2-1 素顔が知りたい
姉妹百合未満です。まだ。
前章とは打って変わって、ほぼ全編コメディになりますが、どうか。
心の底から特別に思える存在なんて、どんなきっかけで出会うか分からない。
わたしの場合、物心ついてすぐ、そんな存在に出会えた。三歳か四歳くらいのときで、普通なら大部分の記憶が薄れてしまうのに、今でもその時のことを、鮮明に思い出せる。否、絶対に忘れまいと、心に決めているのだ。
あの日……椅子の上に立って、強化ガラスの向こうにある、無機質な四角いゆりかごの中で眠るあの子を、初めて見た時から……わたしの世界は輝きで満ちあふれた。甘やかされて育ち、自分しか見えていなかったわたしの目の前に、見たこともない花の種が、ぽとんと落とされた。わたしは、生まれて初めて、愛しさというものを知ったのだ。
この先、この子は何十年も、この世界で生きていくことになる。ならばわたしは、この子の人生に目いっぱい、幸せの種を分け与えてあげよう。それが、最高のプレゼントをくれた最愛の妹への、姉としてできる、最高のお返しになるのだから……。
「ようこそ。わたしが、おねえちゃんだよ」
ガラスの向こうに呼びかけて、声が届くはずがないけど、確かにその時、ちょっと笑った気がした。嬉しさひとしおだった。
それから月日は流れ……妹は中学二年生になった。
朝は少し弱いようで、起きたばかりのタイミングではいつも、寝ぼけ眼をショボショボさせている。洗面所で顔を洗い、肩に届くストレートヘアを整えたら、妹の朝は始まる。
そしてわたしは、こうやって朝を始める。
パシャッ
「…………?」
シャッター音に気づいて振り向く、わたしの愛妹。
「おっはよぉ〜、礼菜。きょうも朝からかわいくて、思わず盗撮を」
「盗撮って割には隠す気さらさらないよね。目の前にいるし、音出してるし」
うーん、きょうもクールなツッコミありがとう。レナのこの、呆れるわけでも蔑むわけでもない、純粋な真顔がわたしは好きだ。もっと言うと、この絶妙な温度差が好きだ。
「かわいい妹のクールビューティな朝ショットをゲッツ! もうこれはスマホのロックつきファイルに永久保存するしかなーい!」
「ロックつきってことは、誰かが勝手に削除する可能性を考慮したんだね」
「さっすが我が妹! お察しがいい!」
「ま、ネットにあげないなら別にいいよ。どうせ撮りためたわたしの写真を、日がな一日眺めて楽しんでいるんだろうけど、わたしに実害が及ばないなら、気持ち悪くてもあえて止めようとは思わないよ」
な、なんで分かったんだ。わたしのプライベートを軽々しく漏らすやつがいるのか。
まあいいや。
きょうも朝一の姉妹コミュニケーションをとったところで、わたしはレナの華奢な肩に手を回して、一緒に台所へ向かう。
「ネットになんかあげないよぉ。ワールドワイドに変な虫がレナに寄ってきたら嫌だし、レナが嫌がることをするわけがないじゃない」
「その割に勝手に撮影はするよね……お姉ちゃんやっぱりメチャクチャだ」
「たっはー、こりゃ失敬っ」
わたしは舌をペロッと出して、自分の頭をポンと叩く。
「“テヘペロ”を本当にやる人がいるとは思わなかった……」
表情を一切変えることなく突っ込まれても、わたしにはむしろご褒美です。むふふ。
「香菜は朝からテンション高いなぁ」
台所で食卓につくと、さっそく父親から言われました。
申し遅れたな、読者諸君。わたしの名前は東雲香菜、花の高校二年生だ。つまり妹のレナとは三歳差ということになる。もちろん身長もバストサイズも(体重も)わたしの方が上だけど、精神年齢は妹に追い越されているとよく言われる。はっはっは、やかましいやい。
「まーねー、元気がわたしの一番の取り柄だから」
わたしは胸を張って言った。うん、褒めているわけじゃないのは分かるよ、さすがに。
「それ以外も決して悪いわけじゃないんだけど……」
隣に座るレナが、コーヒーをすすりながら言った。元気だけが長所じゃないと言ってくれるのは嬉しいけど、なんとなく物言いが引っ掛かるのは気のせいかな?
「ははは、朝から元気なのは悪いことじゃないよ」
父親は軽く笑ったかと思うと、急に沈んだ表情になった。
「社会人になるとね……ひと晩ぐっすり寝ても元気になれないこともあるから」
「うん、ぐっすり寝たのに“げっそり”してるよね、父さん……」
「また会社の上司に付き合って二日酔いになったの?」
分かっていながら青菜に塩をすり込むようなことを言うから、レナも意地が悪い。
そんな本調子とはお世辞にも言えない父親に、母親は真っ先に味噌汁の椀を置いた。
「とりあえず、シジミの味噌汁でも飲んだら?」
「すまんねぇ、母さん……うちの部長、本当に酒豪で手が付けられないんだよ」
うーん、よく分からんが大変だな。まだそっちの世界とは縁をもちたくないので、父親が会社でどんなふうに貧乏くじを引いているのか、詳しく聞くつもりはなかった。
「礼菜、新聞読むか?」
「うん、読む」
父親の手から朝刊がレナに渡される。ちなみに礼菜が飲んでいるコーヒーはブラックだ。ブラックコーヒー片手に朝刊を読むって、なんだか……。
「どうしたの、お姉ちゃん」
「いや、レナは大人っぽいなぁ、と思って……」
「中年のサラリーマンっぽいって言われるかと思った」
「妹よ、それは中年のサラリーマンに対する偏見だから。つーか目の前にいるから」
わたしは父親を指差しながら言った。当の本人はシジミの味噌汁を堪能していて、こっちのしぐさに気づいてないけど。
「わたしはまだ砂糖とミルク入れないとコーヒー飲めないから、ちょっとうらやましいかも。それにクールで落ちついていて……高校生のわたしより大人な感じ」
「ふうん……ご近所さんからは、まだ中学生なんだから、無理に大人っぽくする必要なんてないって、よく言われるんだけどね」
「無理してるの?」
「ううん。こういうのはぜんぶ癖みたいなものだし、特に大人っぽいって思わないし」
「自覚なくそういうことをやってのけるから、大人っぽいんだよ。それに、中学生だから大人っぽくする必要がないとは、思わないけどな、お姉ちゃんは」
わたしは自分のコップに牛乳を注ぎながら、言った。大人っぽくてもまだ中学生の妹は、意味がよく分からないようで、きょとんと首をかしげた。
「……だからね、中学生で大人っぽくたって、レナはレナってこと。わたしは、レナがなりたいような自分でいればいいと思うよ」
これは、お姉ちゃんとしての本心だ。本心だから、笑って言える。
ちょっとだけぼうっとしながら、わたしを見つめ返すレナ。うーん、かわいいな。
「それに……」
「それに?」
わたしは、妹がかわいくて仕方がなくて、頬に頬をこすりつけた。分かるかな。レナの頬に、わたしの頬をすりすりしたわけね。
「もしレナが甘えん坊な性格だったらぁ、こんな絶妙な温度差が味わえないじゃーん」
「さっきのちょっとした感動を返せ」
「ほら、二人とも早くご飯食べなさい。遅刻するわよ」
「やべっ」
わたしの通う高校の方が、レナの通う中学校より距離があるので、わたしはレナより早く家を出ないと間に合わないのだ。まあ、大抵は一緒に家を出るけど。
大慌てで朝食を平らげて(おかげで母親から「早く食べろとは言ったけど、早すぎると体に悪いんだからね」と叱られた)、わたしとレナは自分の部屋に戻って、それぞれの学校の制服に着替えて、玄関に出た。その時間、わずか五分。レナはその倍くらいの時間的余裕があるはずだけど、同じくらい大急ぎで着替えたわけだ。よほどわたしと一緒に登校したいのかと思うと、嬉しくてスキップしたくなるほどだ。こういうところは妹だ。
そういうわけで、姉妹一緒に、行ってきます!
「というわけで、今朝もクールビューティな我が愛しの妹の朝ショットをゲットしました!」
なんとか遅刻することなく学校に到着したわたしは、授業の合間の休み時間に、さっそくスマホに保存したレナの写真を友人に見せびらかした。ワールドワイドで知らせるのはものすごく抵抗あるけど、クラスメイトに見せるくらいならいいはずだ。どうせみんな、レナとはとうに面識があるし。
え、お前高校に友人いたのかだって? 失敬だな。
「はあ〜、よくもまあ、飽きもせずそんなものを見せられるわな」
わたしの前の席の椅子に、逆向きに腰かけている弓美がジト目で言った。
「おいこらユーミン、我が妹に向かって“そんなもの”とは何だ」
「だからそのユーミンっていうのやめて。あと、妹さんは馬鹿にしてないから。馬鹿にしてるのは、飽きもせず馬鹿みたいに妹の写真撮りまくってるテメェのほうだ」
「ホントに言葉選ばないよねユーミン!?」
「だからユーミンはやめろって言うに!」
ユミはユーミンと呼ばれるのをものすごく嫌がる。なぜかといえば、カラオケに行くと必ずユーミンの曲を勝手にセレクトされるからだ。ユミ自身はそんなに歌が上手い方じゃないので、ユーミンみたいに難しい曲は苦手で、毎回少しずつ音程を外しては笑われている。だから、決してユーミンが嫌いなわけではない。でも、ユーミンってそんなに難しいかな……。
「にしても、本当に香菜は妹ちゃんのこと好きだよね」
わたしの机の真横へ持ってきた椅子に座っている鈴が言った。どう見ても呆れ返って目を細めているけど、たぶん突っ込んだら負けだ。
「まあね! 自慢の妹ですから! 中二にして容姿端麗、成績も優秀、ぶっきらぼうに見えて何気に面倒見がいいし、雑用もきちんとやってのけるほど誠実で、誰からも信頼されている。運動に関しては、まあ万能ではないけど、ひと通りできるからね」
「また香菜の妹自慢が始まった……」と、ユミ。
「運動に関しては平均よりちょっと上くらいってこと?」
「やめなよ鈴……話に広がりをもたせたら延々続くよ」
「まあ、そうなるかな……」
でも……あれ、本当に平均ちょい上だったかな。最近、体育で嬉しいニュースをレナの口から聞いたような。
「ああでも、この間、体育の授業で走り高跳びをやったとき、レナが男子を抜いて学年一位の数字を叩き出したって」
「走り高跳び……」
うおっ、何だ? なぜかスズが暗いオーラを出している。
「その言葉を聞いた途端、街の人は皆立ち止まり、あまりの恐ろしさに総じて戦き震えたという……」
「何があったの?」わたしはユミに尋ねた。
「この間の走り高跳びで頭にコブを作って以来、こんな感じ」
本当に何があったんだ……まあ、掘り返したくない過去があるなら、走り高跳びの話をこれ以上広げることもあるまい。
「レナって、走るのはそんなに速い方じゃないけど、跳躍に関しては無双なんだよ。跳び箱も誰より早く八段を跳んだし、確か体育でバレーボールやるときは、毎回ウィングスパイカーに抜てきされているとか」
「へえ、そりゃすごい……あっ」
「そうなんだよ! うちのレナって本当に素晴らしいよね! はあ〜、レナがわたしの妹に生まれてきてくれてよかった〜」
もう本当に、レナの命をこの世に授けてくれた神様には、感謝の言葉しかない。
「やっちまった……こうなるって分かってたのに」
なぜかユミは頭を抱えている。
「でもさ」復活したスズが言う。「香菜の口から語られる妹ちゃんのすごい所って、ほとんど香菜とかぶってない?」
「え?」
「あー、それは分かるかも」
え、ユミは分かっちゃうの? わたしにはさっぱり分かりませんけど。
「香菜だって、妹さんとさすが姉妹だけあって顔立ちが似ているし、勉強だって、普通に国立大狙えるくらい優秀だし、面倒見がいいところも同じだし」
「運動に関してはもしかしたら、妹ちゃんより上かもね。この間、体育でバスケやったとき、香菜、華麗にダンク決めたし」
「そうそう、あれは男子も先生も呆気にとられていたよね」
「そ、そうだったっけ……?」
わたしの長所を列挙してくれる二人には悪いけど、全く覚えがない。勉強に関してはまあ、毎度のテストを見ればまんざらでもないと思うけど、他はどうだろう。顔立ちは間違いなくレナの方がいいし、特に面倒見がいいと思ったこともないし、ましてダンクとか……さっぱり覚えがない。
「ひょっとして、いつも妹ちゃんの自慢話で頭がいっぱいで、自分のことには無頓着なんじゃない?」
「あー、言えてるわ。どんなにすごいことやったところで、毎回妹さんの自慢話を変態的トークでおっぱじめるから、ぜんぶ台無しになるんだよね」
うーん……レナの自慢話がやや変態的というのは、たまにレナ本人からも言われるから、最近は自覚できているけど、それで台無しになるほどわたしがハイスペックだと言われるのは、違和感を禁じえない。友人の色眼鏡だと思いたいけれど、この二人がそこまで盲目的でないことはよく分かっている。しかし、なぁ……やっぱりしっくりこない。
「わたしって……そんなに?」
「うん、変態だと思う。少なくとも妹さん絡みは」
「変態だと思うよ。妹ちゃんが絡んだときはね」
ほら、この二人は色眼鏡なんて持ってないのですよ。……いや、待って。わたしは自分のスペックについて尋ねたつもりだったんだけど。
もうちょっと詳しく、二人から見たわたしのことを聞きたかったけど、授業の時間になったのでお預け。でもその後も、レナのビューティショットを眺めて幸せに浸っていたせいで、お預けにした疑問はどこかに吹っ飛んだ。
そんなこんなで、もう本日の下校時刻。ちなみにわたしもレナも帰宅部。レナは特に興味のある部活とか委員会がないとのことだが、わたしはレナと過ごす時間をできる限り多く確保したいから帰宅部だ。そして登校と同じく、下校も二人一緒に。
「よくまあ、高校生にもなって妹と一緒に帰ろうなんて思えるね」と、ユミ。
「それだけレナとわたしは仲良しなんですよ。この辺が一人っ子には味わえない特権だね」
「いや、わたしにも兄がいるけど、そんなん考えたこともないし」
「というか割と時間ギリギリだ」わたしはスマホで時刻を確認した。「んじゃ、妹が待っているから先に帰るね!」
「おー、また明日な、シスコン姉ちゃん」
何か言われた気がしたけど、レナに会いたくて気が逸っているわたしは無視して教室を飛び出した。だっていつも、レナの中学校とわたしの高校はほぼ同時刻に授業が終わるから、レナの方が中学校の校門で待っているんだもの。こりゃあ急ぐしかないよね。
レナが通う中学校の校門に到着したが、レナの姿は見当たらなかった。
珍しいこともあるものだ。大体いつもレナの方が校門でわたしの到着を待っているのに。放課後に何か用事があるなら、わたしに何かしら連絡してきそうなものだけど。
「まさか……先に帰ったってことはないよね……」
そんな事はないよね、と思いたいけど、ちょっとしたことでネガティブ思考に陥りがちなわたしは、その不安を簡単に拭えない。あわわ、わわ。
待ち合わせの時間に遅れすぎて、業を煮やして先に帰ったとか? いや、いま時刻を確認しても、むしろいつもより一分ほど早いくらいだ。それとも姉との待ち合わせそのものに飽きて、もうやめようと思ったとか? だったらかなりショックだけど、そこまで冷たい性格ではなかったはず、うん。
そうなると残るは……まあ、冷静に考えりゃ、それしかないよね。
「わたしに連絡する間もないうちに、急用に引っぱり出されたんだよね、きっと」
あ、違う。まだ他に可能性があるじゃないか。
「でも……もし、何かトラブルに巻き込まれていたら? ああっ、どうすれば!」
ぐるぐるぐるぐる……
ヤバい、混乱して脳味噌が上手く回ってくれない。落ちつけ、落ちつけ。とりあえず深呼吸して気持ちを整えよう。
「すー、はー……よし、誰かに尋ねよう」
今は下校時刻だから、そこらじゅうにこの中学校の生徒がいる。ここは制服のカラーの色が学年ごとに違うから、レナと同じ制服の生徒を見つけて尋ねればいい。まあ、クラスが違ったら事情を把握できていないかもしれないけど、数撃てばそのうち当たるというものだ。
わたしはさっそく、目の前を通りかかった二人組の女子生徒に話しかけた。
「ねえ、ちょっといい?」
立ち止まってくれた二人に、わたしはスマホの画面を見せた。今朝撮った、レナのクールビューティショットだ。
「この子、見なかった? わたしの妹で、待ち合わせしてるんだけど」
「あっ、お姉さん、礼菜ちゃんのお姉ちゃんなんですか」
「そういえばどことなく顔の感じとか似てるかも」
「えっ……ひょっとして、二人ともレナのクラスメイト?」
「そうですよ」
すげぇ、一発目でクラスメイトを捕まえてしまった。わたしってば強運。あるいは、レナに会いたい気持ちを汲んでくれた神様が運を分けてくれて……おっと、そんなアホなことを考えている場合ではなかった。
「よかった。待ち合わせ時間になっても来てないから、何事かと思ってて……レナ、いまどこにいるか分かる?」
「そういえばさっき、木村くんに呼ばれてどこかに行ったみたいですよ」
「……き、木村くん?」
「はい。うちのクラスメイトで……何だろ、礼菜ちゃんと何か接点あったかな」
「そもそも礼菜ちゃん、クラブとかにも入ってないよね」
どうやら二人はこれ以上の詳細を知らないらしい。しかし木村くんとは何者だ。くん付けで呼んでいるからには男子のはずだ。帰り際の女の子を、特に接点のない男子が捕まえて、どこかに連れていくって……まさかまさかまさか。
「あ、礼菜ちゃん来たよ」
女子生徒の声に注意を喚起されて、わたしはハッと顔を上げる。二人が見ている方向を見ると、間違いなく、わたしのかわいい妹が歩いて来ていた。いつもと同じ、中二にして泰然自若を絵に描いたような身のこなしと、些末な感情の一切を排除したような無表情で。
「……あ、お姉ちゃん。ごめん、遅くなった」
「ああいや、そんな待ってないし……」
「そう? あ、二人とも」レナは側にいた二人のクラスメイトを見る。「お姉ちゃんの相手してくれたの?」
「相手っていうほど話したわけじゃないけどね。礼菜ちゃんがどこにいるか訊かれて」
「そっか。じゃあ、また明日ね。お姉ちゃん、帰ろう」
「う、うん……」
あまりにいつも通り、何事もなかったように、レナは校門を離れていく。「バイバーイ」「また明日ねー」と言ってくるクラスメイト達にも、レナは振り返って手を振っている。淡白な性格に見えて、意外と友達付き合いは大事にしているらしい。レナのいいところだ。
しかし、男の影がつきまとうとなると話は別だ。もちろんレナが誰と付き合おうが、わたしはレナが幸せそうであれば口を挟まないけれど……やっぱり姉としては気になる。
「ねえレナ、きょうはちょっと遅かったけど、何かあったの?」
帰り途中で聞いてみたけど、なんか答えが怖くて、レナの顔が見れない。うぅ。
「別にたいした事じゃないよ。もう終わったし」
レナはいつも通り、抑揚の少ない口調で答えた。
終わった……? 本当にただの簡単な用事ということなのか。結局家に帰るまで、レナは詳しいことを何も言ってくれなかった。うぅ。
そのまま夕食の時間になったけど、やっぱりレナはいつもと変わらない。料理がおいしいと感じた時の、しきりに細かく頷くしぐさも変わらない。早い話、いつも通りでいられてないのはわたしだけだ。
「どうしたの、香菜? やけに大人しいけど」
母親が聞いてきた。
「えっ、そうかな……ていうか、いつも大人しくないみたいな言い方を」
いや、大人しさの欠片もないことは自覚しているのですよ、これでも。
「そうよ。いつもなら食事中でも礼菜にべったりなのに……なぁに? 香菜と礼菜、ようやく姉妹ゲンカでもしたの?」
ようやくって何だよ。母親はなぜか微笑ましそうにそんな事を言う。
「どういう意味? 母さんはわたし達にケンカしてほしいとでも?」
「そういうわけじゃないけど、二人ってほとんどケンカしないじゃない。きょうだいはケンカの一つくらいしている方が健全だと思うけど?」
「そうそう」父親も同調してくる。「きょうだいっていうか、家族がまさにそんなもん。香菜が小学生の時は、しょっちゅう母さんとケンカしていたよな」
「あら、香菜とケンカなら今でもたまにしてるわよ」
はいはい、その辺の話は横に置いておくとして……まあ確かに、レナとはケンカらしいケンカをした覚えがない。わたしは基本的にレナが何をしても全肯定だし、レナはわたしが何をしても気に留めないというか、何事もものすごく冷静に対処するから、そもそもこの二人でケンカに発展することがまずない。
「というか、別にケンカとかじゃないから。ねぇ、レナ?」
「うん」レナもごく普通に答えた。「ケンカはしてないよ」
ケンカは、って……何なの、その妙に引っ掛かる言い方は。
「そーお? 礼菜はともかく、香菜はどことなくぼうっとしているみたいだけど」
「別にレナとは何ともないよ。数学の宿題で分かんない所があっただけ」
実はこれも嘘じゃなかったりする。つか、基本的にわたしは嘘が苦手だし。
数学ねー、母さんは三角関数が出た所で挫折したわ、父さんは文系一筋だったよ……という感じで見事に話は逸れていった。レナが木村くんに呼び出された先で何があったのか、レナ本人が終わった話にしたがっているから、これ以上わたしのことで突っ込まれない方がいいと思ったのだ。何より、突っ込んだ先に出てくる答えが怖いし。
夕食を終えて、自分の部屋に戻ったわたしは、真っ先にベッドにダイブした。
なんでわたしは、レナのことでここまでぐるぐる考えているのだろう。そりゃあレナのことは大好きだけど、所有物みたいに扱う気なんてこれっぽっちもない。レナにはレナの生き方があるし、わたしはそれを受け止めてどこまで肯定したい。自由に、そして幸せに生きてほしい、そう心の底から願っている。それだけなのに……。
あれか、娘を嫁にやる父親と同じような心境なのかな。幸せになってほしいのと、自分のそばにいて欲しいのが、混ぜこぜになっている感じ。……いやいや、それは自由に生きてほしいというのと矛盾しているだろう。ああもう、もやもやする。
ドアがノックされる音がした。ドアの方は見ずに、わたしは「どうぞ~」と何の気なしに答えた。ガチャ、とドアを開けて入ってきたのは……。
「お姉ちゃん、今いい?」
「レナっ!?」
わたしは驚いてビョンと飛び跳ねた。ちょうどそう、蛙みたいに。
「い、いいけど、どうしたの?」
「両面テープ切らしちゃって。お姉ちゃんのやつ借りていい?」
「ああ、両面テープね。いいよ」
わたしはベッドを降りて、机の引き出しから両面テープを取り出した。その間に、レナがわたしの背に向かって言った。
「お姉ちゃん、もしかしてモカたちから、わたしが木村くんに呼び出されたの聞いた?」
ビクゥゥゥッ!!
「聞いたんだ。あのおしゃべり共め」
わたしがあからさまに図星の反応をしても、レナはやっぱりフラットだった。
とりあえず両面テープをレナに手渡してから、尋ねることにした。レナにお見通されてしまった以上、聞かないわけにはいかない。
「えっと、その……木村くんに呼び出されて、何を言われたの?」
「告白された」
と、いつもと変わらない抑揚なしの口調で言われた。あぅあぁー、やっぱりかぁー!
もう、今のわたしの心境を言葉で説明するなんて無理だから。こんな気持ちになった事なんて、生まれてこのかた一度もないんだもん。ごめんね、読者の皆さん。無茶だとは分かっているけど、しばらくこの意味不明かつ説明不能なテンションに付き合ってくれたまえ。
あーうーあーおー。両手で頭を押さえて悶えながら異次元の言語を唱えていると、レナがどこか呆れたような感じで言った。
「言ったでしょ。もう終わったって」
…………あれ? そういえばそうだった。ということは。
「え?」
「断ったよ。クラスメイトだから知らない仲じゃないけど、接点もないし、そもそも告白とかしてきたら初めから断るつもりでいたから」
「そ、そうなの……?」
「ああ、もちろん気持ちは嬉しいって言っておいたよ」
レナなりの気遣いなんだろうけど、振られた木村くんは複雑な気分だったろうな。
「そう、だったんだ……まあでも、もったいないねぇ。今どき、中学生でお付き合いするところなんてザラにあるだろうし、レナもそういう付き合いとか、してみるのもありだとは思ったんだけど……」
「とてもそんな反応には見えなかったけど。でもわたし、今は誰とも付き合うつもりないし、そんなつもりもないのにOKなんて出来ないよ。相手にも失礼だし」
「うーん、その誠実さは素晴らしい、さすがレナ。でも、誰とも付き合う気がないって、それはどういう……ああいや、そんな不躾なことは聞かない方がいいね」
「別に不躾だなんて思わないけどさ……」
レナはくるっと踵を返して、部屋を出ようとした……その直前で振り返って、
「わたしが誰かと付き合ったら、お姉ちゃん、機嫌悪くするでしょ」
…………ん? ちょっと待っておくれ。レナが付き合ってわたしが機嫌悪くする、というのはよく分からないからあえて横に置くけど、それが理由ってことは、つまり……。
「レナ、わたしのために、告白を断ったの?」
そう訊いたら、レナは「うーん」と考えた後、こう言った。
「お姉ちゃんのため、というのとはちょっと違うかな。わたしがお姉ちゃんに、嫌われたくないだけだと思う。あれだよ、おためごかしってやつ」
「中学生なのに難しい日本語を知ってるね……」
「そうかな。だからね、これはわたしの勝手な気持ち。本当にお姉ちゃんが機嫌悪くするかは分からないし、なんとなくそう思っただけだから。これでわたしが誰とも付き合わないからって、お姉ちゃんが気にする必要はないってこと」
気に、するかなぁ……確かに、ある意味では気にするけど、それは気に病むのとはちょっと違う気がする。わたしが気を遣わせてレナが彼氏を作らないと、なんだか申し訳ないと思わないこともないけれど、それ以上に……。
「…………」
「それじゃ、両面テープ借りてくね」
妹は終始起伏の少ない態度のまま、わたしの部屋を出ていった。
残されるわたし。ふっと力が抜けて、その場でしゃがみ込む。
わたしに嫌われたくないから、告白を断った。それを自分の勝手な気持ちと考えて、わたしを気遣ってくれている。それはつまり、レナにとって、優先順位が高いのは……。
やばい、やばい。
嬉しすぎて、心から先にとろけてしまいそう。
相手の気持ちを知るのは怖いけど、相手がわたしのことも想ってくれていると分かったら、もう少しだけ、距離を縮められそうな気がする。今しがた、レナはわたしに本心を明かしてくれた。感情が顔に出にくいレナだから、それだけで特別になれた気がする。そして、そんな気分に浸った後に思うことは、ひとつしかない。
もっと、知りたい。あの無表情の下に隠された、本当の気持ちを……。
次回は妹視点のエピソードの予定です。