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紅の鳩  作者: りきやん
王族と平民

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21/77

居場所

 裏路地に面した宿は、お世辞にも陽気な宿であるとは言い難い。どちらかと言えば、陰気の部類に属しているだろう。


 残念ながら、ただの呑んべえだけではなく、怪しい商売をしているような客も泊まるし、どう見ても堅気には見えないような人間が飲みに来ることもある。時には、荒事を起こすような連中もいる。


 それでも、経営が傾いたり、宿に人が寄り付かなくなったりしないのは、他でもない女将のおかげだった。


 啜り泣くシリルの声を聞きながら、ロランは宿の扉の前に立つ。


 女将に気付かれませんように、と心の中で何千回と祈りを捧げたが、全ては徒労に終わった。


 凄まじい轟音を立てて扉が開き、ロランの鼻先のわずか数ミリを掠める。もう一歩前に踏み出していれば、確実に鼻が折れていただろう事実に、ロランは血の気が引いた。


 扉が開いた先には、地獄のサタンですら裸足で逃げ出すのではないかと思われるほどの、とても人間の表情とは思えない怒りの形相を浮かべた女将が立っている。


 これこそ、宿に来るならず者たちが最も恐れている姿だった。


 ロランも例外ではなく、回れ右をして逃げ出そうとするが、それよりも早く襟首を掴まれた。


「こんの、馬鹿息子! シー坊を泣かせるなんて、一体何をやらかしたんだい?!」

「ちがっ! これには、訳があって!」

「本当にあんたって子は! 碌なことしないんだから!」


 雷の轟くような怒声に、近所の物好きたちが、窓や玄関先から顔を覗かせる。まるで、サーカスの珍獣になったような気分に、ロランはシリルを抱えたまま大変居心地の悪い思いをした。


 けれども、女将は周囲の視線などものともせずに、雷鳴を轟かせる。


「店番もしなければ、シー坊の面倒もまともに見れない! あんたには、一体、何が出来るんだろうねぇ?!」

「だから、誤解だって! 別に、泣かせようと思って泣かせた訳じゃ……!」

「例え、不本意だったとしても、泣かせるようなことをするんじゃないって言ってるんだよ!」


 パッと手を振り上げた宿やの女主に、ロランは殴られる覚悟をして、シリルの頭を抱き込み、目をきつく瞑る。


 しかし、目を瞑る瞬間、黄金色にさらさらと靡くものが視界に入った。


「まぁまぁ、女将さん。ボクがロランのことは叱っておきますから。とりあえず、2人を仲直りさせないと。ね?」


 タイミング良く現れ、美味しいところを掻っ攫って行くのはアンセルムの十八番だ。


 普段はそれが気に入らないロランも、今回ばかりは助かった、と心の底から感謝した。万が一、殴られていたら、フランシーヌが驚くような顔になっていたに違いない。


 女将は、間に割って入ったアンセルムを睨めつけると、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「アン、あんたも一緒になってシー坊を泣かせたりしたら、承知しないからね!」

「大丈夫ですって。ボクはロランとは違いますから」


 にっこりと、アンセルムは見るにも眩しい笑みを浮かべると、女将の手を取る。


「宿屋の女神に誓って、ボクはシリルを泣かせたりしませんよ」


 小さな音を立てて、アンセルムは女将の手の甲にキスをする。


 あまりの行動の軽さに、女と名のつくものならば見境がないのか、とロランは呆れ半分と尊敬半分でアンセルムを見つめた。


「さぁ、行こう」


 アンセルムはロランの背を押すと、宿の扉を開ける。


「お前な……」

「まぁまぁ、小言なら後で聞くから」


 心なしか、多少頬を赤らめた女将を尻目に、ロランたちは宿の中へと入って行った。


 ◆


「それで? どうしてシー坊は泣いてるの?」


 ロランの部屋に入るやいなや、アンセルムは後ろ手に扉を閉めながら、そう切り出す。


 その顔にはいつもの人好きのする笑みは浮かんでおらず、眉を顰めた難しい表情をしていた。


 それを見て、アンセルムも親方や女将に負けず、シリルのことを大事にしているのだと、ロランは再確認し、場違いに安堵が浮かぶ。


「俺が旅に出るって言ったら泣いた」


 長く説明するのも面倒で、簡潔にそれだけを伝えると、アンセルムは一瞬だけ虚を突かれたような表情を浮かべたものの、すぐに笑みを浮かべた。


「おいで、シー坊」


 ロランに抱きついたままのシリルの腕を、アンセルムは優しく剥がす。そして、そのまま抱き上げてベッドの縁に腰掛けると、膝の上に乗せた。


 てっきり、旅に出る理由について詮索されると思っていたロランは、アンセルムがシリルを優先させたことを意外に思う。


「ロランがいなくなるから、寂しいのかい?」


 普段よりも優しい声音でアンセルムがそう尋ねれば、シリルは鼻をぐずぐず言わせながら頷いた。


 アンセルムはその髪を優しく梳きながら、言い聞かせるようにゆっくりと言葉を噛み砕く。


「ボクも、今、初めて聞いてびっくりしたよ」


 その声音が非難の色が含んでいることに、バツが悪くなったロランは、床に視線を落とした。


「でも、ロランって意外と頑固だからね。ボクらが何を言っても、決めたことは覆さないんじゃないかな?」

「僕も、ロランと行くっ……!」


 シリルが嗚咽混じりに、自分の意思を一言だけ絞り出す。


 アンセルムは困ったように眉根を寄せた。


「シー坊がいなくなったら、ボクは誰に遊んでもらえばいいのかな?」

「じゃ、じゃぁ……アンも一緒に行こうよ……!」

「ボクは行けないよ」


 髪を梳いていた手を止め、アンセルムは曖昧に微笑む。


 シリルは驚いたようにアンセルムを見つめ、どうして、と小さく零した。


 アンセルムは長い睫毛に縁取られた瞼をそっと閉じる。


「ここがボクの居場所だからさ」


 根無し草であるアンセルムとは思えない発言だった。シリルだけではなく、ロランも食い入るように彼を見つめる。


「色んな所を見てきたから言えることだけどね。どこに行っても、やっぱりボクは余所者なんだ。シー坊や、ロラン、女将さん、親方みたいに、アンセルム・リヴェットという人間をきちんと見てくれる人はいないんだよ」

「それだけ……?」

「シー坊にとってはそれだけのことでも、ボクにとっては一番大切なことなんだ」

「アンの言うこと……いっつも難しい」


 ぐずり、と鼻を啜ると、ようやく涙が止まったらしいシリルは、袖で強く目元を擦った。それを止めるように、アンセルムが腕を抑える。そして、自分の親指で涙を拭ってやった。


「ねぇ、シー坊。一緒にこの街にいよう。シー坊がいなくなったら、ボクだけじゃなくて、親方も女将さんも、みんな寂しがるよ」


 アンセルムの腕がシリルの身体を優しく抱きしめる。


 シリルは一度ロランに視線を向けた後、こくりと頷いた。その様子に、アンセルムは微笑みを浮かべる。


「死にに行く訳じゃないんだ。ロランが旅から帰ってきたら、また会えるよ」

「ほんと?」

「ボクだって、旅に出たけど、こうして帰ってきただろう?」


 ね、と相槌を促すアンセルムに、シリルは納得したようだった。何か言いたそうな様子をしてはいるが、それ以上、ぐずったりはしない。


「さ、もう暗くなるから、お家にお帰り」

「うん。また、明日ね」


 シリルはアンセルムの膝の上から降りると、扉へと駆ける。


 ロランの横を通り過ぎる時、ちらりと視線を投げたが、何も言わずに外へと飛び出して行った。どうやら、口を利く気はないらしい。


「嫌われたもんだな」


 ロランが肩を竦めれば、アンセルムは微笑みを剥がし、呆れたようにため息をついた。


「お馬鹿さんだね。シー坊は、ロランのことが大好きで、何て言葉を掛けて良いか分からなかったんだよ」

「そうか?」

「そうだよ。ボクが旅に出る前に、シー坊はぐずったりしなかったもの」


 嫌味のように言われて、ロランは言葉に詰まる。


 すっかり無表情になったアンセルムに、小言を言われることを覚悟した。


「で、ボクには急に旅に出るなんて言い出した真相を話してくれるんだよね?」


 有無を言わせない、はっきりとした口調に、ロランは頷くしかなかった。

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