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面倒くさい少女たち  作者: 深井陽介
第1話 君が笑顔になれるまで
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1-4 見目麗しく情けある


 藤川(ふじかわ)(つむぎ)と一緒に作った夏野菜カレーは、思ったとおり絶品だった。普通のカレーの材料で、肉以外を半量に減らし、ナスとトマトとズッキーニを入れている。あえてルーのとろみを押さえたことで、どの野菜にもしっかりスパイスの味がしみ込んでいる。こりゃあ匙を動かす手が進むわ。

 藤川さんに料理を教わって、自分でも色々と試したりして、わたしの食事にも彩りが増えつつある。彼女に止められることもなかったゲームも、自分で時間制限を決めて、嗜む程度に続けている。勉強だって頑張っている。先月までは考えられないほど、自分でも進歩できたと思っている。

「とはいえ、なぁ~……」

 本日の勉強ノルマを完遂して、わたし、久野(ひさの)舞子(まいこ)はベッドに仰向けで寝転がる。

「生活力を鍛えたところで、脱・引きこもりが実現できるわけじゃないんだよなぁ」

 力なく呟いて、はぁ、とため息を漏らしながら、目をふさぐように手のひらを顔に乗せる。

 藤川さんがわたし専門の委員長として勝手に始めた、久野舞子の脱・引きこもりプロジェクトは、すなわちわたしを外の世界に慣れさせ、不登校を終わらせることが主眼だ。生活力が向上すれば自発的に外出せざるを得なくなるけど、その程度では引きこもりを、ひいては不登校を解消できるわけじゃない。

 何よりわたしはまだ……学校の人たちの向けてくる視線が、怖い。

「こんなんじゃ藤川さんに悪いし、早いとこ克服したいけど……難儀だなぁ」

 まだ焦りはやってこないけど、滅茶苦茶言いながらも頑張っている藤川さんのことを思うと、自分のことが、情けないを通り越して腹立たしく感じられる。

 でも……不思議だな。

 わたしはずっとクラスメイト達の視線が総じて怖くて、外に出れば不幸な偶然で鉢合わせることもあって、学校はおろかどこにも行けなかった。しかし藤川さんがここに来たとき、わたしはまるで恐怖を感じなかった。外でクラスメイト達とばったり会ってしまう、そんな恐怖を抱いていたことも、ついこの間、彼女と一緒に外出するまで忘れていたくらいだ。

 わたしは今でもクラスメイト達が怖いけど、なんで藤川さんだけは怖くなかったんだろう。そもそも、あの蔑むような視線の波の中に、藤川さんはいただろうか。……思い出すのも嫌だから、分からないけど。

 たぶん、いなかった、と思う。ここ一ヶ月くらい付き合ってみて、そう言えるようになった。

 ピンポーン、ピンポーン

 呼び鈴が鳴る。ベッドから玄関に向かう足取りも、ふらついていたのが昔のようだ。

 スコープを除くと、目元がアップされた藤川さんの姿が見えた。この人、最近はほぼ毎日顔を見せるようになっている。学校のある平日は昼休みや放課後、休日は午前中から来ることもある。クラス委員長をやめてから、意外にも暇な時間が確保できているらしい。

「やっほ。寝てた?」

 十センチほど開けたドアの隙間から、ちょこんと顔を傾けて覗き込む藤川さん。サラサラの長い黒髪が、肩から流れるように落ちる。うぅむ、やっぱり美人だ。無表情だけど。

「ちょっとうとうとしてた……藤川さん、機嫌よさそうだね」

 普段から感情が顔に出ない藤川さんのことを考えれば、やっほ、なんて簡単には出てこない。

「以前から狙っていた本をようやく買えたんだ」

「やっぱり藤川さん、読書好きなんだね……あっ、勉強ノルマ終わったよ」

「じゃあ少し休憩時間にしよう。クッキー焼いてきたから」

 藤川さんが差し出したビニール袋から、香ばしい匂いが漂ってきた。

「まじか。女の子すげー」

「クッキーづくりと女の子に相関関係があるとは思えないが?」

 首をかしげる藤川さん。どうやら彼女の辞書では“女子力”の定義が違うらしい。

「というか、あなたも女の子でしょ。それともフェミニティの低下を自覚したのかしら」

「これだけ引きこもりをこじらせると、女の子らしさ以前の問題にも思えてくるからなぁ……」

「ふうん。まあ、どうにかなるでしょ。入るわよ」

 そう言ってわたしの横を通り抜けていく藤川さん。

 おい……これでも切実な悩みのように言ったつもりなのに、どうにかなるでしょ、の適当な一言で済ませるのかよ。それともあれか、彼女がわたしの女子力を取り戻してくれるとでもいうのか。さすがにそれは余計なお世話というものだぞ。

 いろいろ文句はあるけれど、クッキーを取り上げられたら嫌なので黙ることにした。


 クッキーはやはり、美味だった。しかも結構な量が用意されていて、勉強直後で糖分がほしかったわたしは七割くらいを胃袋に収めた。

「ふあぁ~。勉強のご褒美が手作りクッキーとか、こんな贅沢でいいのかって感じ」

 床に仰向けに寝転がって、わたしは至福にひたっていた。そして藤川さんは今日も絶好調だ。

「じゃあ今度はもう少し質素にしてみる? 砂糖オンリーとか」

「わたしは(アリ)かっ!」バッと起き上がるわたし。「もはや質素どころじゃないでしょ! せめて調理したものにしてよ」

「いや、冗談だけど」

 しれっと言い放つ藤川さん。真顔で言われたら冗談に聞こえないんだって……。

「しかし……」

 まだ何か言いたいのか、考えるそぶりを見せながら、藤川さんはわたしをじっと見つめる。

「えっ、な、何?」

「……いや、なんでもない。それより、いま何時だっけ。時間があれば次のリハビリに移ろうかと思うけど」

 壁に時計がないか探してキョロキョロと辺りを見回したけど、すぐに藤川さんは気づいてやめた。

「あ、そうか……ここ、時計がないんだっけ」

「やっぱり藤川さんの場合は、自分の部屋に時計を置いているものなの?」

「そうだね。目につく所に置いているよ。スマホで確認するより早いからね。えっと……」

 藤川さんは自分の腕時計を見る。

「うん、まだ十分に時間はあるね。そういえば久野さん、時計がなくて不便になってない? 引きこもっている間は気にしてなかったと思うけど、生活リズムが整ってきたら嫌でも必要になるわよ」

「まあ、そうだね……」ああ、歯切れが悪い。「時計は買いたいけど……財布的に厳しいかもしれない」

「あれ、確かおととい辺りに仕送りがあったはずじゃ……もう大部分を使ったの?」

「そういうわけじゃないけど……」

 というか、なんでうちの仕送り日を把握しているんだ、この人は。話した覚えなどないぞ。

「こっちの仕送り額だと、家賃の支払いと食費だけで結構持っていかれるんだよ。時計とか何千円とかするでしょ、一週間分くらい食費を犠牲にしそうで怖い」

「ふうん、それくらい実家に相談したら捻出(ねんしゅつ)してくれそうだけど……あ、ダメか。そもそもスマホがお釈迦になっているんだっけ」

 そうそう、だから親に連絡なんてできないし、実家の電話番号なんてスマホに登録してから完全に忘れてしまっている。市外局番だけは覚えているけど、そんなの簡単に調べられるし意味がない。第一、今は親と会話がしたくない。

「ぜんぶスマホでカバーできるご時世だから、スマホがダメになると一気に古代人レベルに落ち込むのね」

「えぇ……? 近代レベルですらないの」

「何でも詰め込もうとする風潮の弊害ね。見たところこの部屋、カレンダーもテレビもないし、ぜんぶスマホで間に合わせているんでしょう」

「今にしてそれらを持たなかったことを後悔し始めています……」

 わたしは机に突っ伏した。テレビくらいワンセグでどうにかなると思ったら、甘かった。

「まあ財布までスマホに詰め込まなかったのは幸いだったわね。それにしても、この間見たきりだけど、どうやったらスマホの画面にあんな大穴が空くわけ?」

「……本命と対抗を外した結果、なんて」

 分かっていたはずだけど、こんな冗談は藤川さんに通じなかった。心底呆れたような顔で、

「あっそ。理由は聞かない方がいいみたいね」

 察してくれるのはありがたいけど、未成年がそんな世界に踏み込むな、くらいのツッコミはあってもいいんじゃないかなぁ……とか思ってちょっと落ち込むわたし。

「そ、それよりもさぁ……次はどんなリハビリを考えているの、藤川さん?」

「次は、そうねぇ……学校に復帰するための訓練かな」

「やだ」

 藤川さんが言ってすぐ、わたしは短く拒絶の意思を示した。

 今まで不承不承ながらも藤川さんの提案するプロジェクトに付き合ってきたわたしが、(かん)(はつ)()れずにきっぱりと断ったのを見て、藤川さんはすぐに異常を察したようだ。スマホのことは見逃せても、自分が推し進めているプロジェクトにかかわる事なら無視できないだろう、猜疑(さいぎ)心に似た眼差しが藤川さんの瞳から放たれている。わたしには、そんな彼女を直視できない。

「…………それは、やだ」

「……そんなに怖いの? クラスの人たちが」

「…………」

 ああ、やだな。空気が一気に(よど)んだみたいだ。

「……実をいえばわたしは、久野さんが不登校になった理由まで把握していない。たぶん、クラス委員長だったわたしの目が届かないところで、あなたをそこまで追い込むような何かがあったのね。しかも、あなたが不登校になって三か月以上経つけど、クラス内であなたを話題に上らせる人は皆無……まるであなたの話はタブーだとでも言いたいように」

「そこまで分かっているなら、藤川さんなら何となく分かるでしょ……」

 棘のある物言いだと思うけど、藤川さんは特に気に障ったようではなかった。

「何となく、ならね……本当ならあなたの口から詳しいことを聞きたいけど、その様子だととても、気兼ねなく打ち明けることはできそうにないわね。先生も分からないっていうし、生徒の誰に聞いてもあからさまに話を逸らされるし……どうにかならないものかしらね」

 そういって藤川さんはため息を吐く。当事者を前にして、よくそんな針でちくちく刺すようなことが言えるものだ。

 何が彼女をこんな行動に移させているのか、その要因をわたしは知らないけれど、彼女はわたしを学校に戻すためにいろいろ尽力している。それが分かっているから、申し訳ないという気持ちはあるし、その努力に応えられていない自分を腹立たしく思うこともある。だけどやっぱり……わたしの気持ちは、一か月以上も藤川さんと触れ合い続けても、変わることはなかったのだろう。

 もう、あの場所には戻りたくない。それが今の、わたしの、偽りのない本心。

 でもそれは、わたしの勝手な事情に過ぎない。藤川さんのやっていることだって十分勝手だけど、わたしのことを熱心に考えてくれているのだから、一緒とはいえない。だったらわたしは、どんなに苦しくても、彼女のことを考えれば、面と向かって話さなければならない。

「……藤川さん、三年生の、真白(ましろ)理恵(りえ)さんって、知ってる?」

「名前くらいなら……確か三年A組で、美術部の人よね。定期テストだと割と上位の常連だから、うっすら記憶があるくらいだけど……あれ? そういえば久野さんも、以前美術部にいなかった?」

 そのくらい知っていれば、この後の話にも支障はあるまい。

「うん……真白先輩はね、わたしが初めて、好きになった人なんだ」

「えっ……」

 突然のカミングアウトに、藤川さんはあまり表情を変えなかったけど、それなりに驚いているらしい。

「以前は結構、恋愛モノの漫画とかよく見ていたから、そういうのに憧れはあったけど、はっきりそれだと分かるような経験ってなかったんだ。美術部で真白先輩と出会ってすぐの頃も、そんなことは感じなかったと思うけど……不思議なんだ、一緒の時間を過ごしているうちに、少しずつ好きになっていったの」

「もしかしてその事を、クラスの子たちに話したの?」

「きっかけはもう、思い出せないくらいどうでもいいことだったと思うけど……でも、真白先輩が好きだって口を滑らせたら、周りの人たちは変なものを見る目になっていった。初めはもしかしたら、冗談か何かだと思っていたかもしれないけど、わたしが本気だって態度見せたら、もうそこから、わたしに向けられる視線は、蔑むものだけになってしまったの。直接打ち明けた同級生たちだけじゃなく、他の人たちにも……悪い噂話みたいに広がっていって、たった二日で、学校での居心地が最悪になった」

 あの時のことは、思い出すだけで眩暈がする。まるで存在そのものを否定するかのような物言い、汚物に向けるような眼差し、同じ空間にいてほしくないという思いが満ち溢れていたが、今はわたしも、あの人たちと同じ空間にいたくない。

「……その、えっと、真白先輩にそのことは、話したの?」なぜか少し歯切れの悪い藤川さん。「なんていうか……あなたの、その、恋心」

「まあね……クラスの雰囲気が悪くなって、部活でも落ち込んでいたら、真白先輩が話しかけてきて……その時に気持ちを打ち明けたんだ」

「で、どうだったの?」

「まあ、優しい先輩だったから、クラスの人たちみたいに気持ち悪がることはなかったけど、でも、気持ちには応えられないって……ごめんって、言ったんだ」

「…………」

「先輩もさすがに、部内での雰囲気を悪くしてまで、わたしをかばう勇気はなかったみたい……それは仕方がないって分かってたけど……やっぱり、期待していた部分はあったかな。結局、わたしが先輩から離れる形で、関わりを断ってしまったんだ」

 クラスでの居心地が悪くても、部室に居場所を見出(みいだ)せれば救いはあると思っていた。真白先輩も同様に考えていたことは間違いない。だけど、先輩にわたしの気持ちを受け止める気がないと分かったとき、わたしはもう、部室が居場所になることはないと感じた。一度告白して失敗して、気まずくならないわけがなかったのだ。

「そういう、ことだったのか……」

 いつもテンションが低い藤川さんだけど、いつもより覇気のない声だった。なんとなく、藤川さんには気を遣わせたくなくて、わたしはつとめて笑顔でふるまう。

「まあでも、わたしが変なことを口に出さなければ、こんな事にはならなかったわけだし、先輩にも迷惑かけたから……だから別に、藤川さんが気に病む必要なんて、なにも……」

 なにもない、と言いたかったのに、声が出なかった。彼女の、真正面から向けてくる顔を、見たら。

 その視線には、その瞳には、その、きゅっと結んだ口元には……憐みが、心苦しさが、温めたいという気持ちが、あふれんばかりにこもっていて……矢継ぎ早に突き刺さる。分かる。単なる同情とか、かわいそうだとか、そんなものじゃない。わたしの心に、本当の気持ちに、必死で寄り添おうとしている。

 なんだろう……この感じは。いま目の前にある全てに、既視感があった。

 ああ―――――そうか。

 どこか似ているんだ。真白先輩と、藤川さんは。

 見た目とか、醸し出す雰囲気だけじゃない。他人にしかできない同情じゃなく、本当に心に寄り添いたいと切に願うほどの、やさしさ。二人にはそれがあった。わたしはそれを、無意識に感じていた。

 だから、この人のことは……何も怖くなかったんだ。

 ―――――ひとりで考えてどうしようもないことなら、いつでも相談に乗るよ。

 そうだね。もう、ひとりじゃないんだよね。

「お茶、おかわりする?」

「ん? ああ、いただくよ。いつの間にか自分で淹れるようになったな」

「さすがにこのくらいはできるようにならないとねぇ」

 わたしは立ち上がり、空の湯呑み茶碗をお盆に載せて、台所に運んでいく。電気ケトルのような便利なものはないので、薬缶(やかん)をコンロにかけてお湯を沸かす。

 まだ沸騰しないお湯が入った薬缶を前に、わたしはいろんなことを思い出していた。初めて真白先輩に会った日のこと。絵のモデルを頼んだら恥ずかしがって顔を赤らめたこと。誰かが先輩に告白している所を見て胸がズキズキとしたこと。クラス内での風向きが急激に変わったこと。差別的な言葉をあちこちからぶつけられたこと。先輩が泣きそうな顔でごめんと言ったこと。そして、今でも許せない、あの電話……。

 ぐるぐるぐるぐる。いろんなものが変わりすぎて、当たり前に思っていたことが崩れ去って、孤独の底に突き落とされて、残ったのは、誰かと心を通わせることへの恐怖だった。

 藤川さんは優しい人だ。きっと今、誰よりも、わたしのことを心から案じてくれる。でも、その優しさに寄りかかっていいのか、やっぱり不安だ。

 …………ふわっ。

 あたたかな香りが漂い、シルクの布に包まれたような感覚が、唐突に訪れた。

「……当たり前だと思っていたことが、突然崩れ落ちたら、不安になるよね」

 なんで、なんで考えていたことが分かるんだ。背後からそっと抱きついてきた藤川さんに、言いたいことがいっぱい頭に浮かぶのに、何ひとつ言葉にならない。

 お湯が沸騰し、薬缶の注ぎ口からピーッと音が鳴る。固まってしまったわたしの代わりに、藤川さんが後ろから手を伸ばして火を止めた。えっと、ありがと。

「でもね……不安になっても、周りに失望しても、それでふさぎ込んでも、周りはあなたと無関係に動き続けている。当たり前っていうなら、変わってしまうことだって当たり前。同じことをして、人によって反応が違ってしまうのも、当たり前。だから……どんなに失望したって、諦める事なんてない」

 本当に、なんで分かるんだ。分かって、そして本当に言ってほしいことが言えるんだ。

「あの教室に……わたしの居場所はない。これからだって、変わらないよ」

「変わらないかもしれないし、変わるかもしれない。空気がどうとかいうけれど、学校のクラスだって所詮は人間の集合体。どんなふうにだって変わるわよ。あなたが不登校になって、そしてあなたを世話するためにわたしがクラス委員長をやめたら、あからさまに雰囲気が変わっていったわ。彼らもね、あなたを公然と非難するのが当たり前だと思っていて、でもその当たり前が崩れかけて、途方に暮れている」

 藤川さんは今でも普通に登校している。だから学校やクラスに流れている雰囲気を把握している。不登校のわたしには分からない。不思議だけど、彼女の言うことだと自然と信じられる気がする。

「わたし……戻れるのかな」

「久野さんも、このままじゃよくないって、思い始めているんでしょ」

「それは、まあ……頑張っている藤川さんに悪いし、引きこもり生活もそろそろ潮時だし」

「それでも、戻れるかどうかはわたしと久野さんの努力次第ね。今のままじゃ、気持ちを隠し続けて、表面上だけクラスの雰囲気に合わせるしかなくて、居心地が悪いことに変わりはないもの。胸を張って戻れるくらいじゃないとね」

「難儀な注文だなぁ……どうすればいいのかな。あと、いつまで抱きついてるの」

 温もり欲しさからなのか、そう言いつつも彼女の腕を振りほどけない。

「久野さんは……真白先輩のこと、今でも好きなの?」

 と、唐突に何を言い出すんだ。というか、心なしか声が若干色っぽくて、図らずもドキッとした。

「そりゃあ、まあ、好きといえば好きだけど……とうに振られてるし、こんなことになっちゃったし、ほぼほぼ諦めてるというか」

「そっか……そうであってほしくはなかったな」

 なんだ? ずいぶん残念そうにしている。顔が見えなくて、声でしか分からないけど。

「藤川さん?」

「あなたには……女の子を好きになっても、ぜんぜん変じゃない、普通だって、胸を張って言えるようになってほしい。周りの人たちの価値観を揺るがすくらい、当たり前のように」

「そ、そんなの……ぜんぜん普通じゃないよ。同性を好きになるとか……」

「普通だからっ!」

 抱きついたまま、耳元で突然叫ばれて、ビクッとなるわたし。なんか藤川さん、様子が変だ。

「だって……今この部屋の中に、そういう人がふたりもいるんだから」

「え?」

 ち、ちょっと待って。どういうことかな。

 まだわたしの理解が追いつかないうちに、藤川さんはようやくわたしから離れた。手を伸ばせば届きそうなくらいに距離を置いて、うつむきながら立っている。せっかく自由になったのに、これでは顔が見えないじゃないか。

「わたしは……ずっと昔から気づいてた。自分が、女の子しか、好きになれないってこと」

「えっ……」

「気づいた時から、わたしはその事を隠し続けてきた。家族にだって言わなかった。……あなたのことは、少し前から気になっていたから、不登校になったと聞いて放っておけなくなったの。わたしはただ、あなたの支えになって、あの場所で、ごく普通に会話できるようになればいいって、そう思っていた。でも、さっきの話を聞いてしまったら、もう我慢できなくなった。あなたが! 自分の気持ちを押し込めてまでつらい思いをするなんて、耐えられない!」

 わたしはちょっとずつ、いろんなことがすとんと腑に落ちていった。彼女は……彼女も、他人に言えない事をずっと隠し続けてきた。だからわたしのつらさが、手に取るように分かるんだ。心に寄り添いたいと、ひとりにさせたくないと、思ってきたんだ。

 ため込んでいた気持ちをひとしきり吐き出して、藤川さんは息を切らした。

「……あなたは分かってない。こうなったのが、ぜんぶ自分のせいだって思ってる。そうじゃない、あなたは何も悪くない。ううん、むしろ何もしてない。ただ誰かを好きになっただけ……それのどこが悪いの」

「えっと……ごめん」

「たぶんあなたの場合、周りから否定の言葉ばかりぶつけられて、深く考えもしないで自分が悪いと思ったんでしょ。でもね……もう大丈夫。あなたは希望。だからわたしは、絶対に見放さない」

 わたしが、希望? それは、つまり……。

「久野さん」

 わたしと藤川さんは、ほとんど同時に顔をあげた。たぶん、なんとなくそう思う。

 眩しい、と感じた。顔をあげた先に見えたのは、藤川さんが初めて見せた、やさしさがぜんぶにじみ出たような、柔らかな笑みだった。

「わたしは……あなたが好き」


 いま、分かった。

 この笑顔はきっと、希望を見つけた証なんだ。

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