02
シャンメルロ国。
ロランはこの国の首都とされる地域に住んでいた。
首都に住んでいる、と言えば、羽振りが良いようにも聞こえるが、実際は路地裏にある貧民街にいる。
それでも、住む家があるだけ、貧民層の中でも上位に位置すると言えた。
安宿の女将に、まだ目も開かない赤ん坊の頃に拾われ、本当の息子のように育てられたのがロランだった。
両親のことなど欠片も記憶に残っていないせいか、彼が自身の出自を気にかけたことは一度として無い。
彼を拾った女将もまた、戸口の裏に捨てられていた、泣くことも出来ない程に衰弱した幼子の親のことなど知る由もなかった。
女将が捨てられていたロランの存在に気がついたのは、全くと言って良いほどの偶然である。
こうした幸運のおかげで生き延びた彼が真っ直ぐな人間に育ったのかと言われれば、そうでもない。
極貧とは言わないものの、生活に余裕があるわけでもないのに面倒を見てくれた女将に対して、感謝の念が尽きないのは確かだ。
しかしながら、こうしてたまにシリルに店番を交代してもらって、仕事を投げ出すくらいには不良息子に育っている。
良くも悪くも、ロランはどこにでもいるような、普通の青年だった。
ただ一つ、王女と知り合いだという点を除いて。
「フランの奴、来るかな」
寒さにかじかんだ手を擦り合わせながら、いつもの待ち合わせ場所に向かう。
その途中で、寝起きのまま飛び出して来たことに気づき、あらぬ方向へ飛び出している深い青色の髪を撫で付け、とりあえずの体裁を整えた。
フランシーヌは王位継承権を持った歴とした姫君である。
平民であることに加えて貧民層地区に住んでいるロランが城に直接出向いたところで、門前払いが関の山だった。
正式に謁見を申しこめば、顔を見るまでに数ヶ月の時間を要するだろう。
会って、他愛もない話をする。
そのために、自然と待ち合わせの場所が出来た。
10年前から変わらないその場所は、2人だけの秘密の場所だった。
街の中心に大きくそびえ立つ時計台は、抜け道を使えば容易に中に入ることが出来る。
どこにでもいる普通の少年たちのように、それなりに悪さをして育ったロランにとって、この抜け道を発見した時の喜びは計り知れないものだった。
そして、意気揚々と忍び込んだ先で、まさか一国の姫君と出会うことになるとは、想像できるはずもない。
フランシーヌが途方に暮れた表情で、抜け道のど真ん中に蹲っていたことも、思い返せば懐かしい話である。
10年前と比べて、身体はだいぶ大きくなってしまったが、それでも忍びこむには十分の広さがあった。
時計台の裏に回れば、足元に小さな鉄格子がはまっている。
床下の通気を良くするために作られたであろう箇所を出入りするのは、ネズミや猫、そして、ロランとフランシーヌくらいだ。
周りに誰もいないことを確認してから、ロランは地面に膝をつき、それを外す。
鉄格子は、持ち上げるようにして右に捻る必要があった。
そうしてから、潜りこむようにして頭から床下へと身体を突っ込む。
忘れないように鉄格子をはめ直し、四つん這いになりながら進めば、そこはすでに時計台の中である。
お世辞にも綺麗とは言えない環境ではあるが、我慢する他ない。
王女であるフランシーヌも同じ道を通っているのだと思えば、不思議な気分だった。
それも、ロランに会うために、このような汚れた場所を通っているのだ。
少し進んだところで、ロランは真上にある板を持ち上げる。
この時に、少しコツが必要で、ただ持ち上げるだけではなく、少しだけ左にスライドさせると上手く外すことが出来るのだ。
こうして、無事に時計台の中に潜り込んだロランは、今度は床をはめ直してから、螺旋状に渦巻いた階段を昇って行く。
限られた人間、所謂、時計職人などしか入れない場所なので、他人と遭遇する確率はほぼ無いに等しい。
そのおかげで、フランシーヌも堂々とここにいることが可能であり、ロランも気兼ねなく彼女と話すことができるのだ。
まかり間違って、その辺のカフェにでも入ろうものなら、フランシーヌはすぐに城に連れ戻されることだろう。
階段を昇り切ったところで、ロランはライラック色の髪を見つけて思わず笑みをこぼす。
さらさらと揺れる腰まである長い髪は、見間違えようのない、フランシーヌの色だ。
「フラン、結婚するんだって?」
後ろから何の前触れもなく、そう声をかければ、彼女の肩がびくりと震えた。
驚いたように目を丸くして振り返ったフランシーヌに、ロランは苦笑を返す。
「なんだよ、幽霊でも見たような顔して」
「ご、ごめんね、ロラン。今日は来ないかもって思ってたから、びっくりしちゃって…」
取り繕うように胸元で手を振ってから、フランシーヌは深くため息をついた。
「おはよう…」
「おう、おはようさん」
ぎこちない挨拶を交わして、ロランはフランシーヌが話し始めるのを待つ。
けれども、フランシーヌはくるくると指を回して弄んでいるだけで、一向に口を開く様子がない。
胸元で手を組んで、指をくるくると回すのは、フランシーヌが何か言いたいことがある時の癖だ。
「なんだよ、話したいことがあるんじゃないのか?」
仕方なく、そう促してやれば、フランシーヌはちらりと視線をこちらに寄越した後、蚊の泣くような声で言葉を絞りだす。
「あのね、ロラン。その…私の結婚のこと、知ってるのよね?」
やっとの思いで絞り出された話題に、ぐっと喉が詰まった。
努めて冷静な表情を装って、ロランは頷く。
「そのこと、どう思う?」
本音を言えば、もちろん嫌に決まっている。
けれども、王族の中で決まってしまった事実を覆すことなど出来るはずがない。
茶化そうとロランは口の端を上げて不器用な笑みを作った。
「ま、良いんじゃないの?フランの従兄弟だっけ?」
「うん、オーギュスト」
「おめでとさん。結婚式のパレードには俺も参加するよ」
ロランは肩を竦めるが、フランシーヌからはふっと表情が抜け落ちた。
あぁ、やってしまった。とロランは頭の片隅で思う。
これは、何か地雷を踏んだときの反応だ。
「そっか。そうよね」
ランシーヌは不自然な程、にっこりと笑みを浮かべると、胸元でくるくる回していた指を止める。
「私、お城に戻るわ。この前も、抜け出したのがセルジュに見つかって、怒られちゃったし」
セルジュって誰だ、とロランは一瞬考えるが、すぐにフランシーヌのいけ好かない教育係だと思い当たった。
「じゃぁ、またね。ロラン」
踵を返すと、目も合わせずに時計台を去ろうとする彼女の腕を慌てて掴んで、それを阻止する。
「まぁ、待てって。話は終わってない」
「でも、ロランは…」
「いいから」
言いながら、時計台の端へとフランシーヌを誘う。
吹き抜けになっているこの場所は、一歩間違えれば下へと真っ逆さまだ。
けれども、幼い頃から通いつめていた2人にとっては、特別に危ないことは何もなかった。
縁に並んで腰を掛け、足元に広がる風景を見つめる。
朝のひんやりとした空気が頬を撫で、ロランはその心地よさに目を細めた。
けれども、隣で寒そうに身震いしたフランシーヌに気づき、自身のジャケットを脱ぐ。
「ほら」
「いいの?」
「寒いんだろ?」
「ありがと、ロラン」
脱いだジャケットを肩に掛けてやれば、潤んだ目で彼女は笑った。
その表情はいつものフランシーヌだ。今にも泣きそうな笑顔を浮かべている。
小さい頃は、その表情に何か泣かせるようなことをしたのかと本気で悩んだこともあったのだが、ある日唐突に、これが彼女の笑顔だと理解したことを覚えている。
「で、その結婚ってのは、フランが望んだのか?」
「まさか!お父様が勝手に取り決めたのよ」
頬を膨らませて、憤然として語り出すフランシーヌにロランは小さく笑った。
「王族に生まれた以上、政略結婚は覚悟してたけど。よりによって、オーギュストだなんて!」
「他の奴だったら、喜んで結婚したのか?」
少し意地悪な質問をしてやれば、フランシーヌは言葉に詰まったように黙りこむ。
寒さのせいかもしれないが、少しだけ頬が紅潮した。
「喜んで、結婚なんかしないわ。だって…私は…」
尻すぼみになって、不自然に言葉が途切れる。
ちらりとフランシーヌはロランに視線を投げたが、その視線が交錯した途端、お互いに気恥ずかしくなりそっぽを向いた。
「あー、なんだ、その、結局のところ、フランはそいつと結婚したくないってことだろ?」
「当たり前よ。あの人、私のことを人間だと思ってるかすら怪しいわ」
あからさまに気落ちしたフランシーヌの頭を、ロランはそっと撫でてやる。
それに甘えるように、フランシーヌもぴったりと身体をくっつけた。
こんな場面を誰かに見られたら、不敬罪で打首獄門になりそうだな、とロランは内心で笑う。
「あの人ね、権力が欲しいだけなの。だから、お父様たちには取り入って、良い顔してるけど。私には、本当に酷いんだから!」
「親父さんたちに、それ、話したのか?」
「もちろん。でも、お父様もお母様も信じてくれなかったの。信じてくれたのは、セルジュだけだったわ」
また、セルジュか。
何度も出てくる名前に、面白くないと感じるが、城内で起こることまでロランが干渉することはできない。
自分が側にいれば、支えになってやれるのに、と思いながらも平民が城内に入るには騎士団に所属するくらいしか手段が無い。
それも、相当優秀な人間でないと不可能だ。
文字の読み書きもやっとなロランが、教養も地位もある貴族たちで溢れている騎士団の一員になるのは、気の遠くなるような話だった。
「いっそのこと、ロランと駆け落ちでもできれば良いのに」
「駆け落ちか…まぁ、悪くはないな」
「いろんな地方をまわって、旅するのは楽しそうよ」
「旅か。何が見たい?」
「海はどうかしら?」
「よし、じゃぁ、まずは海だな。それから?」
「うーん…わからないけど、旅に飽きたら、広い野原に小さなお家を建てるの。そこで、2人で暮らすのよ」
「羊でも飼ってみようか?」
「良いわね。たくさんの羊に、それから牧羊犬」
「じゃ、俺が羊番するから、ときどきフランがクッキーを差し入れに来るってのは?」
「ロランってば、相変わらずお菓子が好きね」
「悪いか?」
「悪いとは言ってないじゃない。それから…そうね、夜は2人で星を眺めるの。きっと、素敵よ」
「流れ星、とかな」
眼下に広がる街の景色は、数年前と何一つ変わらない。
そして、ロランとフランシーヌの関係も数年前と何も変わらないのだ。
貧民街に住む、何の取り柄もない平民の青年。
そして、王位継承権を持つ正当な血筋の一国の王女。
この先、この街が変わらない保証はどこにあるだろうか。
それと同じように、少し先の未来には、2人にとって望まない変化がやって来るだろう。
結婚し、政治に関わるようになればフランシーヌがこうして気軽に城を抜けだして来ることも出来なくなる。
「この街は、変わらないわね」
フランシーヌはロランのジャケットに包まりながら、そう呟く。
同じことを考えていたことに、ロランは表情を緩ませた。
「そうだな、変わらない」
「私達も、ずっとこのまま変わらずにいられるかしら?」
「さぁな。難しいんじゃねぇか?」
「ロランって現実的よね」
返答に不満を持ったフランシーヌが小さく頬を膨らませる。
「しょうがないだろ。これが、俺達の生きてる世界なんだから」
「嘘でも、変わらないって言って欲しかったわ」
「良い方向に変化するんなら、構わないんじゃねぇの?」
「え?」
きょとん、とした表情でフランシーヌはロランを見つめる。
首を傾げた彼女の腰元で、ライラック色の髪がさらりと揺れた。
ともすれば、その髪に手が伸びそうになるのを抑えて、ロランは強く言い放つ。
「逃げよう、2人で」
フランシーヌは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに優しくて柔らかい、今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべる。
それを見たロランの胸の内で、『結婚』と言う事実が氷解するように溶けて消えた。
この笑顔が他の誰かのものになるなど、考えたくはない。
「結婚式、いつだっけ?」
「2週間後よ。けど、今日付けで正式に発表されたから、あまり時間は無いわ」
「じゃ、2日後にもう一度ここで」
「明日は会えない?」
「そう毎日、城を抜け出すわけにはいかないだろ。それに、準備も必要だし」
「…そうね」
フランシーヌは言葉を切ると、じっとロランの顔を見つめる。
「ねぇ、ロラン。本当にありがとう」
「今更」
コバルトブルーの瞳を見つめ返すのが気恥ずかしくなったロランは、頬を掻いてからそっぽを向いた。