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面倒くさい少女たち  作者: 深井陽介
第1話 君が笑顔になれるまで
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1-5 君が笑顔になれるまで

かなり長めですが、第一章の最終話です。どうぞご覧ください。


 どうしよう……わたしは悩んでいた。

 わたし専用の委員長を勝手に宣言し、この一か月ほど、わたしを引きこもりから解放させるために尽力してきた藤川(ふじかわ)(つむぎ)から、予想外の告白を受けてしまった。あれから三日経ったけど、未だ断続的に心臓の拍動が激しくなっている。

 なんかちらっと小耳に挟んだけど、人間の一生分の心拍数はほぼ一定らしい。急激に心拍数が上がると、その分だけ寿命が縮むのだとか、縮んだとしてもたいした影響はないとか、とにかくそんな話を聞いたことがある。何かのきっかけで藤川さんの存在を思い起こすたびに、彼女からの告白場面(シーン)がフラッシュバックし、心臓がドクンと跳ね上がる。こんな事ばっかりで、わたし……一年くらい寿命が縮むんじゃないかな。

 告白、に、違いはない。彼女が実は、昔から女性しか好きにならなかったという事実を、カミングアウトしたくらいならまだいい。加えて、いま好きな相手がわたし……久野(ひさの)舞子(まいこ)だなんて言われたら、そりゃあ戸惑うしかないでしょ。

「あの人は、もぉ……」

 ベッドにうつ伏せで横たわり、枕に顔をうずめながら、わたしは呟いた。

 戸惑って、何が起きたか呑み込めなくて、彼女を見つめ返しながら二の句が継げないでいる所に、彼女は言った。「無理して返事しなくていいよ。でも、プロジェクトは続けるつもりだからね」……そして彼女は、微笑みを絶やすことなく部屋を出ていった。

「ずるいよ、ホントに……」

 本当に、あの人は、ずるい。言いたいことばっか言って去りやがって。

 わたしにだって……あの人に言いたいこと、伝えたいことはいっぱいある。だけどわたしには、伝える手段がない。

 寝転がりながら、スマホを握りしめる。画面にはまだ大きな穴があいている。

 返事はまだできないけれど、わたしにとって藤川さんがどんな存在なのか、わたし自身が彼女のことをどう思っているのか、もう自分では分かっている。あの人が、初めてわたしに笑顔を見せた時、もうわたしは自分の気持ちに気づいていた。

 でも、どうすればいいのか分からない。告白の返事を先送りにし続けて、これまで通りの付き合いを続けることはできる。でもそれは、ずっとわたしのために頑張ってきて、相当な勇気でもって告白した藤川さんに悪いし、誠実に答えたい気持ちはもちろんある。だけど、気持ちに応えることはつまり、クラスの人たちが平然と“異常”だと言い放った、あの時の自分に戻ることでもある。そうなればたぶん、わたしはあの場所に、今度こそ戻れなくなるだろう。

 何より、わたしの中にはまだ、女の子を好きになってしまうことへの恐れがある。

 スマホを握る手に、思わず力がこもる。

 ギリッ……

 嫌なことを思い出して、奥歯が締まって不気味な音が鳴る。

 まだスマホが無事だった頃、わたしが引きこもりを決意する直前のこと。学校で起きたことを、わたしは母親に電話で知らせた。わたしの身に起きたことは、たぶん学校側も把握できていないから、伝えられるのはわたししかいなかったのだ。真白(ましろ)先輩が味方になってくれないと分かって、わたしは、なんとしても味方がほしかったのだ。

 ところが母親の口からは、期待を大きく外れた言葉が飛び出してきた。

「女の子を好きにって……舞子、あなたいったい何を考えてるの」

 呆れたような、責めるような口調で、母親は言った。何を考えてるの、なんて訊き方がおかしいと思った。これは心の問題で、考えて決めることじゃないのに。

 わたしがそう言ったら、母親はそれを単なる言い訳だと一蹴した。

「あのねぇ、こっちはまじめな話をしているのよ。はぐらかさないで。別にね、高校生なんだから恋愛くらいしてもいいけど、そういう奇をてらったものじゃなくて、もっと普通の恋愛をしてほしいんだけど」

「普通の……?」

「そうよ、同性愛なんてご近所さんに顔向けできないわ」

 何だよ、何だよそれ。そんなことで、わたしの気持ちを否定するの。あの時も、そして今も、同じ怒りが込み上げてくる。

「なによ、それ……お母さんはわたしに、普通でいて欲しいの? 普通って何よ。普通じゃなければ何もしちゃいけないわけ!?」

「そういうんじゃなくて、もっと周りのことも考えてってことで……」

「もういいよ。近所に顔向けできないって、要はお母さんが嫌だってだけでしょ。わたしのことより、自分や周りの反応の方が大事なんでしょ。何を言われたってぜんぶわたしが悪いんだって思ってるんでしょ!」

「いや、だから、それは……」

 痛い所を突かれて、母親は歯切れが悪くなった。もうこの人には何も期待できない。何も期待しない。

「だったらもう、お母さんなんて当てにしない。相談相手になんかしない」

「舞子……」

「二度と電話してこないで。わたしももうかけない。高校を出るまではバイトできないから仕送りはしてほしいけど、それ以外はもうわたしに関わらないで!」

 そう言って通話を切ったけど、実の母親への怒りは収まらず、衝動的に、手元のスマホを振り上げて……そばの机の角に叩きつけた。

 ガキッ、という音を立てて、スマホに甲板(こういた)の角がめり込み、一瞬だけ火花らしいものが見えたと思うと、そのままスマホは機能を止めた。床にはプラスチックの欠片が散らばった。その上に、力を緩めた手から、お釈迦になったスマホが落下した。

 この時から、わたしは何もかも失った。逃げるようにゲームにのめり込み、極力誰とも顔を合わせない引きこもり生活を決意した。わたしは独りぼっちになった。

 委員長が、来るまでは。


 玄関の呼び鈴が鳴って、いつものようにドアを開けると、藤川さんが立っていた。今までと全然変わらない、能面のような無表情で。

「今日もお邪魔するわね」

「来たんだ……あんな告白をした後だっていうのに」

「プロジェクトは続行すると言ったはずよ」

 うぅむ。同性を好きになったわたしは普通じゃないのかもしれないけど、やっぱり藤川さんほどではないような気がするなぁ。

 玄関に立ちっぱなしも悪いので、とりあえず部屋の中にあげる。なぜか毎回持ってくる差し入れは、今日は手作りマフィンだった。手作りだよ、女子高生の手作り。

「相変わらず女子高生の手作りとは思えないクォリティだね……」

 紙の箱を開けた瞬間に漂ってくる香ばしい匂いと、色つやもふっくら感も完璧な出来栄えに、わたしは毎回舌を巻いている。勉強もできてお菓子も作れるとか、最強かよ。

「レシピ通りに作っただけなんだけど。それより、この間出した課題は進んだ?」

「いやぁ、それが全然進んでないっていうか、手につかないっていうか……」

 言いにくそうな態度を見せたら、藤川さんはすぐ察してくれた。

「ああ、そういうことか……悪かったわね、気持ちを掻き乱すようなことをして。わたしだけはあなたの味方でいるって、伝えたかったんだけど」

 それはよく分かっていた。わたしを好きでいてくれるんだもの、彼女は何があっても味方してくれると思っている。

「いいんだよ、気持ちは伝わっているし、嬉しいのも確かだから……ただ、やっぱり、まだちょっと怖いかな」

 無理して返事しなくてもいい、とは言われているけど、たぶん今のわたしは藤川さんの気持ちに答えたくて、結構無理をしている。藤川さんは察しがいいから、口調とか視線の動きとかで、ぜんぶ見透かされそうな気がする。

 しばらくわたしをじっと見ていた藤川さんは、唐突に言った。

「今日ね……真白先輩に会ってきたの」

「えっ!?」

 わたしは驚いて藤川さんを振り向いた。

「久野さんの友人だって言ったら、快く話に応じてくれたわ。さすがに、あなた個人の委員長と言ったら戸惑うと思ったから、言わなかった」

「その辺の分別はあるのね……先輩、元気そうだった?」

「わたしが見た限りでは健康に問題なさそうだったけど……久野さんのことは、今でも心配していた」

「…………そう、なんだ」

 忘れていなかったのは嬉しいけど、他の女の子に告白された後だと複雑な気分だ。

「味方になってあげられなくて、悔しいって。あの人も自分の弱さは自覚できているから、あんまり責めないであげてね」

「分かってるよ」

 と返事はしたけど、言われなかったら悪態の一つくらいはついたかもしれない。

「それと、担任の先生にも、この間の話を聞いてもらった」

「マジでっ!? それはちょっと結果が怖いような……」

「大丈夫。あなたがどれほど苦しんでいるか、きちんと説明したし、クラスメイト達のやり方こそ大きな問題があると判断して、対応を考えておくって言ってたわ。まあ、先生の説教くらいじゃ、根本的な解決は難しいでしょう。みんな、知られたらヤバそうな相手、つまりわたしや先生に見つからないところで、ひっそりと罵詈雑言を投げかけるのが当たり前になっていたから」

「そっか……わたしの知らないところで、藤川さん、すっごく努力してくれてたんだね」

「あなたが復帰できるかどうかは、あなたとわたしの努力次第って言ったでしょ。改めて先生に、あなたのことを責任もって復帰させるって言っておいた。だから、あなたも頑張ってね。いばらの道には違いないけど」

 本当によく分かっている……わたしが、学校での出来事をきっかけに、同性を好きになってしまうことに恐怖を覚えてしまったことを。これはいわばトラウマだ。克服するのは容易じゃない。わたしの場合、藤川さんみたいに同性しか好きになれないのか、自分でも分からないのだけど。

 ただそれでも、藤川さんはわたしのことを希望だと言った。同性を好きになる自分の事を隠し続け、人知れずつらい思いをしてきた彼女にとって、同じ苦しみを経験したわたしは、仲間であり、共感を得る可能性が高い人であり、何を差し置いても守りたい存在なのだろう。もっとも、少し前にわたしの事情を知るまでは、若干の下心があってわたし専用の委員長になったようだが。

「さて、とりあえず課題を進めましょう。基礎学力があっても、教科書の内容くらいはおさえておかないと、戻った後が大変なんだから」

「へいへい、もう何度も聞いておりますよー」

 なんだか強制的にいつもの雰囲気に戻されたけど……まあいいか。

 藤川さんの事を意識しないわけじゃない。というかするに決まっている。だけどそれ以上に、彼女の努力に報いたいという気持ちも強く、そして心の拠り所になりつつある彼女がそばにいてくれて、思いのほか勉強は進められた。まあ、集中が途切れがちで、ところどころ解答を間違えたけど。

「はあ、どうしたものか……」

 採点を終えると、困り果てた表情で藤川さんは呟いた。わたしの低調ぶりを嘆いているんじゃなく、わたしのトラウマを克服する方法を考えているのだろう。なんだか申し訳ないな……。

 じーっ……

 相変わらず藤川さん、才媛という言葉が似合う美貌だけど、基本的に無表情だ。でもあの時は、わたしに気持ちを告白した時は、信じられないほど素敵な笑顔だった。

 ああ、なんか……もう一度あの笑顔を見てみたい。そんな衝動がじわじわと大きくなる。

「ん、なに?」

 見とれていたら、気づいた藤川さんが振り向いて目があった。それでも目をそらすことなく、わたしは彼女を見つめ続けた。さすがの藤川さんも戸惑っている。

「えっと……わたしの顔に何かついてる?」

 じっと見られて恥ずかしくなってきたのか、ちょっとだけ頬が赤らんだ、気がする。

 もうちょっと、あとちょっとで、藤川さんの能面が壊れそうだ。早く、早く見たい。あなたの表情が大きく動く瞬間が、見たくて見たくてたまらない。

 いつの間にか、その衝動にすべてを乗っ取られたわたしは、気が付くと両手を藤川さんの両肩に向けて伸ばしていた。

 トンッ……

 驚くほど静かに、藤川さんは押し倒された。何が起きたか分からない、とでも言いたそうに、双眸を丸く開いている。わたしは彼女に覆いかぶさるように、彼女の上で四つん這いになり、どんな一瞬も見逃すまいと、彼女の顔を見つめ続けた。

 ふいに拍動が激しさを増していく。まるで彼女の鼓動が、伝染したみたいだ。

「ひ、久野さん……っ」

 先に視線を逸らしたのは、藤川さんだった。呼吸が少しだけ荒くなり、スゥスゥとかすれる音が聞こえてくる。

「こんな事されたら……ちょっと、変な気になりかねないから……」

 満面が真っ赤に染まって、じわっとした熱気がこっちの肌にも伝わってくる。

「み、見ないで……」

 そう言って、横目で訴えてくる。

 なんか……やっぱり似ている。絵のモデルを頼んだ時に恥ずかしがった、真白先輩に。あの一瞬で心奪われた記憶があるけど、今の藤川さんは、それ以上の……。

「…………んはっ」

 全身に突如、寒気が走った。あの視線、あの口調、あの言葉。ぜんぶが雪崩のように襲いかかってくる。

 反射的に、わたしは飛びのいた。藤川さんは胸から上だけ起こしてわたしを見る。

 ああ、なんでだ。なんで彼女の顔を、直視したいなんて思ったんだ。自分の気持ちに気づいていたなら、こうなる事は分かっていたのに……。

 動悸がする。頭痛がする。呼吸が苦しい。震えが止まらない。

 わたしの中のトラウマって、いつの間にかこんなに根深いものになっていたのか。

 床に腰かけベッドに寄り掛かりながら、わたしは必死に自分を抑えた。でも収まらない。

 怖い、怖い、怖い怖い怖い。

「久野さん!」

 声をかけられてハッと気づく。顔を上げると、心配そうにわたしを見ている藤川さんが、すぐ目の前にいた。その両手はわたしの両肩に添えられている。

「……怖くなったの?」

「……うん」

 あっ、何だろう。誰かの優しさに触れたら、一気に緊張が解けて……泣きたくなる。

「藤川さん……やっぱわたし、無理だよ」

「…………」

「嬉しいけど、でもっ……わたし、あなたを……」

 ぐちゃぐちゃになりながら、わたしは彼女に告げた。

「あなたを好きになるのが、怖い……!」

 ああ、嫌だなぁ。こんなつもりじゃなかったのに。藤川さんには、そんなつらそうな表情をしてほしくなかったのに。つらい思いをすると分かっていても寄り添わずにいられない、それが彼女の優しさなのだろうけど……。

 もしこのまま藤川さんを好きになれたら、間違いなくわたしは殻を破れる。気持ちが裏切られる事は決してない。だけど、殻を破って飛び出した先に、以前と同じように、いばらで満たされた世界が待っているとしたら……その恐れをまだ否定できない。傷だらけになってでも歩みを止められなければいいけれど、どこかで力尽きたら、今度こそわたしは立ち直れない。

 わたし一人だけなら、まだいい。殻を破った時、隣には藤川さんがいる。たとえ彼女が傷を厭わなくても、わたしは彼女を巻き込みたくない。

 そのくらい、わたしの中で彼女への気持ちは、もう固まっていたのだ。

 手が伸びる。藤川さんの手が。そっと、わたしの目元へ。

 するっ、とかすかに指先の触れる感覚。にじみ出ていた涙が、拭われたのだ。

「ねぇ、ま……」一瞬だけ口をつぐんで、再び開く。「久野さん」

「…………」

「わたしに、笑顔を見せてほしい」

 そう告げる藤川さんは、無表情だけど、いつもとどこか違っていた。その瞳はまっすぐにわたしを捉えて、離さない。

 笑顔を……? さっき、わたしが衝動的に思った事と同じ。

「あなたのことだから……わたしを押し倒したのは、挑発するためとかじゃないでしょ。自分でも分かってるの。昔から表情がほとんど動かないって言われているから。あなたは単に、わたしの表情が動く所を見たかったんでしょ」

「ホント、よく分かるね……別の意味で怖いわ」

「たぶん、自分が同性しか好きになれないと気づいて、それを隠そうと決めた時から、意識して感情を殺す癖がついたんだと思う。だけどあの時……あなたに気持ちを告げた時、不思議なくらい気分が軽くなった。隠す必要がなくなったんだと思ったら、自然と笑えたの」

「うん、あの時の藤川さん、なんかとても晴れやかだった……」

「だからね、あなたにも笑ってほしいの。あなたの、本当の笑顔が見たい」

 泣いている人に向かって、笑ってほしいと願う気持ちは分かるけど……それ以前に、わたしにはよく分からないことがある。

「え、でも……わたし、普段から藤川さんの前でも、割と笑っているよね?」

「あれは違う」

「違う?」

「わたしが学校で見ていたのは……わたしの気持ちを惹きつけたあなたの笑顔は、あんなものじゃなかった。ここに来てから見たあなたの笑顔はどれも、心を開くことを恐れていて、赤の他人に向けるような、社交辞令のような笑顔になっていた」

 うっ……相変わらず、言葉は情け容赦がない。心臓を素手で掴まれたみたいだ。

 本当に藤川さんは、わたしのことが好きなんだな。何もかもお見通しだ。どんなに信頼していても、深い関係になることを恐れて心を開かない、決定的な弱さ。根深く植え付けられたトラウマのせいで、無意識のうちに喜怒哀楽が顔に出にくくなっていること。うわべだけ貼り付けたような笑顔ばかり、藤川さんに向けていた。

 気づいていなかったわけじゃない。でも見ないふりをしていた。

「今はまだ、わたしにも心を開けていない。仕方のないことだとは思う。あなたが誰を好きになったとしても、わたしだけは否定しないって伝えたつもりだけど、想像以上にあなたの恐怖心は手ごわいみたい。だから、今は見られなくても構わない」

「ごめんね……こんなに頑張ってくれているのに」

「いいよ、別に。たやすいことじゃないっていうのは分かっていたから。それに、あなたがわたしの行動に応えようと、努力していることも知ってる。踏み出せないのは、否定されるのが怖いからでしょう」

 うん、怖い……クラスメイト達や母親から向けられた、人格まで否定するような物言いは、これでもかというほど心に傷を負わせた。今もその傷は癒えていない。藤川さんを好きになって、それを周りから否定されるのは、本当に怖い。

「だから、ゆっくりでいいよ。リハビリは始まったばかりだもの。心を許せるようになるまで、あなたのそばにいる。……委員長だからね」

 ……久しぶりに聞いたな、それ。彼女の温かさに触れてから、わたしはいつしか、彼女を委員長と呼ばなくなった。もうその時点で、変化は始まっていた。

「……もう、そういうの、無理だよ」

「何が?」

「委員長とか、もう、呼べないから……」顔を上げる。「わたしの中で藤川さんは、もう委員長どころじゃなくなってるんだよ」

 じっと見返して、わたしの話に耳を傾けてくれている、優しい藤川さん。

「親とも、友達とも、誰との繋がりもぜんぶ断ち切って、逃げて……空っぽになっていたところに藤川さんが来たから、わたしの中身は藤川さんでいっぱいなんだよ。委員長なんて、取って付けたような肩書きなんて、とっくに使い物にならなくなってる」

「…………」

「どうしたらいいの? あなたのことが、こんなに大切なのに……大切だから、気持ちを受け取れないなんて、そんなの嫌なのに」

 ジレンマだ。どうしようもないくらい矛盾した、二律背反の気持ちに苛まれている。受け取りたいのに、怖くてできない。

 怖い、けど……どうして、同じ苦しみを経験したはずの藤川さんは、平然としているの?

「藤川さんは、怖くなかったの?」

「あなたと違って、周囲から軽蔑される前に隠そうと決めたから、多少は平気よ。でも、わたしだってまだ、周りにカミングアウトする勇気はないわ。言って、白眼視されるのは怖い」

「だったら、どうして……もしわたしが、別の理由で不登校になっていたら、仲間なんて出来なかったんだよ?」

「その時はその時で、気持ちを隠しつつ仲良くなる方法を模索したわ。それくらいは覚悟で、あなたのそばにいると決めた。でもそんなことはどうでもいいじゃない。確かに、この世に同性愛者は少ないけど、見つからないほどじゃない。今だって、ほら」

 藤川さんはわたしの右手を取って、自分の左の頬に添えた。……あったかい。

「あなたの目の前に、いるでしょう?」

「あっ……」

「わたしはあなたが好きだから、何があってもあなたの味方でいるつもり。あなたのことを、どこまでも信じられる。気持ちを受け取れなくても構わないと思っていたけど、今のあなたの言葉を聞いたら、何だって一緒に乗り越えられそうな気がする。……わたしを好きになりたいと思い始めている、あなたとなら」

 穏やかな声色が、羽のようにわたしを包み込む。

 わたしは藤川さんの、希望。好きになりたいと願うだけで、希望になる。今は恐れて踏み出せなくても、いつかきっと……彼女はそう信じている。

 わたしだって、信じたい。

「だからね……怖くても、不安でも、あなたはあなたの、なりたいようになればいい」

 うん。

「なりたい自分に、なればいいんだよ……舞子」

 さざ波の音が聞こえた。つらい気持ちが、押し流されていく。

 初めて名前で呼んでくれた。何だろう、この感じは。嬉しい、とは違う。何かもっと、大きなもののような気がするんだ。

 手持ちぶさたの左手を、藤川さんの右の頬に添える。

 そっと引き寄せ、彼女の小さな肩に顔をうずめる。今の顔を見られたら、終わりの気がした。

「……約束、してくれるよね」小さく呟く。「わたしがあなたを好きになれるまで、わたしのそばで、待っていてくれるって。わたしをひとりにさせないって」

「針を千本飲む程度の覚悟くらいは、持ってあげてもいい」

 回りくどいなぁ。まあ、そこが藤川さんらしいけど。

 ああ……体のなかが、ぬくもりで満たされていくようだ。本当に、太陽みたいな存在だ。だからいつまでもこうやって、わたしを温めてほしい。

「……約束だからね、紬」

 突然、背中からぎゅっと押しつけられた。心地よい人肌を感じた。


「なんか今日は……勉強が手につかなかったね」

 結局、紬が確保できる時間内に、予定量の課題は終わらなかった。続きはまた明日ということになり、少し遅い時刻になって紬も帰路につくことに。

「仕方ないよ。このプロジェクトには、舞子の気持ちの問題も関わっているんだから。それを無視して進めるわけにはいかないでしょ」

 靴を履こうとする紬の、丸くなった背中を見ているうちに、また言いたいことが湧き上がってくる。今度はちゃんと、言葉に換えていおう。

「ねぇ、紬」

 ぴくんと肩が揺れて、一瞬だけ動きが止まる紬。なぜか咳払いをしてから、立ち上がってわたしを振り向く。

「なに?」

「今日は……いや、いつも、ありがとね」

 おっ、もしかしたら今、自然と笑顔になれたかも。

 じわーっと顔が赤くなる紬は、急いでカバンからスマホを取り出そうとするが、慌てているせいかかなり手間取っている。何か短時間でスマホを操作したと思うと、カメラのレンズをわたしに向けた。もしかして、笑顔を撮ろうとした?

「あー……」

 レンズを向けられた時には、もうわたしは笑顔じゃなくなっていて、あからさまに紬はがっかりしていた。彼女、こんな事もするんだ……意外と子供っぽいな。

 とはいえ、自然な笑顔を意識して出せるわけもないので、わたしは、まだ残念そうな顔をしている藤川さんに言った。

「大丈夫だよ、またいつでも、見られる機会はあるって」

「舞子……」

「だって、わたしにとって紬は……」

 そう、紬は。真白先輩が“最愛の人”なら、彼女は。

「“最愛の友達”だから……また笑顔になれるよ」

「…………ぅ」

 また真っ赤になる紬。嬉しいのか恥ずかしいのか。どっちでもいいか。

「まだ、紬のことを好きになれるか、分からないけど……リハビリは、始まったばかりだしね」

「……そうね」

 紬の自然な笑顔。やっぱり、綺麗だなぁ。

「じゃあ、また明日」

「うん、また明日」

 もしかしたら初めてかもしれない、互いにちゃんと挨拶して別れるのは。

 紬がドアの向こうに消えていき、玄関先にぽつんと残されるわたし。また明日、か……明日も会えると思うのは、本当に当たり前なのかな。

 うん、当たり前じゃないから、約束できるんだよね。

 部屋に戻る。視線の向こう、どこか寂しげな机の上には、穴が開いたままのスマホがある。誰との繋がりも断ち切った後では、別にこのままでもいいと思っていた。だけど、今は……あの子となら、繋がっていたい。

「また、明日……」

 紬にとってわたしが希望であったように、わたしにとっても、紬は希望だ。怖くても、あの子がそばにいれば、大丈夫な気がする。だって、あの子に出会うまで、こんな自分になれるなんて、思ってもいなかった。

 明日……新しいスマホを買いに行こう。初めてできた、最愛の友達と、一緒に。


 <第1話 終わり>

 久しぶりに執筆意欲が激増した作品で、一気に話を詰めました。これまで作品の中に、申し訳程度に百合を入れることはあっても、百合をメインにした作品は初めてでした。フタを開けてみれば、他の作品と変わらない文体や作風でしたけど、なかなかに新鮮な体験ができました。

 次章からまた別のエピソードが始まります。舞子と紬の物語はここで終わりです。が、もしかしたらまたどこかでひょっこり現れるかもしれません。一度登場させたキャラを何度でも使いたくなるのが私の性のようなので。また少し期間は空きますが、次章開始をお待ちくだされば。

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