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2-29 朝のひとときは幸せでした

「クレス様、おはようございます」


 新が起床した時間と同じころ。

 アリーゼは朝の挨拶をしながらクレスの頬をつついて遊んでいた。


「クレス様、起きてくだい」


 本当は起きないでほしい。

 そうすればもっと触れていられるから。

 けれどお互いにやるべき仕事があるため、なるべく規則正しい生活を送る必要があるのだ。


「……今日はやけに起きないですね。疲れていたのでしょうか」


 つんつんと指先で押しては離してを繰り返す。

 好きな人の感触というのは、どこか愛おしい。

 主人は寝ているし他に見ている人もいないからと、アリーゼは気兼ねせずに顔を緩ませた。


「アリーゼはあなたのことが大好きですよー。本当に、世界一好きです」


 今までは簡単に好きと言えていたが、なぜだか最近になって照れを感じ始めた。

 実は一緒に寝ようと誘うのにも少し勇気を振り絞ったなんて、クレスには絶対にナイショだ。

 ただ、気持ちはとめどなく溢れてくるから寝ている今が爆発させるチャンス。


「クレス様に好きな人がいても、ずっと一緒ですからね。だってアリーゼはメイドですし、お姉ちゃんですし……」


 でも、少し欲張ってもいいのなら――。

 それが許されるのなら――。


 アリーゼはクレスの唇を見つめた。


「……いや、ダメですよねこれは」


 アリーゼが病んでいた時は『教育』という名でクレスの体を好き勝手にいじくっていたが、それでも唇は奪わなかった。

 心のどこかで、まだ自分は認められていないとわかっていたのだろう。

 この初めては自分からでなく、クレスから迫ってくる時までとっておくべきだ。


「唇以外なら……。うぅ、それもやめるべきでしょうか……」


 恋煩い――。

 まさしく自分は病気にかかっていた。

 どの選択肢も正しくないような気がして、何もできずにいる。


「あぁ、もう……! クレス様が起きてくださればこんな気持ちにならずに済むものを――」


 そうだ、全部このご主人様が悪いのだ。

 だったら、頬とか耳とか手くらいのキスは許されるかもしれない。


 アリーゼはもぞもぞと近寄って、クレスの片手を握った。

 ずっと布団の中に入っていたせいか、その手はとても暖かい。

 決意を固め、アリーゼはその手を口の近くまで持っていった。


 あともう少し。

 ほんの少しだけ自分が動けば、この温もりを唇で受け止めることができる。

 愛情を発散できる。


「クレス様、本当に起きていませんよね……?」


 念のために声をかけた。

 しかし、変わらず返事はない。

 ただ寝息が聞こえてくるだけで、この出来事は自分の記憶にしか残らないはずだ。


「失礼しますね――」


 アリーゼは目を閉じた。

 自分の心音が幸せを知らせている。

 やはり気恥ずかしいけれど、ようやく好きな人の手にキスを――。


 バタンっ――と乱暴に扉の開く音がした。

 ドクドクと鳴っていたアリーゼの心音もかき消され、同時に彼女は驚きのあまりクレスへ抱きついてしまう。


 扉を開けたのは、自分が勝手にライバル視しているメイドだった。


「クレス様! 早く起きて、着替えてもらわないと洗濯ができませんよ!」


 まだ幼さがわかる声。

 ミルだ。


「――って、アリーゼさん!? どうしてクレス様に覆いかぶさっているのですか! もしかして、大人な行為を……」

「ち、違うって! ちょっとびっくりしただけですよ!」


 アリーゼは正式な義姉だが、ミルもクレスにとって義理の妹のような存在だった。


 この家にいる従者はミュケアーズ家に仕えている。

 つまりご主人様にあたる人物はクレスの父であって、クレス自身ではない。


 でもアリーゼとミルは違った。

 数少ない、クレスのメイドだ。

 その事実がいっそうミルへの敵対心に変わってしまうのだが。


「あ! なんですか、ギュッと手なんか握っちゃって! さては寝ているのをいいことに、クレス様の体を好き勝手しようと――」

「うるさい! あ、あなただって、門番なのにどうして洗濯の心配をするわけ!?」

「一日中玄関にへばりついているだけが仕事じゃないんです! 私だってお洗濯とか家事のスキルだってありますよ!」


 ギャーギャーと言い合っていたせいか、クレスのうなり声が聞こえた。

 どうやら起きたらしい。


「アリーゼ……。と、その声はミルか……。おはよう」


 目は閉じたままだが、はっきりと話し始めた。


「お、おはようございます、クレス様」

「アリーゼ。昨日はよく眠れた?」

「えぇ、もちろん。クレス様のおかげで――」

「待ってくださいな。『クレス様のおかげで』ってことは、一緒に夜を明かしたのですか」


 ミルが言及した。


 もしやそのせいで今日は寝坊気味なのではないか。

 そうだとすれば、洗濯が滞ってしいる原因は二人のイチャイチャであることになる。

 毎日やられたら堪ったものではない。


「うん。アリーゼと一緒に寝たけれど?」

「ちょっとノロケすぎですよ! まったくもう、早く脱いで、その服貸してください」

「ノロケ……」


 ロリっ子にノロケと言われるのは初めてのことじゃない。

 クレスは一瞬だけ、マユとミルを重ねてしまった。

 するとどうだろう、自分の中の本心は。


 マユを()()()()()()()()()は、今はもうない。

 だって、マユに求婚したのは――。


「クレス様……?」


 ミルがフリーズしていたクレスの顔を覗き込んだ。

 クレスは我に返り、またもや胸の内から目をそらす。


「ごめん。すぐ着替えるよ」


 もう自分に嘘をつく必要はないが、クレスは見つめ直すこともできなかった。

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