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紅の鳩  作者: りきやん
第一章
6/77

05

ロランとフランシーヌがそれぞれの居場所に戻った頃、シリルは真っ暗な煙突の中に用心深く手をつき、慎重に下へと降りていた。

ここで焦れば、手足を滑らせて地上まで真っ逆さまに落ちていく。

気を失うくらいで済めば良いが、当たりどころが悪ければ死んでしまうだろう。

暗闇の中で自身の身体が空中に投げ出されて、命を失うことを想像をする度に、シリルは恐ろしさに身震いせずにはいられなかった。


「シー坊。お疲れ様」


煙突掃除を終えて、暖炉から這い出れば、優しい声と笑顔が少年を迎える。

それは、他でもない、彼の雇い主であった。

ティボーという名のこの男は、まるで自身の息子のようにシリルを可愛がっていた。

白髪の混じり始めた髪と、目元に刻まれた小さな皺は、彼がもう若くないことを示している。

妻を娶ることもせず、2年前までたった一人で仕事をしていた親方にとって、シリルというのは目に入れても痛くない存在であった。


「どうってことないよ!これくらい!」


真っ黒になった手で鼻を擦ろうとすれば、親方がやんわりとそれを止める。

代わりに、ポケットからハンカチを取り出して、シリルの顔や手を拭ってやった。

親が子をいたわるようなその手つきも、客の前となれば話は別だ。

同年代の他の子供よりも大人びているせいか、反抗期に差し掛かっているシリルにとっては耐え難い屈辱だった。


「やめてよ、親方!自分で出来るから!」

「いいから、いいから」


全くもって話を聞く気のない親方の手を払いのけ、ハンカチを奪い取る。

そしてから、この生意気な煙突掃除人の少年は自分で煤を拭い始めた。

あまりに雑な手つきに、煤は伸びる一方で、余計に腕や顔を真っ黒に染めて上げていく。


「仲が良いのですね」


そのやりとりを静かに見守っていた、今回の仕事の依頼者である女性が素直な感想を述べる。

親方が穏やかな笑顔を浮かべたのに対し、シリルの頬には朱が差した。


「仲良くなんかないもん!」


黒く色を伸ばす煤を躍起になって、シリルは擦る。

ロランのように宿の店番もできれば、煙突の上まで自力で登れる、という事実から、シリルは自分がすでに立派な大人になったような気分になっていた。

そのせいで、周囲に子供扱いをされることが何よりも耐え難かった。

女性は苦笑を隠せずに、けれども少年を刺激しないように親方にこっそりと語りかける。


「反抗期ですか?」

「はは、そうかもしれませんねぇ。年中こんな調子で」


言いながらも、親方の口調は決して厳しいものではない。

その目は間違いなく、優しさに満ち溢れていた。


「それでも、仕事を良くやってくれる、自慢の息子ですよ」


シリルの頬を再び赤く染めるには、十分な言葉だった。




シリルは、自分の境遇が恵まれていることをきちんと理解していた。

親方がとても親切で優しい人物であることも、衣食住に困ることが無いことも、この上なく幸運なことである、と。


煙突掃除人の仲間の中には、食べるものも与えられなければ、稼いだお金も全て取り上げられてしまう子供もいる。

酷い場合には、暴力を振るわれて、歩くことすらできなくなる子供さえいた。

けれども、シリルの場合は稼いだお金は小遣いとして還元され、食べ物も3食困ることは無い。

小遣いで菓子を買うことを咎められることも無ければ、玩具に費やして取り上げられることも無かった。

本当の両親があぶく銭でシリルを手放したことを考えれば、親方の方がよっぽど父親らしい。

それらの事実を踏まえた上でも、少年の理解力は平均よりも高かったが、感情面は歳相応であったため、反抗してしまうことを止められなかった。


ロランから貰った銅貨と今日の仕事で得た小遣いをポケットの中で弄りながら、シリルは大通りを歩いていた。

親方から本日の仕事は終了したので、残りの時間を好きに過ごすことを許されたものの、行く当てもなく、町中を彷徨っているだけだった。


御者が馬に鞭を入れ、スピードを早めた馬車がやかましい音を立てながら通り過ぎる。

ぼんやりとその様子を見送りながら、シリルはため息をついた。

それというのも、彼が親方の元に引き取られてから、そろそろ2年が経つ。

当時7歳だった少年は、これからの自分の運命を思い、気弱でおどおどした子供だった。

引き取られる前まで、悲惨としか形容がしようのない境遇で過ごしてきた身では、それも仕方のないことである。

けれども、親方に引き取られてからは、本来の明るい性格を取り戻し、自由を手に入れることができた。

その恩人と出会った2周年の記念日が1ヶ月後に迫っている。

何か素敵なプレゼントを渡したい、と考えているものの、それを実際に実行するのは顔から火が出るほど恥ずかしい。

シリルは素直に親方にプレゼントを渡せない自分を想像してみたが、その姿があまりにも現実味を帯びていたため恐ろしさに身震いした。


「何あげよう」


ポケットの中の銅貨を指の腹で擦る。

きちんと渡せるかどうかは別として、何かしらを用意しないことには始まらない。

けれども、シリルにはお金が無かった。

この年頃の子供に貯金という概念は存在せず、もらったお小遣いは全て菓子や玩具に消えていったことは言うまでもない。

銅貨で買えるものが何か考え、あめ玉や白パンくらいしかないという結論に至った時、少年はお金を溜めていなかったことを深く後悔した。

子供ながらに、贈り物を渡すのであれば長く使ってもらえるものが良いと考えていたのだ。

どう足掻いてもお金が足りない、という事実に再びため息をついて肩を落とした時、シリルの目に人だかりが飛び込んでくる。

親方へのプレゼント問題を一旦、頭の片隅に追いやり、興味津々でその場へ飛び込んだ。


「さぁさぁ、ここに見えるはただのハンカチ。そこのお嬢さん、どうぞその手に取って触れてみてください」


人垣が高く、誰が中心にいるのかは分からないが、聞き覚えのある声にシリルは眉を顰めた。


「どうです?種も仕掛けもないでしょう?ところが、ヴィーナスのように美しいご婦人が触れると、ほら不思議!」


短い女性の悲鳴が上がった後、観衆からも驚きの声が上がる。

それはやがて、歓声へと変わり、次から次へと拍手が巻き起こった。


「見てください、この見事な赤い薔薇の花。あなたの頬の色のように美しく、そして、あなたのその胸に秘めた情熱のように気高い。その絹のような髪に触れることをお許し願えますか?さぞこの薔薇がお似合いになることでしょう」


舞台の台詞だと言われても違和感のない言い回しを、すらすらと口に乗せる青年の声に、シリルは人だかりの中心にいる人物に当たりをつける。

世界広しと言えども、このような大仰な言葉遣いを平気でできるのは、アンセルムくらいしかいないだろう。

ロランとは仲が良いのか悪いのか、判断をし兼ねるが、少なくともシリルはアンセルムが嫌いではない。

彼が旅に出て以来、全く音沙汰がなかったというのに、こうして突然姿を現したことにシリルは驚いていた。

久しぶりに見る姿に、期待を膨らませ、少年はその場で人がはけるのを待つことにした。

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