9-5 ソウシソウアイ
全ての真相が明らかになる、第9章最終話です。
果たして美里は、瑞穂との再会を果たすのでしょうか。相変わらず最終話が一番長いですが、最後までぜひご覧ください。
「間違いありません、こいつです」
「そうか……そこ、真ん中のお前。新島瑞穂の居場所、知っているなら教えろ」
わたし達の前に立ち塞がっている、二人のジャケット姿の男の、片方がもう片方に耳打ちしてから、耳打ちされた方が高圧的に問いかけてきた。わたし達の背後を塞いでいるもう二人の男たちも含めて、この四人の中ではリーダー格なのだろう。
考えていなかったわけじゃない。あの海辺の町で、わたしのハンドバッグがひったくられたとき、バッグの中にはわたしの学生証を入れたパスケースがあった。犯人の目的はSDカードだけだから、それ以外の荷物には関心を持たなかっただろうし、わたしの学生証は一瞬見ただけという可能性が高かった。わたしが瑞穂の失踪に無関係だと思い込めば、それ以上の追及はなくなると瑞穂は踏んでいたみたいだが、やはりそう甘くはなかった。学生証に書かれていた学校名とわたしの顔を頼りに、犯人たちはこうしてわたしを見つけ出した。
唯一盗まれた囮のSDカードに、何が入っていたのかは分からない。少なくとも、犯人たちが手に入れたかったデータは、入っていなかったのだろう。そしてさっきの高圧的な質問……わたし達の読み通り、瑞穂は今もなお逃げおおせているようだ。瑞穂の身柄もSDカードも確保できず、この連中はもうなりふり構っていない。瑞穂とどんな関係なのか、はっきりと分かっていないはずのわたしに、こうやって脅すように問いかけるくらいに。
緊急事態だというのに、頭だけは恐ろしいほどよく動く。八千代と大和、二人と一緒に色んな事を考えていたおかげで、こんな状況でも冷静でいられるのだ。だけど、わたしの両隣にいる二人は、屈強な男たちに前後を挟まれて、見るからに怯えている。この二人だけは、危険に巻き込むわけにいかない。
さて、この男の質問にはどう答えたらいいか。色々考えを巡らせてから、答えた。
「……知りません」
「フン」リーダー格の男が鼻を鳴らす。「やはりお前、新島瑞穂と知り合いか。危うく捨て置くところだったぞ」
……駆け引きって正直、わたしはあまり得意じゃないのだけど、ここは何とか知恵を絞って頑張るしかない。今、相手の男は、自分の質問に対して、そもそも新島瑞穂とは誰だと聞き返さなかったことから、わたしが瑞穂と知り合いだと確信した。これで男の方は駆け引きで優位に立ったと思い込んでいる。でもわたしは、彼らがすでにわたしと瑞穂の関係に半ば気づいていると考えて、あえて何も聞き返さなかった。そして相手の言葉で確信した。彼らはわたしを、瑞穂の友人の一人としか思っていない。
このまま、この場を切り抜ければ、奴らに深追いをされずに済むかもしれない。わたしだけならともかく、大和と八千代まで巻き添えで狙われるわけにはいかないから、受け答えは慎重にやらないと。
「そうだよ。わたしも瑞穂のことは探してる。あなた達もそうなの?」
「お前たちの質問に答える義務はない。義務があるのはお前たちの方だ。新島瑞穂から何か受け取っていないか? 正直に答えろよ」
うーん、これは……駆け引き云々以前に、わたしがどう答えても、相手に引き下がる気配はなさそうだ。わたしに質問すら認めないということは、わたしが彼らの思い通りに動いてくれないと、気が済まないということだろう。
厄介な連中に絡まれたな……素知らぬそぶりでこの場から立ち去れば、ひとまず切り抜けられるだろうか。いや、まずは彼らの出方を探った方がいい。相手の動き方を知っておかないことには、たとえこの場を切り抜けられても、執念深く狙われることになりかねない。
わたしは必死に余裕を繕っているふうを装って、聞き返す。答えてくれないかもしれないけど。
「正直に答えなかったら、わたし達をどうするつもり? どうも紳士的な対話に応じてくれる雰囲気がないんだけど」
「答える義務はないと言ったはずだ」
「黙秘権を行使しても構わないかくらい、答えてくれてもいいでしょ」
「ちっ……」
面倒な奴を相手にしてしまったとばかりに、リーダー格の男は舌打ちした。
「いいだろう。黙秘したら、答えるまで帰さない。何かしら情報を引き出せそうなら、お前たちの事は強引に連行しても構わないと指示されているからな」
「へえ、高校生を拉致してでも、瑞穂のことを見つけ出したいなんて、あなた達もよほど余裕がないのね。事情はよく分からないけど」
「余計なことを言ってもいいと言った覚えはない。質問に答えろ」
……答えるわけにはいかない。どう答えたって、こいつらはわたし達をどこかへ連行し、何かしら脅しをかけたりしてでも、瑞穂やSDカードを見つけ出す手掛かりを探すつもりだろう。そしてそれは、何も答えずに逃げ出しても同じことで、いずれまたわたし達を探し出し、今度は問答無用で拉致することになる。目をつけられた時点で、どう転んでもわたし達は彼らに見逃されない。
ここは、賭けに出るしかない。彼らがわたし達に手出しできなくなる、そんな状況に落とし込める方法が一つだけある。確実ではないけれど、もうそろそろ、すぐ目の前にあるバス停にバスが来る時刻だから、もはや選択の余地はない。
「ねえ……あなた達に、わたし達を拉致してでも情報を引き出すように命令した人って、もしかして、瑞穂のお父さんなんじゃない?」
「!!」
男たち全員の顔色が変わった。まあ、そういう反応になるのは想定済みだが。
「お前、なぜそれを知っている!」
「ずっと前に瑞穂から聞いたことがあるんだ。今は別れて暮らしている父親が、自分を実家に無理やり連れ戻そうとしていて、困っているって……瑞穂が姿を消した時、ひょっとしたら父親絡みなのかも、とは思ったけど、今の今まで確信がなかったんだよね。どうやら当たりみたい」
「キサマ……そこまで事前に聞いていたのか!」
リーダー格の男は、こんな事態は想定外だと言いたそうに歯軋りをした。まんまとわたしの、小技を利かせた嘘に騙されてくれたわけだ。
本当は、瑞穂が父親について話したことは、今まで一度もなかった。瑞穂を追っているこの連中が、瑞穂の父親の手先だということは、瑞穂が授けた手掛かりのおかげで、ついさっき知ったことで、カマをかける前から確信は持っていた。だけど、尤もらしい嘘で動揺を誘われたせいで、この連中はわたしの言葉を疑わなくなった。
さて、彼らの主人が誰なのか、わたしに知られてしまった今、彼らはどんな行動をとるだろうか。このまま引き下がってくれれば楽だけど、たぶん、そうはならない。
「お前たち、どこまで知って……いや、もういい。正直に答える気はなさそうだな。どこまで知っているか分からない以上、このまま帰すわけにはいかなくなった。大人しくついて来てもらおうか」
案の定、四人の男たちは、わたし達の前後からじりじりと迫り寄ってきた。逃がす気はないと言わんばかりの気迫だ。大の男四人に恐ろしい形相で距離を詰められて、大和と八千代は怯えてわたしの肩にしがみ付いている。
「ちょ、ちょっと、どうするの美里っちぃ……」
「大丈夫、わたしに任せて」大和に聞こえる程度の小声で言った。「二人のことも、ちゃんと守るから」
「…………」
わたしの肩にしがみ付いたまま、大和は呆けたような表情でわたしを見る。
勝算はある。彼らは言動こそ悪者っぽいが、そのくせ犯罪にこなれている方ではない。わたし達を本気で逃がしたくないなら、じりじりと少しずつ距離を詰めるより、一気に飛びかかった方が、わたし達の足は竦みやすくなって、捕まえるのも容易になる。海辺の町でわたしからSDカードを奪おうとした時も、計画にない行動だったからか、犯行そのものは杜撰で乱暴だった。……この辺りは、担当した警察官の受け売りだけど。
彼らがわたし達を捕まえようとしているのは、警察に駆け込まれて、自分たちを束ねる首魁が誰なのか知られるとまずいからだ。捜査の手が瑞穂の父親に及べば、彼らは瑞穂やわたし達を捕まえるどころではなくなる。というのも、瑞穂の父親には、警察に目をつけられると非常にまずいことがあるのだと、瑞穂が教えてくれたのだ。
だから、この場を切り抜けることさえできれば、その後にわたし達が警察に駆け込んで、瑞穂の父親のことを警察に話すのは必至だと、彼らは思い込む。下手な動きができなくなれば、大和や八千代にも危害が及ぶ可能性を大きく減らせる。わたし達が瑞穂から何も受け取っていないと勘違いしていれば、捕まえても瑞穂の手掛かりを得られる可能性は低いと考え、警察に捕まるリスクを冒してまでわたし達を狙おうとはしなくなる。もちろんこの目算も、当たるとは限らないが。
逆にこの場で捕まれば、指輪から瑞穂との親密な関係を気づかれて、さらに情報を引き出すために尋問を続けるだろうし、運よく逃げられても、瑞穂の企みが奏功するまで執拗に狙われることになる。だから、何としてもわたし達は、この場から上手く逃げ出して、彼らの追跡を撒かなければならない。
じりじりと詰め寄ってくる男たちに、わたしは両の拳を握り締めて応戦の姿勢を見せながら、じっと視線を向けた。
「なんだ、お前……一丁前に歯向かうつもりか?」
「そのつもりだよ。もう時間がないから、一撃必殺の大技で片を付けるわ」
「一撃必殺だと?」
リーダー格の男の顔が歪んで、詰め寄る足を止めた。
わたしはピアノに多くの時間を捧げてきたから、格闘技の経験は皆無に等しい。四人の男たちを瞬時に倒せるような技なんて、たとえ知識があってもできる気がしない。だからこの姿勢も、ただのポーズに過ぎない。
だけど、一撃必殺の大技があるのは本当だ。わたしは深く息を吐いて、吸って、そして声を張り上げた。
「すごーい! あれ、L Lady 7の久世橋さんだーっ!」
「へ?」
「えー! すごい、本物じゃーん!」
唐突に、この場にいない人気アイドルグループの中心メンバーの名前を叫び出して、大和は困惑したが、八千代はすぐに察して便乗してくれた。
大和と同じく、急に訳の分からないことを大声で言い出したわたしに、男たちは理解が追いつかずその場に立ち尽くしていた。が、やがて慌て始めた。L Lady 7は高校生の間でも人気のグループなので、久世橋という名前に反応する高校生は、学校の近くならいくらでもいる。まして今は文化祭の準備中で、外に出ている生徒も多い。予想どおり、さっきまでひと気のなかったこの辺りに、制服姿の高校生の姿がちらほらと見え始めた。
さすがにこんな人目のある状況では、あからさまに怪しい格好の男たちが、制服姿の女子高生を無理やり連れ去るのは無理だ。目撃されて警察に通報されたり、スマホで撮影されたりすれば、瑞穂の情報を引き出すどころではなくなってしまう。男たちの動きは途端に鈍くなり、慌てて周囲に気を取られ始めた。
わたしも八千代も、その隙を見逃さなかった。まだ状況を飲み込めていない大和の手を引いて、わたしと八千代はすぐさま走り出した。下手にわたし達との距離を詰めていたせいで、急に走り出したわたし達の動きに、彼らは咄嗟に対処できなかった。
「あっ、しまった!」
彼らが気づいた時には、わたし達はバスの停車していたバス停のすぐそばまで来ていた。バス停では誰も待っていなかったから、ここで降りる乗客がいなければ、バスはそのまま素通りしていたかもしれない。その場合は、とにかく走って別の通りに抜けて、何とか彼らを撒くしかなかった。走行中のバスに乗っている人たちが、男四人が女子高生を追い回している所を目撃しても、通報してくれるかは望み薄なので、その事態はできるだけ避けたかった。でも運よく、バスはバス停に停まってくれた。
だけどバス停で誰も待っていなければ、停車していたバスもいずれ走り出す。その寸前に駆け込まなければ、男たちを振り切ることはできない。だから本当に、時間がなかったのだ。
「待って! 乗りまーす!」
前後から挟み撃ちにして来た男たちから逃れるために、わたし達は歩道から車道へ抜ける必要があった。バスの進路を塞ぐように車道を走り、大手を振りながらそう言って接近してくる女子高生を、バスの運転手は当然無視できなかった。すでに運転席のそばの出口ドアは閉めた直後だったが、すぐさま側面中央の入り口ドアを開けた。そのドアから、わたし達三人は大慌てで駆け込んだ。……危険なので、よい子はマネしないでね。
そして、わたし達が這う這うの体で入ってきてすぐ、運転手は入り口ドアを閉めた。追って来た男たちは、閉ざされたドアに掴まって乱暴に叩き、おい開けろ、と威嚇するように怒鳴っている。わたしは荒れた息のままで運転手に大声で頼んだ。
「運転手さん! 出してください! 早く!」
「ああ、はい、分かりました……」
事情がよく飲み込めていない様子だが、運転手はバスを発車させた。男たちはなおもドアにしがみ付こうとするが、じわじわとスピードを上げていくバスに、やがて振り切られてしまった。男たちは慌てふためき、どこかへ向かって去っていった。この場所までは車で来ていただろうし、その車でも取りに行ったのだろうか。
短い距離だったが、急に走り出したせいで、わたし達は全員息切れしてしまった。大和はすぐに回復したけど。
「はあ、はあ、はあ……」
「お嬢さんたち、大丈夫かい?」
知らないおばあちゃんに心配された。ポールに掴まって、膝に片手を突きながらよろよろと立ち上がって、わたしはおばあちゃんに笑って言った。
「ああ、はい……たぶん、大丈夫になったかと」
「全く生きた心地がしなかったけどね……」
大和は二人掛けの空席の、窓側に座った。心配してくれたおばあちゃんの、ひとつ前の席にあたる。わたしも気を落ち着かせるため、大和の隣に腰かけた。
「あいつら、まだ追って来るかな?」
「その可能性もなくはないね……バスだからルートは決まっているし、追うのは簡単だと思う。でも、少なくともバスの中に入れば、あいつらに気づかれることなく、これからの行動をみんなと相談できる。元々、目的地に行くために、バスに乗る必要はあったし」
「じゃあ、このままバスで目的地まで行くの?」
「いや、行き先をあいつらに知られたくないからね。たぶんあいつらは、車を使ってこのバスを追ってくる。さすがに、車の追跡を振り切るように、運転手さんにお願いするわけにはいかないから、わたし達がどのバス停で降りても、必ずあいつらに目撃される」
「じゃあどうするの?」
大和は不安そうにしているが、問題はない。次の行き先は決めている。
「このバスは途中で、警察署のそばのバス停を通る。そこで降りるよ」
「警察署って……そこに逃げ込んで、怪しい連中に追われているって話すの?」
「逃げ込むけど、話したら警察に事情を聞かれて、目的地に行く時間を取られるから、適当に言い訳をして、十分か二十分くらい居させてもらおうと思う。警察に逃げ込んだところをあいつらに目撃させれば、あいつらも引き上げざるを得ないし」
「わたしもそれに賛成」
通路を挟んだ向こうの、一人掛けの席に座っている八千代が言った。たぶん三人の中で一番体力がないのだろう、くたくたに疲れ、背もたれに寄りかかって宙を見つめている。
「あいつらは、自分たちのボスが新島さんの父親だと知っている日高さんが、警察に話すことを恐れている。警察署に入るところを見せるだけでも、あいつらはそこで日高さんが、追っ手のことや新島さんの父親のことを話すだろうと考えて、追跡を断念するしかなくなる。いずれ警察が来る可能性が高まれば、あいつらもボスも、警察への対処に手間と時間を割くだろうし」
「なるほど……」
「まあ、バスの中で警察に通報されると思い込めば、その時点で車での追跡も断念するかもしれないけど、そっちの可能性に賭けるのはやめた方がいいね。バスの中で通話ができないってことに、気づかれる恐れもあるし、そもそもここで通報される可能性に考えが至らない事だってありうる」
「あいつら、かなり慌ててたもんね……」
「だから、警察署に逃げ込んであの連中をやり過ごす、というのはいい手だと思う。事情聴取を避ける言い訳は……ああ、新島さんの捜索がどうなっているか聞きに来た、ってことでいいんじゃない?」
「そうだね、気になっていたのは確かだし。……まあ、どういう回答が来るか、予想はできているんだけど」
わたしは八千代の提案に賛成しつつ、これから起こりうる展開のことを想像して、少し倦んだ気分になった。予想している回答は、ある意味、「見つかっていない」よりも聞きたくないものだからだ。
果たして、車で追って来た男たちを振り切って、逃げ込んだ警察署で、その質問を生活安全課の職員に尋ねたところ、数分ほど待ってから返ってきた回答は、わたしの予想どおりのものだった。
いわく、そのような名前の高校生の、捜索願は出されていない。
予想はしていたけど、わたしは胸が苦しくなった。少なからずショックを受けたのは確かなので、少し休ませてもらってもいいかと尋ねても、生活安全課の職員は特に不審に思うことなく、一階のロビーで休憩してもいいと言ってくれた。これで十分くらいは、天下御免で時間を潰す事ができる。その間に追っ手の連中は引き上げるだろう。
目論見通りに追っ手の姿が見えなくなったことを確認すると、わたし達は最寄りのバス停から次の便のバスに乗り込み、今度こそ、本来の目的地へと向かった。
目指すのは、瑞穂の家だ。
バスを降りて、平日の閑静な住宅地を歩くこと、およそ十分。すでに一度、自力で来られたこともあって、わたしは少しも迷うことなく、瑞穂が母親と二人で暮らしている一軒家へ辿り着いた。父親と別れてから、空き家になっていた木造の民家を買い取って、母子二人でひっそり倹しく暮らしているという。
当然ながら、今この家に瑞穂はいないので、わたしがこれから会う相手は、必然的に瑞穂の母親ということになる。だが、平日のお昼過ぎだと、仕事で外出している可能性の方が高い。この家には車が無いから、家人がいるかどうかは外から見ただけだと分からないが、たぶん留守だろうと思いつつも、わたしは呼び鈴を鳴らした。
豈図らんや、とはこのことだ。家の中から足音が聞こえたと思うと、すりガラスの引き戸の向こうに人影が現れた。ガラガラと開けられたガラス戸の隙間から、瑞穂の母親が顔を覗かせた。
わたしと同じように、瑞穂の母親も意外な来客に目を見開いた。
「あら、美里ちゃん。どうしたの、まだ昼間なのに……学校は?」
「おばさんこそ、お仕事はどうしたんですか……?」
「ああ、今日はお休みなのよ。パートのお仕事だから、勤務日は休日も平日も関係なく決められるのよねぇ」
なるほど、パートタイムは非正規雇用だから、出勤日が曜日で決まるとは限らないわけか。だったら木曜日の昼間に自宅にいても不思議はないか……。
え? 本当に? わたしは違和感に気づいた。
「でも、この間ここで会った時、おばさん、スーツ着てましたよね。パートのお仕事でスーツを着ることって、あるんですか?」
「なくはないと思うけど……そういえば言ってなかったわね。あの日、私は面接に行くために正装をしていたのよ。無事に採用が決まって、今はそのお店で働いているわ」
「面接って……じゃあ、それまでお仕事は?」
父親と別れて、瑞穂と二人でこの家に住み始めたのは、確か二年前だったはず。二年も働かずに、育ち盛りの娘を育てることなんて……貯金の額にもよるだろうけど、果たして現実的と言えるだろうか。まして瑞穂は、ピアノ教室にもかよっている。中規模の教室ということもあって、大手よりは控えめながら、高校生の経験者コースなので月謝だけで一万円を超える。月謝以外の費用も含めれば、二年で三十万円はかかるだろう。生活費への負担を考えたら、もっと早くから仕事を始めていてもおかしくないのに。
瑞穂の母親は、答えにくそうに目を伏せた。
「……夫と別れてすぐに、同じようにパートの仕事を始めたんだけど、つい先月、勤めていたお店が突然閉じられることになってね。少し時間がかかったけど、再就職したのよ」
「突然……」
なんだろう、この妙な感覚は。お店が何の前触れもなく閉店するのは、決して珍しい話じゃない。だけど、このタイミング、この既視感……気にせずにはいられなかった。
直接言うのも色々と憚られたので、わたしは遠回しに訊いて反応を見ることにした。
「実はさっき、学校からここへ来る途中、怪しい連中に連れ去られそうになったんです」
「え?」
「なんとか撒きましたけど、その連中は、瑞穂の父親の手先でした」
「…………!」
母親は表情を曇らせた。やはりこの人は知っていた……いや、知らないはずがなかった。瑞穂の失踪を含めた、一連の出来事の裏に、自分の元夫が絡んでいることを。
「瑞穂の父親には、おばさんに仕事をやめさせる、その理由がありますよね? ただの偶然という可能性もありますが……」
「ねえ、どういうこと、やっちー?」大和が八千代に小声で尋ねる。
「母親が無職になって娘を育てられなくなれば、親権を父親に移す名目になるでしょ」
「えっ、じゃあまさか、瑞穂ちゃんを引き取るために、こんなことを?」
「それだけのことができる、資金力とコネがあるみたいだしね」
……とまあ、そんなことを大和と八千代はひそひそと話していた。わたしのすぐ後ろに控えているから、全部聞こえているけど。
たぶん、母親の失職まで父親が裏で糸を引いているのか、この母親も確かな事は知らないだろう。ただ、その可能性を疑うだけの、何かがあったというだけで。
瑞穂の母親は、一気に疲れたような表情になって、ため息をついた。
「……いつか、そうなる気はしていたけど。ごめんなさいね、うちの家のことなのに、美里ちゃんまで巻き込んじゃって」
「いえ……わたしが自分から、首を突っ込んだことなので、おばさんが気にすることはないです。ただ、こうなった以上、わたしにも包み隠さず話してほしいです。実は今しがた、瑞穂からわたしへのメッセージを見つけて、色んな事を知ったんです」
「瑞穂から……そう、だからあなた達、まだ昼間なのにこんな所へ……」
「まあ、明日の文化祭に向けて準備をする日だったから、抜け出せたというのもありますけど」
「そういえば文化祭があるって言ってたわね……玄関先ではなんだし、中に入って。ゆっくり、お話をしましょう」
そう言って瑞穂の母親は、わたし達を招き入れてくれた。お言葉に甘えて家の中に入ろうとしたとき、八千代がか細い声で「なるほどね……」と呟いたのが聞こえた。さっきの母親の言葉で、わたしがここに来た目的に気づいたみたいだ。
わたしが前にこの家を訪ねたのは、先々週のことだ。夏休みが明けて、瑞穂の失踪が発覚して、それからしばらくして文化祭での出し物が決まった、その日の夕方のことだ。あの時と同じように、わたし達三人はリビングに通されて、わたしはテーブルのそばの椅子に、大和と八千代は少し離れた所にあるソファーに腰かけた。二人しか暮らしていないので、椅子も二脚しかないのだ。
八千代はソファーの背もたれに正面から寄りかかって、お茶を用意している瑞穂の母親に尋ねた。
「あの、先に聞いておきたいんですけど、最近、電話中にノイズが入ることってありますか?」
「電話中にノイズ? いいえ、特にそういうのは……」
「じゃあ、日高さん以外で、最近この家を訪ねてきて、家の中まで入った人は?」
「そうね……さっきも話に出た、私の元旦那の使いの人たちくらいかしら」
「やっぱり来ていたんですね。一回だけですか」
「ええ」
「なるほど、だったら日高さん、話を始めても大丈夫だよ」
ああ、そういうこと……相変わらずよく気の回る奴だ。八千代の言いたいことを察して、わたしはコクリと頷く。
瑞穂の母親の分も含めて、四人分のお茶が出された。わたしは一口飲んでから、テーブルを挟み正対して座る瑞穂の母親に向けて、口を開く。
「まず、わたしから話をしていいですか。瑞穂が残してくれたメッセージで知った、この一件の顛末について、おばさんに確認してもらいたいので」
「……分かったわ。あまり気持ちのいい話じゃないのに、言わせてしまってごめんね」
瑞穂の母親は、わたしに謝ってばかりだ。わたしは自分から進んで、気持ちの良くない話をしようとしているのだから、誰かが責めを負うことでもないのに。……いや、この人にとっては、言わせているのも同然なのだろう。本来ならこれは、渦中にいる一人である母親から、わたしに説明するべきことなのだから。だけど、今までわたしにも黙っていた手前、いざ話すとなれば説明に困るだろうから、やはりこれはわたしの役目だ。
そしてわたしは、つい先ほど知った真相を、当事者である瑞穂の母親に語り始めた。
瑞穂の父親は、明治時代から続く由緒正しき資産家一族の生まれで、四人兄弟の三番目に当たる息子である。この一族は、百年以上の歴史を持つだけあって、伝統と格式を重んじ、日本国内の様々な企業や政治団体と深い関係を築いているが、裏を返せば、伝統に固執するあまり非常に保守的で、特に企業経営や家族観は創始された明治時代から、頑固一徹と言わんばかりにほとんど変えていない。瑞穂はそんな一族の血を引く、同世代では唯一の女の子だった。
創始以来の一族の方針の一つが、後継ぎは男子にのみ認め、女子は遠戚や外部の男性を婿養子として迎え入れ、後継ぎにすることだという。そして、一族と経営する企業グループを束ねる家長には、最も優秀な後継ぎを抱えている者を据えること、年齢などを後継者指名の理由にしてはならない、と決められている。とはいえ、年齢以外にどんな基準をもって優秀と断じるかは、その時の家長の考えに委ねるとしているので、結果として伝統的で保守的な人間ばかりが家長に選ばれているらしいが。
要するに、瑞穂は成人すれば、いずれどこかの男性と結婚し、その男性が婿養子として後継ぎとなり、瑞穂はその側仕えのような役割を課せられる……そういう家に、瑞穂は生まれたのだ。優秀な男性の目に留まるよう、瑞穂は幼少期から淑女としての教養や芸事を叩き込まれていた。音楽の素養を磨くためのピアノも、その一環だった。一族にとっても、当時の瑞穂にとっても、ピアノは男性を捕まえるためだけの習い事だったのだ。
だが、思いがけないことに、瑞穂はそのピアノで才能を開花させた。他の教養教育や習い事と比べて、費やす時間はそれほど違わないにも関わらず、瑞穂のピアノの腕前は上達ぶりが突出していた。担当していた講師からお墨付きをもらい、コンクールに出場するなどして、本格的に音楽を学ぶことを勧められた。瑞穂も、次第に一族の方針とは関係なく、ピアノへの興味を強めていて、母親も乗り気だったという。
しかし一族は、なかんずく父親は、瑞穂が本格的に音楽の道へ進むことを許さなかった。音楽の道は厳しく将来が不確実だから、娘にそんな苦労をさせたくない……などという親心からではない。旧態依然のこの一族は、女性は男性の陰に潜んで支えることが当然の役目であり、女性が男性より目立つのは分不相応という価値観に縛られている。瑞穂がピアノに秀でていることは一族の誰もが認めていて、社交界の華となることは期待されたものの、一族と関係のない所で音楽家として名を上げ、一族の後継ぎとなる夫より注目されることは言語道断だという。
瑞穂の父親の兄や弟には、いずれも後継ぎとなる息子がすでにいたが、瑞穂の父親には瑞穂以外の子供がいなかった。自分の子供が一族の後継者となるための教育を、幼少期から受けている……そんな状況になかった瑞穂の父親は、弟と比べても一族内での立場が危うかった。そんな父親の娘である瑞穂は、物心ついた頃から一族の他の人間に軽んじられ、肩身の狭い思いをしてきた。そんな中でようやく見つけた、夢中になれるほどの趣味といえるピアノまでも、一族の方針で奪われそうになった瑞穂を、母親はことさら不憫に思ったという。
家族で経営していた会社を一族の傘下に入れて、経営を立て直す見返りとして一族に嫁いだ瑞穂の母親にとって、一族への恩顧は、一人娘への愛情に及ぶものではなかった。瑞穂には好きなことをしてほしい、そう願った母親は、ついに父親と離婚し、一族と縁を切ることを決めた。実家の会社もすでに、長引く不況の中で売却されてしまったので、母親としても、この一族に留まり続ける理由はもうなかったのだ。
そして瑞穂と母親は、空き家となっていたこの家を買い取って、二人で暮らし始めた。その後も、瑞穂は同じピアノ教室にかよい続け、その技術を磨いた。そんな日々が一年近く続いたが、去年、そのピアノ教室が休業に追い込まれ、瑞穂も教室をやめるしかなくなったという。どうも、一族からの支援が突然に打ち切られ、さらに各方面から圧力がかけられて、経営が立ち行かなくなったらしい。それでもピアノをやめたくなかった瑞穂は、家から少し離れた所にある別のピアノ教室にかよい始めた。そこで瑞穂は、わたしと出会ったのである……。
「一族が、離婚して一年も経ってから、急にピアノ教室に圧力をかけ始めて休業に追い込んだのは、瑞穂にピアノをやめさせるためですよね。その一年間で、一族の方でも何かが起きたみたいですが……」
「私も詳しいことは知らないわ。もう関わりのないことだもの」瑞穂の母親はかぶりを振る。「ただ、傘下の企業のどこかが、大規模な不正を働いたことが発覚して、株価の暴落と新規取引の停止で大きな損失を出したと、ニュースで見たわ。たぶん一族は、影響がグループ全体に波及する前に、立て直しを図ろうとしたのね。そのために、また瑞穂を一族に戻そうと目論んだのよ」
「瑞穂ちゃんを、一族に戻す?」
「でも、娘さんの他にも、後継ぎになる子供は何人もいますよね?」
「まあ、端的に言えば……他の子は瑞穂と比べるまでもなく、お世辞にも優秀とは言えないような子供だったのよ」
大和と八千代の問いかけに、瑞穂の母親は肩をすくめながら答えた。要するに、瑞穂と違って他の子は馬鹿だったってことか。たぶん、一族の後継ぎになるための教育が、全く実を結ばなかっただけで、一般的に見ればごく普通の子供なのだろうけど。
「ピアノは特に優秀だったけど、瑞穂は賢い子でもあったから、私の元夫に限らず、瑞穂を一族に戻したいと考える一族の人間は他にも多くいたみたいね。といっても、いずれ後継ぎとなる婿養子の、優秀なブレーン役として有望視していただけだと思うけど」
「なるほど……ピアノを続けたくて一族と縁を切ったなら、逆にピアノをやめさせれば、一族と距離を置く理由が無くなると踏んだわけですね。でも瑞穂の、ピアノへの情熱は、一族の予想を上回っていた……」
多方にコネを持つ資産家一族が、淑女の嗜みを教えるのに適格だと考えて選んだピアノ教室なら、この地域でも特に実績のある優秀な教室なのだろう。つまりその教室を潰せば、他は実力で劣る所しかないから、どの教室に移ってもピアノの技術は伸び悩み、自然と音楽の道を諦めると予想したのだ。瑞穂はまだ結婚できる年齢じゃないから、いま一族に連れ戻してもすぐに婿養子をとれるわけじゃない。その年齢に達するまでにピアノを自発的にやめればいいと考えて、一族はこれまで瑞穂に手出ししなかったのだろう。そして瑞穂もそう考えて、できる範囲でピアノの練習を続けていた。
ところが、わたしとの出会いによって、瑞穂にとっても一族にとっても、歯車に大きな狂いが生じた。
瑞穂は、わたしに恋をした。およそ一年をかけてじっくりと関係を深め、そして今年の夏、わたし達は晴れて恋人同士となった。瑞穂からすれば望外の結実であり、本来なら手放しで喜んでいい事のはずだ。だけど、心の赴くままに行動して実を結んだ恋に、瑞穂は歓喜すると同時に、強烈な不安に襲われることとなる。
女同士の恋愛……伝統を頑なに重視する保守的な一族にとって、それは異常を通り越して罪深いと言ってもいい恋愛であり、まして後継ぎとなる男性をいずれ婿に迎えなければならない瑞穂に、そんな事が許されるはずもなかった。一族はまだ、わたしが瑞穂の恋人だと気づいていないが、もし知られたら、一族はわたしを排除するために、どんな乱暴な手段にも訴えるだろう。優秀なピアノ教室を潰すことを、躊躇わなかったように。
それでも瑞穂には、わたしを手放すという選択肢は初めからなかった。この先も、恋人としてわたしと一緒に生きていくために、強大な権力を有する一族という、強固で巨大な障壁をどうするか、瑞穂は必死に考えた。そして、驚愕の勝負に出た。
瑞穂がまだ一族の屋敷に住んでいた頃から、一族の黒い噂はよく耳にしていた。いくつもの企業を傘下に持つ一族ではあるが、刻々と社会情勢が変化する中で、明治以来の伝統的な価値観に縋りつくようなやり方で、まともに業績を上げられるとは思えない。それでも一族の権威を保つために、強硬なまでに保守的な経営者がやることは決まっている。瑞穂は、一族内に絶えず流れている悪い風聞のいくつかは、事実だろうと考えていた。
瑞穂は夏休みの残り期間、わたしとのデートやピアノ教室の合間を縫って、記憶している限り全ての、黒い噂が立っている火元に探りを入れた。潰された会社、手放された会社、理由も分からず解雇された個人……それら全てに聞き込みを続け、瑞穂はついに、一族が大規模な不正に関与していた事実を突き止めた。その裏付けは、一族の屋敷に住んでいた頃に仲のよかった使用人の一人に連絡を取って、一族の内部を探らせることで、入手することができたという。この事実と証拠が公表されれば、ただでさえ最近になって不正が一つ明らかになったばかりの一族にとって、大きな痛手となるだろうし、警察や検察による捜査の手が一族に及べば、後継ぎや幹部の中から逮捕者が出るのは避けられまい。
だが、普通にこの事実を公表したところで、一族が瓦解するまで時間はかかるし、警察や検察の上層部にまで手を回されたら、捜査が打ち切られたりして、その間に一族が瑞穂に報復する可能性は高い。わたしが巻き添えを食うことだってあるだろう。脅迫の材料にすることはできるが、権威もマンパワーも劣る瑞穂では、証拠を捻り潰されて、逆に瑞穂を脅迫罪で警察に突き出すと脅し返されるのがオチだ。
そこで瑞穂は大胆な手に打って出た。まずは、先日明らかになった一族傘下の企業による不正を捜査していた、検察官と密かに接触し、さらに大規模な不正の情報を提供し、一族に知られないように捜査を進めてほしいと頼み込んだ。検察官は独任制なので、基本的には検察としての捜査の権限は、担当の検察官一人に委ねられている。すでに公表されている不正の捜査と並行して、別の大規模な不正を秘密裏に調べていれば、一族に気づかれる可能性を大きく減らせる。瑞穂による情報提供は、実質的には内部告発なので、瑞穂の安全を確保するため秘密裏に捜査することは妥当だと、検察官は考えた。
その数日後、瑞穂は一族の使用人に頼んで、大規模な不正の証拠が流出し、瑞穂の手に渡ったかもしれないという噂を、一族内にそれとなく流し、同時に瑞穂は姿を消した。検察がまだ捜査に着手していないと思い込めば、失踪した瑞穂を捕まえて証拠を回収すれば万事解決だと考えて、一族は瑞穂を追うことに心血を注ぐ。……そうなるように瑞穂は仕向けたのだ。
後から一族がわたしに目をつけても、瑞穂自身が捕まらないようにするため、わたしのスマホから恋人関係を示唆する痕跡を消し、ただの友人の一人だと思わせた。そしてわたしにも居場所を告げることなく、姿を消した……全ては、無関係なわたしを巻き込まないようにするため。そして、検察が秘密裏に捜査を進めていることに気づかせないためだ。
以上が、瑞穂の残したファイルに書かれていた、失踪に至るまでの顛末だ。わたしは、瑞穂と恋人になった部分だけを除いて、その事実を瑞穂の母親に告げた。
「おばさんはもちろん、このことを瑞穂から聞いていますよね? だから瑞穂の捜索願を警察に出していなかった。わたしには、警察が今も瑞穂を捜索していると言っていましたけど、あれはわたしをこの件に巻き込まないための嘘ですね」
「ええ……瑞穂がどうして姿を消すことに決めたのか、あらかじめ本人から聞いていたわ。あなたがいずれ瑞穂を探し始めれば、警察が瑞穂の捜索をしていないことに、いつかきっと気づくだろうって」
つまりこの展開もまた、瑞穂の想定通りということか……まあ、わたしの性格をよく理解している瑞穂なら、それくらい簡単に予測できるだろう。
「じゃあ、わたしが真相に辿り着くまで、瑞穂に関することはわたしに黙っておくよう、瑞穂に頼まれたんですか」
「検察が不正の確実な証拠を掴むまで、時間を稼ぐ必要があったのよ。検察には、一族に気づかれないように慎重に動くように言いつつ、なるべく今週の木曜までに立件の目処を立ててほしいと言い含めていたみたい。木曜日に何があるのか疑問だったけど、この間、美里ちゃんがうちに来て文化祭のことを話してくれて、きっとそれだろうと思ったのよ」
なるほど……瑞穂は最初から、失踪からある程度日数が経過してから開催されて、わたしの学校に外部からアクセスが可能になる文化祭を狙って、わたしが真相に到達できるように仕掛けを施していたのだ。その辺りになれば、一族を追い詰める準備も大方整うから、わたしが真相を知っても巻き添えを食うことはないと踏んで……。
「でもさぁ……」と、大和。「一人娘が失踪したのに、母親が警察に捜索願を出さないなんて不自然だし、一族に知られたら怪しまれるんじゃない?」
「いや、たぶん一族はもう知ってるよ」八千代は事も無げに言う。「でも、不正の証拠が新島さんの手に渡っていて、一族がそれを追っているとなれば、真っ先にこの家も調べただろうから、母親も大筋で事情は知っているってことも、一族は把握している。警察が新島さんを捜索して、もし居場所を突き止められたら、先に一族の方が手を回して新島さんの身柄を確保することになる……母親としては、その事態を何としても避けたいはず」
「そっか、だから瑞穂ちゃんのお母さんは捜索願を出していないんだと、一族が勝手に勘繰ってくれると思ったんだね!」
「実際の目的は、新島さんの失踪の期間をなるべく引き延ばして、一族が新島さんの追跡に気を取られている間に、検察の捜査を進展させるためみたいだけどね」
恐らく八千代と同じことを、瑞穂も目論んでいたのだろう。だから時間稼ぎのために捜索願を出さなくても、一族に不審を抱かせることはないと考えたのだ。あるいは、一族に先回りされたくないから捜索願を出さないと、母親が直接、この家を調べに来た一族の者たちに告げたのかもしれない。
一族はこの家や母親から、瑞穂の居場所を探れないか必死に調べただろう。だが、手掛かりはひとつも見つからなかった。母親が持っている連絡手段をいくら調べても、失踪中の瑞穂と連絡を取った痕跡はなく、一族は早々に、母親から瑞穂の居場所を探るのをやめて、過去に瑞穂が行った場所を、人海戦術で虱潰しに探すという手段に移ったようだ。だから今も、一族は誰も母親の動きを見張っていない。
しかし、わたしは違うと思っている。
「おばさん……その文化祭のことですが、うちのクラス、1年2組の出し物が決まる前に、瑞穂は姿を消してしまったので、瑞穂は出し物のことを知りません。でも瑞穂は今日、うちのクラスが発注した段ボール箱の中に、的確に手掛かりを仕込んでいました。つまり、1年2組の出し物が喫茶店、それも一風変わった『宇宙喫茶』であると知っている何者かが、瑞穂にそのことを教えたと、わたしは考えています」
「ああ、なるほど……だから私の所へ来たのね。確かに、前にあなたがここへ来て、文化祭の話をしたとき、宇宙喫茶をやるって話を聞いたわ」
「そうです。おばさんが聞いたその話が、瑞穂にも伝わっているなら、何らかの形で今も、おばさんと瑞穂は連絡をとれる状態にあるんじゃないですか?」
そう、わたしがここへ来たのは、瑞穂と今でも連絡を取っている可能性が高い、瑞穂の母親と接触して、瑞穂の居場所を突き止めるためだ。瑞穂はわたしの知らない場所にいて、わたしはその場所を見つけられない。現状、これが唯一の、瑞穂の居場所に近づくための手掛かりになるのだ。
瑞穂の母親は口を閉ざして黙り込んだ。この家に一族が盗聴器の類いを仕掛けていないことは、さっき八千代が確認したし、全てを知られた以上、瑞穂との連絡手段をわたしに明かさない理由はないはずだが……それとも、まだその時ではないのか。検察の捜査を秘密裏に進めるための時間稼ぎをしても、期待通りに捜査が進むとは限らない。検察のメスが一族の心臓に食い込むまで安心はできないから、それまでわたしと瑞穂を会わせるわけにいかないと、瑞穂から言われているのだろうか。
理解ができないわけじゃない。瑞穂としては、この危険な賭けに、わたしを巻き込むことは本意でないはずだ。それでもわたしは、真相が知れたらそれで満足、とはとても言えない。
沈黙の時間がしばらく続いて、最初に口を開いたのは、ソファーから立ち上がった八千代だった。
「……娘さんが無事かどうか、その現状が母親の耳に少しでも入れば、母親の不安は薄れるでしょう。それは、娘が本当に行方不明で音信不通であれば、不自然に映って見える。捜索願を出さないことに関しては、一族が勝手に勘違いすることを期待できても、母親が娘のことを心配する素振りを見せないことを、一族が都合よく解釈してくれることまでは期待できません」
「やっちー?」
「ならば、母親は娘さんの現況を、恐らく何も知らない。無事かどうかも分からない状態にしなければ、一族に違和感を抱かれますからね。つまり娘さんとの連絡手段は、この家から娘さんへの、一方通行だと予想できます」
そうか……行方をくらませた以上、瑞穂が一族の動きを察知するなら、一番の弱点になり得るこの家との連絡手段は必要になるけれど、自分の現状が母親に知られるわけにいかないから、瑞穂が一方的にこの家でのやり取りを知る形にしなければならない。一族は双方向の連絡手段ばかり考えていたから、この家をくまなく探しても、瑞穂と母親の繋がりを見つけることができなかったのだ。
では、一方通行の連絡手段とは何か。八千代はある場所に目星をつけていた。
「一族は娘さんの居場所の手掛かりを求めて、この家の中を隅々まで探すと、新島さんは予測したでしょう。そのうえで大事な物を隠すなら、死角だと思われないような死角を選ぶと思います。例えば、あの金魚鉢とか」
八千代が指差したのは、母親の背後の壁際に置かれている、三段のスチールラックの上にある大きな金魚鉢だった。わたしと瑞穂が一緒に出かけた夏祭りで、わたしが捕まえて瑞穂にプレゼントした、あの金魚が泳いでいる。
……そうか。確かにあの金魚鉢なら、小さなものを隠すのに最適だ。単純な錯覚だけど、言われないと見逃すかもしれない。
「どういうこと、やっちー?」
「理科の実験で見たことない? 水を入れたコップをコインの上に載せると、水もコップの底も透明なのに、下のコインが見えなくなるやつ。コップの側面から見ると、水中だと屈折によって、底のガラスでの入射角が大きくなって全反射し、コップの底の下が見えなくなる」
「あー、なんか漫画で見たことがあるような……理屈はよく分からないけど。ってことは、あの金魚鉢も?」
「金魚鉢の下は、真上からだと普通に見えるんだけど、あの金魚鉢はメッシュの蓋がついているから、真上から覗く事はできない。砂利が敷かれていないから、一見すると透明な金魚鉢の底も普通に見えているように錯覚しやすい。鉢が置かれているラックの天板も黒だから、底が黒く見えていれば、鉢の下に何もないとなおさら錯覚してしまう。ラックは奥板がなくて、裏側もちゃんと見えるから、水の入った大きな金魚鉢をどかしてまで、ラックを動かそうとも思わない」
八千代の説明を聞いているうちにわたしも、この金魚鉢とスチールラックが、小物を隠すための巧みな舞台装置に思えてきた。言われなければ、何の変哲もない金魚鉢だが、これは瑞穂による、人間の錯覚を最大限に利用した、大胆かつ巧妙な仕掛けなのだ。
わたしは椅子から立ち上がってラックに駆け寄り、金魚鉢の縁を両手で掴んで、慎重に持ち上げた。直径四十センチはありそうだし、水も容積の八割くらい入っているから、とにかく重いし、落としたら大惨事だ。
視線が手元の金魚鉢に向いたまま、そばのテーブルに金魚鉢を移動させていたので、ラックの金魚鉢があった場所をわたしは見ていなかった。だが、鉢がどかされた直後、大和と八千代の二人が「あっ」と声を漏らした。やはり金魚鉢の下に、何かあったらしい。
ラックの上を見ると、そこには一台のスマホが置かれていた。カバーも装飾も何もない、まるで購入したばかりのような機体を、わたしは手に取った。
「なるほど……これを隠すには、確かに大きめの金魚鉢が必要だね。たった二匹の金魚を育てるのに、このサイズは大きすぎると思ったけど、瑞穂はこのために、あえて大きな金魚鉢を選んだんだ」
「そのスマホで、瑞穂ちゃんはこの家での会話を聞いていたってこと?」
「たぶんね。民宿でわたしが話したこと、覚えてる? 録音したデータをクラウドに保存するアプリを使って、盗聴器代わりにすることができるってやつ。電波を使わない盗聴器なら、傍受される心配はまずないし、後からクラウドにアクセスすることで、世界中のどこにいても、この部屋での会話を聞くことができる」
恐らく八千代の読み通りだろう。瑞穂がここでの会話を聞いていることを、一族に知られてはまずいから、傍受される恐れのない盗聴器を、瑞穂は選んだはずだ。このスマホはそのアプリを仕込むためだけに、たぶん中古ショップで入手したものだ。当然、このスマホの番号やアドレスを知っている人は一人もいないから、着信が来ることはないし、携帯電話会社からのメールも配信を停止しておけば、メールも一通も届かない。つまり着信音で気づかれる可能性もないわけだ。
瑞穂の母親はずっと無言だ。だが、このスマホの存在を、母親が把握していないはずはない。市販の盗聴器の中には、コンセントに刺したり仕込んだりすることで、動作に必要な電力を賄うものがあるけど、金魚鉢の下に隠したスマホは、アプリをずっと動かしていれば、恐らく一日でバッテリーが切れてしまうし、そのままだと充電もできない。ワイヤレス充電ならば金魚鉢の下にコードを挟む必要はないが、充電装置を天板の裏に仕込む必要があるから、一族がくまなく調べれば確実に見つかってしまう。つまり、瑞穂が失踪してから、母親が毎日充電しているということだ。恐らく夜に、自分のスマホと一緒に。
瑞穂への連絡手段が見つかったのなら、わたしがやることはひとつだ。それは瑞穂の望むことではないかもしれない。だけどわたしは最初から決めていた。
たとえあなたが望まなくても、必ず見つけ出すと。
瑞穂が仕掛けたスマホを、わたしは両手で包むように持って、その向こうにいるであろう大切な人に向けた言葉を、一つ一つ紡ぐように語りだした。
「瑞穂……聞いてくれているかな。聞いてくれているか、わたしには分からないけど、聞いているって信じて、話すことにするね。あのファイル、読んだよ。瑞穂が、あんなに大変な目に遭っていたなんて、知らなかったよ。瑞穂の口から、わたしに教えてくれなかったことは、残念ではあるけど、話しにくかっただろうし、責めはしないよ。それに、わたしがこれ以上不安にならないように、ファイルを残して、それを読むための手掛かりを、指輪に刻んで渡したんだよね」
瑞穂に葛藤があったことは想像に難くない。わたしをこの件に……一族の企みに巻き込みたくないと思いつつも、わたしを一人残すことで、悩み苦しませるのも嫌だっただろうから。だから、一族に目をつけられない程度に、わたしにも事情を知ってもらいたかったのだ。事前に話してしまえば、わたしはきっと瑞穂を止めようとするし、積極的にこの件に関わろうとするだろう。それが分かっていたから、瑞穂はわたしに何も言わずに姿を消し、その後に婉曲な手段で事情を伝えようとしたのだ。
「きっと瑞穂は、わたしとの思い出の場所の何ヶ所かに、ファイルを見るためのパスワードを書いた何かを、預けたりしていたんだよね。全部は見つけていないけど……でも、一番大事な指輪を、あの民宿に預けたのは、わたしが真っ先に訪ねていくと思ったからじゃない? だってあの民宿は、わたし達の新しい関係が、始まった場所だから……きっと、瑞穂にとっても、大事な場所だから、指輪はあの民宿だけに預けたんだよね」
確かな根拠なんてない。でも、瑞穂がどれほどわたしのことを、わたしとの思い出を大事にしているか、瑞穂を捜索する中で充分に思い知った。だから、きっとそうだと確信できる。
「あの指輪、ペアリングだったよね……片方はわたしに届くように、あの民宿に預けたけど、もう片方はどこにも預けずに、まだ瑞穂が持っているんでしょ? わたしは、そう信じてるよ」
わたしのすぐ後ろで、息を漏らして身じろぎする音が聞こえた。瑞穂の母親が、わたしと瑞穂の本当の関係に、ようやく察しがついたみたいだ。
「瑞穂が案じたとおりだよ。いなくなった直後は、毎日が本当につらかった。捨てられたんじゃないかと思って、絶望しかけたりもした。だからね、瑞穂が今もわたしのことを思っていて、わたしのために、父親や一族へ必死に抵抗しようとしていると分かって、本当に安心したんだよ。だからもう、わたしのことは心配いらないよ」
「日高さん……」「美里っち……」
大和と八千代の二人にも、散々心配をかけてしまった。この言葉は瑞穂に向けたものだけど、今は心から安堵していると、わたしの口調から二人にも伝わってくれるなら、それは僥倖というものだ。
ただ、瑞穂のことで不安が無くなったことと、現状に満足しているかどうかは別だ。わたしが本当に望んでいることは、真相を知ったその先にある。
「瑞穂は頭がいいし、立ち回りも上手いから、きっとこの事態も何とかしてしまうよね。最後は一族の不正をきっちり暴いて、何ひとつしがらみが無くなったら、きっとわたしの所に戻ってくるって、わたしは信じてる。でも……信じて待ってる、なんて言わない。絶対に言わない。
だって、待ち切れるわけがないじゃん。瑞穂ともう一度会って、話したいことがいっぱいあるんだよ。二人で一緒にやりたいことだって、たくさんあるんだよ。それらを全部ひとりで抱えたまま、ただ帰りを待つだけなんて、わたしには無理。絶対無理。
ねえ、瑞穂……また二人で、遠くにお出かけしよう。そうだな、また海がいいな。海水浴のシーズンは終わったけど、見に行くだけでも楽しいだろうな。だからね、二人でまた、海を見に行こう。
それから、文化祭も一緒に行きたいな。今年はもう無理だけど、来年こそは、お互いの学校の文化祭を、二人で一緒に見て回ろう。スケジュールが被らないといいけどね。瑞穂の学校の文化祭も、一度見てみたいけど、やっぱり見るなら瑞穂と一緒がいいな。
それにそう、ピアノも。前のコンクールは残念だったから、今度こそ二人で入賞したいよね。それに、連弾でコンサートに出るって約束も、まだ叶えていないよ。その日に向けて、また二人で、いっぱい練習しよう。瑞穂のリスト、本当に好きだから。
それから……」
その先の言葉は、もう出なかった。伝えたいことはいくらでもある。一緒にやりたいことだってまだまだ思いつく。だけど、言葉にする度に、言いようのない虚しさばかりが募っていく。
この言葉を聞いたら、相手はきっと頷いたり、笑ったりしてくれる。その仕草が全く見えないから、どうしても、伝えられたと思えない。
やっぱり、いま一番伝えたい言葉は、これしかなかった。わたしは窄みかけた喉をこじ開けるように、言葉を絞り出した。
「聞いてくれていると信じていても、やっぱり、こんなんじゃ足りないよ。会いたいよ。声が聞きたいよ。それから……全力で、愛してるって伝えたいよ!」
ああ、もう。
たったこれだけの言葉を吐き出すのに、どれだけの力を使うのだ。
喉の奥が痛い。目頭が熱い。スマホを持つ手が湿り気を帯びていく。心臓はまるで今にも千切られそうだ。
今なら分かる。きっと、わたしのそばを離れると決意した瞬間、瑞穂も同じようになっていた。そして、その痛みから逃れる方法は、初めからひとつしかなかった。瑞穂が、この先もわたしと共に生きていくために、ずっと目を背けていたその真実を、わたしは決して手放さない。
「…………だから、待っててね」
最後のひと言を、画面の向こうに届けて、わたしはスマホを、スチールラックの元あった場所にそっと置いて、その上に金魚鉢を載せた。
* * *
しくじった、と痛感した。
海風に髪をなびかせて、さざ波の調べを遮るようにイヤホンを装着し、わたしはスマホから流している音声を聞いていた。いま立っている場所は、わたしが最近見つけた、この時間に海が最も綺麗に見える、堤防の上の一角だ。
この小さな島に逃げ込んできてから、幾度となくこの場所に立ち、美しい海を見つめながら、遠くへ置いてきてしまった人たちへ想いを馳せることが多い。そしてその度に、スマホである音声データを再生して聞いている。母と二人で暮らしていた家に隠しておいた別のスマホで、録音してクラウドに保存した、母と誰かの会話のデータだ。
父親の手先と思われる連中が家に押しかけて以降、あの家を訪れる人は少なく、母は寂しい思いをしているみたいだった。ついこの間、あの子が家にやって来て、母と色んな話をしたみたいで、わたしは心から安堵したものだ。辛い時に話し相手がいてくれるのは、母にとっても心の支えになるだろう。
あの子、というのは、わたしの恋人である女の子だ。わたしも女の子だけど、出会ってからの約一年の中で、じっくりとあの子への好意を育んで、あの子も同じ気持ちだと確かめ合った瞬間に、わたし達は恋人同士になった。この先もずっと、あの子と一緒に生きていくために、この関係を壊しかねない父親と一族に、わたしは抗うことに決めた。
隠したスマホの存在を知っている母が、毎晩充電する前に小さな声で、家の外で聞いた話を教えてくれるのだが、どうやら間もなく、検察が一族の大規模な不正に関して、本格的な立ち入り捜査を始めるらしい。一族の影響力が弱まれば、わたしを一族に戻すという目論見は潰えて、わたしは自分の生き方を自分で選べるようになる。恋人のあの子とも一緒にいられる。
ただ……置いてけぼりにしたあの子には、一族に目をつけられないように、遠回しな方法で事情を説明する必要があった。その仕掛けに気づくかどうかは賭けるしかなかったが、わたしはあの子をよく知っている。きっと気づいて、わたしの残したメッセージに辿り着いてくれると信じていた。
だけど、あの子の行動はわたしの予想を軽く上回っていた。メッセージに書いていない事情まで深く察して、あろうことか、わたしが自宅に隠したスマホも見つけてしまった。どうやらあの子の連れに、相当頭の回る子がいるみたいだ。
そうとは知らず、わたしは聞いてしまった。クラウドに保存される音声データの名前には、識別用の文字列が使われるだけで、どんな音声が入っているかは、実際に聞くまで分からない。だからわたしは、一番新しいデータを再生するまで気づかなかった。その中身はあの子の、必死の叫びであり、決して揺るがぬ決意であり、そしてわたしへの、あまりに強く深い想いそのものであったのだ。
「うぅ……ひっ、ひうぅ、ううっ……」
光の粒が散りばめられたように輝く海原が、次第に滲んで見えてくる。やがて両眼が洪水のようにぐしゃぐしゃになって、瞼を閉じるしかなくなると、喉の奥が腫れたように痛くなり、嗚咽が止まらなくなった。
分かっていた。この数週間、あの子のことを思わなかった日は一度だってなかった。二人の未来のために必要だと信じたから、必ず乗り切ってみせると気を強く持った。だから気づかなかっただけなのだ。蓋をしていた感情が存在することから、目を背けていた。
わたしは、どこで間違えたのだろう。半端な気持ちのままで、あの子の元から離れようと考えた時点で、すでにしくじっていたのかな。
ああ、駄目だ。考えがまとまらない。本当にしくじった。あの子が真相に到達しそうなタイミングで、こんな音声なんて聞くんじゃなかった。おかげで今のわたしは、たった一つの感情に全てを乗っ取られて、いつもの思考回路がまるで働かない。
「ううっ……みさっ、とぉ……ああっ……」
「えっと、大丈夫? 新島さん」
正常な思考が働いていなかったせいか、いつの間にか堤防を上がってわたしの隣に来ていた、女の子の存在に気づくのが遅れた。
困惑したような表情をわたしに見せている女の子は、生まれた時からこの島に住んでいる生粋の島っ子で、シャツの裾を縛り上げて、引き締まった茶褐色の腹部を露わにしている、健康優良児を絵に描いたような少女だ。野生児みたいな女の子だけど、わたしより一つ年上だと聞いている。確か名前は……。
「ひくっ……すみません、岸崎さん……」
「どうしたの、何か嫌な事でもあった?」
「嫌な事……ではないですけど、ちょっと、地元に置いてきた人のことを考えたら、なんか、もう……」
いつもなら自分の感じたことはきちんと言語化できるのに、今はそれもできないほど、頭の中がぐちゃぐちゃに乱れている。必死に涙を手で拭おうとするが、溢れてくるものを止めることができない。こんな体たらくでは、わたしを心配している岸崎恵は、何事なのかまるで理解できないだろう。
「……その人って、新島さんにとって、とても大切な人なんだね」
「えっ……」
「向こうでトラブルに巻き込まれて、ほとぼりが冷めるまで逃げ込んでいるって、この間言っていたじゃない。きっと、離れたくなかったけど、のっぴきならなくて置いてきてしまって、今になってそのことを後悔している……って感じじゃない?」
一瞬で落涙が止んだ。
「なんで……分かるの?」
「分かるよ。会えないのに、会いたいって気持ちばかり大きくなって、心の中がぐちゃぐちゃになっちゃうの。つらいよね」
……恵に謝りたくなった。年上だけどアホっぽいと思って、内心で舐めてかかっていたけど、ちゃんと心の機微が分かる人だったようだ。わたしがずっと気づかなかった、蓋をしていた気持ちが何なのか、ここまで言い当てられるなんて。
恵は太陽みたいに笑って、大手を広げた。
「まっ、大丈夫だよ! この島の人たちは、子どもの味方だからね。つらくなっても、支えになってくれる大人はいっぱいいるよ。ほとぼりが冷めるまでここにいて、その時が来たら、会いに行けばいいんだよ。もしかしたら、その大切な人の方から、会いに来てくれるかもしれないんだし」
「来るかなぁ……この島のこと、たぶんあの子は知らないし」
「そう? 本土じゃ結構有名な島だと思うんだけどな……まあいいや。それに、わたしでよければいくらでも話を聞くよ」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど……ずいぶん気にかけてくれるのね。この島の人は子どもに優しいって言うけど、わたしのことも子ども扱いしてる?」
「いやいや、一歳しか違わない上にわたしより大人びた人に、そんな扱いはできないよ。ただ単に、ね……大切な人と離ればなれになるのが嫌だって気持ちは、わたしもよく分かるから」
弾けるような笑顔がふと鳴りを潜め、恵は寂しげな表情を浮かべた。一瞬で元に戻ったけど。
「そういうわけだから、地元の大切な人の話、わたしにも聞かせてよ。わたしの大切な人のことも紹介するから」
「紹介するって……岸崎さんの大切な人は、この島にいるの?」
「この夏に本土へ帰る予定だったけど、わたしのために残ってくれたんだよ。おかげで毎日が幸せでいっぱいなんだぁ~」
恵は紅潮した頬を両手で挟みながら、満面に喜色を浮かべて言った。……もう、惚気ているようにしか見えない。本当にわたしに共感しているのだろうか。
まあ、どちらでもいい。その時が来るかどうかは分からないが、いつか、わたしと恵で、お互いの大切な人を紹介し合う、そんな未来もあるかもしれない。
いつの間にか泣き止んでいたわたしは、自然と別のことに想いを馳せていた。終わってしまった過去の事じゃなく、大切な恋人がそばにいる、いずれ来る未来へ。
* * *
新島さんの母親との話を終えて、わたし達三人は新島さんの家を後にして、赤く染まり始めた空の下、ぷらぷらと街の中を歩いていた。なんとなく、わたしと綾瀬さんは日高さんの後方の少し離れた所ににいて、日高さんに一人で考える時間を与えている。
同じ班の誼というか、文化祭の準備に影響が出てもよくないと思い、わたしと綾瀬さんは、日高さんの恋人捜索を手伝うことにした。個人的な興味がないわけでもないが、聞けば聞くほど、日高さんによる捜索は困難を極めると思えたから、知恵や手を貸すくらいのことはしないと心配だったのだ。ここまでのことを振り返れば、まあまあ知恵を貸した甲斐はあったし、一つの到達点には至ったと考えていいと思う。
ただ、日高さんにとって最上にして唯一の目的は、まだ成し遂げられていない。そのことは、新島さんに向けた日高さんの、最後のひと言から十全に察せられた。
「待っててね、かぁ……美里っち、自分から瑞穂ちゃんへ会いに行くつもりなんだね。まだどこにいるかも分からないのに」
綾瀬さんは普段と変わらない、明るい声色で言った。この声は、前を歩く日高さんの耳にも届いたけど、どことなく綾瀬さんの物言いは、大きな独り言に思える。誰に聞かせるでもない独白、あるいは自分自身に聞かせるような……。
「まあ、ね……」日高さんは振り返らずに答える。「瑞穂とおばさんが、何らかの方法で連絡を取り合っているなら、瑞穂の居場所も分かるかと思ったけど、残念ながら期待通りにはならなかったし……でも、だからと言って、探すのを諦めたわけじゃないよ」
「新島さんがまだ、現段階では日高さんを巻き込むつもりがないと、分かっていても?」
「うん、瑞穂には悪いけど、わたしにとって、ただ待つのは最善の選択じゃない。瑞穂の父親と一族が、瑞穂の追跡を断念したわけじゃないし、断念した後も、わたしの知らない所で、瑞穂が一人で危険に巻き込まれる可能性だってある。明日、瑞穂の身に何が起こるか分からないのに、ただ悶々として待っているだけじゃ、不安が増すだけだよ」
日高さんの言い分は、理解できなくもない。父方の一族は、目に見える脅威の一つにすぎない。各方面に大きな影響力を持つグループが瓦解することを、歓迎しない勢力はどこにでもいるだろう。瓦解の決定打になり得る切り札を、新島さんが持っているという噂は、恐らく一族があちこちに触れ回っている。それ自体は新島さんの想定通りとはいえ、新島さん自身を危険にさらしていることに変わりはない。
日高さんが今の新島さんの安全を危惧するのは至極真っ当だし、何より日高さんにとっては、自分の知らない所で新島さんに危険が及ぶことの方が、よほど恐ろしい事態なのだろう。だからこそ、立ち止まる理由が、今の日高さんにはない。
「それで、当てはあるの? 今のところ、手掛かりは皆無に等しいけど」
「んー……さっき、瑞穂に向けて色々と打ち明けている時に、思い出したんだ。瑞穂ってね、不安なことがあるといつも、海を見ると落ち着くって言ってたんだ。ひとりで当てもなく逃げ回って、瑞穂が不安を抱かないとは思えないし、たぶん本人も無意識に、海の見える所で腰を落ち着けると思うの。だから……」
ようやく日高さんは、後ろにいるわたし達を振り返って、屈託を振り払った笑顔を見せて告げた。
「海が綺麗に見える所を、手当たり次第に探してみようと思う」
「…………っ」
わたしのすぐ隣で、短く息を吸い込む音がした。
日高さんはすぐに前に向き直り、徐々に歩く速度を上げていく。止まるつもりはないと言わんばかりだ。
「じゃあわたし、先に帰るね。調べたいことがあるから……あっ、文化祭の衣装はあれでいいって伝えておいて」
そう言って日高さんは走り出し、やがて姿も見えなくなった。
もはや自分の危険を顧みる気は全くないみたいだ。だけど、さっき新島さんの父親の手先に絡まれた時に、機転を利かせて振り切って、これ以上は追っても無駄だと思わせることに成功したから、日高さんへの危険はほとんどないのだろう。
わたしと綾瀬さんはどうしたらいいだろうか。日高さんが新島さんの捜索を再開するのは、たぶん文化祭が終わった後になるだろうけど、そうなると、文化祭の準備に支障があるから、という理由で手伝うことはできなくなる。単なる興味本位では、わたし達の同行を認めてくれないだろうか……。
いや、難しく考える必要はない。わたしは一人でかぶりを振って、凝り固まった思考を払いのけた。友達を放っておけないからついていく、それだけでいい。言うほど深い間柄ではないかもしれないが、存分にその関係に甘んじてしまえばいい。
もっとも、それができる雰囲気ではないかもしれないが。
「いいねぇ……相思相愛って感じ。羨ましいよね、やっちー」
頭の後ろで手を組みながら、綾瀬さんは軽めの口調で言った。
わたしには、無理に口調を軽くしているように見えたけど。
「……わたしは今のところ、そういう相手が欲しくはないから、特に羨ましくはないかな」
「そうなの? 女子高生ならそういうの、普通に憧れると思ってた」
「何が普通かなんて人によって違うものでしょ。それと、わたしの勝手な所感だけど、綾瀬さんは恋愛全般に憧れるような、恋に恋する乙女とは違う気がする」
「えー? わたしに恋愛は似合わないっていうの? ひどくない?」
「いいえ。あなたには、相思相愛になりたくてもなれない、そういう相手でもいない限り、羨ましいって言葉は出ない気がする」
わたしがそう言った途端、綾瀬さんの足取りが止まる。わたしもすぐに気づいて足を止めて、浮かない表情を隠すように俯く綾瀬さんをじっと見た。
うわ言のような言葉が、笑った口元から漏れ出る。
「……本当に、いいよね、あの二人。理想のカップルって感じだよ。あの二人を引き裂くなんて野暮なこと、できるわけないよね……」
「それは……失言かしら?」
「あははっ」綾瀬さんは笑う。「やっちーはとっくに気づいてたでしょ。頭いいし、ずっと近くにいたし」
そう、とっくに気づいていた。まともに話したのは、文化祭準備の班構成が決まってからだけど、日高さんが恋人探しに気を取られている間も、わたしは綾瀬さんといつも一緒にいて、彼女の一挙手一投足を見ていた。観察といえるほどじっくり見ていたわけじゃないが、それでも察するには充分だった。
語り得ぬことは沈黙せねばならない。わたしは綾瀬さんに、多くは聞かなかった。
「……いつから?」
「いつからかなぁ。はっきり分かるのは、音楽の授業の時かな。ほら、いつだったか、美里っちがピアノの伴奏を任されたこと、あったでしょ」
「ああ……あったわね。一度だけ」
「その時のね、ピアノを弾く姿がね、すごく綺麗だったんだ」
「…………」
「夜空の星みたいにね、キラキラして見えたんだ。思わず目を奪われたんだ。だから、仲良くなってみたいって、本当にね、最初は、それだけだったんだよ……」
「…………」
「星に手が届きそうって、一時だけでも、思ってしまって……」
綾瀬さんの頬にひと筋、小さな星が流れた。わたしより頭一つ抜き出るほどの背丈が、少し縮んで見えた。
憧れてやまないほどの輝かしい光は、うんざりするほど遠い。それでも手を伸ばしたくなるのが、人間の性というものだ。日高さんの恋人を探す旅に同行し、濃密な時間を一緒に過ごす中で、綾瀬さんはいつしか、伸ばした手を引っ込めていた。
気の毒とは思わない。人の感情はそう簡単に止められない。この子は、自ら感情に蓋をすることを決めたのだ。その判断に、わたしが口を挟むいわれはない。
だけど……。
「学校に戻る前に、アイスでも食べに行こうか」
「え?」
「付き合うよ、わたし」
一緒にいてもいいと思える程度の義理は、持ち合わせているつもりだ。
制服の袖口を軽くつまんで、わたしが投げかけた提案に、大和はいつもと変わらない、朗らかな笑顔で応えた。
* * *
本屋に立ち寄ったとき、ふとわたしは、面陳されている一冊の雑誌が目に留まった。日本各地の観光地を紹介する旅行雑誌で、秋のオーシャンビュー特集と銘打っている。わたしは気になって、その雑誌を手に取って開いた。
綺麗な海というのは、眺めるだけでもその場所へ行く価値がある。秋に入って気候が安定すれば、海も穏やかになり、優しい潮風と波の音、時々鼻腔をくすぐる磯の匂い……実際に触れなくても全身で楽しむことができる。と、以前に瑞穂が言っていた。たぶんそういう感覚は、現地に行ってやっと分かるもので、紙の上で写真だけを見ても意味がない。
とはいえ、瑞穂の行きそうな場所を探す手掛かりくらいにはなるだろう。そう思ってパラパラとページをめくっていると、一枚の写真が目に飛び込んだ。
「わあ、いいなあ、ここ……」
このページで扱われていたのは、とある離島だった。以前、ドラマのロケ地に使われたことがあるらしく、観光客の呼び込みのために整備された展望台と、そこから見渡せる雄大な海原は一見の価値があると評している。
写真だけでは、この海原の良さのすべては分からない。だけど……。
「なんか、瑞穂が好きそうだな、この光景……」
一年かけて自分にインプットした、瑞穂の“好き”という感覚に、しっくりくるほど合致した気がする。少なくともわたしなら、瑞穂と一緒にこの海を見たい。
よし、決めた。わたしは雑誌を閉じて、そのままレジカウンターに行って購入した。
ちょうど文化祭も無事に終わって、次の定期テストまで二週間近くあるし、問題の離島は少し遠いけど、今度の土日を使えば行けない距離でもない。瑞穂がそこにいるかもしれないとなれば、多少遠くたって出向く価値はある。
本屋を出てすぐ、わたしは大和たちにLINEを送った。文化祭準備とか瑞穂の探索で行動を共にして以来、あの二人との関係は今もなお続いていた。
『今度の土日、瑞穂を探しに○○島ってとこまで行く予定だけど、二人はどう? 一緒に行く?』
もし瑞穂に会えるなら、早くあの二人にも紹介したいと思って、誘ってみたのだが……八千代から来た返事はこうだった。
『悪い』『土日は大和と一緒に出かける用事があるから』
大和と一緒に、かぁ……なんかあの二人、文化祭の時からずいぶん仲良くなった気がする。どちらにしても、先約があるなら無理に誘う必要はないだろう。『分かった』とだけ返事して、わたしはスマホをハンドバッグに仕舞い、再び歩き出す。
足取りは軽い。ついこの間までの、不安に潰れそうだったわたしはいない。瑞穂の変わらない気持ちを知って、瑞穂への揺るぎない信頼が生まれ、きっとまた会えるという期待ばかりが膨らんでいる。今の日高美里は、あの子がどこにいても、会いに行ける。
空は晴れ渡っている。うだるような暑さはなおも続いている。わたしの心は追い風に吹かれ、もう止まることを知らない。
今はまだ、五里霧中にある。でも、出口はすぐそこだ。
……美里が島に向かったことでどうなったのか、その辺は皆さんの想像にお任せします。物語という媒体としては、ここまでとします。ちなみに、リートだと6はGの置き換えに使われるそうですよ。
メインとなる四人の少女以外、あらゆる固有名詞を決めないまま書き始めたので、いかに固有名詞を出さずに自然な会話を成立させるか、非常に苦心しました。結局最後は、美里が向かった島の名前が○○表記になってしまい……まあ、こっちは第3章の時点で考えてなかったので、今更が過ぎますが。
この島もそうですが、第9章は久しぶりに、他のエピソードとの関連を示す描写を多く入れました。第1話に出てきた真白理恵は第1章に、L Lady 7の久世橋は第7章に出てきましたが、覚えていますか? 私としては、第3章のヒロインの一人である岸崎恵をまた出せて、嬉しい気持ちが少しあります。明るくてちょっとおバカなキャラは、書いていて楽しいですからね。
それを言うなら、綾瀬大和というキャラも書いていて楽しかったですが、最後にちょっと、報われないヒロインにしたことに、思うところがないわけじゃありません。美里のモノローグにもあったように、中盤の旅を美里ひとりにやらせると、全体的に重苦しくなり、希望を見出すまでの思考の過程を描きにくいこともあり、会話する相手が必要だと思って、大和と八千代というキャラを導入しました。そして、この二人をしっかり本筋に絡めるために、二人が誰にどんな感情の矢印を向けているのか、美里視点では仄めかす程度に描写していました。最後に八千代視点を入れることで、美里が瑞穂ばかり気にするせいで、気づけなかった二人の感情が明らかとなる、そんな仕掛けにしました。これも、最初からカップルが成立しているという制約があるからこそ、書けた展開だと思っています。
自由な読解を邪魔するような後書きで恐縮ですが、その辺も含めて、面倒な感情に振り回される少女たちの物語を、楽しんでくれたらと思います。
さて、次回の更新がいつになるのか、現時点では何も決まっていません。更新の目処が立ったら、またTwitter(現X)でお知らせします。




