2-13 恐怖に苛まれていました
「クレス、どういうことだよ……。いきなり殺せって言われても――」
「お願いですから! 魔王の仲間なんでしょ、悪い人なんでしょ!? だったら、やってくださいよ!」
「おい、落ち着けよ! お前、急にどうしちまったんだ!」
クレスは新にしがみついて懇願していた。
強く服を掴み、理性を失ったように言葉を反復する。
その内容はどれも同じ。
殺してくれ――それだけだった。
「まずは説明してくれ! お前がいなくなった経緯と、なんで殺したいかって理由をさ!」
「言ったら、引き受けてくれますか……?」
「……まだわかんねぇけど」
新は曖昧な返事をしたが、魔王の手下だからといって殺人を犯すつもりはなかった。
きっとクレスも特別な事情で血迷っているだけだ。
冗談でも誰かを殺すなんて言わない性格だと、新は信じていた。
「あの日ですよ……。マルクさんの家へ襲撃した後です――」
―――――――――
気がつけば森の中に転移していた。
自分の左手を柔らかくて少し冷たいものが包んでいる。
「マ、マ、マユさん!? いきなりどうしたんですか! いや、嬉しいんですけど、いきなり過ぎて驚いたというか――」
マルクの家を荒らし、レイをレンガの家へ転移させた後のこと。
クレスはマユと手をつないだ幸せで満ちていた。
「落ち着け。私たちの正体が知られると厄介だから見られる前に転移しただけだ。いいから手を放せ」
「なんで厄介なんですか? それを教えてくれないと放しませんよ」
クレスはもう気がついていた。
マユと新には共通の秘密があって、それを自分には言ってくれていないことを。
スラム出身の貧民が高度な魔法陣を操るなんて、いくらなんでも怪しい。
たしかに家の中には金品が見当たらなく、本当に質素な暮らしをしているのかもしれない。
それでも飢えに苦しんだりする様子はなく、クレスにとっては違和感ばかりだった。
「え? それは、だな……」
ようやくマユさんが秘密を教えてくれる――。
これでアラタさんに並べる――。
しかし、その想いは届かずに終わってしまった。
「うおぉぉい! マユ、マユ来てくれー!」
新の声が聞こえると、マユはクレスの手を無理やり振りほどいて家の中へ走っていった。
外に残されたのは、自分だけ――。
それが傷つかないわけじゃない。
でも、今日だけじゃなくて明日もある。
来週も来月も来年も。
だから、急がなくても大丈夫。
「……ダメだ」
クレスは無意識に言葉を漏らした。
何がダメなんだ――。
「今すぐじゃないとダメなんだ」
どうして……。どうしてそんなに急ぐ――。
「だって、早くしないと……」
やめろ、言うな――。
まだ気がつかないふりをするんだ――。
クレスは自問自答を繰り返す。
そのうちもう一人の自分はいなくなり、心は落ち着きを取り戻した。
はずだったのに。
「クレス様ぁ、こんなところで何をしているんですかぁ?」
「アリーゼ!?」
「誰ですか、ねぇ、手をつないで、誰だったんですか」
アリーゼがレンガの家を睨みつけて言う。
目には殺意があるのに、彼女の口だけが笑っていた。
「待って、アリーゼ。帰ろう、そこで全部話すから――」
「あの女のせいでクレス様も壊れちゃいましたかぁ……」
アリーゼは家から目を離し、クレスを捉えて飛びかかってきた。
その手には鈍器が握られている。
「アリーゼが、修理しちゃいますね!」
思い切り振り下げられた鎚はクレスの頭部へ接近していく。
クレスは反射的に手が動き、急接近する金属の塊を腕で受けてしまった。
「――んぐぅぅ!」
片腕に走る激痛。
しかし、声を出せばマユたちが家から出てくるはずだ。
アリーゼの目に入ったが最後、きっと彼らにも危険が及ぶ。
クレスの腕に走った衝撃は骨の中で反響し、痛みは壮絶かつ長く続いた。
助けは呼べない。戦いもできない。
クレスは逃げることを選んだ。
自分が一歩一歩を踏み出し、体が揺れるたびに片腕の痛みが強調される。
「待ってください。頭じゃないと治らないですよ?」
アリーゼの声が後ろから聞こえた。
このままだと殺される――。
もっと速く――。
痛みを訴えていた腕を無視し、クレスは迷うことなく目へ踏み出す。
数十メートル走ったところで、急に体が重くなった。
腕だ。
右腕が動かなくなってしまった。
不思議なことに痛みは感じなくなっていた。
それでもダラリと、腕の関節から先を動かすことができない。
「はぁ……!? あぁ……!?」
絶望のせいで言葉にならない声が出てくる。
もう右腕の感覚はないし、脚も少しずつ疲労を見せていた。
嫌だ。
死にたくない。
やめて、僕をこれ以上苦しませないで――。
「待ってくださいってば!」
背中あたりから鈍い音が聞こえた。
同時に衝撃と内臓が潰れるような苦しさ。
クレスはアリーゼにまたも殴られてしまったのだ。
腕の次は背中。
クレスはとうとうその場に倒れ込み、悶絶の叫びを発する。
「――があぁぁぁぁぁ!」
もうレンガの家に聞こえるかどうかなんて関係なかった。
痛い。苦しい。
その感情に押しつぶされそうで、叫ばずにはいられない。
「クレス様、速くなりましたね……。少し手こずりました」
「あぁぁ……! 痛い、痛いよぉ……」
クレスの顔は涙で歪んでいた。
アリーゼにとっては最高の状態。
緊急事態でないと、この主人は素直になってくれないから。
「さて……。クレス様はここで待っててくださいね。アリーゼはあの女を処分してきますので」
「やめて! やめてくれ!」
必死な叫び声。
いつもは素直なはずだったのに、今日だけは反抗的。
「ただゴミを処分するだけですよ。……それとも、クレス様にとって大事な人なんですか」
「アリーゼが好きだから! マユさんには手を出さないで――」
「クレス様。やっぱり荒療治ですけど、頭を治すしかないですね」
アリーゼが鎚を握り直し、倒れて避けることもできないクレスの上で振り上げた。
クレスは左手で頭を守るように抱えた。
まるで怯えているような姿勢だったが、事実アリーゼが怖くて仕方がない。
「クレス様。手、どけてくださいよ。それじゃあ治りませんよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「ふふふ。やっぱりかわいいですね、クレス様は。だから……」
――もっと泣いてください。
アリーゼは鎚を一回振り下ろした。
クレスの左手が頭と金属に挟まれ、骨が砕かれる。
「あぁぁぁぁ! やだ、やだぁぁ!」
アリーゼは砕けた左手を足でどかし、次は頭を狙って――。
「やだ! 嫌だ!」
クレスが死の存在を感じると、体は自然と動いていた。
腕も振れない、まっすぐには走れない。
そんな状態でもクレスは逃げた。
殺されたくない――。
死にたくない――。
気持ちは必死そのものだったが、不格好な姿勢では逃げ切ることなどできない。
アリーゼの声はまたすぐに後ろへ。
「クレス様、大好きですよっ!」
頭の中で鈍い音が響く。
脳が揺れて、一瞬だけ目の前の視界が消えた。
熱い液体が目の横を、鼻の隣を、口元を這っていく。
血だ――。
僕は、死ぬんだ――。
クレスがそう思った瞬間、彼の体は地面に倒れていた。
体中が熱いせいか、湿った土が心地よく思える。
このまま眠れば楽になるかもしれない。
直後、クレスは意識を手放した。




