赤の大空洞
目覚めと云うあの皮肉で滑稽な名称で呼び慣わされている、あの不愉快で半ば闇に沈んだ浸透状態に於ては、チッソと云う名で知られていたその眼鏡を掛けた小男、この臆病で小心者で、しかし透徹した受容的想像力を持った魂によって成り立っているこの男は、憎々し気に瞳の中に瞋恚の炎を燃え上がらせ乍ら、鋭く唾を吐き出す様に口を鳴らした。私達は真ッ赤に灼け上がる、何処か筋肉質めいた岩肌を露出させた起伏の大きい道無き道をどうにかこうにか歩いていたのだが、頭上で紫色の不気味な燐光を放つ、悪意を持ったゴシックの建築家が設計した様な天井から、硫黄の混じった熱く重い水滴がぽたりと落ちて来た。大空洞の中には絶えず蒸気の噴出する微かなシューシュー言う音と、一面に見える岩全体が実は生きていて低く唸り声を上げているのではないかと思わせる地響きめいた鳴動が谺し、濃密な大気を震わせていたのだが、その水滴が不穏気に何かを押し殺した様な火照った岩肌にぴしゃりと叩き付けると、その音は生皮の鞭を一発喰らわしでもしたかの様に不快に大気を切り裂いたて鋭く響いた。私達はもうずっと歩き続けで不可解な疲労が体中に軋みを上げさせていたのだが、マグマめいて仄かに発光する憤怒の岩々に囲まれてばかりでは一時体を休める所とて有る訳が無く、時折大地の隙間からパッパッと漏れ出る奇怪な黄色がかった光の爆発は、私達の神経を絶えず脅威に曝しておこうと云う何者かの底意ある嫌がらせにも思えて来ていた。
獣じみた悪夢だ、とその男は言った。この周囲に漲る具体的な個物への強迫的とも言える固執が彼にそう言わせしめたのだと私には解った。そこで私は、だがこれは並の獣に出来る訳ではない、と返した。この大空洞は確かに歪で捻じくれ、醜悪ではあるが、これ程の規模を持ったものとなると、単に形而下的なぬるま湯にどっぷり首まで浸かっている低脳共には、想像することすら不可能な筈なのだ。そこに表された闇が巨大であればある程、その影を作り出す光も又、それに見合った巨大さを備えている筈であると、私は付け加えて示唆した。私達はそれ相応に訓練を積んだ学徒なのだし、〈恐怖原理〉の要諦を自分等なりにきちんと理解し、適切な幻視の術も心得ている。それが二人ともこれだけ難儀をして息詰まる緊張感を強いられているとなると、この化け物じみた狂気を創り出した魂も又、強大な霊的潜在力を溜め込んでいると考えるのが妥当なのだ。私達は単にここを観測しに来ただけなのではあったが、周囲の状況は明らかに敵対的であったし、愚図愚図して何か起こった時にひとつでも対応を間違えれば、どんな結末が待ち受けているか本当に判らない、と云う危険性があった。私達は慎重に事を進めてはいたが、予期し得ぬ危機と云うものは常に残されているものだし、何よりここは私達の世界ではないのであるから、私達には対処し切れぬ事態が起こることも十分有り得ることなのだ。
私達は先達者から与えられた助言に従い、薄らと周囲の光を反射して雨に濡れでもしたかの様にじっとりと輝く、前方に聳えるあの醜悪な黒々とした、雷に撃たれた老木の様な魁偉な塊を見上げ、そこへと通じる最も危険の少なそうな道を再び立ち止まって目算したが、地表は煙や発光が混じり合ってまるで瘴気に覆い尽くされている様な外観を呈しており、又遠くに見える隆起の激しい壁面は、交錯する影また影によって見通すことの出来ぬ領域を無数に作り出していて、何処を見ても、心が軽くなる様な要因は何ひとつ無い、気の滅入らされる光景が延々と広がっていた。今歩いているこの径路でさえ、どれだけの気付かなかった窪みや見落としていた亀裂、或いは角度の錯覚が待ち受けているものか分かったものではなかったが、私達としてはまさかこの息苦しい閉塞的な大気の中を飛んで行ける翼がある訳でもなく、ひたすらこうして地道に、見えざる危機を念頭に置き乍ら、這う様にゆっくりこのごつごつした地表を歩いて行くしかないのだった。これまでに心臓を縮み上がらせる様な羽目に陥ったのも、一度や二度ではなかった。
私達はゆっくりと慎重に足を運び乍ら、この地獄、と言うよりは、挫折した創世についての解釈を述べ合った。彼の解釈の大意は、こうした奇形は、無理に塞き止められた大流が生来の凝固しようとする傾向に押し流されて出来上がると云うものであった。私もそれに賛意を示したくは思ったが、しかし何かが引っ掛かって私は直ぐに同意するのを躊躇った。私は、その感触を上手く形にすることが出来ずに口籠ってしまい、彼の不審を買ってしまったのであったが、私の中で渦巻いていたのは実の所、次の様な漠然とした、しかし何故か奇妙にも心騒がせられる疑念だった。周囲の落ち着きの無い動きの中に、動きとは又別の、微かではあるが確定的な事象が生じていることに、先刻から私は気が付いていた。噴霧する毒素、撒き散らされる光条、乾いた岩肌を覆う冷酷な輝き、ゆらゆらと陽炎めいて揺れ動く大気、それらの中に、何やら宝石の細かい粉を振り掛けた様な、まるでそこに重ね合わせられていた全く別の世界から僅かな隙を突いて押し出されて来た様な、無数の微細な光点が、そうと思ってよくよく目を凝らして見てみると、始終ちらちらと瞬いているのだ。それは確かに美しかったが、ぎらぎらとまるで非常に飢え、貪りたいと云う欲望に駆られているかの様な輝きを放ち、近付く者にいきなり咬み付いて来るのではないかと思わせる恐ろしい獣気を発散していた。だがそれは同時に非常に広大な領域から発せられた輝きでもあって、悍ましい戦慄を孕み乍らも、しかし何処か素晴らしい解放の気配を湛えていた。それは周囲から感ぜられる、ひたすら熱く息苦しいと云う感覚とは丸っ切り異なっており、私はそこに、自分が何か酷く欺かれている様な、重大なことを失念してしまっている様な印象を嗅ぎ取って、はっきりとは形を成さないまでも、ぼんやりと底知れぬ不安に怯えていたのだった。
ひょっとしたら、この威圧的な凝固態は何等かの作為の結果なのではないか、私が気付いていないだけの、何等かの隠された意図に基付くものなのではないかと云う疑念が一瞬頭を掠めたが、それを口に出すことは恐ろしくて出来なかった。この創世は途中で頓挫して打ち捨てられた訳ではない、一見しただけでは判らない、何か大いなる目的を隠蔽する為に、初めからこの様に設計されていたのではないか、私の知らない、何か途轍も無い陰微な真実がこの奥に控えているのではないか………そんな妄想が、今や純粋知的活動体と化している筈の私の中の、何処か原初的な恐怖心を掻き乱した。厚いヴェールを通して透かし見ている様なその巨大な計画の姿は、まだ私が目覚めの悪夢に魘れ続けていた頃の萎縮させられる無力感を再び呼び醒ました。私が思い浮かべたのは、あの赤茶けた遠大な大地の下に横たわる、深遠な万華鏡の如き謎への扉のことだった。あゝした具体的な例を私が既に知ってしまっている以上、それとは性質を異にはするが似た様な深秘が我々の目の触れない所に厳として存在していたとしてもおかしくはないではないか!
耳よりも膚に直接響いて来る間欠的な音と音の間に横たわる不穏な静寂、と云うよりも沈黙が、妙に気に掛かり出した。〈学府〉で精緻に磨き上げた平静を保つ為の術を幾つか連続して素早く実行したが、何故か効果は上がらなかった。私の一時の気の迷いでは済まされない精神的実体の核の様なものが、困惑の後にしこりとして居残り続け、私はこの不可解な怯えに怯え乍らも、しかし身ぬちで確かに荒々しい生命が躍動するのを覚え始めた。それは忘れ去られていた太古のリズムが、今より強力な形を得て甦り、往古の創造の力を復活させようとしているかの様だった。〈万界鏡〉を以てしても見通すことの困難な、素質と経験と鍛練とを併せ持った高位の識者でなければ解読の難しい、世界内にバラ撒かれた〈名付け得ぬもの〉の断片達が、今や私の中で再び目を覚まし、息を吹き返して、この熱と硬さを持った固体化した魔宴に私も参加するようにこっそりと、だが力強い声で囁き掛けて来ているかの様だった。
私はそっと隣を歩く男の横顔を覗き見たが、心無しか彼の頬も又少し明らみ、目付きが鋭くなり、呼吸が僅かばかり荒くなっている様に見えた。彼の全身が、先程までの様に単に目に見える危険に用心して緊張しているだけではない、訳の分からなぬ強張りを、必死になっと閉じ込めようとしているのが判った。若しかしたら彼も又、私と同じ様な胸騒ぎのざわめき覚えているのかも知れない、と微かな痛みを伴った推察が閃いたが、一言でも声を掛ければ今にでも彼が爆発して四散霧消してしまいそうな得体の知れぬ恐れが、私の口が開くのを押し止めた。私は彼がこの事態を感じ取っていない筈はないと云うことを知ってはいたが、私達はこうしてお互い無言の共犯関係を結んだ儘、きっと口元を固く結んで足を進め続けた。
黒い巨魁が一際大きな瘤の様な岩石の彼方に近付き、その根元から、腐敗ガスを思わせる青白い光がぼうっと立ち昇っているのが見える様になった。遠目に見ただけでは、それはガスなのか単なる発光なのか区別は付き難ねた。幾重にも気味の悪い光を浴びて淡く照らし出され、幽鬼めいた姿を浮かび上がらせていたが、それはまるで捩くれ反転して追放された生を生きる諸存在の抱く忌わしき玉座の様にも見えた。
私達はそれまでに何とか力を合わせて人の背丈の何倍もある大きさの岩々の間を縫う様に進んで来ていたのだが、ここに至って到頭通り抜けられなそうな隙間も足を掛けられそうな出っ張りも何ひとつ見当たらなくなってしまった。私達は互いに顔を見合わせて途方に暮れ、暫し辺りを見回し乍ら立ち尽くしていたが、何とか迂回路のひとつでも運良く見付かりはしないかと、左右二手に別れて探索の手を伸ばしてみることにした。私は左手へ行き、砂利状になった小さな崖が幾つか続いている所を、そろそろと降りて行った。崖は滑り易く、気を抜くと直ぐにでも足下を掬われて一気に下まで転げ落ちてしまいそうで、私は踵で頼り無い足場を踏み固めつつ、じりじりし乍ら一歩一歩下に見える窪地を目指して行った。
と、突然、魂を裏返しにされた様な凄まじい悲鳴が辺り一面に沸き返る騒音を圧して頭上から谺して響いて来た。あの男の居る方向だ! 全身の血が逆流するのを感じた私はその場で体勢を立て直し、手の爪が剥がれるのも構わずに盲滅法な勢いで崖を這い登って行った。私の懸命さを嘲笑うかの様に落石が続き、小さな落下が何度も繰り返されて、もどかしさで気が狂いそうになる登攀が、暫く続いた。
ようやっと崖の上に這い出た私は、よろめきつつ全速力で駆け出し、二人が別れた地点を過ぎて、巨大な岩々が入り組んだ迷路の様になっている暗い岩場の中へと突進した。
鼠共だった。剛毛を興奮に逆立てた巨大な黒い鼠共の一団が、その汚らわしい肥え太った体を打ち震わせ乍ら、倒れた男の体の周りに群がり、喰らい付き、貪り食っていたのだ。カッと頭に血が昇った私は手近にあった大きな石を掴んで連中に向かって幾つも立て続けに投げ付けた。中には幾つか当たったものもあり、鼠共は新たな敵の出現に我先にと争って逃げ出した。ほんの数瞬後には、まるでそんな化け物共などそこには最初から居なかったかの様に、岩と、私と、ズタボロになった男の体だけが残された。
私は駆け寄って男の体を抱き起こそうとしたが、そうする前に足を止めた。男は既に事切れていた。二目と見られぬその凄惨な有り様を前にして、私は血が悉く冷たい氷の塊となって停止するのも忘れた儘、ぶるぶると戦きつつ、獣じみた悪夢だ、と云う先程のその男の言葉を、瘧に罹った白痴の様に何度も何度も反芻した。
不意に、冥界めいた悍ましいゾッとさせる風が何処からともなく吹き付けて来て、それと同時にごおんと云う鐘を叩いた様な鈍い大音響が、あの巨大な醜く黒い塊のある方向から聞こえて来た。その風が頬を撫でた瞬間、私は今自分がたった一人であることを、つまり、あらゆる正常なものや見慣れたものから隔絶して切り離され、語り掛けてくれる声も聞き届けてくれる耳も無く、助けも逃げ場も無く、正真正銘の孤立無援であることを悟った。半狂乱になって男の屍体もその儘に、私はその場から逃げ出した。一刻の猶予もならない、可能な限り早くこの大空洞の外へ出なければならない。実体を持った大暗黒の時間が後ろから追い駆けて来るのが分かる。私は、私は………。
*
夢魔の襲撃を受け、捕えられた時の様な時間の滞留現象が起こった。全身が重くなり、情景全ての動きが緩慢になり、まるで冷たい水の中で藻掻いているかの様に、一挙手一投足に奇妙な抵抗が加えられ、気の狂いそうな程自由の利かない重苦しい圧迫感があった。場の主導権が完全にその場に現在していないものへと移行しており、あらゆる法則性が何処か私の知らない外宇宙の深淵より発していると云うこの事実こそ、この灼熱の大空洞が、夢にて夢見られたひとつの創世の記録、精妙なる超越的言語とでも云うべきものによって発話された、ひとつの魂の生の精髄であることの、何よりの証だった。それは私によって体験されるものであり乍ら、同時に酷く他所よそしい疎隔されたものであり、その感触はよく慣れ親しんだものであって且つ又一度も経験されたことが無いものでもあった。二つの世界がぎしぎしと音を立て乍ら互いを呑み込もうと喰らい合いを起こしていて、勝者には完全なる勝利が、敗者には完全なる敗北が待ち受けているであろうと云うことを、私は理の必然によって確信した。静かな湖面に滑り落ちた雫が静寂の中で急速に波紋を広げて行く様に、今や私の存在性が見る見る内に希薄化され、拡散され、消化されようとしていたが、私は死に物狂いになり乍らも、身動きひとつ満足に出来はしないのだった。
この対立の連鎖を断ち切らねばならない、そう激しく直感した私は、体中に水飴か蜘蛛の糸でも絡まり付いて来ている様な拘束感に声無き悲鳴を上げ乍らも、真の覚醒による加護と脱出を試みるべく、儘ならぬべったりと鈍重になった思考を必死の思いで駆使して、世界の反転を試みた。今正に沼に沈み込もうとしている車のエンジンを始動させようと何度キーを回してみても動かない、そんなもどかしい思いを何度か味わった後、まるで引っ張っていたゴムの糸がばちんと元に戻る様に、私は赤熱の岩の上に叩き付けられた。その瞬間だけ、ふっと固い呪縛が解けた様な気もしたが、それはほんの一瞬のことで、その後から万力で押さえ付けられてでもいるかの様な強烈な圧力が縦方向に加えられて来た。途端に窒息寸前になった私は加速度的に持続して行く力に逆らい、やっとの思いで呼吸を盗むと、圧倒的な力の矢を振り解くことに全力を集中させた。先ず両腕を突き、それから片膝、そしてもう片膝を立てることに成功した私は、岩をも砕く程の多大な労苦を払って、再び地面を両足で踏み締めた。その途端弾かれたでもしたかの様に上からの力がふっと消え、私は思わずふらついて倒れそうになるのを何とか堪えると、体勢を立て直す為に今現在アクセスが可能な全ての流れに統制を払い、神経を行き渡らせて、意識を引き締めた。
何かの法外な音が聞こえた気がした。が、それは直ぐに只の錯角だと判った。それは耳に聞こえる音と云うよりも、何かの振動、放射される気配、波状に広がって行く熱気とでも云うべきものだった。その出所は間違え様は無かった。あの黒い奇怪な忌わしい巨大な影だ、青白い光の玉座の中に高々と聳えるあの支配する力の具現、凝集したこの世界の潜在性のあの黯黒の束から、何等かの呼び掛けの様な、命令の様なものが、大空洞全体を震わせて轟き渡ったのだ。
私はそれを解釈しようかとも思ったが、直ぐそれは不可能な公算が高いと判断して見切りを付けた。異界そのものの暗号めいた声無き声を、一介の闖入者たる私が聞き分けられる筈は無かったからだ。それよりも私には為すべきことが他にあった、この世界を反転させる為のきっかけ、契機、綻び、つまりは出口への足掛かりを探し出すことだ。行動に於ける負荷を軽減する為に、私達は物質的外観を持つものとしてのこの大空洞への侵入を試みたのだが、その際に使用したのと同じ様な手頃な楔を発見出来るかどうかが、この脱出行の成否を握る鍵だった。それは通常偶然の機会の装いの下に、一種の恩寵として、さもなければ計画された破綻として出現することは判っていた。それらの予兆と予感に関する鍛練を私達は積んで来ていたのであるし、それらを誘導し、或いは自らをそれらの出現箇所へと誘導する為の方法を、私達は幾つも身に付けていたのだ。今や私は持てる全能力を傾け、その手掛かりの微かな兆候をでも探り当てねばならなかった。
尤も、その難事業の前に立ちはだかる困難は、既に私をその罠の顎にがっちり咥え込もうと、次の攻撃を仕掛けて来ていた。地面が大きく籠った地鳴りを起こして、最初は微かに、そしてはっきりとそれと判る揺れを発生させ乍ら収縮運動を始めたのだ。視界が歪み、ほんの一瞬あの悍ましい鼠共の群れが隅の方にちらりと見えたかに思えたが、焦点をそちらへ向けてみると、その影はもう何処かへ消えてしまっていた。息苦しい大気がぎゅうぎゅうと押し合い乍ら混乱を極めた運動を始め、それと共に例の不可解な放射はガンガンとまるで金床でも叩いているかの様に強烈な破壊音となり、大地は、私の肉体が凡そ如何なる地震に於ても経験したことの無い震動で以て私の足下を攫い、私を拉っし去ろうとした。その光景は恰も巨大な腸が蠕動を起こしているかの様で、その巨人的な力は私を何処か或る特定の一点へ向かって運んで行こうとしているのだと云う直観が、恐ろしい認識の数々を引き連れて唐突に閃いた。私にはその直観が間違ってはいないと云う確信めいた予感があったのだが、それを確と同定出来たのはやや後になってからで、その時はとにかくその狂乱の中で気をしっかり保って何とか体勢を整えておくだけで精一杯だった。混乱の最中、時折それでもふと気が解き放たれる一瞬を狙って、ガチガチに固い恐怖が私に襲い掛かって来たが、それをよく味わう暇も無い内に、次の揺さぶりが私を翻弄しに来た。
安定した予測可能な大地を失うと云うことがどれ程恐ろしいものか、そのことを私は身を以てたっぷりと学んだ。この大変動の全てが錯覚なのかも知れなかった。が、それが私の身に対して実効性を有している限り、それが錯覚であろうと実体的変化であろうと、どちらでも同じことだった。ここは恐るべき他者の意志が支配する、私の力の及ばぬ領域なのであり、それが私を破滅させようと望んだが最後、この夢の中に居る限り私は必ず破滅するのだ。私の行く手を阻む力ばかりに取り囲まれ孤絶した私は、この強大なる力を押し止める為の直接的な方法は皆無であることを知っていたので、私自身の中で、それに匹敵し得る密度の高い焦点と、何ものも逆らえぬ求心力とあらゆるものを吹き飛ばす爆発力とを兼ね備えた、私の意に因る一個の世界導引の為の足掛かりを発生させる為に全精力を集中させた。だが、断続的に叩き付けられる凄まじい不規則な衝撃に、私の注意力はあちらこちらへと飛んで行ってしまい、動揺と恐懼が代わるがわるに私を弄び、折角出来かけた確かな焦点の萌芽を、次から次へと振り回し、台無しにして、結局は死産にしてしまうのだった。混迷を極める私の内部で、次第次第に、自分でもそれとは気付かぬ儘に、着実に根を下ろし始めた強い腐蝕力を持った恐怖が、着実に成長し始めていた。それはこの赤い暴虐が私の襟首を掴む為に伸ばして来た鉤爪のある手であり、私の中に侵入して来る為に据え付けた踏み台であったのだが、私は、私の核にひとつ、またひとつと加えられてゆく残虐な暴行に対して為す術を知らず、良い様に振り回される一方で、やがては鋭い絶望が大きく口を開いた無力感を暴露するのは最早時間の問題と言えた。
今や間違え様も無くその敵対的な欲望と優越とを露にし、凡そその場で想定し得るあらゆる邪悪の権化と化したあの歪な形をした変異の種子、ひとつの世界を丸ごと自分の意の儘にして満足の唸り声を上げているあのどす黒い胎児は、まるで凱歌を放吟でもしているかの様に、高らかな悲響を大空洞全体に漲らせていた。私は次々と襲い来る様々な衝撃に、今自分を運んでいるのがこの怒気を発する岩石群なのか不気味な鳴動を何倍にも谺させている大気なのか、それとももっと精妙で恐るべきエーテル撹拌めいた捩じ曲げられた万象の条理なのか、それすらも判らず、この物象一体となった狂気の大魔宴の直中で、嵐に揉まれる小舟の様にせめてもの呪詛すらも忘れた儘、自分が今正に呑み込まれて行くのだと云う事実を明晰に理解することも出来ずに盲滅法に足掻きを続けた。
と、不意に意識が途切れた。輝かしい青白い光が幾つか瞼の裏側に閃き、そして消えた。私は身を固くした儘暫く凝っとそこで固まっていたのだが、やがて周囲の全ての動きが止まっていることに気が付いた。ぱっと膨れ上がった驚愕に両目を見開いてみると、赤の大空洞の全ての色彩が消え去っていることが判った。白黒になったと云う意味ではない、文字通り、その場から一切の色彩が消えてしまっていたのだ! それらは単なる線、凹凸、輪郭や高低や質感であって、要するに認知されるのは直接に形のみであって、それらの個別的様態発現としての色彩は、なぜか不思議にも一切私の認知野の中には届いていないらしいのだった。つまり、視覚全てが触覚や味覚に類するものに擦り変わってしまった様なもので、それを適切に表現し得る方法が私には思い付かない。その異常事態に加え、目に見える全てが静止し、運動を止め、ぴくりともしなくなっていると云う事実———それはまるであらゆる変化がそこで足を止め、それ以上進むのを一斉に拒否したかの様だった。
時間の停止———と云う事態が私の脳裏に思い浮かんだ。何故かは解らないが、今この大空洞の時間は停止してしまったのではないか、私独りが何故かその状態の外に在って、私に加えられる全ての力から自由になっているのではないか———そんな考えが、何処からともなく浮かんで来た。〈神聖の介入〉が推測された。この怪現象が私自身の力に因るものでないことは明らかだった。とすれば、何等かの外的な力、私のでもこの大空洞のものでもない、第三の未知なる勢力に属する実効性のある力が介入して来たと見るのが妥当であった。この大空洞が自らの理法に従って停止する筈など無いのだし、残念乍ら私にはこの巨大な存在を前にして独自の焦点を結ぶだけの能力は無かった。ならば、私の意の儘にもならず、この恐るべき敵の仲間でもない、何か絶大な力を持った意志が、私の全く与り知らぬ理由によって介入を行って来たと考えるべきではないのか。
一旦事態をそう見てしまうと、まだ全身が強張ってはいたが、私は行動するのを躊躇ったりはしなかった。強い予感があった、と云うよりも私は知っていたのだが、目指すべき前方、或いは岩の上に、別の世界への扉が開いていた。私はそこを、そこだけを意識の中心に置き、全力でそこへ向かって疾走した。まるで何もかもが点字で描かれた、つまり、意味の伝達に必要なまでの距離が離れた巨大な絵本の中に居る様な、奇妙な非現実感があり、それは一種の浮遊的感覚となって私を包み込んだ。飛ぶ様に私は走り、それと同時に前方に臨在する世界を可能な限り収斂させて行った。それから死に物狂いで、私と共に在る世界の縁に手を掛けると一気に身を引き、そして………。