。先生の読み上げる英語の長文は、さながら眠りの呪文のようで。だけど居眠りをしてしまったら、すぐに叱責が飛んできてしまう。
俺は閉じかけているまぶたを、必死で開け続けていた。
良いなぁ、後ろの席の奴は。先生に見えないのを良いことに、うたた寝したりスマホをいじったりしているのだろう。
どうしてわかるのかって? 俺が後ろの席だったら、絶対そうするからだ。
長文(見開きで1ページほどあった)を一気に読み終えた先生は、今の長文で重要だったポイントを板書し始める。
俺は黒板に書かれたポイントを、ノートに書き写す。手を動かしているお陰で、多少眠気も覚めてきた。
無駄に時間をかけて丁寧にノートをまとめていると、左隣の女子生徒が「ねぇ」と声をかけてきた。
「篠宮くん、今日もイチャイチャ始めよっか」
授業中にとんでもないことを言い出す彼女は、俺の隣人であり、また俺と同じく教卓前の席に座る生徒・花咲美涼だ。
付き合っていないのにイチャイチャしようとか言ってくる点については、それが花咲の性格だということでこの際触れないことにしよう。
今大切なのは、今日「も」という点。……花咲は授業中、毎時間のように俺を誘惑してくるのだ。
一番後ろの席の二人が、先生に隠れてコソコソお喋りをする。それはよくある話だし、ラブコメなんかだとそのまま恋愛に発展したりする。
しかし、花咲は違う。花咲は教卓前の席であるにも関わらず、先生の目を盗んでは度々俺にちょっかいをかけてくるのだ。
話しかけてくるだけならまだしも、時には俺の脇腹を小突いてきたりする。
驚いた俺が変な声を出すと、当然先生が「どうした?」と反応するわけで。……そろそろ「しゃっくりです」と誤魔化すのも限界なんだけどなぁ。
授業中に遊んでいたら(俺にそんなつもりはない)、先生からの心証も悪くなる。教卓の目の前である以上、リスクも高い。
だというのに、どうして俺に構い続けるのか? 気になって、一度花咲に尋ねたことがある。
すると花咲は、こう答えた。
「先生に見つかるか見つからないなっていうスリルがたまらないんじゃん?」
うん、まったくもって理解出来ない!
しかし俺が理解出来なくとも、花咲からのちょっかいがやむことはない。
先生が板書しているこの時間は、花咲のターンなのだ。
「篠宮くんは、今朝の占い見た? ほら、毎朝天気予報の後にやっているやつ」
「見てない。その時間は、学校に行く準備をしていたから」
「そうなの? だったら、私が結果を教えてあげるね。篠宮くんの今朝の運勢は――」
「ドゥルルルルル」と、花咲は自分の口でドラムロールを流す。
「星座占い、12位! 血液型占い、4位! ダブルパンチで最下位でした!」
「何、その限りなく最悪の結果。わざわざ俺に教える必要なくない?」
知らない方が幸せなこともある。その一例がこれだ。
「ていうか、どうして俺の星座と血液型を知ってるの? 花咲に教えてないよね?」
「それはとある筋から入手したとか。……そんなことよりも、運勢最悪の篠宮くんは、ラッキーカラーとラッキーアイテムの方が知りたいんじゃない?」
「……まぁ。運勢最悪だったと知っちまったからには、聞かないわけにもいかないよな」
「そうこなくっちゃ! ……星座占いによると、篠宮くんのラッキーカラーは黒。そしてラッキーアイテムは下着」
二つの情報を合わせると、黒い下着こそが俺を最悪な一日から救い出してくれるラッキーアイテムということか。
……今日の俺って、どんなパンツ履いてたっけ? 確か赤のトランクスだった気がする。
どちらにせよ、黒色というラッキーカラーに当てはまらない。
仕方ない、体育の時間の前に、見たくもない野郎の着替えを観察して黒のパンツを探すとしよう。トランクスでも、ボクサーでも可。
俺がそんなことを考えていると、
「篠宮くんに、とびっきりの良いニュースが。実は……私の今日の下着、黒色なんです」
チラッと胸元を見せながら、花咲はそんなカミングアウトをする。
「おい、花咲! 何やってんだよ!」
今は授業中で、ここは先生の目の前だぞ!
花咲の胸の谷間や下着を見てしまわないように、俺は慌てて手で両目を覆った。
するとタイミング悪く、先生が板書を終えて振り返る。
指と指の隙間から覗くと、先生と目が合った。……ヤッベ。
「篠宮、お前何をしているんだ?」
「……英語の授業を聞いていました」
「そうか。だったらこの問題を解いてみてくれ」
黒板をノックしながら、先生は俺に指示する。
出題されたのは、選択問題だった。
選択問題なら、黒板に書かれているどれかが答えなわけで。ゼロから考えるわけじゃないから消去法だって使えるし、なんとかなるだろう。
――30秒後。
答えは未だ導けていなかった。
四つあった選択肢は二択まで絞れたものの、そこから先が進まない。うーん……どっちが正解なのか、さっぱりわからないぞ。
考え込んだまま黙りこくっている俺に、先生はとうとう痺れを切らす。
「何だ、篠宮? わからないのか? 板書している最中に答えを言った筈なんだが……それでもわからないってことは、お前人の話を聞いていなかったな?」
「……すみません」
「もう良い。座れ。……代わりに花咲、この問題を解いてみろ」
隣の席ということで、俺のとばっちりを受けた花咲にも同じ問題が出される。
だけど、先生。花咲も俺と同じで、先生の話を聞いていなかったんだ。話も聞かずに胸チラとかしてたんだ。
だから花咲にも、問題の答えがわかる筈がない……
「はい。答えは2番です」
何で答えられるんだよ! お前も話を聞いていなかったんじゃなかったのかよ!
「正解だ。しっかり授業に集中出来ているな」
感心する先生だが、いやいや、その女要らん占いの結果を俺に伝えたり、自身の下着を見せつけてきたりしてましたよ。全然集中出来ていませんよ。
ちょっかいをかけてきた花咲が褒められて、被害者の俺が叱られる。なんて理不尽なのだろうか……。
◇
花咲の「イチャイチャしよっか?」は、当然それ以降も継続している。
数学の時間には自身の胸部を強調しながら「円周率を表す数学記号は? 二回続けてどうぞ」と問いかけてきたり、日本史の時間には「授業退屈だね。一緒に保健室に行って、一緒のベッドでお昼寝しちゃう?」とか言ってきたり。こっちは先生に見つかって叱られやしないかヒヤヒヤしているというのに、まったく人の気も知らないで好き勝手言ってくれる。
唯一気が休まる時間は、男女別の体育くらいだ。真剣に走る1500メートルよりも、花咲からのちょっかいの方が疲れるというのは、なんともおかしな話だった。
しかしこの日は少し違った。
朝、教室に着いた俺は、いつものように先に登校していた花咲に「おはよう」と挨拶をするのだが……今朝の花咲は、見るからに元気がなかった。
「おはよう、篠宮くん。今日も良い天気だね」
「絶賛曇りなんだが?」
「そうなんだ。まるで私の心の中みたいだね」
なにやら詩人のようなことを言い始める花咲。……明らかにいつも通りじゃない。
「花咲、何かあったのか?」
「何かあったっていうか、これから何かあるというか。……今日が何の日か知ってる?」
「……ハッピーバースデー?」
「私の誕生日は半年も後だよ。……今日はね、席替えなの」
席替え……そういえば「前回から二ヶ月が経ったから、今日のホームルームにでもやろうか」と担任が言っていたな。
小学生ならまだしも、高校生にもなれば席替え程度で一喜一憂したりしない。だから頭の隅にも置いていなかった。
「席替えってことは、教卓の前っていう最悪の席じゃなくなるってことだよな? それって喜ばしいことじゃないのか? なのに……どうしてそんなに暗い顔をしているんだよ?」
「そりゃあ先生の前から移動出来るのは、嬉しいよ? でも……それって篠宮くんの隣からも移動しなくちゃならないってことじゃん? それはあんまり嬉しくないなーって」
……え、何? それじゃあ花咲は、俺の隣の席じゃなくなるからこんなに元気がなくなっているの?
言い換えたら、教卓前でも良いから俺の隣でい続けたいってこと?
いつもの冗談や揶揄いとは思えない、花咲の心からの吐露に、俺は自分の顔が火照るのを感じた。
少しばかり赤くなった顔を隠すように、俺は明後日の方を向く。
「まっ、まぁ? 確かに隣の席じゃなくなるけど、それで俺たちの関係がゼロになるわけじゃないだろ。休み時間とか放課後とか、今まで通り話せば良いわけだし」
「それはそうだけど……でも私は授業中に先生の目を盗んでこっそりお喋りする時間が、結構大切だったから」
聞いているこっちが恥ずかしくなるような言葉ばかりを口にする花咲だが、今朝はついぞ始業になるまで俺を誘惑してこなかった。
やって来た朝のホームルーム。とうとう席替えが始まる。
廊下側の席の生徒から順に、担任お手製のくじを引いていく。
くじに書かれた番号の席が、これからおよそ二ヶ月間過ごす席となる。
俺の引いた番号は、四〇番。このクラスは四〇人学級なので、一番大きな数だ。
そして四〇番に割り振られた席はというと――窓際の一番後ろの席だった。
対して花咲はというと、変わらず教卓前の席。俺とはかなり距離があり、どう頑張っても授業中にちょっかいをかけることなんて出来やしない。
良かった。これでやっと、花咲から解放される。
しかも先生に隠れて授業中内職し放題とは、なんとも素晴――らしい席だろうか。
こんなことなら、今朝の星座占いと血液型占いを見ておくんだった。きっと両方で一位になっており、今日の俺の運勢は最高なのだろう。
しかしまぁ、なんだ。ありがたいことに花咲は「俺と離れるのが悲しい」みたいなことを言ってくれていたわけだし、一時間目の休み時間にでも早速話しかけてやるか。
そう思って、俺が花咲を見ると彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
黒板を消す為先生が背を向けても、花咲は新しく隣の席になった男子にちょっかいをかけようとしない。
席替えをしたことで心機一転して、これからは真面目に授業に取り組むつもりなのだろうか? いいや、そんなわけがない。
隣に座っているのが俺だったから、花咲はああやってちょっかいをかけていたのだ。
花咲の誘惑にたじろぐこともなく、先生の目を気にして怯えることもなく。寧ろ先生の視界に入りにくいから、内職も居眠りも何でもし放題。そんな一見最高の窓際一番後ろの席だが、一つだけ欠点があった。
ここからだと、寂しそうな花咲の顔が嫌でも目に入ってしまうのだ。
さて、ここで選択問題だ。
花咲の寂しそうな顔を見ながらも、この好立地の席に居座り続けるか。それとも花咲に笑顔を取り戻させる為に、この席を手放すか。
……答えを出すのに、今度は30秒も必要なかった。消去法を使うことだってない。
花咲のあんな顔を毎時間見るくらいなら、ちょっかいかけられた方がずっとマシだ。
「先生」
ホームルームが終わる直前に、俺は手を挙げる。
「何だ、篠宮?」
「黒板見にくいんで、先生の前の席に移動しても良いですか?」
その申し出にクラス中が騒ついたが、一番驚いていたのは花咲だった。
窓際一番後ろの席と代わってくれと言われて、「嫌だ」と答える生徒はまずいない。ましてやそれが、教卓前の席の生徒ならば。
結局俺は、またも花咲の隣人になったのだ。
「わざわざ最高の席を手放すなんて、バカなんじゃないの」
「そうでもないさ。お前の寂しそうな顔を毎日拝まなくて済むんだと思うと、この席も案外悪くない」
「……本当、バカじゃないの」
口では貶しつつも、花咲の口元は綻んでいて。満更でもないといった感じだった。
「それじゃあ、改めて。これからもよろしくな、花咲」
「うん。今まで以上にちょっかいかけていくから、覚悟してよね」
おいおい、それは勘弁してくれよ。少しくらい手加減してくれても良いじゃねーか。俺はそんな弱音を吐くことが出来なかった。だって――
毒気の抜かれるような花咲の笑顔は、この上なく輝いていたんだもの。